2020年 一覧情報 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻7「呂布伝附張邈伝」:曹操は初め陳宮の軍を東郡に駐留させていたが、陳宮は呂布を兗州の牧に迎え、濮陽に拠った。諸郡はみなこれに応じたが、鄄城・東阿・范だけは曹操のために守った。1-p.221*, 2-p.015** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻14「程昱伝」裴注引『魏略』:〈程昱が曹操に語った言葉を載せる。〉2-p.428*, 3-p.016** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻14「程昱伝」:曹操は濮陽で呂布と戦い、形勢不利、蝗がわいて、各々引き上げた。この時、袁紹は人を遣わし、曹操に連合を持ちかけ、家族を鄴に移して住まわせようとした。曹操は兗州を失ったばかりで、食糧も尽きたので、ほとんどこれを受け入れようとした。程昱は曹操を励まして踏みとどまるよう説得し、曹操はこれに従った。2-p.427*, 3-p.015** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻1「武帝紀」:呂布軍に攻められた曹操が陣営にたどり着く前、諸将はまだ曹操と面会していないので皆怖れた。ところが曹操は自ら無理を押して軍をねぎらい、軍中に命じて攻め道具を作るように促し、進軍して再び攻撃し、呂布と百余日間対峙した。蝗がわき、人民は飢え、呂布の糧食もまた尽きたので、それぞれ引き上げた。1-p.12*, 1-p.030** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻1「武帝紀」裴注引袁暐『献帝春秋』:曹操が濮陽を包囲した時、濮陽の大姓の田氏が内通したため、曹操は城内に入ることができた。(曹操は入城した時)その東門を焼き、引き返すつもりのないことを示した。戦いに及んで、軍は敗れた。呂布の騎兵は曹操を捕えたが、それが彼だと知らず、「曹操はどこか」と聞いたので、曹操は「黄色い馬に乗って逃げているのがそれだ」と答えた。呂布の騎兵はそれで曹操を釈放し、黄色い馬を追った。門の火はなお燃え盛っていたが、曹操は火を突破して脱出した。1-p.12*, 1-p.030** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻1「武帝紀」:(曹操が陶謙討伐に出ていた時)張邈が陳宮とともに寝返って呂布を迎え入れ、郡県も皆これに応じた。荀彧・程昱は鄄城を保持し、范・東阿の二県は固く守っていた。曹操、軍を引き上げて帰還。呂布、到着すると鄄城を攻めたが落せず、西方の濮陽に駐屯した。曹操は、「呂布はわずかの間に一州を手に入れながら、東平に拠り、亢父・泰山間の道を断ち切り、その険阻に乗じて我が軍を迎えるということもできずに、なんと濮陽に陣取った。ここから私は彼の無能さがわかった」と言って進軍。呂布は兵を出して戦い、まず騎兵でもって青州兵に攻め込んだ。青州兵は遁走し、曹操の陣は乱れ、曹操は火を突いて脱出して落馬し、左掌に火傷を負った。司馬の楼異は曹操を助けて馬に乗せ、かくして引き上げた。1-p.11*, 1-p.029** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻7「呂布伝附張邈伝」:張邈は、袁紹を見限って張楊に従う呂布と誓いを立て、袁紹はこれを聞いて大いに恨んだ。張邈は、曹操が袁紹のために自分を攻撃するのではないかと不安に思った。興平元年、曹操が再び陶謙討伐に赴いたとき、張超(張邈の弟)が、曹操の将陳宮らと謀反を企て、陳宮は張邈を説得し、張邈はこれを受け入れた。1-p.221*, 2-p.014** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻49「劉繇伝附笮融伝」:曹操が陶謙を攻撃したとき、徐州一帯に騒動が起こった。笮融は男女一万人、馬三千匹を連れて広陵に逃げた。広陵太守の趙昱は賓礼をもって待遇した。5-p.1185*, 6-p.262** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻10「荀彧伝」裴注引『曹瞞伝』:董卓の乱以降、多くの人民が彭城のあたりに身を寄せていた。曹操はその数万人を殺して泗水に投げ込み、川は流れなくなった。陶謙軍に武原で阻まれた曹操は、軍を引いて泗水から南行して取慮・睢陵・夏丘の諸県を攻め、皆殺しにした。2-p.310*, 2-p.239** 2020年12月08日 興平01年(194)40歳:巻1「武帝紀」裴注引孫盛の評:陶謙を罰するために、その支配する地域までも破壊したのは過ちだ。1-p.11*, 1-p.029**