2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻53「呉書・張紘伝」裴注引『呉書』:張紘は許にやってくると、朝廷の公卿や旧友知人たちに孫策のすばらしさを説いた。曹操は当時司空で、恩を厚くして遠方の人々を喜ばせようとしており、張紘を辟して掾とし、高第に挙げて侍御史に任命し、後に九江の太守に任命したが、張紘は旧恩を思い、病を理由にそれらの任命を固辞した。5-p.1244*, 7-p.011** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻53「呉書・張紘伝」:孫策は張紘を使者として許都に派遣したが、そのまま引き止められて侍御史となった。少府孔融らと親交あり。曹操は孫策が死んだことを聞くと呉を伐とうとした。紘は諌め、これによって厚遇しておくに限ると勧めた。曹操はそれに従って、孫権を討虜将軍に任命し、会稽太守とした。曹操は紘に、孫権を補佐してこちらに従わせるようにさせようと、会稽東部都尉に出した。5-p.1243*, 7-p.010** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻25「楊阜伝」:楊阜は、州の従事として牧の韋端の使者として許都に赴いた。帰還した楊阜に関右の諸将は袁紹と曹操の優劣について聞いた。楊阜は「袁公は寛大だが優柔不断で、謀はするが決断力に劣る。優柔不断だと威厳がなく、決断力がないと事をしくじる。今は強くても結局は大業を成し遂げることはできないだろう。曹公は雄大な才能に遠大な謀略、時機を見て決断をするのに迷いがなく、規律は統制がとれていて精兵ぞろい、規格はずれの人間をもよく用いることができ、彼らはそれぞれ持ち味を存分に生かしきっている。きっと大事を成し遂げることができるに違いない」と答えた。後に孝廉に選ばれ、丞相府に辟されたが、州は引き留めて軍事に参与させた。3-p.700*, 4-p.113** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻12「司馬芝伝」裴注引『魏略』:(劉勲は、中平の末に沛国建平長となり、曹操と古馴染み。)後に廬江太守となり、孫策に敗れたので、自ら曹操に帰順してきた。列侯に封ぜられ、かくして出兵の時も平時も議論の場に従った。勲は曹操と古馴染みであることをかさにきて、日々傲慢になり、しばしば法を犯し、また誹謗中傷の言葉を吐き、後に逮捕された。2-p.387*, 2-p.434** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻14「劉曄伝」:劉曄、曹操からの命令と称して、揚州の鄭宝ら游侠の徒を抑える。その手下たちは劉曄に服従し、彼を主君に立てようとしたが、劉曄は漢王室が衰微しつつあることを見て、自ら軍隊を擁することを望まず、その部曲を廬江太守の劉勲に委ねた。劉勲は劉曄の諌めも聞かずに、孫策の策略の為に窮地に陥り、曹操のもとに逃げた。2-p.443*, 3-p.050** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻46「呉書・孫破虜討逆伝」裴注引『江表伝』:孫策は詔勅を受けて、司空の曹操、衛将軍の董承、益州牧の劉璋らと力をあわせて袁術・劉表を撃った。袁術は亡くなり、その従弟の袁胤や娘婿の黄猗らは曹操を恐れ、寿春を守れずに逃亡、劉勲に就く。劉勲は孫策に破れ、曹操に帰順した。 5-p.1108*, 6-p.050** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻46「呉書・孫破虜討逆伝」:袁術が死んで、長史楊弘、大将張勲らは、その衆を引き連れて孫策に就こうとしたが、廬江太守の劉勲がこれを捕らえ、その財宝を収奪して帰った。孫策は偽って劉勲と同盟を結び、廬江を奇襲、劉勲の衆は皆孫策に降り、勲のみ麾下数百人と自ら曹操に帰順した。5-p.1104*, 6-p.039** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻1「武帝紀」:廬江太守の劉勲が衆を率いて投降してきたので、これを受け入れて列侯に封ず。1-p.18*, 1-p.042** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻11「張範伝」:曹操が冀州を征伐しようとしていた時、袁術が張範の弟の承に、「今曹公は疲弊した兵士数千をもって十万の衆に立ち向かおうとしているが、なんと向こう見ずだと思わないか」と言うと、張承は「漢の徳は衰えたとはいえ、天命はまだ改まっていない。今曹公は天子を奉戴して天下に号令している。百万の衆に敵対しても大丈夫だろう」と答えた。袁術は喜ばず、張承は彼のもとを立ち去った。2-p.337*, 2-p.307** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻46「呉書・孫破虜討逆伝」裴注引『呉歴』:曹操は孫策が江南を平定したことを聞くと、たいへん面倒なことになったと思い、いつも「狂犬野郎とは争うのは面倒だ」と言っていた。 5-p.1109*, 6-p.053**