作品と制作年代

曹植「洛神賦」は、彼自身がその序に、
本作品の制作年を「黄初三年」と明記しているのでしたが、
初唐の李善をはじめ、これを四年の誤りかと疑う論者は少なくありません。

「洛神賦」は、都洛陽からの帰途の作だとその序に記されていますが、
黄初三年、曹植が上洛したということを示す記述が、
『魏志』巻19・陳思王植伝に明確には見えていないからです。

ですが、『魏志』本伝に記す黄初四年のみならず、
実は黄初三年にも、曹植は罪を得て洛陽に呼び寄せられています。

このことは、すでに拙論で論及したことがありますが、*1
加えて、張可礼もまた、同様な指摘をしていたので、ここに追記します。*2

ところで、昨日例示した曹植の「雑詩六首」は、
作者本人がその制作年代を書き記しているわけではありません。

では、どうして黄初年間中だと自分は判断したのか。

それは、これらの作品中に見えるある種の不可解さに由るものです。
なぜこのような奇妙な表現をしたのか、その理由や必然性を追求していくと、
どうしても作者の直面していた現実というものに突き当たる、
そんな、制作年代の確定を求めてくる作品というものがあります。*3

そして、制作年代の究明を求めてくる作品は、
(多くの場合、作者本人はその制作年代を明らかにしていないのですが。)
同時に、曹植にはなぜ、漢代五言詩という依り代が必要だったのか、
曹植における「雑詩」という詩体の必然性を示唆してくれる作品でもあります。

2023年12月8日

*1「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年)
*2『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)pp.192―193を参照。
*3 このことについては、かつてこちらの雑記でも述べたことがある。

曹植と王粲

昨日、曹植「洛神賦」の表現の中に、
王粲「神女賦」に倣ったかと見られる表現のあることを述べました。

曹植と、建安七子の代表格である王粲とは、
この時期を代表する文人としてしばしば並記されるばかりでなく、
両者の間には、文学創作上、親密な交わりがあったことが認められます。

たとえば、王粲「雑詩」(『文選』巻29)への応答として、
曹植には「贈王粲」(『文選』巻24)という贈答詩があります。*1

また、曹植「七啓」(『文選』巻34)の序文には、
「遂に「七啓」を作り、并びに王粲に命じて作らしむ」とありますし、

王粲「詠史詩」と曹植「三良詩」(いずれも『文選』巻21)とは、
テーマを同じくする、おそらくは同じ場での作です。*2

王粲(177―217)が荊州から曹爽傘下に下ったのは建安13年(208)、
この時、曹植(192―232)は十七歳、王粲は三十二歳でした。
以来、王粲が疫病で多くの人々と同時に没するまで、
曹植は、十五歳年長の王粲から多くの文学的表現を学び取ったようです。

そして、その文学的影響は、曹植の後半生にまで及んでいます。
黄初三年の作と曹植自身が記す「洛神賦」以外にも、
たとえば、「雑詩六首」其一(『文選』巻29)にいう「離思故難任」は、
王粲「七哀詩二首」其二(『文選』巻23)にいう、
「羈旅無終極、憂思壮難任(羈旅に終極無く、憂思 壮にして任へ難し)」に、
また、同じく「雑詩六首」其三にいう「悲嘯入青雲」は、
『藝文類聚』巻90に引く王粲詩にいう、
「哀鳴入青雲(哀鳴 青雲に入る)」に学んだと見られます。
(類似する句として、曹植「闘鶏」詩にも「長鳴入青雲」とあります。)

他方、同じ曹植「雑詩六首」其五にいう「惜哉無方舟」は、
前掲「贈王粲」詩の「惜哉無軽舟(惜しい哉 軽舟無し)」に酷似します。

曹植は、苦境の中にあった黄初年間半ばのこの時期、
王粲とのかつての文学的交流を思い出していたのかもしれません。
それは、王粲への追慕という具体的なものではなかったとは思いますが、
この先輩に学んだ言葉の数々が、後半生の曹植を支えていたことは確実だと言えます。

2023年12月7日

*1 拙論「五言詩における文学的萌芽―建安詩人たちの個人的抒情詩を手掛かりに―」(『中国文化』第69号、2011年)を参照されたい。
*2 かつて拙論「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)で触れたことがある。

曹植「洛神賦」と王粲「神女賦」

王粲「神女賦」(『藝文類聚』巻79)をながめていて、
曹植「洛神賦」はここに学んだかと見られる表現に遭遇しました。

まず、神女の清楚な様子を描く、王粲の次の二句です。

質素純皓、粉黛不加(質素純皓にして、粉黛は加へず)。
 飾り気のない透き通る白い肌に、おしろいやまゆ墨は加えていない。

これは、曹植の次の表現に流れ込んでいると見られます。

芳沢無加、鉛華弗御(芳沢は加ふる無く、鉛華も御する弗し)。
 かぐわしい脂(あぶら)も、おしろいもつけていない。

王粲の表現は、『楚辞』大招にいう
「粉白黛黒、施芳沢只(粉は白く黛は黒く、芳沢を施す)」を踏まえます。
ですが、王粲はこれをひっくり返して、新たな美を創出しています。
これは、どこにでも転がっている発想ではありません。

そして、曹植の賦は、既存の表現を打ち消している点で、
王粲の発想を色濃く引き継いでいると言えます。

たまたま王粲と同様に『楚辞』大招を踏まえ、
たまたま王粲と同様にこれをひっくり返してみせたと見るよりは、
(このようなことが起こるのは確立的に希少ですから)
直接、王粲作品に学んだと見る方が自然でしょう。

他の例として、神女のほおに浮かび上がるえくぼの表現があります。

王粲の賦にいう「美姿巧笑、靨輔奇才」が踏まえるのは、
『楚辞』大招の「靨輔奇才、宜笑嘕只(靨輔奇才、笑ふに宜しく嘕たり)」ですが、
この「靨輔」という語は、厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』を見る限り、*
宋玉「大招」、後漢の張衡「七辯」、王粲「神女賦」、曹植「洛神賦」があるのみです。

そうであるならば、
曹植作品にいう「明眸善睞、輔靨承権」という句、
(明るく澄んだ瞳がくるくるとよく動き、えくぼがほおに浮かび上がる)
これは、直接的には身近な王粲の作品から着想を得たものなのかもしれません。
前掲の例とあわせて見るならば、その可能性は十分あり得ます。

2023年12月6日

*厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』の電子データ(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)によって検索した。

曹植「洛神賦」と同時代の作品

先日述べたことについて、
先行研究にすでに指摘がないか、いくつか当たってみました。

その中で、鈴木崇義氏の所論に教えられたのが、*
曹植と同じ時代の文人たちにも、同テーマの作品があるということです。

『藝文類聚』巻79所収の、楊修・王粲・陳琳による「神女賦」、
及び『文選』巻30、陸機「擬古詩」の李善注に引く応瑒の作品がそれです。

そこで、これらの作品を確認してみたところ、
曹植の描く洛神のような、自らを語る神女は登場していませんでした。

鈴木氏によると、宋玉以来、前掲の建安文人たちに至るまで、
神女を取り上げる賦作品は見られないとのことです。

すると、先に述べたような特徴を持つ曹植「洛神賦」は、
この系統の作品において、画期的なものであったと見なし得るかもしれません。

では、曹植のその画期性はどこから生じたものなのでしょうか。

2023年12月5日

*鈴木崇義「曹植「洛神賦」小考」(『中国古典研究』53号、2008年)を参照。

『八幡八景』に集った人々

過日少し触れましたが、
先週末、東京都立中央図書館の加賀文庫にて、
正徳六年、昭和九年の写本『八幡八景』を見せていただきました。

「八幡八景」は柏村直條の発案に成ったものですが、
それらの八題に寄せられた漢詩・和歌・発句を縦覧する中で、
「厳島八景」文芸に縁のある人々の名が頻見することに気づきました。

たとえば、風早公長の父である実種や、里村昌純は予想したとおりでしたが、
万福寺の住持、悦峰も漢詩を寄せているのには驚かされました。

悦峰は、黄檗宗の僧侶たちによる「厳島八景」詩の序を書いた人物です。
(悦峰については、こちらの注に記した拙論をご参照ください。)

そして、悦峰はその序の中で、
宮島の各地を歩き回り、八景題を選ぶ直條の姿を書き留めています。
(この序は、後年出版された『厳島八景』には収録されなかったのですが。)

「八幡八景」に集った人々を視野に入れることによって、
「厳島八景」文芸の隆盛は、柏村直條に由るところが大きいと確信しました。

2023年12月4日

語る神女:曹植「洛神賦」

先日、地域の図書館との連携公開講座で、
曹植「洛神賦」(『文選』巻19)を取り上げました。
その準備をする中で、非常に驚かされたのが次のような表現です。

それは作品の終盤、神女が「吾」すなわち「君王」に対して言う科白、
(以下はあくまでも現時点での試訳です。)

恨人神之道殊兮  残念なことに、人と神とは道が異なっています。
怨盛年之莫当   若い時にあなたに出会えなかったことを怨みに思います。

また、その後に見える次のような科白です。

悼良会之永絶兮  わたくしはこのよき逢瀬が永遠に途絶えることを悼み、
哀一逝而異郷   一たび立ち去れば各々異なる世界に住むことが哀しくてなりません。
無微情以効愛兮  ささやかな情ではわたくしのこの愛を述べ尽くすことはできないから、
献江南之明璫   せめて江南の真珠の耳飾りをお贈りします。
雖潜処於太陰   わたくしは鬼神の世界にひっそりと住んではいても、
長寄心於君王   いつまでもあなた様に心を寄せております。

以上に示した部分は、実は地の文と科白との境界線が明瞭ではなく、
これらの言葉がすべて、神女の口から発せられたものだとは言い切れないところがあります。
それでも、「長く心を君王に寄す」は、たしかに神女の言葉だと判断されるでしょう。

また、ここにいう「君王」は、本作品の初めの部分にも見える語で、
そこでは、「京域より東藩に帰る」「余」に対して、御者が語りかけている敬称です。
すると、ここに心を寄せられている「君王」も、同じ人物と見てよいでしょう。

神女の口から零れ落ちるこれらの言葉の生々しさに驚きました。
こうした表現は、過去の、あるいは同時代の作品にも認められるのでしょうか。

まず、本作品が踏まえたと明言する宋玉「神女賦」(『文選』巻19)を縦覧するに、
宋玉の描く神女は、このように自身の胸の内を打ち明けたりはしていません。
思わせぶりな様子を見せながら、結局つれない態度を取るばかりです。

では、この系統の、他の作品ではどうなのでしょうか。
(続く)

2023年11月30日

再び追記:柏村直條と厳島八景

元文四年(1739)刊『厳島八景』は、高橋修三氏による翻刻がありますので、*1
私のような専門外の者でも、その内容に触れることができます。

その中巻の初めの方に、次のような記述があります。
(以下、柳川の文意理解により、濁点や句読点などを加えたところがあります。)

先年 風早宰相公長卿 あるが中に とりわきたるところをえらミて、嚴嶋八景の題を、冷泉黄門為綱卿にこひ給ひ、王卿雲客の諸家へわかち配り、詩歌を勧進したまひしに、各ミづから御筆を染られ、詩歌二巻事調ひぬ。これを予(やつかれ)にたうびてかたじけなくも 大明神の珍の廣前に奉納せさしめたまふ。

ここには、厳島八景の事実上の選定者である柏村直條の名は見えず、
風早公長がそれを行ったかのような記し方となっています。
昨日記したように、直條と公長とは非常に近しい間柄でしたから、
二人の行ったことは重なって見えてしまうのでしょうか。

一方、同じ中巻の終わり近くには、次のような記述が見えています。

予 年来 景詠の詩哥を簪紳家に勧進して奉納せん事をねがひ侍りしに、石清水の社職柏亭直條ハ、はやく心しらひの友どちにて侍る、予が念願の趣を聞て、しきりに勧め誘ハれけれバ、此人と相ともに風早宰相近長卿の許に参り、ひたすら願ひ侍りし相公にも、神慮のたうとき事をやおぼしめしけんや、ことなき御方にて御沙汰にもおよび侍りしとかや、やがて冷泉黄門為綱卿に申させ給ひしかバ、求に應じて新に八景の題を組て給ハりぬ。相公 題を諸家へわかちくばりたまひしに、正徳五年仲夏の比、詠歌も出来、各染筆も相調しかバ、同年六月中三日、恭しく大明神の珍の廣前に捧奉りぬ。

ここには、柏村直條の名が見えていますが、
それは、宮島の光明院の恕信に八景題詠のことを“しきりに勧め誘”い、
恕信とともに、風早公長のもとに八景題詠のことを依頼しにいった人としてです。

嚴島神社に八景和歌(「光」軸)を奉納した時点で恕信が記した序文には、*2

(恕信は)年来の心ざしをさゝやき侍りしに、翁(直條)打ちうなづきてやミぬ。

とあって、『厳島八景』に記すところとは微妙に異なっています。*3
厳島八景の成立した正徳五年(1715)から、
『厳島八景』が刊行された元文四年(1739)までの約四半世紀の間に、
恕信の中で、柏村直條に対する認識が何か変質しているように思えてなりません。

2023年11月29日

*1 高橋修三「翻刻『厳島八景』」(『宮島の歴史と民俗』11号、1994年)。
*2 朝倉尚「「厳島八景」考―正徳年間の動向―」(『瀬戸内海地域史研究』2号、1989年)を参照。
*3 拙論「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)で言及している。

追記:柏村直條と厳島八景

昨日の続きです。)
柏村直樹先生にいただいた『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』により、*1
柏村直條こそが厳島八景成立の立役者であったことを、
はっきりと確認できる事柄が二三ありました。
以下、拙論への追補として記します。*2

それは、まず風早公長との関係です。
拙論では、公長の「八景和歌跋」(『厳島八景』上巻)にいう、

頃日有僧恕信者、来請遺佳景於篇詠
(先頃、恕信なる僧が、そのすばらしい景色を歌に詠じてほしいと依頼してきた。)

といった表現から、
恕信と風早公長とはそれほど親しい間柄ではないだろう、
柏村直條が言及されていないのは、むしろ両者の関係の気安さ故であろう、
ということを推し測るところまでで終わりました。

ところが、上記の資料『翻刻柏亭日記』を見ると、
柏村直條は、父の直能の代から、風早家と付き合いがあることが確認できました。
風早公長の名が『日記』に登場するのは、巻の一、元禄九年(1696)八月十五日ですが、
それ以前、二十代の頃にも、父の育てた牡丹の切り花を風早家に届けたり、
その数年後、風早公長が放生会の勤仕からの帰途、直條宅を訪れたりしていることが、
本資料所収の安立俊夫氏による「柏村直條の説明と略年譜」から知られました。
二人の生没年は、直條(1661―1740)、公長(1665―1723)で、わずか四歳差です。
身分は異なってはいても、ほとんど幼馴染といってよい間柄であったと想像されます。

次には、直條と里村家との関係です。
拙論では、たとえば里村昌純の「厳島八景発句」の序にいう、
「彼島の光明院恕信といへる大徳」等々の表現から、
里村家は、恕信とは少し距離のある間柄であろうということを推測し、
他方、里村家と柏村家とは「厳島八景発句」以前にも連歌の会を催していることから、
直條と里村家とは旧知の間柄であったのだろうと推測したところまででした。

ところが、前掲「柏村直條の説明と略年譜」によると、
直條の妹の真(さな)は、里村昌純(1649―1723)に嫁しています。
姻戚関係という非常に親密な間柄であったことを知りました。

柏村直條という人は、実に様々な人々と交友関係を持っていて、
その信頼関係があればこそ、厳島八景の成立も実現したのだと確信しました。

2023年11月28日

*1『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』古文書の会八幡編集・発行、2013年輪読開始、2017年輪読終了、2018年発行。
*2「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)。

再び厳島八景と南京八景とについて

厳島八景と南京八景の近しさについて、
これまでに何度か述べたことがあります(直近では、2023年3月17日)。

その際、両者の関連性について、次のような見通しを立てました。
2023年3月16日の雑記に記しています。)

イ)厳島八景の事実上の選定者は、石清水八幡宮の柏村直條である。
ロ)柏村直條は、石清水八幡宮周辺の美景、男山八景(八幡八景)を選定した。
ハ)柏村直條は、男山八景の選定に当たって、
  南京八景(奈良の八景)を念頭においていたのではないか。
ニ)柏村直條は、厳島八景の選定に当たって、
  男山八景とともに、それに影響を与えた南京八景をも想起したのではないか。

以上のうち、イ)ロ)については事実であると明言できます。*
ハ)ニ)については、これまで各八景の題目の類似性から推測するばかりだったのですが、
このたび、それが事実であることを示唆する研究に出会うことができました。

それは、竹内千代子・小西亘・土井三郎三氏による、
『石清水八幡宮『八幡八景』を読む』(昭英社、2023年)です。

この研究成果をご教示くださった柏村直樹先生に、衷心より御礼申し上げます。
柏村直樹先生は、直條の直系のご子孫でいらっしゃいます。

その中に紹介されていた里村昌陸による『八幡八景(男山八景)』序に、

直條は社参の折々、山上山下、名ある所に八の景色を望みて大和(南都八景)、もろこし(瀟湘八景)の例にならひ、これを和歌につらね置れば、後のよ迄の風流、かつは男山の面目ならんと、京にのぼりて有栖川の宮へ申上られしに、……

とあって、
直條が八幡八景を選定する際に、
南都八景と瀟湘八景とを参照したことが明記されています。

この序を記した里村昌陸(1639―1707)は、
柏村直條の妹が嫁いだ里村昌純(1649―1723)の兄に当たります。

すると、その内容は信頼できると判断してよいでしょう。
もしかしたら、直條自身から聞き取ったことなのかもしれません。

この『八幡八景』は、
東京都立中央図書館の加賀文庫に、
正徳六年、昭和九年の写本二種が蔵せられていて、
今週末、それらを閲覧させていただけることになりました。
仮名のくずし字は私には読めないでしょうが、目睹するだけでもという気持ちです。

2023年11月27日

*拙論「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直条」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)、「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)pp.111―130を参照されたい。

曹植とその周辺の人々

「贈丁廙」詩の解釈は、再考する必要があると先日述べました。
このことに関連して、本詩の冒頭四句も捉えなおした方がよいと考えます。

嘉賓填城闕  立派な賓客たちが宮殿を埋め尽くし、
豊膳出中厨  厨房の中からは素晴らしい食膳が運び出されてくる。
吾与二三子  私は気心知れた二三の友人たちと、
曲宴此城隅  この宮城の片隅で内輪の酒宴を設ける。

宮殿の中央で盛大に催される宴に対して、
その片隅で、気心知れた者だけで囲む私的な宴席を詠ずるとは、
ずいぶんとひがみっぽいように以前は感じていました。

ただ、そうすると続く四句とうまくつながりません。
この後には、音楽や酒肴など華やかな宴席風景が繰り広げられているのです。

そこで想起したいのが、先日提示した本詩解釈への新たな視点です。
すなわち、曹植は「朋友」に向けて魏王国への仕官の可能性を指し示している、
臨淄侯である自身のもとを去って、魏国側の人間になるよう勧めているのではないか、
と捉える見方です。

そうした別れと励ましの言葉を、
にぎやかな宴席の情景とともに詠じたのが本詩なのかもしれません。
そこに一瞬、曹植の横顔をみたような思いがしました。

2023年11月24日

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