2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻14「郭嘉伝」裴注引『傅子』:曹操は郭嘉に、「袁紹は広大な土地と強力な軍隊を持ち、しばしば不遜な行為に出ているから征伐したいが、力では太刀打ちできない、どうすればよいか」と問いかけた。郭嘉は言った。「……袁紹には失敗の種が十あり、公には勝利の種が十ある。袁紹は面倒な礼儀作法を好むが、公は自然であって、この点は道で勝っている。袁紹は天子に逆らうという行動をとるが、公は順がうという姿勢で天下を従え、この点は義で勝っている。漢末は寛により政治が失敗したが、袁紹は寛により寛を救おうとしてうまくいかないのに対して、公は猛によって正し、上下とも制度をわきまえており、この点は治で勝っている。袁紹は外面的には寛大だが内心は猜疑心が強く、人を用いるのに信用しきれず、信任しているのは親戚や子弟ばかりだが、公は外は簡略、内面は機敏明晰、人を用いるのに疑わず、ただ才能のみを問題としており、この点は度量において勝っている。袁紹は様々に謀を設けるが決断力に乏しく、時機を逸するが、公は策が得られればすぐに実行して臨機応変、これは謀において勝っている点だ。袁紹は歴代の資によって高尚な議論と謙虚な態度で名声を得、言論を好みうわべを飾る士人は多く彼に帰属したが、公は真心で人を待遇し、虚飾を廃してつつましい態度で下の者を率い、功績のある者には惜しげなく賞与を与えるので、忠正で遠くまで見通している実力のある士人はみな用いられたいと願っている。この点は徳において勝っている。袁紹は目の前のことにしか配慮をしない、いわば婦人の仁というものに過ぎないが、公は時に眼前のことをおろそかにすることはあるが、大事においては配慮が行き届き、これは仁の勝っている点だ。袁紹は讒言に惑わされるが、公はそのようなことはなく、これは聡明さにおいて勝っている点だ。袁紹は善悪の基準が明確でないが、公は正しいものを礼遇し、不正なものは法をもって処罰する、これは文において勝っている点だ。袁紹は虚勢を好むが、兵法の要を知らないのに対して、公は少数をもって多数に打ち勝ち、兵を用いること神の如くで、軍人はこれを頼りにし、敵はこれを畏れる。これは武において勝っている点だ」と。曹操は笑って言った。「君の言うことに、私はどのような徳をもって応えようか」と。郭嘉はまた言った。「袁紹は今、北に向かって公孫瓚を攻撃しているから、その遠征に乗じて、東に向かい呂布を討ち取るのがよい。まず呂布を討ち取らないと、もし袁紹が災いを起こし、呂布がその援助をしたら、これは深刻な被害となる」と。曹操は、「そのとおりだ」と言った。2-p.432*, 3-p.024** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻10「荀彧伝」:荀彧が、まず呂布を征伐した上で、河北のこと(袁紹討伐)を図るよう言うと、曹操は同意した上で、袁紹が関中に侵入して羌・胡を撹乱し、南の蜀漢に誘いをかける可能性への憂慮を示して助言を求めた。荀彧は、関中の諸将のうち、勢力の大きい韓遂・馬超を恩徳で手なずけ、使者を派遣して同盟することを勧め、西方の事を任せられる者として鍾繇を推薦した。2-p.313*, 2-p.246** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻10「荀彧伝」:曹操が天子を迎えてから、袁紹は内心不服だった。袁紹は既に河北を併合し、天下はその勢力を恐れていた。曹操はちょうど東に呂布を憂慮し、南は張繍に対抗し、宛で張繍軍に敗れた。袁紹から失礼な書簡を受け取った曹操は、立ち居振舞いが異常になるほど立腹した。衆はみな、張繍に負けたためだろうと考えたが、このことを鍾繇に問われた荀彧は、「公は聡明な人だから、過去のことを悔やんだりはしない。たぶん他の理由があるのだろう」と答え、すぐに曹操に会ってわけをたずねた。曹操は袁紹からの書簡を荀彧に見せ、「討伐しようとしても力がかなわない、どうすればいいだろう」と相談した。荀彧は、「昔から本当に才能があれば、弱くてもきっと強くなる、その地位にふさわしい人物でなければ、強くても簡単に弱くなる。これは劉邦・項羽の抗争を見てもわかるところだ。今、公と天下を争っているのは袁紹だけだ。彼は、外貌は寛大そうだが内心は猜疑心が強く、人に任せながらその心を疑う。公は聡明闊達でこだわりがなく、ただ適所適材のみを心がけている。これは度量において優れている点だ。袁紹は決断力がなく、チャンスを逃すが、公は大事に対してよく判断し、臨機応変だ。これは謀略において優れている点だ。袁紹は軍の統制がゆるく、法令が確立していないので、士卒は多くても実際には用いにくい状態だが、公は法令が十分に明らかな上に賞罰が必ず行われるので、士卒は少なくても、みな命を投げ出す覚悟で戦う。これは武力において勝っている点だ。袁紹は先祖から受け継いだ資産に依拠して、鷹揚に知恵者ぶって名声を集め、だから士人の能力に乏しい浮ついた者たちは彼に帰属しているが、公は至仁をもって人を待遇し、誠心誠意尽くしてうわべを取り繕うことはなく、自己に対しては倹約謹厳なのに、功績を挙げた者に対しては物惜しみしない。だから天下の実務能力のある忠誠の士はみな公に用いられたいと願っている。これは徳において勝っている点だ。そもそもこの四つの優位に加えて天子を擁し、正義を守るために征伐するのだから、誰が従わないでいられよう。袁紹の勢力など、なんということはない」と答えた。曹操は満足した。2-p.313*, 2-p.246** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻18「典韋伝」:曹操が荊州を征伐して宛まで来たとき、張繍が降伏して出迎えた。曹操は非常に喜び、張繍のために宴席を設けた。典韋は斧を持って、酒をついで回る曹操の後に控えた。十日余りの後、張繍が反すると、命をかけて戦い、死んだ。退却していた曹操は、典韋の死を聞くと、涙を流し、その遺体を盗み取ってくる者を募集し、自ら哭して手厚く葬り、子の満を郎中に拝し、後に司馬に拝して身近に引き留めておいた。2-p.544*, 3-p.264** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻17「于禁伝」:曹操が張繍に敗れた時、軍は乱れ、諸将は間道を行って曹操を探したが、于禁だけは率いている数百人を指揮して戦いながら退却し、死傷者があったが離反はしなかった。同じく曹操に属している青州兵の略奪を知ると、彼らを討伐し、その罪を責め立てた。青州兵は曹操に訴えたが、于禁は賊軍の追撃への備えをした上で、おもむろに曹操に具申した。曹操は喜び、前後の功績を録して、于禁を益寿亭侯に封じた。2-p.522*, 3-p.222** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻5「后妃伝(卞皇后)」:丁夫人が廃せられ、卞氏が継室となる。諸子の母無き者たちは皆、曹操の令により、卞氏が養育することになった。1-p.156*, 1-p.373** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻5「后妃伝(卞皇后)」裴注引『魏略』:丁夫人は、早世した劉夫人の子である曹昂を養育していたが、昂が亡くなって曹操を詰る。曹操は丁夫人を実家に帰し、折れるのを待ったが、夫人は曹操を許さず、ついに離縁した。1-p.156*, 1-p.374** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻8「張繍伝」裴注引『呉書』:張繍は賈詡の計を用い、大道に向うのに曹操の駐屯地を経由したい、車が少ないのに荷物が重いので、兵士たちに甲をつけさせたい、と申し出る。曹操は信用して全て許した。かくして張繍軍は曹操を急襲し、備えていなかった曹操は敗れた。1-p.263*, 2-p.124** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻8「張繍伝」裴注引『傅子』:張繍の側近に、武勇に優れた胡車児なる者があり、曹操はその勇敢さを愛して手ずから金を与えた。張繍はこれを聞いて、自分を側近に殺させるのではないかと疑い、ついに反した。1-p.263*, 2-p.123** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻8「張繍伝」:曹操が南征して淯水に陣取ったとき張繍は投降したが、曹操が張繍のおじの張済の妻を納れたことを怨む。曹操はこれを聞いてひそかに張繍を殺そうとしたが、計略が漏れ、張繍は曹操を急襲。曹操は敗れ、曹昂、曹安民の二子を失った。1-p.262*, 2-p.123**