張華における曹植文学

先日、晋楽所奏「大曲」の撰者を張華と推定する論文を書きました。*1

もしこの拙論が的を得ているとするならば、
「大曲」に曹植の楽府詩「箜篌引」を組み入れた張華は、
魏王朝の一員でありながら不遇な後半生を余儀なくされた曹植に対して、
心を痛め、哀悼の念を抱いていたと推察することができます。*2

けれども、張華が引き寄せられたのは、
必ずしも曹植のこうした悲劇的境遇ばかりではないはずです。

というのは、かつてこちらでも述べたとおり、
張華による宮廷雅楽の歌辞「晋四廂楽歌十六篇」其五(『宋書』巻20・楽志二)に、
「枯蠹栄、竭泉流(枯蠹は栄(はな)さき、竭泉は流る)」とあって、
これが、曹植「七啓」(『文選』巻34)にいう次の句を踏まえると見られるからです。

夫辯言之艶、能使窮沢生流、枯木発栄。
夫れ辯言の艶なるは、能く窮沢をして流れを生じ、枯木をして栄を発(ひら)かしむ。

「七啓」は、曹植が幸福な日々を送っていた建安年間の作です。
その中に見える特徴的な表現を、張華は取り上げて雅楽歌辞に組み入れているのです。

張華は、曹植の様々な作品を読み、その傑出した美に引き付けられていたでしょう。
その一方で、曹植の人柄と、それに見合わない不遇とに心を痛めていた。

曹植に対する同様な眼差しは、同時代の歴史家、魚豢にも認められます。
(このことは、たとえばこちらこちらで述べました。)

なお、枯木が花を咲かせるという発想は、
『関尹子』七釜篇にも次のとおり見えています。

人之力有可以奪天地造化者、如冬起雷、夏造冰、死屍能行、枯木能華……
人の力の以て天地造化を奪ふ可き者有るは、冬に雷を起こし、夏に冰を造り、死屍の能く行き、枯木の能く華さき……の如きあり

けれども、この発想が、
涸れ沢から水が流れ出るという発想と対で用いられている例は、
今のところ曹植「七啓」以外には見当たりません。
ならば、張華が直接的に踏まえたのは、曹植「七啓」だと見てよいでしょう。

2024年3月28日

*1 『九州中国学会報』第62号(2024年5月)に、「晋楽所奏「大曲」の編者」と題して掲載される予定です。なお、本拙論は、昨年8月27日、中国の承徳で開催された楽府学会第6回年会・第9回楽府詩歌国際学術研討会での口頭発表「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」に大幅な加筆修正を加えたもので、発表のスライドはこちらからご覧になれます。
*2 「箜篌引」は建安年間の作ですが、その歌辞を「野田黄雀行」の楽曲に合わせて歌うよう指示しているところに、こうしたことを読み取ることができると考えます。他方、「大曲」の前に置かれている「清商三調」の編者は荀勗であることが確実ですが、彼が曹植作品を取り上げた可能性はほぼ無いと判断されます。詳細は、前掲注の拙論をご覧いただければ幸いです。