2020年 一覧情報 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻18「李典伝」:李典は初め、その父乾と賓客数千を合して乗氏に家を構えていたが、その後曹操に従った。呂布の乱の時、曹操は李乾を乗氏に帰らせ、諸県を慰労させた。乾は呂布の部下の薛蘭・李封に謀反を持ちかけられたがこれを拒否、殺される。曹操は乾の子の整に乾の兵を率いさせて諸将と薛蘭・李封を撃たせた。整が卒して後、李典がその軍を引き継いだ。2-p.533*, 3-p.241** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻22「衛臻伝」:夏侯惇が陳留太守となって、衛臻は計吏に挙げ用いられ、夫人に宴席に出るように命じられて「末世の風俗であって、正しい礼にもとっている」とした。夏侯惇は怒って臻を捕らえたが、しばらくして釈放した。臻は後に漢の黄門侍郎になった。3-p.647*, 3-p.496** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻9「夏侯惇伝」:夏侯惇、曹操の呂布征伐に従って、流れ矢に当たり、左眼を負傷。陳留・済陰太守を領し、建武将軍を加えられ、高安郷侯に報ぜられる。1-p.268*, 2-p.139** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻1「武帝紀」:秋九月、曹操は鄄城へ帰還した。呂布は乗氏に到着して、その県人の李進に破られ、山陽に駐屯した。そこで袁紹は人を遣わして曹操に説き、連合しようとした。曹操は兗州を失ったばかりで、軍の食糧も尽きたので、これを受け入れようとしたが、程昱の助言によりこれを思いとどまった。冬十月、曹操は東阿へ至った。1-p.12*, 1-p.031** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻14「程昱伝」裴注引『魏書』:程昱は、若い頃よく夢に泰山に登り、両手で日を捧げていた。彼はこれを不思議がり、荀彧に話した。兗州が反乱を起こし、程昱によって三城が守られた時、荀彧は程昱の夢を曹操に語って聞かせた。曹操は程昱に、お前は終生私の腹心となるだろうと言った。程昱は本名を立と称したが、曹操はその上に日を付け、名を昱と改めた。2-p.427*, 3-p.015** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻14「程昱伝」裴注引徐衆『(三国)評』:(程昱が説得した靳允は、呂布に母や弟、妻子を捕らえられていた。にも関わらず、家族の下へ走らず、曹操に忠義を尽くすことを誓うよう説得されたことについて)この時、靳允と曹操とはまだ君臣関係を結んでいなかった。母は一番親しい存在なのだから、義としては行かせるべきだった。……除庶の母が曹操に捕らえられた時、劉備は庶を帰らせた。天下を収めようとする人物は、人の子としての情に寛大であるものだ。曹操もまた、靳允を行かせるべきだった。2-p.427*, 3-p.015** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻14「程昱伝」:曹操は徐州征伐の時、程昱と荀彧に、鄄城に残って守らせた。張邈らが反して呂布を迎えたとき、郡県は雷同したが、鄄城・范・東阿は動かなかった。呂布の軍から降伏してきた者たちに皆が動揺させられた。程昱は、荀彧に「兗州で持ちこたえているのは三城のみ。陳宮が到来すれば、よほど結束していない限り三城は動揺するだろう。君は民からの人望がある。帰って郷人らを説得してくれ」と頼まれ、程昱は范や東阿の人心を固め、兗州の従事とも共謀して三城を守り抜いた。曹操は帰還すると、程昱の手をとって、「君の力がなければ、私は帰る場所が無くなるところだった」と言い、かくして上表して程昱を東平相とし、范に駐屯させた。2-p.426*, 3-p.013** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻10「荀彧伝」:曹操は陶謙討伐の時、荀彧に留守を任せた。張邈・陳宮が兗州を挙げて寝返り、ひそかに呂布を迎え入れたとき、張邈は使いを出して荀彧に、呂布は曹操の陶謙討伐の支援に来たから食糧を拠出するようにと告げた。荀彧は張邈の謀反を悟り、東郡太守の夏侯惇を召し寄せた。兗州の諸城はみな呂布に応じた。時に曹操は軍を挙げて陶謙討伐に赴き、残った兵力は手薄で、地位の高い者たちの多くが張邈や陳宮と通じた。夏侯惇は到着するや謀反人を誅したので衆は落ち着いた。豫州刺史の郭貢が数万の衆を率いて会見にやってくると、荀彧は周囲の疑念をものともせずに彼に会い、鄄城の堅牢さを示して引き上げさせた。また、荀彧は程昱と計略を設けて范・東阿を説得し、鄄城とあわせて三城を守り抜き、曹操の帰還を待った。2-p.308*, 2-p.234** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻9「夏侯惇伝」:張邈が反して呂布を迎えたとき、夏侯惇は、鄄城にいた曹操の家族のもとを軽装備で訪れる途上、呂布と出くわして交戦、濮陽で輜重を奪われ、人質となった。夏侯惇の将の韓浩は、敵方に赴き、大将救出のために大目に見ることはしないとして斬った。曹操、韓浩に「お前のこのやり方は万世の法とすべきだ」と言って、令を発し、人質をとって脅迫する者はみな撃つべし、人質に顧慮してはならぬ、と定めた。1-p.267*, 2-p.137** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻9「曹洪伝」:曹操が徐州を征伐し、張邈が兗州を挙げて寝返った時、曹洪は東平・范に拠って食糧を集めて軍に送った。曹操が張邈・呂布を濮陽に討伐し、呂布が敗走すると、曹洪は東阿に拠点を置いて、済陰・山陽・中牟・陽武・京・密の十餘県を攻め、すべて撃破した。これらの功績により、鷹揚校尉に拝せられ、揚武中郎将に昇進した。1-p.277*, 2-p.160**