2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻18「龐悳伝」:曹操は、関羽に殺された龐悳のために涙を流し、二人の子を列侯に封じた。2-p.546*, 3-p.267** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻15「張既伝」:曹操は漢中の守備を抜こうとしたが、劉備が北に向かってきて武都の氐族を手中に収め、関中に圧力をかけるのではないかと恐れ、張既に相談した。張既は氐族を穀物で引き寄せる策を提案し、曹操はそれに従った。武威・張掖・酒泉・西平の諸将らが反乱を起こし、その対処の仕方について、曹操は張既に意見を求め、その進言に従った。2-p.472*, 3-p.117** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻13「王朗伝」裴注引『魏略』:曹操は王朗に会議への出席を求め、王朗をからかって、「君が昔、会稽で米を節約したことは真似できないな」と言った。王朗は慨嘆して、「適度ということにはなかなか出逢えない」と言った。曹操がわけを問うと、王朗は、「昔の私は、節約すべきでないのに節約した。今日の明公は、節約すべきなのに節約していない」と答えた。また、曹操、孫権が臣という名称で貢物を送ってきたことについて王朗に諮問すると、王朗は、呉はいずれ魏の領土となるであろうと答えた。2-p.408*, 2-p.487** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻11「袁渙伝」:(袁渙、魏の建国に伴い郎中令・御史大夫兼任となり)官に居ること数年で卒す。曹操は彼のために涙を流し、官法として太倉から、旧知への親愛の情として垣下から、あわせて穀二千斛を賜った。2-p.335*, 2-p.302** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻36「蜀書・関羽伝」裴注引『蜀記』:関羽と徐晃とは昔から敬愛しあっていたので、遥かに昔のことを語り合って軍事のことには言及しなかった。徐晃は急に馬を下りて、関羽の首を取ったものは賞金を千斤与えると告げた。関羽は驚いて、「大兄、何を言うのか」と言うと、徐晃は「これは国家のことなのだ」と言った。4-p.942*, 5-p.171** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻17「徐晃伝」:曹操は徐晃を七里から出迎えて、酒宴を張り、樊・襄陽での戦いぶりを大いに称揚した。2-p.529*, 3-p.236** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻14「蒋済伝」:関羽が樊・襄陽を包囲した時、曹操は漢帝が許に滞在し、賊と近いことから、都を移したいと考えた。司馬宣王(司馬懿)と蒋済は曹操に説いていった。「于禁らは水に没せられただけで、戦いの失敗ではなく、国家の大計に損失があったとまでは言えない。劉備・孫権は、外面は親しげだが実は仲が悪いので、関羽が志を得ることを孫権はきっと願っていない。人を遣ってその背後を攻めさせ、江南の土地を割いて孫権に封ずれば、樊城の包囲は自然に解けるだろう」と。曹操はその言葉に従った。2-p.450*, 3-p.067** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻23「趙儼伝」:関羽が征南将軍の曹仁を樊にて包囲した時、趙儼は議郎の身分で軍事に参画した。趙儼は、孫権に対する曹操の出方を推測し、果たしてそのとおりとなった。3-p.671*, 4-p.043** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻14「董昭伝」:関羽が樊城に曹仁を包囲した時、孫権が使者を派遣して、「兵を西に向かわせ、関羽の不意を突くつもりだ。江陵と公安とは隣接しているから、二つの城を失うとなると関羽はきっと奔走するはずで、そうすれば樊の包囲は自ずから解除されるだろう。このことは秘密にしておかれたい。関羽に備えさせてはならないので」と申し出た。曹操は群臣に秘密の漏洩を禁じたし、群臣もまた当然そうすべきだと言った。ところが董昭は、孫権の意向に応じて秘密にしながら、内々に漏らしたらよい。関羽と孫権とを対立させ、その疲弊するのを待てばよい。それに関羽は気性が激しいので、すぐには退かないだろう、と進言。曹操はすぐにその言に従った。2-p.440*, 3-p.043** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻17「張遼伝」:関羽が曹仁を樊城に包囲した時、ちょうど孫権が藩となると称したので、曹操は張遼及び諸軍を召して曹仁救出に向かわせた。張遼がまだ到着しないとき、徐晃がすでに関羽を破り、曹仁の包囲は解かれていた。張遼と落ち合うとき、曹操は輦に乗って出て張遼をねぎらった。2-p.520*, 3-p.217**