2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻18「李通伝」:曹操が袁紹と官渡で対峙していた時、袁紹は使者を遣って李通を征南将軍に拝しようとし、劉表もまた密かに李通を招こうとしたが、李通はいずれをも拒否した。彼の親戚や部曲らは涙を流して勢力の大きい袁紹への帰属を進めたが、李通はこれを叱りつけて、「曹操は賢明な人物、いずれきっと天下を平定するだろう。袁紹は勢力強大とはいえ、人の任命や人材の使い方がでたらめだ。私は死を賭けて二心は抱かない」と言い、袁紹からの使者を斬り、印綬を曹操に送り届けた。2-p.535*, 3-p.245** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻18「李典伝」:曹操が袁紹と官渡で対峙していた時、李典は宗族及び部曲を率いて穀物や帛を軍に供給した。2-p.533*, 3-p.242** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻17「于禁伝」:曹操が始め袁紹と対峙した時、袁紹軍は盛んだったが、于禁は先陣を切って戦いたいと願い出た。曹操はこれを壮とし、歩兵二千をやって于禁に指揮させた。袁紹は于禁を攻めたが、抜くことはできなかった。于禁は、官渡の戦いにおいてめざましい活躍をし、偏将軍に昇進した。2-p.523*, 3-p.223** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻10「賈詡伝」:袁紹が官渡で曹操を包囲した時、曹操の軍は食糧がほとんど尽きようとしたので、賈詡にどんな計略を用いればよいかを聞いた。賈詡は、「公は聡明さで袁紹に勝り、勇敢さで袁紹に勝り、人を用いることで袁紹に勝り、決断力で袁紹に勝っている。この四つの勝がありながら半年も勝敗が決しないのは、ただ万全を期するためだ。時機を捉えて決断するならば、あっという間に事は定まるだろう」と言った。曹操はこれに従い、全兵力を併せて出撃し、袁紹軍を破った。曹操は冀州牧を領することになり、賈詡を太中大夫に栄転させた。2-p.330*, 2-p.288** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻10「荀彧伝」:官渡の戦いで、軍糧の尽きそうになった曹操は、荀彧に書簡を送り、許に引き返して袁紹を引き寄せようかと相談した。荀彧は、「今軍糧は少ないが、項羽と劉邦が滎陽・成皋で対峙していた頃ほどではない。あの時は二人とも先に退こうとしなかった。先に退いた方が負けだとわかっていたからだ。公は十分の一の衆を以て地を画して守り、敵の喉元を押さえていながら進軍しないという状態がすでに半年続いている。情勢が明らかとなり、勢力が尽きてくれば、きっと変化が起こる。その時こそ思い切った作戦を用いるチャンスだ。その時機を逃してはならない」と。曹操はかくして踏みとどまった。後に全て荀彧の予想通りとなった。2-p.314*, 2-p.249** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:袁紹は再び進軍して官渡に臨み、土山や地下道を作った。曹操もまた内側で同じ物を作り、これに応じた。袁紹は陣営の中に矢を射り、それは雨のようで、外を行く者は盾を被り、衆は大いに恐れた。時に、曹操は食糧が少なく、荀彧に手紙を送って、許に戻ろうと思うがどうかと相談した。荀彧は、「袁紹は全ての衆を官渡に集めて公と勝敗を決しようとしている。公は至弱をもって至強に当ろうとしており、もし制圧することができなければ、必ず相手の乗じるところとなる、これは天下を決する大いなる時機だ。そもそも袁紹は無官の雄であるに過ぎず、人を集めることはできても用いることはできない。公の神武明哲と天子奉戴とをもってすればきっと勝てる」と応えた。曹操はこれに従った。1-p.20*, 1-p.045** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」裴注引習鑿歯『漢晋春秋』:許攸は袁紹に、「公は曹操と対戦してはならない。急いで諸軍を分割して守備態勢を維持しつつ、他の道を通って天子を迎えれば、すぐに事は済む」と進言したが、袁紹は「私はどうしても先ず先にあいつをやっつけねばならない」と言って従わなかった。許攸は怒った。1-p.20*, 1-p.045** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:八月、袁紹軍は陣営を連ねて少しずつ前進し、沙山に依拠して東西数十里に渡って駐屯した。曹操もまた陣営を分割して敵に対応したが、合戦して不利。時に曹操の兵は万に満たず、負傷者は十に二三という有様だった。(裴松之は、曹操軍がそんなに少人数のわけがない、とコメント。)1-p.19*, 1-p.045** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻10「荀攸伝」:曹操は白馬を抜いて帰途に着き、黄河沿いに西へ軍事物資を輸送させた。袁紹は黄河を渡って追いかけてきたところで突如曹操軍に遭遇した。諸将は皆恐れ、曹操に引き返して防衛することを説いたが、荀攸は、「これは敵を餌で釣るのだ、どうしてここを去ってよいものか」と言い、曹操は荀攸に目配せして笑った。2-p.323*, 2-p.272** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:曹操軍は白馬の包囲を解き、その民を移し、黄河沿いに西に向った。袁紹はそこで河を渡って曹操軍を追い、延津の南まで来た。曹操は兵を統率して南阪の下に駐屯させ、塁に登って見張らせ、敵騎の数が多くなったところで、騎馬の鞍を解き、馬を放った。この時、白馬から軍事物資が運ばれてきた。諸将は、敵騎は多いから、引き返して本営を守るほうがよいと考えたが、荀攸は「これは敵を餌で釣るのだ。なんでここを去ってよいものか」と言った。袁紹の騎将の文醜は劉備と五六千騎を率いて前後してやってきた。諸将はまた「馬に乗るべきでしょう」と言ったが、曹操は「まだだ」と言った。しばらくして騎馬の到来がだんだんと多くなり、分れて軍事物資に向う者も出てきた。曹操は「よし」と言い、やっとみな馬に乗った。時に騎は六百に満たなかったが、兵を放って存分に攻撃し、大いにこれを破り、文醜を斬った。顔良・文醜はともに袁紹の名将だったが、二度戦って、尽く捕えられたので、袁紹軍は大いに震え上がった。曹操は軍を官渡に戻し、袁紹は進んで陽武を守った。関羽は逃亡して劉備の下へ戻った。1-p.19*, 1-p.044**