2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻17「張郃伝」:張郃(袁紹のもとから曹操に投降)は衆を授けられ、曹操に付き従って鄴を攻め、破った。また、袁譚を渤海に撃つ時にも従った。2-p.525*, 3-p.228** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻16「倉慈伝」裴注引『魏略』:令狐劭の父は漢に仕えて烏丸校尉だった。建安の初め、袁氏が冀州にいた時、令狐邵は本郡を離れて鄴に家をかまえた。九年、たまたま毛城に出ていた時、ちょうど曹操が鄴を破り、毛城が包囲された。城が敗れて捕らえられ、皆斬首となったが、曹操は令狐邵の衣冠に目を留め、その父祖を問いただしたところ、その父を知っていたので、解放してやり、軍参謀の掾とした。2-p.514*, 3-p.208** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻15「賈逵伝」裴注引『魏略』:李孚、袁尚の使者として、曹操に包囲された鄴へ向かう。計略を用いて、鄴の包囲を突破し、また鄴から出てきた。曹操は予見が当たって大笑いした。2-p.485*, 3-p.145** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻14「劉放伝」:曹操が冀州を征すると、劉放(漢の広陽順王の子の末裔)は、故郷の涿郡に割拠していた王松に、「かつて董卓が反逆し、英雄が並び起こった時、曹操だけが乱を治め、天子を補佐できた、早く曹操に帰順するのが望ましい」と進言し、王松もこれに従った。2-p.456*, 3-p.080** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』:(天水の四姓、単家で故郷を出た薛夏を捕らえて獄に繋ごうと潁川にやってくる。)時に曹操は既に冀州にあったが、このことを聞くと、手を叩いて、「薛夏は無罪だ。漢陽の小童どもが彼を殺したがっているだけだ」と言って釈放させ、召して軍謀掾とした。(後に文帝から非常に重んじられ、書物のことなどについて終日議論し合うほどだった。)2-p.421*, 2-p.517** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻12「崔琰伝」裴注引『魏略』:(婁圭は曹操と縁故あり。初平中、荊州にいたが、後に曹操のもとへ)河北が平定されると、婁圭は冀州に随行した。2-p.373*, 2-p.404** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻12「崔琰伝」裴注引『魏略』:許攸は、かつて曹操が袁紹を破るのに功績があったのを恃み、曹操に対してなれなれしく接した。曹操の幼名を呼び、「君は私を得なければ冀州をてにいれることはできなかったのだよ」と言った。曹操は笑って、「たしかにあなたの言うとおりだ」と言ったが、内心では嫌悪した。後、曹操に随行して鄴の東門を出る時、「この家は私を得てなければ門を出入りすることはできなかった」と言った。ある者がこれを報告し、かくして捕らえられた。2-p.373*, 2-p.404** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻12「崔琰伝」:(崔琰はもと袁紹に仕えていた。しばしば袁紹を諌めたが、袁紹は聞き入れず、かくして官渡の戦いで曹操に敗れた。その後、袁氏兄弟は崔琰を取ろうと争った。崔琰は病気をもってこれを固辞した。)曹操が袁氏を破り、冀州牧となると、崔琰を辟して別駕従事とし、崔琰に「昨日戸籍を調べてみたが、三十万の衆が得られる。したがってこの冀州は大州となる」と言った。崔琰は、「今天下はばらばらに分裂している。袁氏兄弟は自ら武器を用いて、冀州の民は骨を原野にさらしている。それなのに民に対するねぎらいもなく、彼らの塗炭の苦しみを救うこともないうちに、兵の数を数えあげ、そうしたことばかりを優先しておられる。これではどうしてこの州の士女の気持ちを集めることができようか」と言った。曹操は表情を改めて陳謝した。その場にいた賓客たちは皆伏して色を失った。2-p.367*, 2-p.389** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻11「涼茂伝」:遼東の公孫度に無理やり引き止められた涼茂は、公孫度から鄴への遠征について意見を求められ、「将軍は国家存亡の時に何もしていない。一方曹操は国家の危機を憂え、人民の苦しみを哀れんで、天下の残賊を誅している。功績は高く、徳の広い、無二の人物だ。今は海内がやっと安定したばかりだから、将軍の罪を責めないだけなのだ」と答えた。公孫度はこの言を認めた。2-p.338*, 2-p.309** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻10「荀彧伝」:この頃、荀攸は常に謀の中心にいた。荀彧の兄の衍は、監軍校尉として鄴を守り、河北のことを取り仕切った。曹操が袁紹を征伐した時、高幹が密かに謀って鄴を襲ったが、衍はこれを察知し、悉く誅した。その功績により、列侯に封ぜられた。曹操は、娘を荀彧の長子の惲に娶わせ、後に安陽公主となった。2-p.316*, 2-p.253**