2020年 一覧情報 2020年12月08日 興平02年(195)41歳:巻7「臧洪伝」裴注引徐衆『三国評』:臧洪が昔の主君を救援しようとしたとき、袁紹と曹操は友好関係を結び、王室を補佐していたが、呂布は反逆を企てていた。呂布を徐州の牧に立てた張邈・張超は王法において同じ罪人だ。曹操はこれを討伐し、袁紹は救援しなかった。理にもとるわけではない。1-p.237*, 2-p.054** 2020年12月08日 興平02年(195)41歳:巻7「臧洪伝」:曹操が張超を雍丘に包囲したとき、張超は臧洪の救援を期待したが、衆人は袁紹・曹操は友好関係にあり、袁紹に取り立てられた臧洪は来るはずがないと考えた。臧洪は張超を救援するため袁紹に支援を求めたが許されなかった。1-p.233*, 2-p.043** 2020年12月08日 興平02年(195)41歳:巻1「武帝紀」:呂布は夜に乗じて遁走し、曹操は再び攻撃を仕掛けて、定陶を陥落させ、兵を分割して兗州諸県を平定した。呂布は東の劉備の下へ走った。張邈は呂布に従い、弟張超には家族を率いて陳留の雍丘を守らせた。秋八月、(曹操は)雍丘を包囲。冬十月、天子は曹操を兗州牧に拝す。十二月、雍丘が潰れ、張超は自殺。(曹操は)張邈の三族(父母・兄弟・妻子)を処刑した。張邈が袁術に救いを求めたが、その衆に殺され、兗州は平らぎ、かくして東方の陳の地まで攻略した。1-p.12*, 1-p.031** 2020年12月08日 興平02年(195)41歳:巻1「武帝紀」裴注引『魏書』:ときに兵士たちは皆麦を取りに出かけており、残っている者は千人にも満たず、陣営は手薄だった。曹操はそこで婦人たちに陣営を守らせ、兵を挙げて防衛した。駐屯地の西に大きな堤があって、その南には樹木が鬱蒼と茂っていた。呂布はそこに伏兵が潜んでいるのではないかと疑い、「曹操にはたくらみが多いから、中に入るまいぞ」と言い合い、軍を率いて南十余里のところに駐屯した。翌日再びやって来たが、曹操は兵を堤のうちに隠し、半分の兵を堤の外に出した。呂布が益々進んできたので、そこで軽装の兵に戦いを挑ませ、合戦となってから、伏兵がみな堤の上に登り、歩兵・騎兵が一斉に出撃して打ち破り、その鼓車(陣太鼓を載せた車)を獲得、陣営まで追撃して帰還した。1-p.12*, 1-p.032** 2020年12月08日 興平02年(195)41歳:巻1「武帝紀」:春、曹操は定陶を襲撃す。済陰太守の呉資がその南城に立てこもって未だ陥落しないうちに、ちょうど呂布がやって来たので、またこれを攻撃して破った。夏、呂布の将の薛蘭・李封が鉅野に駐屯していたのを攻撃し、呂布は薛蘭を救援したが、敗れて敗走、かくして蘭らを斬る。呂布は再び東緡から陳宮とともに万余人を引き連れて戦いを挑んできた。時に曹操の兵は少なかったが、伏兵を設け、奇襲作戦をしかけて圧勝した。1-p.12*, 1-p.031** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻18「典韋伝」:典韋は、張邈が挙兵した時、その司馬の趙寵の軍に属し、後に夏侯惇の軍に属して功績を上げた武勇の人。曹操が濮陽で呂布を伐つ時、曹操の軍に加わって敵陣を撃退した。曹操は典韋を都尉に任命し、身辺に留め置いた。たいへんな大食漢で、曹操はそれを見て壮とした。2-p.544*, 3-p.262** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻17「徐晃伝」:初め、清河の朱霊は袁紹の将軍だった。曹操が陶謙を討伐した時、袁紹の命により曹操を助けて軍功をあげた。袁紹の派遣した将軍たちは戻ったが、朱霊は曹操を真の明主だとして、曹操のもとに留まった。率いていた士卒らも朱霊に従って留まった。2-p.530*, 3-p.237** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻10「荀彧伝」:陶謙が死んで、曹操はまず徐州を手に入れてから呂布を平定しようとした。これに対して荀彧は、漢の高祖や後漢の光武帝などの例を挙げながら、まず民が帰順している兗州という基盤を固めるべきことを述べ、先に徐州へ向うべきではないことを進言したので、曹操は徐州進軍を止めた。2-p.309*, 2-p.237** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻1「武帝紀」:この年、穀物は一斛が五十余万銭にもなり、人が相食む情況となったので、新たに兵吏を募集するのは取りやめた。陶謙が死亡し、劉備がこれに代わった。1-p.12*, 1-p.031** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻18「李典伝」裴注引『魏書』:李典は少くして学問を好んで兵事を楽しまず、師に就いて『春秋左氏伝』を読み、群書を博覧した。曹操はこれを善しとし、治民の政治を試みさせた。2-p.533*, 3-p.241**