2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻12「何夔伝」:曹操が新しい条例を作って州郡に下そうとし、また租税と綿絹を取り立てようとしたところ、何夔は、郡が立ったばかりだし、出兵の直後なので、急に法律で縛ることは不適切だと考えて意見を述べた。曹操はその言に従った。海賊の郭祖が楽安・済南の一帯を荒らしまわり、州郡は苦しんでいた。曹操は何夔が以前長広で威信のあったことにより、彼を楽安太守に拝した。官に到着して数ヶ月で、諸城は尽く治まった。2-p.380*, 2-p.420** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻12「何夔伝」裴注引『魏書』:劉備が反乱を起こしてから、東南には事変が多発した。曹操は陳羣を酇令とし、何夔を城父令とし、諸県にはみな名士を用いてこれを鎮撫したので、その後は吏民ともだんだんと落ち着いた。2-p.380*, 2-p.419** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻10「荀彧伝」:曹操は東平の安民に行って穀物を調達しようとしたが、足りず、河北の勢力と対峙するには不十分だった。曹操は、袁紹は敗れたばかりなので、その隙に劉表を討ちに行こうと考えた。荀彧は、「今、袁紹が破れ、その衆の心は離れている。その困難に乗じて平定するのがよい。それなのに、兗州・豫州に背を向けて、遠く江漢に出征するとなると、もし袁紹がその余兵を集め、虚を突いて背後から攻めてきたら、公のはかりごとはおしまいだ」と述べた。曹操は再び黄河のほとりに布陣した。2-p.314*, 2-p.250** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻9「曹仁伝」:曹操が袁紹と官渡で対峙していたとき、袁紹は劉備を汝南へ遣った。諸県は衆を挙げて劉備に応ずるものが多く、許以南は吏民の情勢が不安定だった。曹操はこのことを憂慮したが、曹仁は「南の方は、われらが軍が目前の急務のために救援に来れないと思っているところに、劉備が強兵を従えて臨んだのだから、反乱を起こすのも無理はない。だが、劉備は袁紹の兵を率いたばかりでうまく統率できていないから打ち破ることは可能だ」と述べた。曹操はその言を善しとし、騎兵を率いて討伐させた。曹仁は反していた諸県を再び収めて帰還した。1-p.274*, 2-p.153** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻32「蜀書・先主伝」:曹操は袁紹を破ってから自ら南下して劉備を攻撃した。劉表は劉備を礼遇したが、荊州の豪傑の中には劉備に帰順するものが日々増加したので、疑心暗鬼になり、ひそかにその勢力を防御しようとして、劉備を博望に遣って夏侯惇・于禁らの軍を阻止させた。しばらくして夏侯惇らは劉備の設けた伏兵に敗れた。4-p.876*, 5-p.036** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻32「蜀書・先主伝」:(袁紹は劉備に許の近辺を侵略させ、曹操軍に伐たれる。劉備は袁紹から離脱するために劉表討伐と称して汝南へ。)曹操は蔡陽をやってこれを撃たせようとしたが、劉備に殺された。4-p.876*, 5-p.036** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻26「満寵伝」:袁紹は黄河以北で勢力が盛んだったが、汝南は袁紹の本拠地で、門生賓客が諸県に散らばり、兵を擁して抵抗していた。曹操はこれを憂え、満寵を汝南太守とした。満寵は、服従者五百人を募って攻め落とし、まだ下っていない将軍を誘い出して座上で十余人を殺し、一挙に平定した。3-p.722*, 4-p.157** 2020年12月08日 建安06年(201)47歳:巻1「武帝紀」:夏四月、兵を黄河のほとりに揚げ、袁紹の倉亭の駐屯軍を破る。袁紹は帰ると、散り散りになった兵を再び集め、そむいた諸郡県を攻めて平定した。九月、曹操は許へ帰還。袁紹は破れる前、劉備に汝南を侵略させたが、汝南の賊の共都らはこれに呼応した。曹操は蔡揚を派遣してこれを撃とうとしたが、利あらず、共都に破れた。曹操は劉備征伐のために南行。劉備は公自らが来ると聞いて、劉表の下へ走り、共都らはみな解散した。1-p.22*, 1-p.051** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻22「徐宣伝」:徐宣は陳矯とともに太守の陳登に評価され、また陳登とともに曹操に心を寄せた。海西・淮浦の民が反乱を起こした時、曹操は督軍を派遣してこれを平定しようとしたが、うまくいかなかった。徐宣はその督軍と密かに会って責め、形勢を示したので、賊を平定することができた。曹操は徐宣を辟して司空掾属とした。3-p.645*, 3-p.492** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻22「陳矯伝」:(陳矯、太守陳登の功曹となり、許都へ赴いて、陳登の評判を聞き取る。)陳登、孫権のために郡を包囲されて、陳矯を使者として曹操に救援を求めた。曹操は陳矯を気に入って引き留めようとするが、陳矯は辞退し、かくして曹操は救援に赴く。呉軍、敗退。その後、曹操は陳矯を辟して司空掾属とした。(繋年については『資治通鑑』巻63・漢紀55に注記有り)3-p.643*, 3-p.487**