曹植の作品目録
こんにちは。
曹植の息子、曹志について、
かつてこちらで言及したことがあります。
その時は『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『志別伝』に拠りましたが、
西晋の武帝司馬炎に一目置かれた曹志は、『晋書』にも伝が立てられています。
その巻50・曹志伝に、曹植に関わる次のような記事が見えています。*
司馬炎が、「六代論」(『文選』巻52に曹冏の作として収載)を取り上げて、
曹志に「これは君の先王の作なのか」と問うたのに対する彼の返答、
先王有手所作目録、請帰尋按。
先の王には手ずから作成した目録がございますので、帰って確認させてください。
これにより、曹植が自身の作品を大切に保管していたことが知られます。
曹植はその晩年に当たる明帝期の太和二年(228)、
「求自試表」に次いで著した文章(『三国志(魏志)』本伝裴注引『魏略』)において、
三つの不朽(立德、立功、立言)のうち、「立言」のみを外しています。
つまり、文学作品によって後世に名を残すということを、
当時の曹植は、それほど強く意識していなかったと表面上は認められるのです。
ですが、曹植が自ら作品目録を作成していたことを知って、
彼の文学への思いを、そんなふうに単純化することはできないと思い直しました。
それに、上記『魏略』に引く文章にも、その最後に次のようにあります。
嗚呼、言之未用、欲使後之君子知吾意者也。
ああ、言葉(「求自試表」で述べた言葉)が用いられないなら、
(せめて)後世の君子に、
私の思い(自ら試されんことを求める真意)を知ってほしいと願うものである。
2022年3月9日
*この記事は、曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)p.209によって教えられた。
曹植「応詔詩」札記4
おはようございます。
一昨日、曹植「応詔詩」の訳注稿を公開しました。
訳注作業をしながら気づいたことなどを、今日も書き留めます。
本作品において、『詩経』のある一句の一部分を引きながら、
典拠となった詩篇の文脈が意識されている可能性のある句を先に示しました。
このほか、『詩経』の一句をそのまま引いている事例もあります。
先行研究も夙に指摘している次の二例です。
第32句「再寝再興(再(すなは)ち寝ね再ち興く)」は、
『詩経』の秦風「小戎」の中の一句、
結びの第48句「憂心如酲(憂心 酲するが如し)」は、
小雅「節南山」の一句をそのまま用いたものです。
これらは、『詩経』の文脈を反映していると考えるのが自然だろうと思います。
ただ、典故とそれを踏まえた曹植詩との関係は屈折しています。
第32句が踏まえる秦風「小戎」のこの句の前には、
「言念君子(言(われ)は君子を念ふ)」という句がありますが、
この『詩経』の句と曹植詩とは直結しません。
曹植詩の方は、この句の前に「騑驂倦路(騑驂は路に倦み)」とあって、
険しい道をゆきなやむ添え馬のことを詠じており、
これと、「再寝再興(寝ても覚めても)」とはまっすぐにはつながらないのです。
しかも、『詩経』では、「君子を念う」のは、従軍する夫を思う妻の側です。
岩波文庫『文選 詩篇(一)』に指摘するとおり、*
この句には、曹植の曹丕に対する思いが伏流しているのだろうと私も思います。
では、曹植はなぜそれをこのような方法で隠微に表現したのでしょうか。
一方、曹植詩の結びに用いられた小雅「節南山」の前掲句は、
その後に「誰秉国成(誰か国の成(たひ)らかなるを秉(と)らん)」と続きます。
岩波文庫『文選』は、この典故を指摘した後、
「その文脈を意識して用いたとすれば曹丕に対する微意を含むことになる。」
と付記しています。
一首の結びに『詩経』の句をそのまま用いている、
そこには、曹植の強い思いがあったと考えないわけにはいきません。
ただ、それがどのような思いなのかは、もう少し検討してみないとわかりません。
2022年3月5日
*『文選 詩篇(一)』(岩波文庫、2018年)p.126を参照。
曹植「応詔詩」札記3
こんばんは。
曹植「応詔詩」には、
随所に『詩経』の辞句が用いられています。
彼はどこまで、もとの『詩経』の文脈を意識しているのでしょうか。
たとえば、洛陽へ向かう途上の情景を描写した第27句、
「遵彼河滸(彼の河の滸(ほとり)に遵(したが)ひ」の「河滸」について、
『毛詩』王風「葛藟」に「綿綿葛藟、在河之滸(綿綿たる葛藟、河の滸に在り)」、
その毛伝に「水厓曰滸(水厓を滸と曰ふ)」とあることを、
『文選』李善注(巻20)は指摘しています。
けれど、李善は語句の説明をしただけだとしてしまってよいものかどうか。
というのは、『毛詩』王風「葛藟」に当たってみると、
この後に、次のような句が続いているからです。
「終遠兄弟、謂他人父(終に兄弟に遠ざかり、他人を父と謂ふ)」。
これを踏まえて解釈するならば、
「葛藟」の繁茂する「河滸」は、分断された骨肉のイメージを伴ったはずです。
曹植は、このイメージを自身の詩に重ねるため、「河滸」の語を用いたのかもしれません。
「遵彼河滸」の「彼」が、そのことを示唆しているように感じます。
「あの」葛かずらが茂る「河の滸」、とわざわざ指し示しているのですから。
いや、それはただ単に語調を整えただけだ、
特に意味のない虚詞に意味を見出そうというのは考えすぎだ、
という人もいるかもしれませんが。
2022年3月2日
曹植「応詔詩」札記2
こんばんは。
昨日に続き、曹植「応詔詩」に関して考えたことです。
第36句「指日遄征」の「指日」を、
先行する訳注では、特段の注記がないか、
あるいは「定められた期日を厳守して」のような意味で捉えています。*1
それを、文字どおり、現実に、
「太陽を目指して」と取ることはできないでしょうか。
本詩が作られた黄初四年(223)当時、
曹植が封ぜられていたのは、鄄城(山東省)、もしくは雍丘(河南省)で、*2
そこから都の洛陽に向かいつつ「日を指す」となると、
太陽は西方に懸かっていることになります。
それは、これから西の地平線に向かって落ちてゆく白日です。
曹植の詩歌には、西に傾く太陽を、時間的切迫感とともに詠ずるものが少なくありません。
『文選』所収作品では、たとえば次のような詩句を挙げることができます。
○「贈徐幹」(巻24)に、
「驚風飄白日、忽然帰西山(驚風 白日を飄(ひるがへ)し、忽然として西山に帰る)」、
○「贈白馬王彪」(巻24)に、
「白日忽西匿(白日 忽として西に匿(かく)る)」、
○「箜篌引」(巻27)に、
「驚風飄白日、光景馳西流(驚風 白日を飄(ひるがへ)し、光景 馳せて西に流る)」
という具合に。
そして、こうした詩想は、漢魏の作品に少なからず認められます。
たとえば、
○『文選』巻24、「贈徐幹」曹植の李善注に引く「古歩出夏門行」に、
「行行復行行、白日薄西山(行き行きて復た行き行き、白日は西山に薄(せま)る)」、
○劉向「九歎・遠逝」(『楚辞章句』巻16)に、
「日杳杳而西頽兮、路長遠而窘迫(日は杳杳として西に頽れ、路は長く遠くして窘迫す)」、
○秦嘉「贈婦詩」(『玉台新詠』巻9)に、
「曖曖白日、引曜西傾(曖曖たる白日、曜(ひかり)を引きて西に傾く)」、
○王粲「従軍詩五首」其三(『文選』巻27)に、
「白日半西山、桑梓有餘暉(白日は西の山に半ばして、桑梓には餘暉有り)」、
○曹丕「寡婦詩」(『藝文類聚』巻34)に、
「妾心感兮惆悵、白日急兮西頽(妾が心は感じて惆悵す、白日は急にして西に頽る)」
という具合に。
曹植の詠じた「指日」という詩語は、
『漢語大詞典』に挙げられた用例などを見ると、
後世、たしかに「遠からず、期日までに」といった意味を持つようになっています。
この語が次第にそうした意味を帯びて熟していったのも、
漢魏の時代、「白日」が上述のようなイメージを纏っていたからかもしれません。
ちなみに、潘岳「関中詩」(『文選』巻20)に、
曹植のこの詩句をほぼそのまま踏襲して、
「指日遄逝(日を指して遄(すみ)やかに逝く)」とあります。*3
曹植のこの表現は、当時にあっても際立って印象深いものだったのでしょう。
2022年3月1日
*1 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.77に、「日を天子または都のたとえとして用いたと考えたい。また時間の推移をあらわすものと考えることも可能だ」とあるのが他とはやや異なる解釈である。
*2 『魏志』巻19本伝には、「(黄初)四年、徙封雍丘王。其年、朝京都(これに続けて、いわゆる「上責躬応詔詩表」「責躬詩」「応詔詩」が引かれる)」と記され、これはいずれとも取り得る記し方である。このことについては、かつてこちらでも検討したが、なお未詳である。
*3 花房英樹『文選 三』(集英社・全釈漢文大系、1974年)p.70、79に指摘する。
曹植「応詔詩」札記1
こんにちは。
曹植「応詔詩」(『文選』巻20)を読んでいて、目に留まったことを記します。
この詩は、先に読んだ「責躬詩」と同じく、
黄初四年(223)、文帝曹丕に呼び寄せられて上京した際に献上されたもので、
『魏志』巻19・陳思王植伝にも収録されています。*1
詩中には、都洛陽へ赴く途上の情景や心情が細やかに描き出されていますが、
終盤に差し掛かった32句目以降に、次のような表現が見えています。
33 将朝聖皇 これから聖なる皇帝に謁見しようというのだから、
34 匪敢晏寧 とても平穏な気持ちではいられない。
35 弭節長騖 手綱をしっかりと抑えて長い道のりを馳せ、
36 指日遄征 西へ懸かる白日を目指して、速やかに進んでゆく。
34句目の「弭節(節を弭す)」について、李善注は、
『楚辞』離騒にいう「吾令羲和弭節兮(吾は羲和をして節を弭せしむ)」を挙げ、
王逸注によれば、それは馬の走行を抑えてゆっくり行くことを意味します。
ところが、そうすると、下に続く「長騖(長く騖(は)す)」とも、
次の句の「遄征(遄(すみ)やかに征く)」とも矛盾します。
このことを踏まえて、どう解釈したものでしょうか。
伊藤正文氏は「弭節」を、時には車を止めて休息するという意に解釈しています。*2
また、近年刊行の岩波文庫『文選』では、下に続く「長騖」と併せて、
「緩歩したり疾駆したりを繰り返して前進すること」と説明されています。*3
いずれも、「弭節」と「長騖」とを別の方向性を持つ動作と捉えている点では同じです。
ですが、ここは、その矛盾をそのままに捉えることはできないでしょうか。
この一句を、手綱を引き絞りつつ、長い道のりを疾走したことをいうものと捉え、
はやる気持ちと、それを努めて落ち着かせようとする、
引き裂かれた気持ちの現れと見る解釈です。
2022年2月28日
*1 『魏志』本伝には、両詩を献上する文章(『文選』巻20には「上責躬応詔詩表」と題して収録)に続けて、「責躬詩」「応詔詩」の順で収載されている。
*2 この矛盾については、伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.76~77に詳しく論じられている。
*3 川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹訳注『文選 詩篇(一)』(岩波文庫、2018年)p.126を参照。
先人との出会い
こんにちは。
何かと出会うのには時機があるとつくづく思います。
昨日、『詩経』関係の論著を図書館から借りてきました。
そして帰宅後、それとは別の、同じ著者による本があることに気づきました。
目加田誠著『詩経』(日本評論社、1943年)という、長い歳月を経たたたずまいの本。*1
自分で買ったのではなくて、ある方からいただいたものです。
学生時代、いつも目加田誠先生の眼差しの下で勉強していました。
研究室の壁に、先生の肖像写真が掛かっていたのです。
けれど、先生の著書に対しては近づこうともしませんでした。
若さとは無知で傲慢で粗野なものだと思います。
六朝期末の五言詩評論、鍾嶸『詩品』の上品に、
曹植の詩は、『詩経』国風にその源流があると論じられています。
たしかに、彼の詩には『詩経』に由来する語が頻見します。
けれども、今、そうした表現を精査する際、
多くは、完本の伝わる『毛詩』に拠らざるを得ません。
伊藤正文氏がつとに指摘しているとおり、*2
曹植は、「韓詩」によって『詩経』を学んだようですが、
その彼が捉えていた『詩経』的文学世界を、
政治的な色彩の濃い『毛詩』によって推し測っているのが現状です。
しかし、目加田誠の『詩経』研究によって、
少なくとも『毛詩』(毛伝・鄭箋・正義)の呪縛から解き放たれ、
まだ三家詩(斉詩・魯詩・韓詩)が活きていた漢魏の頃の、
曹植が触れていた『詩経』の纏う空気を想像できるようになるかもしれません。
2022年2月18日
*1 目加田誠『詩経』は、1991年、講談社学術文庫として再刊された。このことは、野間文史『五経入門:中国古典の世界』(研文出版、2014年)第四章「詩(毛詩・詩経)」から教わった。
*2 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.22を参照。
先行研究との対話(承前)
こんばんは。
曹道衡は、曹植を政治的野心を持った人物として捉えているようだが、
若い頃の作品を見る限り、そこに現れる曹植の人物像は必ずしもそうではない、
という趣旨の私見を昨日述べました。
これ、実はものすごく常識的なことを今更ながらに言っていると思います。
たとえば、とっくに吉川幸次郎「三国志実録 曹植兄弟」の中に、*
“曹植は兄の曹丕よりもより多く詩人であった”
というふうな言葉が見えていますから。
しかし、吉川幸次郎だから、このような表現が認められるのであって、
自分が同じことを同様の言葉で書くわけにはいきません。
自分としては、その主張を証明するために作品の表現に目を凝らすのではなく、
彼の作品を精読していると、頻繁に立ち止まらせられるのです。
なぜこんなことを唐突に言い始めたのか、
全体として構成がひどくアンバランスではないか、
こんなことを面と向かって言うのはあまりに失礼ではないか、等々。
それをなぜかと考えていけば、思いがけない人物像や事の経緯が垣間見えてくる、
それが私の読み方であり、考察の深め方です。
たいへん面倒くさい話をしているのだろうと思います。
けれども、自分にはこれがとても面白いし考えがいもあるものです。
ただ、学生には卒論ゼミに選んではもらえません。
もちろん自分の研究内容を授業で全開にしたりはしていませんがそれでも。
ちなみに、吉川幸次郎の「三国志実録」は一般の人向けに書かれたものです。
世間の人々も興味を持って読んでいたのかと思うと愕然とします。
2022年2月15日
*『吉川幸次郎全集7』(筑摩書房、1968年)所収。初出は、1958年1~12月『新潮』。
先行研究との対話
こんばんは。
以前にも書いたことがあるような気がしますが、
私は基本的に、作品を読む前に先行研究を読むということをしません。
先行研究は、あくまでも作品について語り合う、対話の相手だと思っています。
人によっては、これはとても傲慢なことと感じられるかもしれません。
ですが、作品そのものに向き合うということにかけては謙虚であると思っています。
(作品を自分の好きなように読んでよいとは思っていないので。)
そんなわけで、今の「対話の相手」は曹道衡と吉川幸次郎です。
いや、「対話の相手」ではなくて、お話を伺うという方が正確ですが。
で、お話を伺いながら、なぜだろう、そうだろうか、と思うことが出てきます。
たとえば、曹道衡の論ずる曹植の人物像について。*
曹道衡論文は、曹植を政治的な野心のある人物であるように捉えています。
けれども、これが私には腑に落ちません。
もっとも、曹植とほぼ同時代の魚豢も、
これに類する批評を彼に対して下しています(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注)。
そうすると、それは、仮に同じ時代の中に身を置いていたとしても、
第三者から見た人物像と、作品の中に立ち現れる本人との間には落差があるということでしょうか。
私が向き合いたいと思うのは、この作品中の本人とです。
曹植の晩年の作には、王朝運営への参画を切望する言葉が目立ちますが、
それ以前の、彼がまだ恵まれた境遇にあった建安年間の作、
たとえば「与楊徳祖書」にも、たしかにそうした野心が述べられてはいます。
けれども、それは当時の人としてはごく常識的な姿勢でしょう。
むしろ彼の個性は、文学創作への情熱の方に傾いているように見えます。
本作品の文脈をきちんと押さえて読んでいけば、
そのことを明らかにできるのではないかと考えています。
2022年2月14日
*曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)
「雑詩」と現実
こんばんは。
昨日、曹植の「雑詩六首」其一を、
魏王朝から疎外された呉王曹彪への思いを詠じたものと捉えました。
このことについて、ひとつ言い忘れたことがあります。
それは、そもそもなぜ、
「雑詩」のような抽象度の高い作品を、
具体的な現実と結びつけて解釈する必要性があるのか、という問題です。
曹植の「雑詩六首」を収録する『文選』巻29は、
漢代詠み人知らずの五言詩「古詩十九首」から始まります。
曹植「雑詩」も、「古詩」に倣う語辞を少なからず含んでいますし、
その一首目にも詠じられていた離別のテーマは、古詩には常套的なものです。
それなら、この作品群を、
人口に膾炙した「古詩」を模倣して見せた、
遊戯的な作品と捉えることも可能ではないでしょうか。
ですが、そう考えてみると途端に不明瞭な点が出てきます。
なぜ、冒頭の二句は、あのように曹丕の楽府詩を彷彿とさせる表現なのか。
なぜ、詩中で思いを寄せられている相手は、遠い南方の水辺にいて、
その人は「之子」と親密な呼び方をされているのか。
典型的な「古詩」的世界から外れる表現はどこからきたのか、
なぜその言葉でなくてはならなかったのか、
それが見えなくなるのです。
この具体的なディテールをしかと捉えることなくしては、
詩人の思いはもちろん、その作品のもつ美も感じ取ることができません。
2022年2月2日
曹植の孤絶
こんばんは。
曹植の「雑詩六首」其一(『文選』巻29)は、
多くの注釈者が、呉王である弟の曹彪を想っての作だと解釈しています。*
この種の、現実と詩の内容とを直結させる見方の中には、
すぐには賛同できないものも少なくありません。
しかし、こと本作品に関しては、私は躊躇なくこの見方に同意します。
その理由はこちらにも少し述べていますが、
(作品の本文、及び通釈、語釈についてはこちらをご覧ください。)
簡単に述べればこういうことです。
冒頭の1・2句目は、文帝期の曹魏王朝を強く想起させます。
続く3句目以降、遠い南方にいて、会いたくても会えない人への思いが詠じられます。
そうすると、この時期、南方にいた、曹植にとって大切な人としては、
呉王であった曹彪を措いて他には考えにくいのです。
このことを改めて確認して、
氷の塊を呑み込まされたような気持ちになりました。
別の時代であれば、文人たちの交友関係は広範に及ぶでしょう。
どんなに時代が厳しくても、心を通わせられる友人のひとりはいたでしょう。
ところが、魏王朝成立後の曹植は違います。
父が存命中であった建安年間は、
多くの才能豊かな文人たちと自由闊達な遊びを繰り広げていた彼ですが、
その友人たち(王粲・徐幹・陳琳・応瑒・劉楨)は、
建安22年(217)、流行り病によって一遍に亡くなります。
建安24年(219)には、曹植のよき理解者であった楊修が、
ほかならぬ父曹操によって殺されています。
更にその翌年(220)には、魏王として即位した兄の曹丕によって、
彼の腹心であった丁儀・丁廙が誅殺されています。
そして、同年(220)末に魏王朝が成立すると、
曹植をはじめ、文帝曹丕の弟たちはみな封土への赴任を命じられ、
兄弟間の相互交流は禁じられました。
少し時期が下りますが(その晩年に近い明帝期)、
曹植の「求通親親表」(『文選』巻37)にこうあります。
毎四節之会、塊然独処、
左右唯僕隷、所対惟妻子、
高談無所与陳、発義無所与展、
未嘗不聞楽而撫心、臨觴而歎息也。
季節ごとの会が催されるごとに、ぽつんとひとりでいる。
左右にいる者は下僕ばかりで、向かい合うのは妻子ばかりだ。
共に清談に興じる相手もなく、共に議論を展開させる相手もいない。
いつも音楽を聴いては胸を打ち、杯を前にしてはため息をつかないではいられない。
こうした孤絶の中で、
限られた親しい兄弟への思いが募るのは当然のことでした。
2022年2月1日
*後藤秋正「曹植「雑詩六首」論考」(『漢文学会会報』31、1972年)は、本詩を特定の人物と結びつけて解釈することには否定的な立場を取っている。