2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」裴注引『献帝起居注』:曹操が上言した。「大将軍鄴侯袁紹は、前に冀州牧韓馥と故大司馬劉虞を擁立し、金璽を刻し、故任長畢瑜を劉虞のもとへ遣り、天命のさだめを語って聞かせた。また袁紹は臣下に手紙を遣り、鄄城に都を置くべきだ、立てるべき人がいるから、と述べた。勝手に金銀の印を鋳造し、孝廉・計吏はみな袁紹のもとに来させられた。従弟の済陰太守袁叙は袁紹に手紙を送り、「今、海内は乱れ、天の意は実に我が袁氏にある。神からの徴候もあり、それは貴兄にある。南兄の臣下は即位させようとしたが、南兄は、年齢から言っても、地位から言っても北兄の方がふさわしい、と言っている。そこで、すぐに璽を送ろうとしたが、曹操に道を断たれた」と述べた。袁紹一族は代々国家の厚い恩を受けていながら、その凶逆無道はここまでひどい。そこで、兵馬を指揮して官渡で合戦し、聖朝の威厳を背にして、袁紹の大将淳于瓊ら八人の首を斬り、大いに打ち破ることができた。袁紹と子の袁譚は軽身で逃げ去った。全部で斬った首は七万余級、輜重財物は巨億に上る」と。1-p.22*, 1-p.050** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:袁紹は初め曹操が淳于瓊を攻撃すると聞いたとき、長子の袁譚に、「もし彼が淳于瓊を攻撃しても、私が彼の陣営を陥落させれば、彼はもとより帰るところがなくなる」といい、張郃・高覧に曹洪を攻撃させた。張郃は淳于瓊が敗れたことを聞くと曹操に投降した。袁紹の衆は惨敗し、袁紹と袁譚は軍を見捨てて敗走し、黄河を渡った。これを追撃したが追いつかず、悉くその軍事物資や書物珍宝を収め、その衆を捕らえた。1-p.21*, 1-p.048** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻10「荀攸伝」:袁紹軍から許攸が投降してきた時、衆はみな疑ったが、荀攸と賈詡だけは曹操に許攸の策を受け入れるよう進言した。そこで、曹操は荀攸と曹洪に留守を任せ、自ら淳于瓊を攻撃しに出かけ、これを破った。2-p.323*, 2-p.273** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:曹操は許攸がやってきたのを聞くと、つま先だってこれを迎え、手をたたいて笑って言った。「君が来たから、我が事はもう解決した」と。許攸は座に迎え入れられると、曹操に「袁氏は軍勢盛んだが、どう対処するか。今どれほどの食料があるか」と聞いた。曹操、「まだ一年程は持ちこたえられる」と。許攸、「そんなはずはない、もう一度答えよ」と。「半年は持ちこたえられる」と。許攸、「あたなは袁紹を打ち破りたくないのか。どうして本当のことを言わないのか」と。曹操、「先ほどの言葉は冗談だ。実際は持って一ヶ月だ。どうすればよいだろうか」と。許攸、「公は単独で守り、外には救援なく、食料はすでに尽きている。これは危急のときだ。今、袁氏は輜重万余乗、故市・烏巣に駐屯して厳重な防備がない。今、軽兵でこれを襲撃し、不意をついて至り、その貯蔵を焼けば、三日を過ぎずに袁氏は自ら敗れるだろう」と。曹操は大いに喜び、精鋭の歩兵騎兵を選び、みな袁紹の軍旗やのぼりを用いて、枚を噛み馬の口を縛って、夜に間道から出た。束ねた薪を抱え、道中に問う者があれば、「袁公は曹操が後軍を荒らすのを恐れ、兵を遣って守備を増やしているのだ」と答え、聞くものはみな信じた。到着して、駐屯地を囲み、大いに火を放つと、陣営の中は驚き混乱した。大いにこれを破り、その糧食や財宝を悉く焼き、督将の眭元進・騎督の韓莒子・呂威璜・趙叡らの首を斬り、将軍淳于仲簡(淳于瓊?)の鼻を削いで、まだ死なず、士卒千余人を殺し、みな鼻を取り、牛馬はその唇下を削ぎ、もって袁紹軍に示した。将士はみな恐れた。時に夜、ある者が淳于仲簡を捕らえて本陣に連れてきた。曹操が「どうしてこうなったのだ」と問えば、淳于仲簡、「勝負は天が決めることだ。どうして問う必要があろう」と。曹操は殺さないでおきたいと思ったが、許攸が「明朝鏡を見れば、いよいよ自分たちへの恨みを忘れないだろう」と言ったので、殺した。1-p.21*, 1-p.049** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:冬十月、袁紹は食糧輸送車を遣るのに、淳于瓊ら五人に兵万余人を率いて護送させ、袁紹の陣営北四十里に宿営させた。袁紹の謀臣の許攸は貪欲で、袁紹は彼の欲望を満足させられなかったため、出奔し、曹操に淳于瓊を攻撃すべしと進言した。左右はこれを疑ったが、荀攸・賈詡は曹操に勧めた。曹操はそこで曹洪に留守を託し、自ら歩兵騎兵五千人を率いて夜行し、明け方に到着した。淳于瓊らは曹操の兵が少ないのを望見し、門の外に出て居並んだ。曹操は急襲し、淳于瓊は退いて陣営に立てこもったが攻撃を続けた。袁紹は騎兵を遣って淳于瓊を救援した。左右の者の中には、少しずつ近づいてくる賊騎に、兵を分けて当たるよう進言する者もいたが、曹操は「賊が背後に来てから言え」と怒った。士卒はみな必死で戦い、淳于瓊を大いに破り、みな斬った。1-p.21*, 1-p.048** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:袁紹の穀物輸送車数千乗がやってきたので、曹操は荀攸の計略を用い、徐晃・史渙を遣って大いにこれを破り、悉くその車を焼いた。曹操は袁紹と何ヶ月も対峙し、連勝して将を斬ったが、衆は少なく食料も尽き、士卒は疲弊していた。曹操は運搬者に、「十五日間でお前たちのために袁紹をやっつけ、これ以上苦労はかけない」と告げた。1-p.21*, 1-p.047** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻22「桓階伝」:(桓階は初め、太守孫堅により孝廉に挙げられ尚書郎に除せられた。孫堅が劉表を撃って戦死した時、桓階は孫堅の遺体を引き取りに劉表のもとをたずねた。)曹操が袁紹と官渡で対峙していた時、劉表は袁紹に応じた。桓階は太守の張羨に、劉表には付かず、曹操に帰順すべきを説いた。張羨はこれに従い、曹操は喜んだが、張羨は劉表に攻められ、病死した。桓階は身を隠した。3-p.631*, 3-p.463** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻21「衛覬伝」:曹操が袁紹を征伐した時、劉表は袁紹の為に援助し、関中の諸将も中立の立場を取った。益州牧劉璋は劉表と仲が悪かった。衛覬は治書侍御史として益州に使者として赴き、劉璋に兵を下して劉表軍を留めさせようとしたが、道中、関中の様子を見て荀彧に書簡を送り、その治め方について相談した。荀彧は曹操に伝え、曹操はその進言に従って関中を帰順させた。3-p.610*, 3-p.415** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻6「劉表伝」裴注引『傅子』:韓崇、曹操の様子を見に行くに際して、曹操は至明なり、必ずや天下を済はん、と言った。1-p.213*, 1-p.511** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻6「劉表伝」:韓崇、劉表に派遣されて曹操の様子を見に行った。還って、曹操の威徳を述べ、劉表に、その子を人質として遣るように進言した。1-p.212*, 1-p.511**