2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻7「呂布伝」裴注引『先賢行状』:陳登、江淮の間に人望あり、江南を併呑しようと志す。孫策に攻撃され、人数が足らずに善戦し、曹操に救援を要請した。その後、陳登は東城太守に転任。かくして孫権は長江の北まで支配するようになった。曹操は長江を前にするたびに、早くに陳登の計略を用いなかったために呉の勢力を拡大させてしまったことを残念がった。(繋年については『資治通鑑』巻63・漢紀55に注記有り)1-p.230*, 2-p.038** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻51「呉書・宗室伝」裴注引『典略』:孫輔は、孫権が江東を保守していけないのではないかと危ぶみ、孫権が東冶に出ている間に人を遣って曹操に書簡を届けさせた。孫権は、輔を呼びつけ、書簡を見せて問い詰めた。5-p.1212*, 6-p.326** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻51「呉書・宗室伝」:孫輔は使者を遣わして曹操と通じようとして事が発覚し、孫権は彼を幽閉した。5-p.1211*, 6-p.325** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻47「呉書・呉主伝」裴注引『江表伝』:もと孫策に廬江太守として用いられていた李術は、孫策亡き後、孫権に反した。孫権は曹操に書状でこのことを述べ、李術を攻撃した。李術は曹操に救援を求めたが、曹操は助けなかった。5-p.1116*, 6-p.074** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻47「呉書・呉主伝」:曹操は孫権を表して討虜将軍とし、会稽太守を兼任させた。5-p.1116*, 6-p.073** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻10「荀攸伝」:張郃が投降してきたのに対して、曹洪らは疑ったが、荀攸は曹洪に、「張郃は自分の計略が袁紹に用いられなかったので怒ってやって来たのだ。君は何を疑っているのか」と言った。かくして張郃は受け入れられた。2-p.324*, 2-p.273** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻17「張郃伝」:(張郃は、韓馥が敗れて袁紹に帰す)曹操が袁紹と官渡で対峙していた時、袁紹は淳于瓊を烏巣に駐屯させたが、曹操はこれを襲撃した。張郃は袁紹に、「曹操軍は精鋭だから、きっと淳于瓊を破る。そうなれば、将軍もおしまいだ。急いで兵を率いて淳于瓊を救援すべきだ」と説いたが、郭図はこれを否定し、袁紹も張郃の意見に従わなかった。かくして袁紹軍は破れた。張郃は、郭図に讒言され、懼れて曹操に帰した。曹操は非常に喜び、彼を偏将軍に拝し、都亭侯に封じた。2-p.525*, 3-p.227** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻16「鄭渾伝」:(鄭渾は袁術が必ず敗れるであろうと見通していた。時に豫章太守であった華歆の下へ身を投じる。)曹操は鄭渾の篤行を聞き、召し寄せて掾に任命し、後に下蔡の長・邵陵の令に遷った。渾は各地で人民の生活水準を上げる政治を行った。辟して丞相の掾属とし、左馮翊に遷った。2-p.509*, 3-p.196** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻13「華歆伝」:華歆、曹操の下に至ると、議郎に拝せられ、司空の軍事に参与した。その後、朝廷に入って尚書となり、侍中に転じ、荀彧に代わって尚書令となった。2-p.403*, 2-p.475** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻13「華歆伝」:(華歆、何進の下で尚書郎。董卓から逃れて南陽の袁術の下へ。董卓を伐つように進言するも用いられず。馬日磾の掾、豫章太守を経て、孫策の下へ。)曹操が官渡に在った時、天子に華歆の徴用を上表した。孫権は彼を手放したくなかったが、華歆は孫権に、「将軍が曹操とよしみを通じるために自分を曹操の下へ行かせるのが有益だ」と説き、孫権も喜んで彼を遣った。2-p.401*, 2-p.471**