「浮萍篇」と「吁嗟篇」

曹植「浮萍篇」は、夫の愛情を失った女性の悲しみを詠ずる楽府詩です。
その冒頭に置かれた次の二句、

浮萍寄清水  浮萍 清水に寄り、
随風東西流  風に随ひて東西に流る。

これを見て、まず私は、浮き草を、寄る辺なきものの表象だと捉え、
詩中の彼女は、これに自身を重ねているのだと考えました。

けれども、先日言及した何晏の詩(『藝文類聚』巻90)では、
天がける鳥との対比で、むしろ寄る辺あるものとして浮き草を詠じていました。

また、曹丕の「秋胡行」(『藝文類聚』巻41)は、
庭園の池の中に漂う浮き草を詠じていて、これは流浪の表象などではありません。

他ならぬ曹植の「閨情」詩にも、こうあります。

寄松為女蘿  松に寄せて女蘿と為り、
依水如浮萍  水に依りて浮萍の如し。

ここでは、「女蘿」「浮萍」とも同じ方向性を示し、
何かにすがって生きる植物として詠じられていると見るのが普通でしょう。

それなのに、自分はなぜ「浮萍篇」を見たときに、
その浮き草を、寄る辺なき、根無し草だと捉えたのでしょうか。

その理由の第一は、本詩の語釈にも示したとおり、
これが王褒「九懐・尊嘉」とその王逸注を踏まえていると見られることです。

ですが、もうひとつの理由として、
本詩と「吁嗟篇」との間に認められる表現の類似性があることに思い至りました。

「風」によって「東西」に流される「浮萍」の有様が、
「吁嗟篇」に詠じられた「転蓬」を想起させると感じたのです。

ただ、「浮萍篇」の第一句には「浮萍寄清水」とあります。
「清水」に「寄る(身を寄せる)」と言っている以上、
この詩に詠じられた浮き草は、本当に寄る辺なき境遇の表象だと言えるのか。
「吁嗟篇」との類似性という漠然とした感覚だけではなんとも弱い。
要再考です。

2024年7月29日