2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻46「呉書・孫破虜討逆伝」:この頃、袁紹の勢力はまさに強大で、孫策は江東を併合し、曹操の力はまだそれほど強くなかったので、とりあえず孫策を手なずけようとして、弟の娘を孫策の弟の孫匡に娶わせ、子の章のために孫賁の娘を娶り、孫策の弟の孫権、孫翊を召し出し、また揚州刺史の厳象に命じて、孫権を茂才に挙げさせた。5-p.1104*, 6-p.040** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏略』:王忠は扶風の人。若くして亭長となる。三輔が乱れた時、忠は飢えから人を食った。仲間を引き連れ、南の武関に向った。ちょうど婁圭が荊州を治めていて、北方からの客人を迎えに来させていたが、忠は彼らを迎え撃ち、兵を奪い、衆千余人を集めて曹操に帰属した。曹操は忠を中郎将に拝して、征討に従わせた。五官中郎将(曹丕)は忠がかつて人を食ったことがあるのを知っていたので、芸人に命じて墓のあたりに転がっている髑髏を持ってこさせ、忠の馬の鞍に付けて、笑いの種にした。1-p.18*, 1-p.042** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻1「武帝紀」裴注引『献帝春秋』:劉備は、劉岱(同裴注引『魏武故事』:劉岱は沛国の人。司空長史として征伐に従い功績あり、列侯に封ぜらる。)らに「お前たちが百人で来ようと私をどうにもできない。曹公(曹操)自身が来るならわからないけれど」と。1-p.18*, 1-p.042** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻32「蜀書・先主伝」:(劉備は下邳に関羽を留め、自身は小沛に戻った。)東海の昌覇が反乱を起こし、郡県の多くが曹操に反して劉備に味方し、衆は数万人に達した。劉備は孫乾を遣って袁紹と連合した。曹操は劉岱・王忠を遣って攻撃したが勝てなかった。4-p.875*, 5-p.034** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻32「蜀書・先主伝」裴注引胡沖『呉歴』:曹操はしばしば親密なものを派遣して諸将軍の中で賓客を招いて宴席を設ける者はがいないかを探らせ、いたら理由をつけてこれを殺した。劉備は時に門を閉じてかぶらを植えていたが、曹操は人を遣って門を覗かせた。劉備は張飛・関羽に「自分たちは野菜を植えているような人間か。曹公はきっと疑いを持っているから、ここに留まってはいられない」と言い、その夜に逃亡した。曹操から送られた衣服は尽く残して、小沛に赴き、衆を集めた。(裴松之は胡沖の記録を事実ではないと判断している。)4-p.875*, 5-p.035** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻1「武帝紀」:袁術は陳で敗れてからやや行き詰まり、袁譚は青州から使いを遣ってこれを迎えようとした。袁術が下邳から北を通り過ぎようとしたところ、曹操は劉備・朱霊を遣ってこれを阻止しようとした。たまたま袁術は病死。程昱・郭嘉に「劉備は自由にさせるべきではない」と言われて、曹操は後悔したが、すでに手遅れだった。劉備はひそかに董承らと謀反を企てていたが、下邳に至ると、徐州刺史の車冑を殺して、沛に駐屯して挙兵。曹操は劉岱・王忠を遣ってこれを撃たせたが、勝てなかった。1-p.18*, 1-p.041** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻32「蜀書・先主伝」裴注引『華陽国志』:(曹操が劉備に「天下の英雄は私たち二人だけだ」と言ったとき)ちょうど雷が起こったので、劉備はそれに因って曹操に言った。「聖人は「迅雷風烈には必ず変ず(『論語』郷党篇)」と言ったが、誠に所以のあることだ。一震の威力でここまでに至るのだから」と。4-p.875*, 5-p.033** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻32「蜀書・先主伝」裴注引『献帝起居注』:(董承らと劉備との企てが未発のうち、劉備は袁術討伐のために出発した。)董承は王子服に「ことを起こしてから曹公の正規軍を手に入れてもまだ人数が不足だろうか」と。4-p.875*, 5-p.034** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻32「蜀書・先主伝」:(劉備がまだ袁術討伐に出ていないとき、献帝の舅の車騎将軍董承が、曹操を誅せんと企てたが、ちょうど袁術討伐のために出ることになったので、実行には至らなかった。)後に事が発覚して、董承らは誅伐された。4-p.875*, 5-p.033** 2020年12月08日 建安04年(199)45歳:巻32「蜀書・先主伝」:劉備がまだ袁術討伐に出ていないとき、献帝の舅の車騎将軍董承が、曹操を誅せよとの密書を受けたことを告げた。劉備がまだ事を起こさないでいた時、曹操はゆったりとさりげなく「今天下の英雄はあなたと私だけだ。袁紹のたぐいは取るに足りない」と言った。劉備はちょうど食事をしていたが、箸を取り落とした。かくして董承らと謀略は、ちょうど袁術討伐のために出ることになって実行には至らなかった。後に事が発覚して、董承らは誅伐された。4-p.875*, 5-p.033**