2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻16「杜畿伝」:杜畿、孝廉に挙げられ、漢中府の丞に除せられたが、天下騒乱により、官を捨てて荊州に客たり、建安中になって帰還した。荀彧は彼を曹操に推薦し、曹操は杜畿を司空司直とした。後に、羌校尉に遷り、西平太守となった。(裴注引『傅子』:杜畿は荊州から戻り、後に許へ至って、侍中の耿紀と会い、終夜語り合う。尚書令の荀彧、これを聞き、杜畿を高く評価して朝廷に推薦した、と。)2-p.494*, 3-p.163** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻15「賈逵伝」裴注引『魏略』:曹操が輔政するようになると、楊沛を長社の令に転任させた。時に、曹洪の賓客で法律どおりに税を納めようとしない者がいたが、沛は彼に厳しく対処し、ついに殺してしまった。曹操はこれをもって沛を有能とみなした。2-p.486*, 3-p.149** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻15「張既伝」:張既(本伝裴注引『魏略』によると、世々単家であった、と。)は、曹操が司空となって召しだされたが、至らぬうちに茂才に挙げられて新豊の令となり、三輔を治めて第一であった。2-p.471*, 3-p.116** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻15「梁習伝」:初め、済陰の王思は梁習とともに西曹令史となり、当直の日を利用して意見を述べた。曹操はたいそう怒って処罰しようとしたが、王思は外出中で、梁習が代わりに応対して捕えられた。王思は自ら出頭して陳謝した。曹操は梁習と王思を賞嘆し、義士と讃えた。後に同時に刺史に抜擢した。2-p.470*, 3-p.112** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻15「梁習伝」:梁習は、司空となった曹操に召し出されて漳の長となり、その後、乗氏・海西・下邳の令となってよく治めた。また戻って西曹令史となり、属に遷った。2-p.469*, 3-p.109** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻15「司馬朗伝」:曹操は司馬朗を召し出して司空掾属とし、成皋令に除したが、病のため去り、また堂陽の長となる。(本伝にいう「年二十二」に従えば192年となり、前後の記述に合わない。今、かりに曹操が司空となった196年に繋年しておく。)2-p.467*, 3-p.106** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻15「劉馥伝」:(劉馥は沛国の人。乱を逃れて揚州にいた。)建安の初め、袁術の将軍だった戚寄・秦翊を説得して、衆を引き連れ曹操の下へ帰順させた。曹操は喜んで、司徒から劉馥を辟して掾とした。2-p.463*, 3-p.097** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻14「程昱伝」:天子が許に都を置くと、程昱を尚書とした。兗州がまだ安定しないので、程昱を東中郎将とし、済陰太守とし、兗州一帯のことを監督させた。2-p.428*, 3-p.017** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻13「王朗伝」裴注引『魏略』:建安の初めになって、国家の大綱が少しく設けられ、郡は董遇を孝廉に挙げ、しばらくして黄門侍郎に遷った。この時、漢帝は政治を曹操に委ねていたが、遇は朝夕に皇帝に侍講し、天子に愛され信頼された。2-p.420*, 2-p.513** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻13「王朗伝」裴注引『王朗家伝』:王朗が若い頃交際していた劉陽は、漢王室が衰退していく一方、曹操が武勇の才を持っているために漢王室の禍となるのではないかと憂慮し、そこで努めて曹操の勢力を排除しようとしたがうまくいかなかった。曹操は貴顕の地位に就くと、彼の子を捕らえようとした。王朗は、逃げ場のなくなった劉陽の子を長年匿い、会稽から帰還して以降は、何度も曹操に申し開きをしてやったので、劉家は無事だった。2-p.408*, 2-p.487**