2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻1「武帝紀」:泰山の臧覇・孫観・呉敦・尹礼・昌豨は各々衆を集めていた。呂布が劉備を破ると、臧覇らはみな呂布に従い、呂布が敗れると、曹操は彼らを捕えて手厚く待遇し、青州・徐州の一部を割いて海岸地帯に付け、その一帯を彼らに委ね、琅邪・東海・北海を分割して城陽・利城・昌慮郡とした。1-p.16*, 1-p.038** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻3「明帝紀」裴注引『魏略』:孔桂は建安の初め、楊秋の使者として曹操に会い、騎都尉となる。博弈や蹴鞠に長じていたため、曹操に愛された。後、西域からの賄賂を受け取って殺される(佞幸伝)。1-p.100*, 1-p.241** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻3「明帝紀」裴注引『魏略』:秦朗、諸侯の間を遨遊し、とがめ無し(佞幸伝)。1-p.100*, 1-p.241** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻9「曹真伝附曹爽伝」裴注引『魏略』:曹操は司空だった時、何晏(何進の孫)の母を納れ、子の何晏も引き取って養育した。当時、秦宜禄の子の阿蘇(秦朗)も曹操の家にいたが、二人とも実の子のように可愛がられた。1-p.292*, 2-p.196** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻3「明帝紀」裴注引『献帝伝』:曹操は呂布の下にいた秦宜禄の妻(関羽が妻にしたいと求めていた)を側室に入れ、その子の秦朗を宮中で養育し、たいそう可愛がった。1-p.100*, 1-p.240** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻36「関羽伝」裴注引『蜀記』:曹操が劉備とともに呂布を下邳において包囲したとき、関羽は曹操に「呂布は秦宜禄に救援を求めに行かせている。その妻を娶りたい」と言い、許可された。呂布が敗れると、また曹操に願い出た。曹操は彼女がさぞ美しいのだろうと思い、まず迎えに行かせて見て、そのまま手元に置いたので、関羽は心が落ち着かなかった。この記録は『魏氏春秋』と同じである。4-p.939*, 5-p.165** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻36「蜀書・張飛伝」:劉備が曹操に従って呂布を破り、許に帰還すると、曹操は張飛を中郎将に拝した。4-p.943*, 5-p.173** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻38「蜀書・麋竺伝」裴注:裴注引『曹公集』に、麋竺を嬴郡の太守に推薦する表を載せている。4-p.970*, 5-p.230** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻38「蜀書・麋竺伝」:(麋竺は東海の大金持ちで、劉備が呂布に妻子を捕虜に取られた際に救援した。)曹操は麋竺を嬴郡の太守とし、竺の弟の芳を彭城の相としたが、皆官を去って、劉備に従った。4-p.969*, 5-p.229** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻32「蜀書・先主伝」裴注引『英雄記』:建安三年、呂布は河内へ人を遣って馬を買おうとしたが、劉備の兵に盗まれた。呂布は中郎将高順と北地太守張遼らを遣って劉備を攻撃した。九月、呂布は沛城を破り、劉備は単身敗走し、呂布はその妻子を捕らえた。十月、曹操は自ら呂布を討伐しに出かけ、劉備と梁国界隈で出会ったので、かくして劉備は曹操とともに東征することとなった。4-p.874*, 5-p.032**