2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻12「崔琰伝」裴注引張璠『漢紀』:天子が許に都を置いてすぐの時、孔融は古代の制度に基づいた上奏を行った。当時は曹操と袁紹とどちらが覇権を握るかわからない頃だったが、孔融の上奏の内容は、時代の情勢を知らないものだった。また、孔融は曹操に古馴染みということでなれなれしく馬鹿にした態度で接した。曹操が禁酒法を制定した時も、孔融は書簡を送り、これを嘲笑した。曹操は外面では寛容な様子を見せたが、内心では我慢がならなかった。御史大夫の郗慮は、そうした曹操の気持ちを察して、法律で孔融を免職にした。2-p.372*, 2-p.400** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻11「王脩伝」裴注引『魏略』:曹操は司空となって、日に日に勢力が大きくなっていったが、孔融はことさらに昔のような態度をとり、書簡も非常に高慢な書きぶりだった。脂習はいつも孔融を責め、態度を改めるように忠告したが、孔融は従わなかった。2-p.349*, 2-p.335** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻9「曹仁伝」:曹操が天子を許に迎えると、曹仁を数々の功績により広陽太守に拝した。曹操はその勇気と計略を認め、郡に赴かせず、議郎のまま騎兵を監督させた。1-p.274*, 2-p.153** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻6「董卓伝」:曹操が天子を許に迎えると、韓暹・楊奉ら天子を連れまわしていた連中は王法を奉ることができなくなって出奔し、徐州・揚州の間を荒らしまわったが、劉備に殺された。1-p.187*, 1-p.445** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻14「郭嘉伝」:(郭嘉、初め袁紹に見え、その謀臣の辛評・郭図に、「袁紹は、周公の士人にへりくだるのを真似しようとしているが、人を用いる機微を知らない、いろいろとするが肝心なところがだめだ、謀略を好むが決断力が無い。ともに天下の大難を救い、覇業を成し遂げようとしても、難しい」と言い、かくしてそこを立ち去った。)潁川の戯志才を曹操は大変買っていたが、早くに亡くなってしまった。曹操は荀彧に書簡を送り、「戯志才亡き後、共にことを計る者がいなくなった。汝・潁はもとより奇士が多いらしいが、誰が彼の後を継ぐことができるだろうか」と問うと、荀彧は郭嘉を推薦した。曹操は彼を召してともに天下のことを議論した。曹操は、「私に大業を完成させるのはきっとこの人だ」と言い、郭嘉も退出すると喜んで「真の我が君主だ」と言った。表せられて司空の軍祭酒となった。2-p.431*, 3-p.024** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻10「荀攸伝」:曹操が天子を迎えて許に都を置くと、(荊州にいた)荀攸に書簡を送り、「今まさに天下は大いに乱れようとし、智士が心を労する時である。それなのに蜀漢の地で変化を観察してもうだいぶ久しいではないか」と。そこで荀攸を徴して汝南太守とし、朝廷に入れて尚書とした。曹操はもとより荀攸の名を聞いていたので、彼と共に語って大いに喜び、荀彧や鍾繇に、「彼は非常の人だ。私は彼と共に事を計ることができれば、天下に何の憂えることがあろうか」と言い、軍師とした。2-p.322*, 2-p.271** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻10「荀彧伝」:曹操、荀彧に「君に代わって私のために謀のできる人物は誰か」と問うと、荀彧、荀攸・鍾繇を挙げた。これより前、策謀の士として戯志才を進めたが、亡くなったので、郭嘉を進めた。曹操は、荀彧のことを、人をよく知っていると見た。彼が進めた人物たちは、みなその職に適った仕事をした。ただ、揚州の長官となった厳象、涼州の長官となった韋康は、戦いに敗れて亡くなった。2-p.311*, 2-p.241** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻17「徐晃伝」:徐晃は初め、楊奉に従っていた。李傕・郭汜らが長安で暴れていたとき、楊奉に、天子と共に洛陽に戻るよう勧めた。洛陽では、韓暹・董承が争っていた。徐晃は楊奉に、曹操に帰順するよう勧めた。楊奉は従おうとして後に悔い、梁で曹操に討伐された。徐晃はかくして曹操に帰順することとなった。2-p.527*, 3-p.232** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻6「袁紹伝」裴注引『献帝春秋』:袁紹は地位が曹操の下にあるのを恥とし、「曹操は何度も死にそうな目にあって、そのたびに自分が助けてやった。それなのに今になって恩に背き、天子を挟んで私に命令するとは」と怒った。曹操はこれを聞いて、大将軍の位を袁紹に譲った。1-p.195*, 1-p.464** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻6「袁紹伝」:袁紹は初め天子を迎える意思はなかった。曹操が天子を許に迎え、河南の地を収め、関中がみなこれに付いたのを見て、悔やみ、曹操に天子を鄄城に移すよう求めたが、曹操はこれを拒否した。1-p.194*, 1-p.462**