2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻18「李通伝」:(李通は、侠気でもって江・汝の間に聞こえていた人物。)建安の初め、衆を挙げて曹操を許に訪ね、振威中郎将に拝せられ、汝南の西の境界に駐屯した。2-p.535*, 3-p.245** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻32「蜀書・先主伝」:呂布に攻められた劉備は、敗走して曹操のもとに帰属した。曹操はこれを厚遇し、豫州牧とした。4-p.874*, 5-031** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻14「郭嘉伝」裴注引『傅子』::劉備が投降してきた時、曹操は手厚く接待し、豫州牧とした。郭嘉は曹操に、「劉備は英雄の才を持ち甚だ衆人の心を掌握している。張飛・関羽はいずれも万人の敵だ。劉備は最終的には人の下にいるような人間ではなく、その計略は予測がつかない。古人は「一日敵を放置すれば、数代の災いとなる」と言っている。早く始末するのがよい」と言った。この時、曹操は天子を奉戴して天下に号令をし、英雄を招いて大いなる信義を明らかにしようとしていたところだったので、郭嘉の謀略に従うことはできなかった。曹操が劉備を使って袁術を攻撃しようとした時に、郭嘉は程昱とともに曹操を諌めたが、この時すでに劉備は去っており、後に挙兵して反乱を起こした。曹操は郭嘉の言葉を用いることができなかったのを悔やんだ。2-p.433*, 3-p.028** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻14「郭嘉伝」裴注引『魏書』:逃亡してきた劉備を豫州牧とした。ある人が曹操に、「劉備は英雄の志を持っているから、今早めに事を図らないと後できっと災いとなるだろう」と言った。曹操が郭嘉に問いかけると、郭嘉は、「たしかに。だが公は義兵を起こして百姓のために暴を除いている。誠意をもって俊傑を招いてもまだ不十分である。今、英雄の誉れ高い劉備が自分を頼ってきているのに、これを殺したとなると、賢者を殺したという評判が立つ。そうすれば、智恵のある士人たちは疑いをもって別の君主を選ぶだろう。そうすれば公は誰とともに天下を平定するのか……」と答えた。曹操は、「君はこのことがよくわかっているな」と笑った。2-p.433*, 3-p.027** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻1「武帝紀」:呂布が劉備を襲って下邳を取り、劉備は曹操の下に来た。程昱は「劉備は雄才を持ち、甚だ人心を掌握しており、最終的には人の下にいるような人間ではない。早くこれを始末したほうがよい」と進言したが、曹操は「今は英雄を収攬する時だ。一人を殺して天下の心を失ってはならない」と退けた。1-p.14*, 1-p.035** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻32「蜀書・先主伝」:袁術が劉備を攻め、劉備はこれを盱眙・淮陰に破った。曹操は劉備を表して鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じた。4-p.873*, 5-p.030** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻7「呂布伝附陳登伝」裴注引『先賢行状』:広陵太守となった陳登は、海賊らも手なずけ、彼らを使えると見た。1-p.230*, 2-p.036** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻7「呂布伝附張邈伝」:曹操は(呂布を殺すべきだという)陳登の進言を歓迎し、陳珪の扶持を増やし、陳登を広陵太守に拝して、内通を依頼した。1-p.224*, 2-p.022** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻7「呂布伝附張邈伝」:沛相の陳珪は、袁術と姻戚関係を結ぼうとした呂布に対して、曹操に従うべきだと説得し、また子の陳登を曹操のもとに派遣し、呂布を始末すべきを進言した。1-p.224*, 2-p.021** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻16「倉慈伝」:倉慈は淮南の人。郡吏であった。建安中、曹操は淮南に屯田を開いた時、慈を綏集都尉とした。2-p.512*, 3-p.204**