04-04-1 送応氏 二首 其一
04-04-1 送応氏 二首 其一 応氏を送る 二首 其の一
【解題】
応氏の旅立ちに際して作られた送別の詩二首の其の一。「応氏」とは、建安七子の応瑒、及びその弟の応璩を指すとされる(『文選』巻二十、五臣注の劉良注)。応瑒は、曹植が平原侯であった建安十六年(二一一)から同十九年までの間、その庶子を務めている(『三国志』巻二十一・王粲伝)。なお、曹植は建安十六年、曹操の馬超討伐に従軍している(『曹集詮評』巻一「離思賦」序)。黄節『曹子建詩註』巻一はこのことを指摘し、本詩の制作年代をこの時と推定している。
歩登北邙阪 歩みて北邙の阪を登り、
遥望洛陽山 遥かに洛陽の山を望む。
洛陽何寂寞 洛陽 何ぞ寂寞たる、
宮室尽焼焚 宮室 尽く焼焚せらる。
垣牆皆頓擗 垣牆 皆頓擗し、
荊棘上参天 荊棘 上りて天に参(まじ)はる。
不見旧耆老 旧き耆老は見えず、
但睹新少年 但だ新しき少年を睹るのみ。
側足無行径 足を側(そばだ)つるに行径無く、
荒疇不復田 荒疇 復(ふたた)びは田(たがや)されず。
遊子久不帰 遊子 久しく帰らず、
不識陌与阡 陌と阡とを識らず。
中野何蕭条 中野 何ぞ蕭条たる、
千里無人煙 千里 人煙無し。
念我平常居 我が平常の居を念ひ、
気結不能言 気は結ぼれて言ふ能はず。
【通釈】
歩いて北芒の坂を登り、はるかに洛陽の山を望む。洛陽の都はなんと寂しげであることか。宮室は尽く焼かれてしまった。垣牆はみな崩壊し、野生のイバラが天まで伸びている。昔からいる老人の姿は見えず、見慣れない若者が目に留まるばかりだ。つま先立ちしても歩いて行ける小道はなく、荒れ果てた畑は耕されずに打ち捨てられたままだ。遠くを旅する人は久しく帰郷せず、畑の東西南北を走る道も見分けがつかなくなっている。野原の中のなんとうらぶれていることか。千里にわたって人家のかまどから立ち上る煙もない。我が往年の住まいに思いを馳せれば、気持ちが結ぼれて言葉を口にすることもできない。
【語釈】
○歩登北邙阪・遥望洛陽山 「北邙」は、「洛陽」の北、黄河の南岸に沿って横たわる山。洛陽に都が置かれた後漢時代以降、王侯貴顕の墓が多くこの地に設けられた。類似句として、たとえば『文選』巻二十九「古詩十九首」其十三に「駆車上東門、遥望郭北墓(車を上東門に駆りて、遥かに郭北の墓を望む)」、古楽府「梁甫吟」(『楽府詩集』巻四十一)に「歩出斉城門、遥望蕩陰里(歩みて斉の城門を出で、遥かに蕩陰の里を望む)」と。
○寂寞 人気がなくて物寂しいさま。
○宮室尽焼焚 洛陽の宮殿は、初平元年(一九〇)、董卓によって焼き払われた(『三国志』巻一・武帝紀)。『後漢書』巻九・献帝紀にも、建安元年(一九六)、献帝が帰還したときの洛陽の有り様として、「宮室焼尽、百官披荊棘、依墻壁間(宮室は焼き尽くされ、百官は荊棘を披(ひら)き、墻壁の間に依る)」と。
○頓擗 崩れ、破れる。
○荊棘 山野に群生するイバラ。王朝の荒廃を象徴する。たとえば、『漢書』巻四十五・伍被伝に、伍被が淮南王劉安を諌めて「臣今将見宮中生荊棘、露霑衣也(臣は今将に宮中に荊棘を生じ、露の衣を霑すを見んとするなり)」と。
○参天 高く聳えて天にまで至る。たとえば、『論衡』説日篇に「太山之高、参天入雲(太山の高きは、天に参(まじ)はりて雲に入る)」と。
○睹 たしかに目に留まる。「見(みえる)」よりも意味が重い。
○側足 爪先立ちする。
○疇 畑のうね。
○遊子久不帰 「遊子」は旅人。『史記』巻八・高祖本紀に、高祖劉邦が郷里の沛の父兄に対して、「游子悲故郷。吾雖都関中、万歳後吾魂魄猶楽思沛(游子は故郷を悲しむ。吾は関中に都すと雖も、万歳の後 吾が魂魄は猶ほ沛を楽思せん)」云々と語る。一句は、この科白の初めの辞句を踏まえる。
○陌与阡 田畑のあぜ道で、一般に東西に走るものを「陌」、南北に走るものを「阡」という。
○中野 荒野の中。
○蕭条 もの寂しいさま。畳韻語。
○千里無人煙 類似句として、曹操「蒿里行」(『宋書』巻二十一・楽志三)に「白骨露於野、千里無鶏鳴(白骨 野に露はれ、千里 鶏鳴無し)」と。
○念我平常居 「平常居」、底本は「平生親」に作る。今、李善注本『文選』巻二十に従っておく。黄節は、「我」という表現を、曹植が応瑒の身に寄り添い、彼に成り代わって称したものと見る。他方、古直『曹子建詩箋』巻一は底本に拠り、『文選』巻二十九、蘇武「詩四首」其一にいう「願子留斟酌、叙此平生親(願はくは子留まりて斟酌し、此の平生の親を叙べん)」を踏まえると見る。
○気結不能言 同一句が、『玉台新詠』巻一「古詩八首」其七に「悲与親友別、気結不能言(親友と別るるを悲しみ、気は結ぼれて言ふ能はず)」と見える。