「矯志」詩の成立時期

昨日の続きです。
曹植「矯志」詩には、ふたつの「矯」が混在しています。

まず、自らの価値に見合う職務が与えられていないことを不満に思う気持ち、
それが湧き起こるのを「矯めて」、隠棲への志向を表明しています。

他方、君主たる者は人を用いることに意を尽くすべきだとする、
為政者を「矯める」趣旨の辞句も連ねられています。

このことを指摘しつつ想起したのは、
明帝が即位して間もない太和2年頃の曹植の作
「求自試表」(07-06)と「惟漢行」(05-29)でした。

これら明帝期はじめの曹植の作品には、
「矯志」に表れていたふたつの「矯」を認めることができます。

まず、自身を周公旦になぞらえて、明帝を輔佐しようとする思いが、
「惟漢行」には強く表れていると読むことができます。*
これは、君主を戒める「矯」でしょう。

他方、「求自試表」では、
王朝の一員として力を発揮させてほしいとの切望が綴られています。
その中には「尸禄」「素餐」といった語句も用いられており、
これは、「矯志」詩にいう「尸位素餐、難以成居」を想起させます。
ただ、「矯志」詩はその切望を押さえ込んでいますから、
その点では「求自試表」よりも屈折しています。

以上から、「矯志」は明帝期の作だと私は捉えました。
ところが、本詩に対するこのような見方は、他に見当たりません。
趙幼文や徐公持は、黄初年間にこの作品を繋年しています。

曹植作品は、複数の作品を組み合わせることによって初めて、
その背景をも含めて読み解くことができるものが多いように感じます。
その“感じ”が、必ずしも単なる印象ではないことを論述で示す必要があります。

2026年2月19日

*柳川順子「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年)を参照されたい。