2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻36「蜀書・関羽伝」:(建安24年)関羽は衆を率いて樊に曹仁を攻撃。曹操は于禁を遣って曹仁を救援させたが、于禁は関羽に降り、周辺の盗賊たちも関羽の支党となって中原一帯に勢力を持った。曹操は許都を移してその勢力を避けようかと議論したが、司馬宣王、蒋済は関羽が志を得ることを孫権はきっと望んでいないから、人を遣って孫権に関羽の背後を突かせ、江南の土地を孫権に封ずれば、樊の包囲は自ずから解けると判断した。曹操はこの意見に従った。……曹操は徐晃を遣って曹仁を救援した。4-p.941*, 5-p.169** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻9「夏侯惇伝」:曹操軍が摩陂に駐屯すると、夏侯惇は曹操の車に常に同乗し、特別に親しみ重んぜられ、臥内に出入した。こうした待遇は他の将軍とは比較にならない。前将軍に拝せられ、諸軍を指揮して寿春に帰還し、召陵に陣営を遷した。1-p.268*, 2-p.140** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻9「夏侯惇伝」裴注引『魏書』:時に諸将はみな魏の官号を受けていたが、夏侯惇のみ漢官であった。そこで上疏して、自分は不臣の礼を受けるほどの人物ではない、と。曹操曰く、「吾聞く、太上は師臣、其の次は友臣。そもそも臣とは貴徳の人である。区々たるの魏に、君を屈服させるに足るものがあるだろうか」と。惇は固く請い、そこで前将軍に拝せられた。1-p.268*, 2-p.140** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻1「武帝紀」裴注引孫盛評:夏侯惇は漢の官僚となったことを恥じ、魏の印を求めた。桓階は夏侯惇に比べると義理に厚く、まっすぐな節度を持っている。その伝記を考察するに、『世語』の記述はいいかげんだ。1-p.53*, 1-p.116** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻1「武帝紀」裴松之注:『曹瞞伝』及び『世語』では、桓階が曹操に帝位に就くよう勧めたが、夏侯惇はまず先に蜀を滅ぼすのがよい、蜀が滅べば呉は帰服する、二方が定まってから、舜や禹に倣って禅譲を受ければよいと考えていて、曹操はこれに従ったが、曹操が亡くなってから夏侯惇は前言を後悔し、病気になってなくなった、という。1-p.53*, 1-p.116** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏氏春秋』:夏侯惇が曹操に言うことには、「天下の人々は皆、漢の命脈が既に尽き、異なる時代がまさに始まろうとしていることを知っている。古来、民の害を除くことができ、諸々の衆に帰服される者が、すなわち民の主である。今殿下は三十余年間戦いに従事し、その功徳は庶民の間においても明らかで、天下の人々に帰依されている。天の声に応じ、民の思いに従うのに、どうしてためらうことがあろうか」と。王は答えて、「『有政に施せば、是れ亦た政為り』(『論語』為政篇21)という。もし天命が私にあるというなら、私は周の文王であろう」と。1-p.53*, 1-p.116** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏略』:孫権は上書して自らを臣と称し、天命を説いた。曹操は孫権の書簡を外に向かって示し、「この小僧は私を炉の火の上に座らせようというのか」と言った。侍中の陳羣、尚書の桓階は奏上して、「漢王室は安帝以来、政は公室を去り、皇統がしばしば断絶し、今に至るまで、ただ名号があるに過ぎず、ほんのわずかの土地と人民でさえ、みな漢王室の所有ではなく、命運はとっくに尽きてしまい、暦数もとっくに終わってしまっていて、それは今に始まったことではない。だから桓帝・霊帝の頃、諸々の河図洛書や緯書に明るい者たちは皆、「漢の五行の気は尽きた、黄の気を持つ家が起こるべき時だ」と言ったのだ。殿下はその時運に応じて天下の十分の九を所有しながら漢王室に仕え、人民たちは望みをかけ、そのため遠くの者も近くの者も怨みに思っている。だから孫権は遠くで臣と称したのだ。これは天と人とが感応して、気を異にしながら同じ声を発したのである。臣は愚考するに、虞・夏は謙辞を用いず、殷・周は遠慮なく反対者を追放した。天命をかしこみ、謙譲することのないように」と言った。1–p.52*, 1-p.115** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻1「武帝紀」:孫権、使者を派遣して上書し、関羽討伐を申し出た。曹操は洛陽から関羽討伐のために南へ赴き、未だ至らざるとき、徐晃が関羽を攻めてこれを破り、関羽は敗走、曹仁の包囲も解かれた。曹操軍は摩陂に駐屯した。1-p.52*, 1-p.115** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻23「杜襲伝」:曹操が東へ帰還するとき、留府長史を選んで長安を守らせるつもりだったが、担当者の推薦する人物の多くが不適当だった。曹操は令を出して、身近なところに人材のあることを示し、かくして杜襲を留府長史として関中を守らせた。3-p.666*, 4-p.036** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻19「任城威王彰伝」:曹操は東へ帰還する時、曹彰に越騎将軍を代行させ、長安に駐留させた。曹操は洛陽に着くと、病気になり、彰を急いで呼び寄せたが、至らぬうちに崩御した。2-p.556*, 3-p.289**