2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操が袁譚を攻めた時、朝から日中まで戦って決着がつかなかった。そこで曹操は自らばちと太鼓を手にとった。士卒は皆奮起して、流れに乗って敵を破り陥落させた。1-p.27*, 1-p.060** 2020年12月08日 建安10年(205)51歳:巻1「武帝紀」:正月、袁譚を攻撃して破る。袁譚を斬り、その妻子を誅して冀州を平定した。1-p.27*, 1-p.060** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻52「呉書・顧雍伝」裴注引『呉書』:(顧雍の母の弟徽について)曹操が東へ向かおうとしていると伝えるものがいた。孫権は顧徽に曹操の動向を探りに北へ行かせた。曹操が呉の消息を問うと徽は詳しく述べた。曹操は笑って、「自分と孫将軍とは婚姻関係を結び、ともに漢王室を支えており、家族も同然なのに、どうしてこのようなことを述べるのか」と聞いた。徽は、家族だからこそ消息を詳しく知りたいだろうと思ったのだと返した。曹操は徽を厚くもてなした。帰国して、徽は孫権に、敵国の情況は探りにくいが、今は袁譚を相手に戦うので手一杯のようだと答えた。5-p.1228*, 6-p.369** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻51「呉書・宗室伝(孫韶)」裴注引『会稽典録』:孫策は呉・会稽を平定してからその土地の英豪を殺していったが、盛憲も高名であったために目を付けられていた。憲と古馴染みであった孔融は、憲が禍を免れないのではないかと心配し、曹操に書簡を送って召しだすように依頼した。かくして盛憲は騎都尉に徴せられることになったが、任命書が至らないうちに孫権に殺された。5-p.1214*, 6-p.332** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻26「牽招伝」:(牽招は、もと冀州牧の袁紹に仕えていた。袁紹の舎人が罪を犯したとき、招は先に舎人を斬ってから袁紹に奏上したが、袁紹はその意を高く買って罪に問わなかった。袁紹の没後、袁尚に仕えた。)建安九年、曹操が鄴を包囲すると、牽招は軍糧輸送のために上党に派遣されたが帰還する前に袁尚が逃走、高幹に袁尚と組んで情勢を見るように勧めたが受け入れられず、かくして曹操のもとへ来た。曹操は、冀州を治めるようになると、牽招を辟して従事とした。3-p.730*, 4-p.173** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻24「高柔伝」:曹操が袁氏を平定すると、高柔を菅長とした。姦吏数人が自ら辞職した。3-p.683*, 4-p.074** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻24「崔林伝」:曹操が冀州を平定した時、崔林(崔琰はその従兄)は召されて鄔長に除せられたが、貧しくて車馬がなく、ひとり徒歩で赴任した。3-p.679 *, 4-p.064** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻22「陳矯伝」裴注引『世語』:曹操は冀州を平定した時、薛悌と東平の王国を左右の長史とした。後に中領軍にまでなり、世の官吏の手本となった。3-p.645*, 3-p.491** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻21「王粲伝」:(陳琳はもと何進に仕えていた。何進の宦官一掃計画を諌めたが納れられず、冀州に難を避けて袁紹に仕えていた。)袁氏が敗れると、陳琳は曹操に帰順した。曹操が、「君は昔、袁紹のために移書を作ったが、ただ私の罪状を挙げるだけにすべきであった。悪を憎むのはその本人に対してだけに止めておくべきなのに、どうして私の父祖にまで及んであげつらったのか」と言うと、陳琳は謝罪した。曹操はその才能を愛して、咎めることはしなかった。3-p.600*, 3-p.390** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻18「李典伝」:鄴が平定して後、李典は一族を連れて乗氏から魏郡への移住を申し出た。曹操は笑って、「君は後漢の耿純を慕って真似るのか」と言うと、李典は「私は臆病で功績も少ないのに爵寵が厚すぎるので、宗族を挙げて力を尽くすべきだ。それに、征伐はまだ終ったわけではない。……」と答え、かくして鄴へ移り住んだ。曹操はこれを嘉し、破虜将軍に昇進させた。2-p.534*, 3-p.243**