2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻14「董昭伝」:顔良の死後、董昭は鄴城を包囲した。その時、袁紹の同族の袁春卿が魏郡の太守として鄴の城内にいた。曹操は、揚州にいた袁春卿の父の元長を迎えに行かせ、董昭は、袁春卿に書簡を送って、父のいる曹操のもとに帰順するよう説得した。鄴が定まってから、董昭は諌議大夫となった。2-p.438*, 3-p.040** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻14「董昭伝」:(董昭、曹操に劉備を袁術討伐に遣るのを保留すべきと進言)曹操は自ら劉備征伐に出かけ、董昭を徐州牧に遷した。袁紹がその将顔良を遣って東郡を攻撃させた時も、また曹操は董昭を義軍の太守に任命して顔良を討伐するのに従わせた。2-p.438*, 3-p.040** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻36「蜀書・関羽伝」:袁紹は顔良を遣って東郡太守の劉延を白馬に攻撃させた。曹操は張遼・関羽を遣って先鋒攻撃させた。関羽は顔良の首を取った。曹操は関羽を漢寿亭侯に封じた。初め、曹操は関羽の為人を高く買っていたが、久しく留まるつもりはないだろうと察して、張遼にひそかに心中を問わせた。関羽は嘆息して、「私は曹操が私を厚遇してくれているのは知っているが、私は劉将軍に厚い恩義を受け、共に死のうと誓った仲であるから、裏切るわけにはいかない。私はいつまでも留まることはしないが、きっと手柄を立てて曹操の恩に報いてから去るつもりだ」と言った。張遼がその言葉を曹操に伝えると、曹操はこれを高く評価した。関羽が顔良を殺すと、曹操は彼がきっと去るであろうことを知り、重ねて賞与を加えた。関羽はその賜りものに尽く封をし、書簡で別れを告げて袁紹軍にいる先主のもとへ奔った。左右の者たちは追いかけようとしたが、曹操は「彼は自分なりにその主のためにやっているのだ。追いかけてはならない」と言った。4-p.939*, 5-p.166** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻14「程昱伝」:袁紹が黎陽にいて、南へ渡ってこようとした時、程昱は七百の兵で鄄城を守っていた。曹操はこれを聞くと、程昱に人を遣わし、二千の兵を増援しようと言った。程昱は反対して言った。「袁紹は十万の衆を擁して向かうところ敵なしだと思っている。今、私の兵が少ないのを見ると、きっと軽んじて攻撃しては来ないだろう。もしこちらの兵を増やせば、通過するのに攻撃してこないわけにはいかず、攻撃すればきっと相手が勝つ。そうなればその勢力を無駄にすることになる。どうか疑われないように」と。曹操はこれに随った。果たして程昱の予想したとおりとなった。曹操は賈詡に向かって、程昱の胆力は戦国時代の孟賁や夏育以上だと称賛した。その後、程昱は山沢に亡命していた者たちを集め、精兵数千人を得て、曹操と黎陽で合流し、袁譚・袁尚を討伐した。袁譚らは背走。程昱を奮武将軍とし、安国亭侯に封じた。2-p.428*, 3-p.017** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻10「荀攸伝」:劉延を白馬で救援した際、荀攸は顔良を斬る画策を立てた。その語は武帝紀にある。2-p.323*, 2-p.272** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻1「武帝紀」:二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を遣って、東郡太守の劉延を白馬において攻撃した。袁紹は兵を引いて黎陽に至り、黄河を渡ろうとした。夏四月、曹操は劉延を救援するため北に向かった。荀攸は曹操に、「今、兵は少なくてかなわない。相手の勢力を分散させればなんとかなる。公が延津に到着して、もし渡った兵を率いて敵の背後に向うならば、袁紹はきっと西に向かってこれに応じるだろう。そうした後に、軽兵で白馬を襲撃し、その不備を不意打ちすれば、顔良は生け捕りにできる」と説き、曹操はこれに従った。袁紹は曹操軍の兵が河を渡ったと聞き、すぐに兵を分けて西に向かい、これに応じた。曹操はそこで軍を引き返し、二倍の速度で白馬へ赴いた。十余里ほど手前のところで顔良は大いに驚き、応戦してきたので、張遼・関羽を使って先陣とし、撃破し、顔良を斬った。1-p.19*, 1-p.043** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻32「蜀書・先主伝」裴注引『魏書』:(曹操が劉備を伐とうとしたとき)、曹操は官渡の戦いで切迫した状況にあったので、諸将を官渡に留めて駐留させ、自ら精兵を率いて劉備を征伐した。劉備は初め曹操は大敵と接しているから東征できないだろうと思っていたのに、曹操が自らやって来たと聞いて大いに驚いたがまだ信じられなかった。自ら数十騎を率いて曹操軍を望見し、その軍旗を見て、すぐに衆を見捨てて逃げ出した。4-p.876*, 5-p.035** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻33「蜀書・後主伝」裴注引『魏略』:初め劉備が小沛にいたとき、思いがけなく曹操がやってきたので、あわてて家族を捨てて逃げた。4-p.893*, 5-p.073** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻36「蜀書・張飛伝」:劉備は曹操に背いて袁紹・劉表に依った。4-p.943*, 5-p.173** 2020年12月08日 建安05年(200)46歳:巻36「蜀書・関羽伝」裴注引『傅子』:張遼は曹操が関羽を殺すのではないかと思って、曹操に関羽の気持ちを言うのをためらったが、「曹公は君父だが、関羽は兄弟に過ぎない」と嘆息して、聞いたことを述べ伝えた。曹操は、「君に仕えてその根本を忘れないとは天下の義士である。いつ彼は立ち去ると思うか」と言うと、張遼は「関羽は公に恩を受けているので、きっと功績を立ててこれに報いてから立ち去るだろう」と答えた。4-p.940*, 5-p.167**