2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻36「関羽伝」裴注引『蜀記』:かつて劉備が許にいたとき、曹操とともに狩猟をしたことがあった。関羽は劉備に曹操を殺すように勧めたが、劉備は従わなかった。後に長江のあたりをさまようようになって、関羽は曹操を殺さなかったことで劉備をなじったが、劉備は、あの時は国家のために曹操を殺すことを惜しんだのだ。天道が正義を助けるなら、福となるかもしれない」と言った。4-p.940*, 5-p.168** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻32「蜀書・先主伝」:曹操は劉備を率いて沛に赴き、散った兵士たちを集めて食糧を与え、兵士を増やして呂布を攻撃させた。呂布は高順を遣ってこれを攻撃させ、曹操は夏侯惇を派遣したが救えず、高順に敗れて劉備の妻子を呂布のもとに送った。曹操は自ら東へ出征し、劉備が下邳に呂布を包囲するのを援護し、呂布を捕らえた。劉備は妻子を奪還し、曹操に従って許都に帰還した。4-p.874*, 5-p.031** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻22「陳羣伝」:(陳羣はもと劉備に仕えていた。劉備は呂布に敗れた。)呂布が敗北すると、曹操は陳羣を辟して司空西曹掾属とした。時に、曹操は誤った人材登用を行い、陳羣はこれを諌めたが、曹操は聞き入れなかった。後に彼らは果たして罪を犯し、曹操は陳羣に謝罪した。陳羣の薦めた人物たちを曹操は皆用いた。3-p.633*, 3-p.467** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻11「国淵伝」:曹操は屯田を広くおきたいと考え、国淵にその事を司らせた。国淵はしばしば損益を述べ、土地の具合をよく見て人民を住まわせ、人民の数を計算して官吏を置き、評価基準を明確にしたので、五年のうちに倉は豊かに満ち、人民は競って働き仕事を楽しんだ。2-p.339*, 2-p.310** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻11「袁渙伝」:新たに民を募集して屯田を開いたところだったが、民は楽しまず、逃亡するものが多かった。袁渙は曹操に、「そもそも民は土地に安んじるもので、急激に移動させるべきではない。人民の意向に沿ってやるべきで、希望する者だけを取り上げ、希望しないものには強要してはならない」と進言した。曹操はこれに従い、人民は大喜びした。2-p.334*, 2-p.300** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻11「袁渙伝」裴注引『袁氏世紀』:呂布が敗れると、陳羣父子も呂布軍内にいたが、皆曹操に会うと拝礼した。袁渙だけが対等の挨拶をしたので、曹操は彼に対して非常にかしこまった態度をとった。時に曹操は衆にそれぞれ官車数乗を支給し、呂布軍中の物資を好きなだけ取らせたが、衆人は皆車に満載する中、袁渙だけは書物数百巻と食糧を取っただけだった。衆人はこれを聞くと大いに恥じた。袁渙は親しい者に、こんなことで名を挙げるならたいへん残念だと語った。曹操はこの言葉によっていよいよ彼を重んじた。2-p.334*, 2-p.299** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻11「袁渙伝」:呂布に拘束されていた袁渙は、呂布が誅せられると曹操に帰属した。袁渙は曹操に、武力による平定の後の文治を説き、その見識を称賛した上で、曹操が人民を指導する立場に立てば天下は安泰であると言った。曹操はこの言葉に深く納得し、袁渙を沛南部都尉に任命した。2-p.333*, 2-p.298** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻1「武帝紀」:その初め、曹操が兗州を治めていた時、東平の畢諶を別駕とした。張邈が反すると、張邈は畢諶の母弟妻子を脅した。曹操は畢諶に、「君の老母があちらにいる。行ってよいぞ」と言い、畢諶は頓首して二心を抱かないと言い、曹操はこれを嘉し、ために涙を流した。だが、出て行ったきり、ついに帰ることはなかった。呂布が敗れると、畢諶は生け捕りとなった。衆は盧諶の為に懼れたが、曹操は、「そもそも人としてその親に孝である者は、どうして君主に対して忠でないことがあろう。私の求めるところだ」と言って、彼を魯相とした。1-p.16*, 1-p.039** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻17「張遼伝」:曹操が下邳で呂布を破ると、張遼はその衆を率いて投降し、中郎将に拝せられて、爵関内侯を賜った。2-p.517*, 3-p.212** 2020年12月08日 建安03年(198)44歳:巻7「呂布伝附陳登伝」裴注引『先賢行状』:陳登は、曹操軍が下邳に到着すると、下邳城内に弟たちがいるにも関わらず、郡兵を率いて先駆けをなした。呂布が殺されると、伏波将軍を加えられた。1-p.230*, 2-p.037**