2020年 一覧情報 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻26「満寵伝」:曹操が大将軍となると、満寵を辟して西曹属とし、許の令とした。その頃、曹洪は曹氏一族ということで羽振りがよく、その賓客がしばしば法を犯したので、満寵がそれを捕らえた。曹洪は書簡を送って内々の意向を伝えたが、寵は聞き入れなかったので、洪は曹操に話をした。満寵は曹操に召しだされたので、赦すように求められるのだと思い、すぐさま罪人を殺した。曹操は「事にはこのようにあたるべきではないか」と喜んだ。3-p.721*, 4-p.155** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻1「武帝紀」:天子が東へ向かうと、楊奉は梁からこれを遮ろうとしたが、間に合わず。冬十月、曹操は楊奉を征伐、楊奉は南のかた袁術に走ったが、曹操はその梁の駐屯地を攻めて陥落させた。ときに袁紹は大尉に任命されたが、曹操の配下となるのを恥として受けず、曹操は大将軍の地位を袁紹に譲った。天子は曹操を司空に拝し、行車騎将軍とした。1-p.14*, 1-p.034** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻1「武帝紀」裴注引張璠『漢紀』:初め、天子が曹陽で敗れたとき、侍中太史令の王立は、天体の動きから向かう先を進言した。王立はまた宗正の劉艾に、天体の動きから漢の命運が尽きること、晋・魏に興隆する者が出てくるであろうことを予言。王立は後にしばしば帝に、五行説によって漢を継承する者は魏だとし、曹氏への委任を進言した。曹操はこれを聞くと、人を遣って王立に多言しないことを願い出た。1-p.13*, 1-p.033** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻1「武帝紀」:洛陽は破壊されていたので、董昭らは曹操に、許に都を置くように勧めた。九月、天子の車は轘轅を出て東へ向い、曹操を大将軍とし、武平侯に封じた。天子が西に遷ってから朝廷は日増しに乱れていたが、ここに至って宗廟・社稷・制度がやっと確立した。1-p.13*, 1-p.033** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻1「武帝紀」裴注引『献帝紀』:洛陽で、曹操は天子から司隷校尉にも任命された。1-p.13*, 1-p.033** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻1「武帝紀」裴注引『献帝春秋』:天子が洛陽に到着してすぐ、城西の故中常侍趙忠の屋敷に宿泊した。張楊に宮室を修理させ、揚安殿と名づけた。八月、天子は住まいを移した。1-p.13*, 1-p.033** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻14「董昭伝」:曹操は洛陽で天子に朝見したとき、董昭を引き入れ、並んで坐り、「今私はここへ来て、どのような計を施すべきだろうか」と問うた。董昭は、「将軍は義兵を起こして暴乱を誅し、天子に朝見して王室を補佐した。これは五伯の功績である。ここにいる諸将は様々で、未だ服従してはいないので、今ここに留まって朝廷を補佐するのは都合が悪い。天子の車を許都に移すしかない。だが、朝廷は旧都に戻ったばかりで、遠きも近きも朝廷の安定を望んでいる。今また天子の車を移すと衆心を抑えられない。そもそも非常の事を行ってこそ、非常の功績も挙げられる。将軍にはその利をよく計算されるように」と言った。曹操、「これは私の本懐だ。楊奉が近く梁にいるが、その兵は精鋭だと聞いている。私を煩わせないだろうか」と。董昭、「楊奉は味方が少なく、ひとりで降伏してきた。将軍を鎮東将軍・費亭侯としたのは、みな楊奉がお膳立てしたことだし、また書信による約束は信頼を表すに足ると聞いている。折を見て使者を遣わし、丁重に答礼をし、その気持ちを落ち着かせてから、天子を許へ移すよう説けばよい。楊奉は勇猛だが思慮が足りないので疑われることはない。……」と。曹操はその策を善しとし、すぐに実行に移した。楊奉はこれにより望みを失い、韓暹らと定陵へ行って暴れまわったが曹操は相手にせず、ひそかにその梁の陣営に行って、降伏するもの、誅するものをすぐに定めた。楊奉・韓暹は袁術に降った。2-p.437*, 3-p.038** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻14「董昭伝」:天子が洛陽に戻った頃、韓暹・楊奉・董承・張楊らは反目しあっていた。董昭は楊奉の兵馬が最も強力でありながら味方が少ないことを見て、曹操のために楊奉に宛てて書簡を書き送り、楊奉と協力して朝廷を補佐しようと持ち掛けた。楊奉は喜んで諸将とともに上表して曹操を鎮東将軍とし、父の爵位を襲って費亭侯とし、董昭を符節令に昇進させた。2-p.437*, 3-p.037** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻17「于禁伝」:黄巾の黄邵らが曹操の陣営に夜襲を仕掛けてきた時、于禁は直属の兵を率いてこれを撃退し、黄邵を斬り、敵陣の衆を尽く降伏させた。それにより、平虜将軍に昇進した。2-p.522*, 3-p.222** 2020年12月08日 建安01年(196)42歳:巻1「武帝紀」:汝南・潁川の黄巾、何儀・劉辟・黄邵・何曼ら、衆はそれぞれ数万、初めは袁術に応じ、また孫堅にも附く。二月、曹操は進軍してこれを破り、辟・邵らを斬り、儀及びその衆はみな降伏した。天子は曹操を建徳将軍に拝し、夏六月、鎮東将軍に昇任させ、費亭侯に封じた。秋七月、楊奉・韓暹は天子を洛陽に戻し、奉は別に梁に駐屯。曹操はかくして洛陽へ至り、都を警備し、韓暹は遁走した。天子は曹操に節鉞を貸し与え、録尚書事とした。1-p.13*, 1-p.032**