若き日の曹植の横顔

曹植「棄婦詩」の語釈を進めていて(進んではいませんが)、
思いがけなく、建安年間の曹植の姿を垣間見るような文献に出会いました。

『藝文類聚』巻91に引く楊修「孔雀賦」の序文に、こう記されています。

魏王園中有孔雀、久在池沼、与衆鳥同列。
其初至也、甚見奇偉、而今行者莫眡。
臨淄侯感世人之待士、亦咸如此、故興志而作賦、并見命及、遂作賦曰;……

魏王(曹操)の園中に孔雀がいて、久しく池沼で、衆鳥と同列に並んで過ごしている。
孔雀が来た当初は、非常に珍重されていたが、今は通りすがりの者が横目で見ることもない。
臨淄侯(曹植)は世人の士人に対する待遇も、また全くこのとおりだと感じ、
故に思いを奮い起こして賦を作り、併せて私にも続けて作るよう命じられたので、
かくしてこの賦を作った。……

楊修は、建安13年(208)に丞相となった曹操に請われてその幕下に加わり、
建安24年(219)の秋、曹操によって誅殺されています。

すると、二人の間に前掲のようなやり取りがあったのは、
曹植が17歳であった頃から28歳までの間だということになります。

この時期の曹植は、その父曹操の下に召された天下の名士たちと親しく交わりながら、
中にはその才能を十分にする機会が与えられない人士も少なくないことに、
ひそかに心を痛めるということがあったのかもしれません。

たとえば、「贈徐幹」「贈王粲」といった贈答詩では、
詩を贈る相手に対して直接、こうした思いを吐露し、励ましていますし、
楽府詩「美女篇」では、君子を求める美女によき媒酌人のいないことを嘆いています。

このような内容を持つ曹植の詩歌は、
楊修が書き留めた若き日の曹植の言動とリアルにつながるように感じました。

なお、曹植の「孔雀賦」は伝存していません。
前掲の楊修の序文によって、かろうじてその事実を知ることができます。

2024年6月15日