『文選』李善注の編集方法

曹植「洛神賦」(『文選』巻19)に、次のような対句が見えています。

栄曜秋菊  栄 秋の菊よりも曜(かがや)き、
華茂春松  華 春の松よりも茂し。

これに対して、李善注は朱穆「鬱金賦」にいう、

比光栄於秋菊  光栄を秋の菊に比(なら)べ、
斉英茂乎春松  英茂を春の松に斉(ひと)しうす。

を引いています。
曹植が、この百年ほど前の先人の辞句を踏まえているのは、
李善が指摘するとおり、どう見ても間違いないことだと言えるでしょう。

ところで、『藝文類聚』(『藝文類聚』巻81)に引くこの朱穆の賦には、
この直後に次のような句が続いています。

遠而望之     遠くして之を望めば、
粲若羅星出雲垂  粲たること羅星の雲垂より出づるが若く、
近而観之     近くして之を観れば、
曄若丹桂曜湘涯  曄たること丹桂の湘涯に曜(かがや)くが若し。

これを目にしてたいへん驚きました。
なぜならば、この表現は、前掲の曹植の対句から二句を隔てて見える、
次の辞句と非常によく似ているからです。

遠而望之     遠くして之を望めば、
皎若太陽升朝霞  皎たること太陽の朝霞より升(のぼ)るが若く、
迫而察之     迫(ちか)くして之を察(み)れば、
灼若芙蕖出淥波  灼たること芙蕖の淥波より出づるが若し。

けれども、李善は曹植のこの表現に対して特に注は付けていません。
すぐ前に、「秋菊」「春松」の対句が朱穆「鬱金賦」に基づくことを注記し、
その朱穆作品の当該箇所の直後には、前掲のとおりの辞句が続いているにも関わらず。

これはどういうことでしょうか。

もし、李善が朱穆「鬱金賦」一篇をまるごと眼前に置いて、
そこから曹植「洛神賦」の表現に影響を与えた部分を抜き出したのであれば、
朱穆の「遠而望之」云々の四句は必ず注記されたに違いありません。

思うに、李善はもしかしたら、特徴的な表現や事物を項目立てて、
それに関連する語をカードのように情報化して蓄積し、
そこから随時、注記すべき典拠文献を引き出していたのかもしれません。

たとえば中唐の白居易は、その私撰の類書『白氏六帖』を作るに当たって、
部門名を記した数千の陶瓶を並べ、諸生に命じて瓶中に文献を蓄積させたそうですが、*
この言い伝えのような方法が実際に行われていたのだとするならば、
李善も、これと同様の方法で『文選』に注を付けていた可能性があると思いました。
もちろん、これだけのことでは断定できないのですが。

2023年12月19日

*楊億(974―1020)の談話録『楊文公談苑』(宛委山堂本『説郛』〓[弓+冫]十六)による。

オマージュと用例と

過日、曹植「七啓」の表現が、陸機「文賦」に波及している可能性を述べました。
しかしながら、このことは『文選』李善注には指摘されていません。

「磬折」という語をめぐる、
阮籍「詠懐詩十七首」其十四(『文選』巻23)への、
曹植「箜篌引」(同巻27)からの影響についても同じです。*1
李善は、阮籍詩に対して、曹植詩に注記したのと同じ文献を記すのみであって、
曹植から阮籍へ、この語が受け渡されているようには捉えていません。

信頼のおける李善注ではあっても、
人の行ったことですから遺漏もあって当然なのですが、
ただ、改めて検討する必要があると思ったのは、
曹植と陸機との間にほんとうに密接な影響関係があったと言えるか、ということです。

そこで、富永一登氏の所論を再度ひもといてみました。*2
本論考は、李善注に引かれる曹植の詩文の数を、作者別に挙げています。
それによると、最も近い時代の人として、嵆康に5例あるのがまず目に留まります。
ですが、阮籍作品については、李善は何の注記もしていないようです。
また、先日来、幾度か話題にしてきた張華は3例で、
左思4例、潘岳28例、陸機24例に比べて、特に多いというわけでもありません。
もちろん、『文選』に採られた作品数という母数に違いはありますが。

陸機は、張華を介して、曹植作品の表現に出会ったのではないか、
という先の見通しは、考え直す必要があるかもしれません。

ある作者に対するオマージュとして彼の表現を踏まえることと、
同時代を生きた人々の間で共有される言葉の用例とは、区別がとても難しい。
また、オマージュと一口に言っても、その内容も深さも様々でしょう。
だからこそ、精読吟味する価値があるのだと思います。

2023年12月15日

*1 柳川順子「曹植文学の画期性―阮籍「詠懐詩」への継承に着目して―」(『中国文化』80号、2022年)で論じた。
*2 富永一登『『文選』李善注の活用 文学言語の創作と継承』(研文出版、2017年)第一章第四節「注引曹植詩文から見た文学言語の創作と継承」p.72を参照。

曹植と張華と陸機

張華「晋四廂楽歌十六篇」其五(『宋書』巻20・楽志二)に、
西晋王朝の徳政に応ずる瑞祥を詠じて「枯蠹栄、竭泉流」というのは、
曹植「七啓」(『文選』巻34)にいう、
「夫辯言之艶、能使窮沢生流、枯木発栄」を念頭に置いていた可能性がある、
ということを、かつてこちらで述べました。

そして、曹植「七啓」のこの表現は、
陸機の「文賦」(『文選』巻17)にも影響を及ぼし、
その「兀若枯木、豁若涸流」は、曹植の辞句を反転させたものと見られます。
このことは、かつてこちらで述べました。

ここで、陸機と曹植とをつないだのは、張華ではなかったでしょうか。

というのは、陸機と張華とは浅からぬ交友関係を持っていたからです。
(張華が陸機を庇護したと言った方が正確かもしれません。)

以前、こちらこちらで言及したことがありますが、
陸機「洛陽記」(『文選』巻24、曹植「贈白馬王彪」李善注引)の中に、
陸機が、曹植「贈白馬王彪」詩の第一句に関する疑義を、
張華にたずねて解答を得たことが見えています。

二人は、曹植作品をめぐる話題で談話を重ねていたでしょう。
そうしたやり取りの中で、前掲の対句が浮上してきたのかもしれません。

以前は、曹植と張華、曹植と陸機という、
両者間の関係性ばかりに目が向かっていたのですが、
曹植と張華と陸機という三人の連関性が見えてきたように思います。

2023年12月13日

曹丕「柳賦」とその波及

昨日言及した曹丕「柳賦」は、
次のような序文からその制作背景が知られます。

昔建安五年、上与袁紹戦於官渡時、余始植斯柳、自彼迄今、十有五載矣。
感物傷懐、乃作斯賦。
 その昔、建安五年(200)、上(曹操)が袁紹と官渡で戦っていた時、
 わたくしは始めてこの柳を植えたが、あれから今に至るまで、十五年になる。
 物に心を揺さぶられ、胸が痛み、そんなわけでこの賦を作った。

その賦の本文には、次のような慨嘆が見えています。

この柳を庭に植えたとき、自分は十四歳で、柳は小さな苗木であった。
今、柳は大きく成長し、時の移ろいや、人の世のはかなさを思うと胸が痛む。

こうした言葉からは、感傷的な気分は濃厚に漂ってくるのですが、
植物と人間とを対比させて、心底、無常を慨嘆しているようには感じ取れません。

そのように感じられるのは、作中の言葉に加えて、
応瑒や王粲に同名の作品が残っていること(『藝文類聚』巻89)、
つまりは、おそらく同じ場で競作されたのであろうこととも関連しているでしょう。

たとえば、曹丕の「与呉質書」(『文選』巻42)などにも顕著なとおり、
この当時の宴席は、感傷的な気分で充たされているのが常でした。

しかし、桓温の場合はどうなのでしょう。
桓温の故事を踏まえた庾信、更には杜甫はどうなのでしょうか。

たとえ同じ発想や言葉を継承したとしても、
それを受け止めた人それぞれの置かれた状況によって、
その核となる言葉は、色合いを変えていっているように思えてなりません。

2023年12月12日

曹丕「柳賦」と桓温の逸話

先日、曹道衡「漢魏六朝辞賦」を読んでいて、*1
曹丕「柳賦」(『藝文類聚』巻89ほか)は、
『世説新語』言語篇に記された桓温の逸話を想起させる、
との指摘に目が留まりました。

というのは、
以前、杜甫の「柳辺」詩(作品番号0600)を読んでいたとき、*2
その中に見える「漢南応老尽(漢南 応に老い尽くべし)」という句が、
庾信の「枯樹賦」に、東晋の桓温の言葉として引く、

昔年種柳 依依漢南  昔年 柳を種えて 漢南に依依たり
今看揺落 悽愴江潭  今揺落するを看て 江潭に悽愴たり
樹猶如此 人何以堪  樹すら猶ほ此くの如し 人 何を以てか堪えん

を踏まえており、*3
その桓温の逸話が、『世説新語』言語篇に、

桓公北征経金城、見前為琅邪時種柳、皆已十囲、
慨然曰、「樹猶如此、人何以堪。」攀枝執条、泫然流涙。
 桓温は、北方征伐のため金城を経たとき、
 前に琅邪内史であった時に植えた柳が皆もう十囲にもなっていたのを見て、
 慨嘆して言った。「樹木でさえこうなのだから、人はどうして変わらずにいられよう。」
 そして、柳の枝に手を伸ばして引き寄せ、さめざめと涙を流した。

と記されていることを知ったからです。

もっとも、この逸話は『藝文類聚』巻89にも収載されているので、
『世説新語』によらずとも、多くの人々に知られていた故事だったかもしれません。

さて、この桓温の逸話は、
柳の木の成長と、人の変化ということを対比させている点で、
曹丕の「柳賦」とたしかに共通するものがあります。

桓温の逸話が事実であるかどうかは不明ですが、
この逸話を語り伝えた人物が、曹丕の作品を念頭に置いていたのだとしたら、
魏(3世紀初め)の曹丕がその「柳賦」に表現した感慨は、
東晋(4世紀)の桓温という人物を介して、北周(6世紀)の庾信へ、
更には盛唐(8世紀)の杜甫へと、
長い時を渡って、人から人へと伝えられたことになります。

2023年12月11日

*1 『曹道衡文集』(中州古籍出版社、2018年)巻四所収。
*2 下定雅弘・松原朗編『杜甫全詩訳注』第二冊(講談社学術文庫、2016年)p.546
*3 仇兆鰲『杜詩詳注』(中華書局、1979年)第二冊、p.968に指摘する。

作品と制作年代

曹植「洛神賦」は、彼自身がその序に、
本作品の制作年を「黄初三年」と明記しているのでしたが、
初唐の李善をはじめ、これを四年の誤りかと疑う論者は少なくありません。

「洛神賦」は、都洛陽からの帰途の作だとその序に記されていますが、
黄初三年、曹植が上洛したということを示す記述が、
『魏志』巻19・陳思王植伝に明確には見えていないからです。

ですが、『魏志』本伝に記す黄初四年のみならず、
実は黄初三年にも、曹植は罪を得て洛陽に呼び寄せられています。

このことは、すでに拙論で論及したことがありますが、*1
加えて、張可礼もまた、同様な指摘をしていたので、ここに追記します。*2

ところで、昨日例示した曹植の「雑詩六首」は、
作者本人がその制作年代を書き記しているわけではありません。

では、どうして黄初年間中だと自分は判断したのか。

それは、これらの作品中に見えるある種の不可解さに由るものです。
なぜこのような奇妙な表現をしたのか、その理由や必然性を追求していくと、
どうしても作者の直面していた現実というものに突き当たる、
そんな、制作年代の確定を求めてくる作品というものがあります。*3

そして、制作年代の究明を求めてくる作品は、
(多くの場合、作者本人はその制作年代を明らかにしていないのですが。)
同時に、曹植にはなぜ、漢代五言詩という依り代が必要だったのか、
曹植における「雑詩」という詩体の必然性を示唆してくれる作品でもあります。

2023年12月8日

*1「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年)
*2『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)pp.192―193を参照。
*3 このことについては、かつてこちらの雑記でも述べたことがある。

曹植と王粲

昨日、曹植「洛神賦」の表現の中に、
王粲「神女賦」に倣ったかと見られる表現のあることを述べました。

曹植と、建安七子の代表格である王粲とは、
この時期を代表する文人としてしばしば並記されるばかりでなく、
両者の間には、文学創作上、親密な交わりがあったことが認められます。

たとえば、王粲「雑詩」(『文選』巻29)への応答として、
曹植には「贈王粲」(『文選』巻24)という贈答詩があります。*1

また、曹植「七啓」(『文選』巻34)の序文には、
「遂に「七啓」を作り、并びに王粲に命じて作らしむ」とありますし、

王粲「詠史詩」と曹植「三良詩」(いずれも『文選』巻21)とは、
テーマを同じくする、おそらくは同じ場での作です。*2

王粲(177―217)が荊州から曹爽傘下に下ったのは建安13年(208)、
この時、曹植(192―232)は十七歳、王粲は三十二歳でした。
以来、王粲が疫病で多くの人々と同時に没するまで、
曹植は、十五歳年長の王粲から多くの文学的表現を学び取ったようです。

そして、その文学的影響は、曹植の後半生にまで及んでいます。
黄初三年の作と曹植自身が記す「洛神賦」以外にも、
たとえば、「雑詩六首」其一(『文選』巻29)にいう「離思故難任」は、
王粲「七哀詩二首」其二(『文選』巻23)にいう、
「羈旅無終極、憂思壮難任(羈旅に終極無く、憂思 壮にして任へ難し)」に、
また、同じく「雑詩六首」其三にいう「悲嘯入青雲」は、
『藝文類聚』巻90に引く王粲詩にいう、
「哀鳴入青雲(哀鳴 青雲に入る)」に学んだと見られます。
(類似する句として、曹植「闘鶏」詩にも「長鳴入青雲」とあります。)

他方、同じ曹植「雑詩六首」其五にいう「惜哉無方舟」は、
前掲「贈王粲」詩の「惜哉無軽舟(惜しい哉 軽舟無し)」に酷似します。

曹植は、苦境の中にあった黄初年間半ばのこの時期、
王粲とのかつての文学的交流を思い出していたのかもしれません。
それは、王粲への追慕という具体的なものではなかったとは思いますが、
この先輩に学んだ言葉の数々が、後半生の曹植を支えていたことは確実だと言えます。

2023年12月7日

*1 拙論「五言詩における文学的萌芽―建安詩人たちの個人的抒情詩を手掛かりに―」(『中国文化』第69号、2011年)を参照されたい。
*2 かつて拙論「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)で触れたことがある。

曹植「洛神賦」と王粲「神女賦」

王粲「神女賦」(『藝文類聚』巻79)をながめていて、
曹植「洛神賦」はここに学んだかと見られる表現に遭遇しました。

まず、神女の清楚な様子を描く、王粲の次の二句です。

質素純皓、粉黛不加(質素純皓にして、粉黛は加へず)。
 飾り気のない透き通る白い肌に、おしろいやまゆ墨は加えていない。

これは、曹植の次の表現に流れ込んでいると見られます。

芳沢無加、鉛華弗御(芳沢は加ふる無く、鉛華も御する弗し)。
 かぐわしい脂(あぶら)も、おしろいもつけていない。

王粲の表現は、『楚辞』大招にいう
「粉白黛黒、施芳沢只(粉は白く黛は黒く、芳沢を施す)」を踏まえます。
ですが、王粲はこれをひっくり返して、新たな美を創出しています。
これは、どこにでも転がっている発想ではありません。

そして、曹植の賦は、既存の表現を打ち消している点で、
王粲の発想を色濃く引き継いでいると言えます。

たまたま王粲と同様に『楚辞』大招を踏まえ、
たまたま王粲と同様にこれをひっくり返してみせたと見るよりは、
(このようなことが起こるのは確立的に希少ですから)
直接、王粲作品に学んだと見る方が自然でしょう。

他の例として、神女のほおに浮かび上がるえくぼの表現があります。

王粲の賦にいう「美姿巧笑、靨輔奇才」が踏まえるのは、
『楚辞』大招の「靨輔奇才、宜笑嘕只(靨輔奇才、笑ふに宜しく嘕たり)」ですが、
この「靨輔」という語は、厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』を見る限り、*
宋玉「大招」、後漢の張衡「七辯」、王粲「神女賦」、曹植「洛神賦」があるのみです。

そうであるならば、
曹植作品にいう「明眸善睞、輔靨承権」という句、
(明るく澄んだ瞳がくるくるとよく動き、えくぼがほおに浮かび上がる)
これは、直接的には身近な王粲の作品から着想を得たものなのかもしれません。
前掲の例とあわせて見るならば、その可能性は十分あり得ます。

2023年12月6日

*厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』の電子データ(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)によって検索した。

曹植「洛神賦」と同時代の作品

先日述べたことについて、
先行研究にすでに指摘がないか、いくつか当たってみました。

その中で、鈴木崇義氏の所論に教えられたのが、*
曹植と同じ時代の文人たちにも、同テーマの作品があるということです。

『藝文類聚』巻79所収の、楊修・王粲・陳琳による「神女賦」、
及び『文選』巻30、陸機「擬古詩」の李善注に引く応瑒の作品がそれです。

そこで、これらの作品を確認してみたところ、
曹植の描く洛神のような、自らを語る神女は登場していませんでした。

鈴木氏によると、宋玉以来、前掲の建安文人たちに至るまで、
神女を取り上げる賦作品は見られないとのことです。

すると、先に述べたような特徴を持つ曹植「洛神賦」は、
この系統の作品において、画期的なものであったと見なし得るかもしれません。

では、曹植のその画期性はどこから生じたものなのでしょうか。

2023年12月5日

*鈴木崇義「曹植「洛神賦」小考」(『中国古典研究』53号、2008年)を参照。

『八幡八景』に集った人々

過日少し触れましたが、
先週末、東京都立中央図書館の加賀文庫にて、
正徳六年、昭和九年の写本『八幡八景』を見せていただきました。

「八幡八景」は柏村直條の発案に成ったものですが、
それらの八題に寄せられた漢詩・和歌・発句を縦覧する中で、
「厳島八景」文芸に縁のある人々の名が頻見することに気づきました。

たとえば、風早公長の父である実種や、里村昌純は予想したとおりでしたが、
万福寺の住持、悦峰も漢詩を寄せているのには驚かされました。

悦峰は、黄檗宗の僧侶たちによる「厳島八景」詩の序を書いた人物です。
(悦峰については、こちらの注に記した拙論をご参照ください。)

そして、悦峰はその序の中で、
宮島の各地を歩き回り、八景題を選ぶ直條の姿を書き留めています。
(この序は、後年出版された『厳島八景』には収録されなかったのですが。)

「八幡八景」に集った人々を視野に入れることによって、
「厳島八景」文芸の隆盛は、柏村直條に由るところが大きいと確信しました。

2023年12月4日

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