2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻1「武帝紀」裴注引『曹瞞伝』:曹操は洛陽北部尉の役所を改めて修理し、昔よりも立派にさせた。1-p.52*, 1-p.115** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻1「武帝紀」:冬十月、軍は洛陽に帰還した。1-p.52*, 1-p.115** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻32「蜀書・先主伝」:秋、群臣は漢帝に上表して先主(劉備)を漢中王に推薦した。先主は漢帝に上言して、漢中王に命じられることを受けた。その中で、群臣も先主もともに、かつて董承とともに曹操を討伐しようと図ったことを明言している。4-p.884*, 5-p.054** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻28「毌丘倹伝」裴注引『魏書』:文欽は、譙郡の人、父の稷は建安中に騎将となり勇名を馳せた。欽は若い頃から名将の子として名声が高かったが、魏諷が反すると、連座して獄に下され、死刑に相当したが、曹操は文稷のゆえに彼を赦した。3-p.768*, 4-p.252** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻23「楊俊伝」:曹操が漢中に出征していた時、魏諷が鄴において反した。楊俊は自らを弾劾し、行在所に赴いて太子に別れを告げた。3-p.663*, 4-p.028** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻22「陳羣伝」:劉廙は、魏諷と謀反を起こした弟に連座して、誅せられるはずであったが、陳羣が曹操に取り成し、曹操も「劉廙は名臣であるから、私も彼を許したいのだ」と言い、かくして劉廙はもとの地位に復した。3-p.637*, 3-p.476** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻21「劉廙伝」裴注引『劉廙別伝』:劉廙は曹操に治道について上疏した。曹操はそれを非常に高く評価した。3-p.617*, 3-p.431** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻12「徐奕伝」:曹操が漢中を征伐し、魏諷らが謀反を起こして中尉の楊俊が左遷された時、曹操は、自分に爪や牙となるべき臣がいなかったためだとし、楊俊に代わるべき人物を求めたところ、桓階が徐奕を推薦した。そこで曹操は徐奕を中尉とし、自ら令を作って励ました。在職数ヶ月で疾の篤きをもって退職を乞い、諌議大夫に拝せられ、卒した。2-p.378*, 2-p.414** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻21「劉廙伝」:魏諷が反した時、劉廙の弟が魏諷と関係があったので、当然劉廙も連座して誅されるべきであったが、曹操は令を出し、古制を持ち出して彼を不問に付した。劉廙は上疏して謝礼を述べた。3-p.616*, 3-p.428** 2020年12月08日 建安24年(21965歳:巻21「王粲伝」裴注引『文章志』:(王粲の子は、魏諷の反逆に引っぱられたために殺された。)時に曹操は漢中を征伐していたが、王粲の子の亡くなったことを聞くと、「もし私がいれば、王粲に跡継ぎが無いようなことにはさせなかったのに」と嘆息した。3-p.599*, 3-p.388**