2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安08年(203)49歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操は、「私が呂布を攻めたとき、劉表は侵略してこなかったし、官渡の役のとき、袁紹を救うこともなかった。これは自己保全の賊だから、これを征伐する計画は後回しにするのがよい。一方、袁譚・袁尚は狡猾だから、その乱れに乗ずるべきだ。たとえ袁譚が欺いて、最後までおとなしくしていることがなくても、もし私が袁尚を破り、その土地一帯を手中に収めるならば、利益は自ずから多くなる」と言って、袁譚を許した。1-p.24*, 1-p.055** 2020年12月08日 建安08年(203)49歳:巻1「武帝紀」:八月、曹操は劉表を征伐しに、西平に駐屯。曹操が鄴を離れて南へ行くと、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚は袁尚に敗れ、背走して平原で守備した。袁尚はこれを厳しく攻め立てたので、袁譚は辛毗を派遣して(曹操に)投降を申し入れ、救援を求めた。諸将はみな疑ったが、荀攸は曹操にこれを許すよう勧め、かくして曹操は軍を率いて帰還した。1-p.24*, 1-p.055** 2020年12月08日 建安08年(203)49歳:巻14「郭嘉伝」:曹操が袁紹を破り、袁譚・袁尚を黎陽に破るのに付き従って連戦連勝した。諸将は勝ちに乗じて更に攻撃しようとしたが、郭嘉は、「袁紹はこの二人の子を愛したが、適切な後継者を立てていない。郭図・逢紀といった謀臣がいて、きっと争いが起こる。急に攻めれば協力し合うが、緩めればいずれ争う心が生ずる。ここは南の荊州に向かって劉表を攻めるそぶりを見せ、事の変化が現れるのを待つのがよい。変化が出てきてから攻撃すれば、一挙に平定することができる」と言った。曹操はこれに従い、南征した。2-p.434*, 3-p.030** 2020年12月08日 建安08年(203)49歳:巻1「武帝紀」:秋七月、令を発す。「喪乱以来十五年、若者たちは仁義礼譲の気風に接していないのを、私はとても痛ましく思う。それ郡国には各々文学を修めさせ、五百戸に達する県には校官を置き、その郷里の俊才を選んで教育させよ。先王の道が廃れないよう、そして天下に益することがあるように願う」と。1-p.24*, 1-p.054** 2020年12月08日 建安08年(203)49歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:庚申令に「議論する者の中には、軍吏として功能があっても、徳行が足りなければ、郡国から選出されるだけの人物としては不十分だと主張するものがいるが、これはいわゆる「ともに道を行くべきだが、ともにことを謀ることはできない」(『論語』子罕篇)だ。管仲は「賢者がその能力によって俸禄を与えられれば上にあるものは尊敬され、闘士がその功績によって俸禄が与えられれば士卒は命を投げ出して戦う。この両者が国に備われば、天下は治まる」と言った。無能の人、不闘の戦士が等しく俸禄賞与を受けるような状況で、功を立て、国を興すことができるとは聞いたことがない。だから明君は功績のない臣には官職を与えず、戦わない兵士には恩賞を与えない。平穏な時代を治めるには徳行を重んじ、有事の時代には功能を賞揚するのだ。論者の言葉は、なんと管から虎を覗くのに似ていることよ」と。1-p.24*, 1-p.054** 2020年12月08日 建安08年(203)49歳:巻1「武帝紀」:春三月、袁尚、袁譚のいる城郭を攻め、大いにこれを破った。夏四月、鄴に進軍。五月、許へ帰還。賈信を黎陽に駐屯させる。己酉(二十五日)、令を発す。「『司馬法』には、将軍は、退却した時は死罪とある。だから趙括の母は、趙括に連座しないよう頼んだのである。これは、古の将軍は国外で破れると、その家族が国内で罪を受けたことを示している。将軍として任命し征伐に赴く以上は、ただ功績を賞し、罪を罰しないというのでは国典とは言えない。諸将に出征させる場合、敗退した者はこれを罪とし、利を失った者は官爵を取り上げる」と。1-p.23*, 1-p.053** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻12「崔琰伝」裴注引『魏氏春秋』:袁紹が敗れると、孔融は曹操に書簡を送り、「武王は紂を伐った時、妲己を周公に賜った」と言った。曹操は、孔融は博学なのできっと基づくところがあるのだろうと思った。後に会見した時それを問うと、孔融は「今をもって推し量れば、きっとそのようなことがあっただろうと思っただけだ」と言った。2-p.372*, 2-p.402** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻18「李典伝」:劉表に命じられた劉備が北を侵略して葉まで至ると、曹操は李典を遣って夏侯惇に従ってこれを阻止させた。李典は、劉備軍の伏兵を見破り、果たして窮地に入り込んだ夏侯惇を救援した。2-p.534*, 3-p.242** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻18「呂虔伝」:(呂虔、夏侯淵とともに済南の黄巾を撃つ。)曹操は呂虔に青州諸郡の兵を監督させて東莱の群賊を討たせ、功あり。曹操は令を出して褒め、茂才に挙げ、騎都尉を加え、郡はそのまま掌らせた。2-p.541*, 3-p.257** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻54「呉書・周瑜伝」裴注引『江表伝』:曹操は袁紹を破ったばかりで、軍事力は日々盛んになっていった。建安七年、(曹操は)孫権に息子を人質として出すように要求した。……孫権に相談された周瑜は、人質を送れば曹氏に終始仕えなければならなくなる、もし曹氏が義をもって天下を正すことができたなら、それから仕えても遅くはない、と答えた。5-p.1260*, 7-p.052**