黄初三年の曹植

こんばんは。

昨日は、黄初二年における曹植の動向を押さえました。
彼は監国謁者潅均の摘発によって上洛することとなりましたが、
文帝曹丕の取り計らいによって罪を軽減され、
臨淄から洛陽へ向かう途中の延津で安郷侯に任ぜられ、
次いで同年、鄄城侯に遷されたのでした。

では、続く黄初三年の曹植はどのような状況にあったのでしょうか。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝によると、
彼はこの年、鄄城王に立てられています。*

他方、「黄初六年令」によると、
この年には、東郡太守の王機らによって讒言されています。

では、曹植が鄄城王に立てられたのと、
王機らの讒言により都に出頭したのとでは、いずれが先だったのでしょうか。

まず、このたびは実際に洛陽へ赴いたと見られます。
「黄初六年令」にいう「我が旧居に反す」「反旋して国に在り」、
また、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)にいう、
「臣は釁(つみ)を抱きて藩に帰りし自(よ)り、……」から、
一旦は洛陽に上り、罪状を告げられ、赦され、その後に鄄城に戻ったと知られます。

そして、洛陽での出来事を詠じて、
「責躬詩」(『文選』巻20)には、次のようにあります。

赫赫天子  明々と輝ける徳を有する天子、
恩不遺物  その恩沢は万物に対して遺漏がない。
冠我玄冕  わたくしに黒い冠冕をかぶらせ、
要我朱紱  わたくしの腰に朱色の組み紐を佩びさせた。
光光大使  光り輝く大使がやってきて、
我栄我華  わたくしに栄華が届けられた。
剖符授土  割り符を割いて封土を授与し、
王爵是加  これに王の爵位が加えられたのである。

曹植は、王機らに罪状を挙げられて赴いた洛陽で、
鄄城王の位を授けられたと見られます。

2022年10月7日

こちらの注で述べたとおり、『三国志(魏志)』巻2・文帝紀では、黄初三年夏四月十四日のことと記されている。