2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻10「賈詡伝」:(賈詡は段煨の下から張繍の下に移った人。張繍に劉表との同盟を進言。)曹操は張繍征伐に赴いて突然撤退、張繍はこれを追撃し、賈詡の制止に従わず大敗を喫した。その後、賈詡は再び追撃するよう進言し、これに従った張繍は勝利した。賈詡は張繍にその戦局が読めた理由を聞かれて、「……あなたは兵を用いるのがうまいとはいえ、曹公にはかなわない。……曹公はあなたを攻める上で失策があったわけではないのに、力が尽きる前に撤退した、これはきっと国内に異変が生じたに違いない。……」と答え、張繍は感服した。1-p.329*, 2-p.286** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻1「武帝紀」裴注引『世語』:古い制度では、三公が兵を率いて参内する時は、みな(近衛兵が)戟を交差させ、頸を挟んで進ませた。初め、曹操が張繍を討伐しようとして天子に参内した時、この制度が復活した。曹操はこれより以降、二度と朝見しなかった。1-p.15*, 1-p.036** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻1「武帝紀」:曹操は舞陰まで退却、張繍が騎兵を率いて荒らしにきたので、曹操はこれを撃破した。張繍は穣(荊州)に走り、劉表と連合した。曹操は諸将に、「私は張繍らを降しながら、すぐにその人質を取らなかったために、このようなことになった。私には敗れた原因がわかっている。諸卿よ見ておれ、今後は二度と敗れないから」と言い、許に帰還した。1-p.14*, 1-p.035** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻1「武帝紀」裴注引『世語』:曹昂は馬に乗ることができなくなり、曹操に馬を差し出した。曹操はそのために逃げおおせたが、昂は殺害された。1-p.15*, 1-p.036** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:曹操の乗った馬の名は絶影という名だったが、流れ矢で頬と足に傷を負い、曹操の右肘にも当った。1-p.15*, 1-p.036** 2020年12月08日 建安02年(197)43歳:巻1「武帝紀」:前年、関中から南陽に敗走した張済(董卓の将)が死に、甥の張繍が継いだ。建安二年正月、曹操が宛(南陽)へ到着すると、張繍は一旦は降伏するが後悔し、再び反す。曹操はこれと戦って敗れ、流れ矢に当たり、長子の曹昂、弟の子の曹安民は害に遇った。1-p.14*, 1-p.035** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻29「方技伝(華佗)」:華佗の評判を聞きつけて、曹操は華佗を召しだし、華佗は常に曹操の左右に侍した。曹操は頭痛に苦しみ、発作が出ると、心拍は乱れ目は眩んだが、華佗が横隔膜に針を打つとすぐに収まった。……華佗はもと士人であったから、医者としてしか見られないことに不満を持っていた。後に曹操が重病になったとき、もっぱら華佗にのみ診せた。華佗が妻が病気だと偽って郷里に帰ると、曹操は様々な手段で呼び戻そうとしたが華佗は応じなかった。曹操は華佗を捕らえて投獄した。荀彧は彼のために命乞いをしたが、曹操は華佗を殺した。華佗の死後、曹操の頭痛はまだ治っていなかったが、曹操は、「華佗はこれを治せたはずだ。あいつは我が病を養って自分を尊重させようとしていたのだ。だからあいつを殺さなかったとしても我が病を根絶させてはくれなかったに違いない」と言った。3-p.802*, 4-p.327** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻21「劉昭伝」裴注引繆襲「仲長統昌言表」:漢帝が許都に在りし時、尚書令荀彧は枢機を司っていたが、優れた人材を非常に愛した。仲長統の名声を聞くと、召して尚書郎とするように上聞した。仲長統は後に曹操の軍事に参画したが、再び郎に復した。3-p.620*, 3-p.438** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻21「王粲伝」裴注:裴松之のコメントに、魚豢『典略』や摯虞『文章志』によると、阮瑀は建安の初め、病気と称して曹洪に屈しなかったが、曹操が召し出すとすぐに応じている。また、曹操が長安を征伐した時期と阮瑀の足跡についても矛盾がある、と。3-p.600*, 3-p.391** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻21「王粲伝」裴注引『文士伝』:曹操は阮瑀の名声を聞いてこれを辟したが、阮瑀は応じないで山に逃亡した。曹操は山を焼いて阮瑀を捕らえ召し入れた。曹操は時に長安を征伐し大いに賓客をもてなしていたが、阮瑀が口をきかないのに怒り、技人の列に入れた。阮瑀は音楽に秀でており、絃をつまびきながら五言の歌を作った。曹操は大いに満足した。3-p.600*, 3-p.390**