2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻18「李典伝」:曹操が黎陽にて袁譚・袁尚を攻撃した時、李典と程昱らに船で食糧を輸送させた。袁尚は魏郡太守の高蕃にこれを阻止させようとした。曹操は、もし船で通れなかったら陸道を行くよう命じたが、李典は敵の心理情況から勝てると判断し、程昱もこれに賛同。かくして河を北へ渡って蕃を破った。2-p.533*, 3-p.242** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻15「賈逵伝」裴注引『魏略』:曹操が譙に出征していた時、鄴下で禁を破る者が多いと聞いたので、楊沛を鄴の令に任命した。その治め方を問い、一座の者に「この男は恐いぞ」と言って、奴隷十人、絹百匹を賜ったが、それは彼を励まし、またかつての干し桑の実への返礼であった。2-p.486*, 3-p.149** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻15「張既伝」:袁尚が黎陽にて曹操に抵抗し、関中の諸将と手を結ぼうとした時、指令校尉の鍾繇は張既を関中に派遣して馬騰らを説得させた。曹操は張既の功績を見て議郎に任命し、鍾繇の軍事に参画させた。後に曹操が荊州を征伐しようとした時、馬騰らが関中に割拠していたので、また張既を派遣して説得させた。2-p.472*, 3-p.116** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻13「鍾繇伝」裴注引司馬彪『戦略』:袁尚は高幹・郭援を遣って匈奴の単于と河東を荒らしまわらせ、使者を遣って馬騰・韓遂らと連合しようとし、馬騰は密かにこれと通じようとした。傅幹は馬騰に、曹操と袁氏とを比較しながら、天子を奉戴して諸悪を誅する曹操に道義のあること、その曹操に背けば天子から処罰を受けるであろうことを説き、袁尚軍の高幹・郭援を伐つことを勧めた。馬騰はこれに従って、子の馬超を派遣した。馬超は、韓遂の軍と連合し、鍾繇と力を合わせて郭援を打ち破った。2-p.393*, 2-p.450** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻13「鍾繇伝」:(官渡の戦いの後)匈奴の単于が平陽にて反乱を起こした時、鍾繇は諸軍を率いてこれを包囲し、いまだ抜けない時、袁尚が置いた河東太守の郭援が大軍勢で河東にやってきた。諸将はみな引き上げようとしたが、鍾繇は、「袁氏の勢力は強大で、郭援が来ると密かにこれと通じようとするものが関中には大勢いる。だが、未だ尽くは反旗を翻せないでいるのは、我軍(曹操軍)の威名のためである。ここでもし遁走して弱みを見せたら、皆仇敵に一変するはずだ。……」と説得し、かくして援を斬り、単于を降伏させた。2-p.393*, 2-p.449** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻1「武帝紀」:(曹操は軍を官渡へ進めた。)袁紹は、自分の軍隊が敗れてから、病を発して吐血し、夏五月に死んだ。小子の袁尚がこれに代わった。袁譚は自ら車騎将軍と号して黎陽に駐屯。秋九月、曹操はこれを征伐しようとして連戦。袁譚・袁尚は何度も敗退し、固守した。1-p.23*, 1-p.053** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻1「武帝紀」裴松之注:『褒賞令』に曹操の祀文を載せていう、「故大尉橋玄は、明徳を大いに敷き広げ、博愛で寛容だった。国家はその明訓を心に念じ、士人はそのすぐれた計略を慕っている。……私は幼い頃、堂室に上ることを許され、頑迷な資質でありながら、大君子に受け入れてもらった。栄誉を増しいよいよ注目されたのは、みな彼の推薦のおかげだ。それはちょうど仲尼が自分は顔淵に及ばないと称し、李生が賈復に感じ入ったようなものだ。士は知己のために死す、私はこのことを心に懐いて忘れなかった。また、くつろいでの約束を承った。『私が死んでから、途中で経由することがあったら、一斗の酒と一羽の鶏を持って訪れ、地面に酒を注いでくれるのでなければ、車が三歩行った所で腹痛を起こしても怪しむなよ」と。即興の戯れの言葉ではあったが、親密な間柄の厚情がなければ、どうしてこのような言葉を発しよう。霊の怒りが自分に災いをもたらすと思ったからではなく、懐かしさで心が締め付けられるように痛んだからである。命を奉じて東征し、郷里に駐留し、北のかた貴公のいた土地を眺めて、貴公の陵墓を思い描いた。粗末なものを供えるので受け取られよ」と。1-p.23*, 1-p.052** 2020年12月08日 建安07年(202)48歳:巻1「武帝紀」:春正月、曹操は譙に駐屯し、令を発して、「私は義兵を起こし、天下のために暴乱を取り除いた。旧い土地の人民は、ほとんど死滅してしまい、国中を一日歩き回っても、知り合いに出会わず、非常に悲しい気持ちだ。それ義兵を挙げて以来、将士が亡くなって跡継ぎのいない場合は、その親戚を求めてその跡継ぎとし、田畑を授け、官より耕牛を支給し、学師を置いて教育せよ。存する者のためには廟を立て、その先人を祭らせよ。霊魂があるなら、我が百年の後にも何の恨みがあろうか」と。かくして浚儀に至り、睢陽渠を治め、使者を派遣して大牢の犠牲を捧げて橋玄を祀った。曹操は軍を官渡へ進めた。1-p.22*, 1-p.052** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻20「鄧哀王(曹)沖伝」裴注『魏書』:曹沖は、勤勉な官吏が過失で罪に触れた場合には、曹操に寛大な処置をするように進言した。善悪の判断や仁愛が生まれながらにして備わり、容貌も姿形も群を抜いて美しかったので、特に寵愛された。2-p.581*, 3-p.346** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻20「鄧哀王(曹)沖伝」:曹沖は五六歳にして大人のような聡明さであった。ちょうど孫権から象が贈られてきたが、その重さを測る方法を提案して、曹操を大いに喜ばせた。また、馬の鞍をねずみに齧られた者の罪をとりなすため、一計を案じた。数十人の者が彼によって命拾いをした。曹操はしばしば群臣たちの前で曹沖を称賛し、跡継ぎにしようかという意思も持っていた。2-p.580*, 3-p.344**