2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」:九月、「河北は袁氏の被害を受けてきたから、今年の租賦は出させるな」との令を発した。豪強の者が土地や財産を独占することへの法令を厳しくし、一般人民は喜んだ。1-p.26*, 1-p.059** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」裴注引『傅子』:曹操はまた(かつての袁紹との問答で)「湯・武の王ははたして同じ土地を根拠としただろうか。もし険固な根拠地を資とするならば、機に応じて変化することができない」と言った。1-p.26*, 1-p.059** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」:その初め、袁紹が曹操とともに挙兵した時、袁紹は曹操に「もし事が成就しなかった場合は、どちらの方面に依拠すべきだろうか」と問いかけた。曹操が「あなたはどのように考えるか」と聞くと、袁紹は「私は南は黄河に拠り、北は燕・代に拠って戎狄の衆を合わせ、南方を向いて天下を争えば、ほとんど収めることができるだろう」と言った。曹操は「私は天下の知力に任せて、道をもってこれを御すれば、不可能なことは何もない」と言った。1-p.26*, 1-p.058** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」裴松之注:孫盛が、袁紹は逆賊なのに、これを哀悼し、その家族を厚遇しているのは不当だ、と批判するのを載せる。1-p.25*, 1-p.058** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:様子を窺う部隊数部をやって前後に調べさせたが、皆「間違いなく西の道を通っていて、すでに邯鄲にいる」と報告した。曹操は大いに喜び、諸将に会して「私はすでに冀州を手に入れた。諸君にはそれがわかるか」と。皆「わからない」と。曹操は「諸君はまもなくそれを目の当たりにするだろう」と。1-p.25*, 1-p.057** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」:八月、審配の兄の子の栄が、夜、守っていた城の東門を開き、(曹操軍の)兵を入れた。審配はこれを迎え撃ったが破れ、生け捕りとなって斬られ、鄴は平定された。曹操は袁紹の墓に臨んでこれを哭して涙を流し、袁紹の妻を慰労し、その使用人や宝物を返還し、絹や綿を賜り、官から食料を支給した。1-p.25*, 1-p.057** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」:秋七月、袁尚は鄴を救援するために帰還。諸将はみな「これは帰還師団で、自主的に戦うので、避けたほうがいい」と言ったが、曹操は「袁尚が大道から来れば避けるべきだが、もし西山に沿って来るようなら、虜となったも同然だ」と言った。袁尚は果たして西山から来て、滏水に臨んで陣営を敷いた。(袁尚軍が)夜、兵を遣って包囲を犯してきたので、曹操はこれを迎え撃ち、追撃し、ついにその陣営を包囲した。合戦にならないうちに、袁尚は恐れ、故豫州刺史の陰夔及び陳琳を遣って投降を願い出てきたが、曹操は許さず、いよいよ厳しく包囲した。袁尚は夜に遁走し、祁山に立てこもったが、これを追撃した。その将の馬延・張顗らは投降しようとし、衆は大いに破れ、袁尚は中山に遁走した。(曹操軍は)その輜重を尽く獲り、袁尚の印綬節鉞を得、袁尚軍の降伏した者たちをその家族に示させると、城中は総崩れとなった。1-p.25*, 1-p.056** 2020年12月08日 建安09年(204)50歳:巻1「武帝紀」:春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に水を引き入れ、糧道を通じた。二月、袁尚はまた袁譚を攻撃し、蘇由・審配を留めて鄴を守らせた。曹操は軍を進めて洹水まで来ると、蘇由は投降。到着し、鄴を攻撃するのに、土山や地下道を作った。武安長、尹楷は毛城に駐屯し、上党の糧道を通じていた。夏四月、曹洪を留めて鄴を攻撃させ、曹操自ら尹楷を撃ちに行き、これを破って帰還。袁尚の将、沮鵠(沮授の子)が邯鄲を守っていたが、またこれも破る。易陽令の韓範、渉長の梁岐は県を挙げて投降、関内侯の爵位を与えられた。五月、土山や地下道を壊し、城の周囲に堀を作り、漳水を決壊させて城に流し込み、城中では過半数の者が餓死した。1-p.25*, 1-p.056** 2020年12月08日 建安08年(203)49歳:巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』:薛夏は天水の人、単家。この地の有力四姓に屈せず、京師に至る。曹操はもとよりその名を聞いていたので、非常に礼遇した。2-p.421*, 2-p.517** 2020年12月08日 建安08年(203)49歳:巻10「荀彧伝」裴注引『荀彧別伝』:曹操は再び上表して言った。「かつて袁紹が畿内に侵入して官渡で戦った時、兵は少なく食料も尽き、許に帰還しようとして荀彧に書簡を送ったところ、荀彧は臣の意見を聞かず、官渡に留まり続けることの有利さを説き、進軍の策略を準備して、臣の心を奮い立たせ、その愚かな考えを改めてくれた。かくして大逆を打ち砕き、その衆を手中に収めることができたのだ。これは荀彧が勝敗の機を見極め、その策略が不世出のすばらしさだったからだ。袁紹が破れると、臣は食料も尽きたし、河北の平定を図ることは容易ではないと判断し、南に劉表を討ちにいこうとした。荀彧は再び臣を止めて、その得失を述べ、かくして臣は旗を翻し、そうして凶賊を呑み込み、四つの州を平らげることができた。もし臣が官渡において退却していたら、袁紹はきっと陣太鼓を打ち鳴らしながら前進してきて、こちらが形勢不利となってしまっただろう。後にもし南征し、兗州・豫州を放置していたら、勝敗に利が得にくいばかりか、本拠地も失ってしまっていただろう。荀彧の二つの策略は、亡をもって存と為し、禍をもって福を致すもので、その謀や功績はは傑出したものであって、臣にはとても及びもつかないものである。……」荀彧は深く辞退したが、曹操はこれに応えて、「君の策謀は上表した二つのことだけではない。何度も辞退するのは聖人達節者の尊ばないところだ。昔、介之推は「人の財産を窺っただけでもこれを盗みという」といった。まして君がひそかに謀を立てて衆を安んじ、私を輝かせてくれたのは百をもって数えるではないか。二つのことだけでまた辞退するとは、なんと謙虚すぎるのだ」と。曹操は荀彧を表して三公にしようとしたが、荀彧は荀攸を通じてこれを深く辞退し、それが十数回に及んで、曹操はやめた。2-p.316*, 2-p.254**