不自然な閨怨詩
こんばんは。
授業で曹植「雑詩六首」其三(『文選』巻29)を読んでいて、
留学生たちから次のような疑問があがりました。
下に示す末尾の二句についてです。
願為南流景 願はくは南流の景と為り、
馳光見我君 光を馳せて我が君に見(まみ)えん。
ここにいう「景」は、太陽の光か、月の光か。
もし、太陽の光だとするならば、
女性を主人公とするこの詩にはそぐわないのではないか。
なぜならば、女性は、月(陰)に結び付けられるのが普通だから。
女性が自ら太陽(陽)になりたいというのは不自然だと思う。
このような内容の問題提起です。
指摘されるまで、私はこの不自然さに気づいていませんでした。
言われてみればたしかにそのとおりです。
曹植の「雑詩」は、
漢代詩歌の枠組みを用いながら、
彼自身の思いを表現しようとしているように思われます。
彼が切実に表現したかったその内容は、
前代の詩歌という依り代を必要とするものだったのでしょう。
そうしたことが、このような小さな亀裂の中に読み取れるように思います。
単なる閨怨詩を遊戯的に作ってみただけならば、
あのような不自然な表現は為されるはずがなかったでしょうから。
2022年5月31日
複雑な心情表現
こんばんは。
学部の演習科目の授業では、
毎回の内容について、質問を書いてもらうことにしています。
今日、それをまとめていて思わず立ち止まったのは、
二重否定や反語などを使った表現について、
これだとわかりにくい、
相手に伝わらないのではないか、
といった感想が少なからずあったことでした。
人は、笑いの裏で涙を流すこともあるし、
強い否定が、それへの愛着を秘めていることもあるのに。
そして、屈折する言葉によってしか表現できない心情もあるのに。
高校の時からプレゼンテーションのノウハウを学ぶためか、
この何年間か、急にこうした感想が目立つようになってきました。
学生の発表について相互にコメントしあう場合も、
圧倒的に多い誉め言葉は、「わかりやすかった」「伝わった」です。
わかりにくいことが、そのまま価値を持つとは思いませんが、
自分でも模索しているときの言葉は、様々に屈曲してストレートにはいきません。
そのような模索を経た後に、それを相手に伝わるように表現するのです。
複雑な感情表現を持つ作品をまるごと受け留めた後に、
分析し、その結果を、第三者から見てもわかるように論述するのです。
わかりやすい、という言葉が独り歩きする世界も、
人に伝えるつもりのない表現が裸の王様のようにのし歩く世界も、
あまり居心地がよいようには思えません。
2022年5月18日
古代の書物に引く俗文学
こんばんは。
「雑詩六首」其二(『文選』巻29)の語釈を追補修正する中で、
同じ故事が、異なる書物に引用されている事例に、また目が留まりました。
第一句「転蓬離本根(転蓬 本根を離る)」について、
李善注が指摘する『説苑』の記事、
すなわち、若くして祖国を棄てて斉に出奔した魯の哀公が、
逃亡先の斉侯に対して、自身の立場の脆弱さを比喩的に述べていう、
「是猶秋蓬悪於根本而美於枝葉、秋風一起、根且抜矣
(是れ猶ほ秋蓬の根本を悪くして枝葉を美しくし、
秋風一たび起こらば、根は且(まさ)に抜けんとするがごとし)」がそれです。
『説苑』敬慎篇に見えるこの故事と辞句は、
『晏子春秋』内篇雑上「景公賢魯昭公去国而自悔晏子謂無及已」にも引かれています。
斉へ逃亡した人が、魯の哀公ではなくて昭公であったり、
先に挙げた科白の中の辞句が少し異なって、
「譬之猶秋蓬也、孤其根而美枝葉、秋風一至、根且拔矣
(之を譬ふれば猶ほ秋蓬のごとくして、其の根を孤にして枝葉を美しくし、
秋風一たび至らば、根は且に拔けんとするがごとし)」であったりの違いはありますが、
基本的には、話の筋は同じですし、要となる表現も同じです。
一昨日も述べたのですが、
これらはもともと口頭で伝わる故事だったのかもしれません。
思えば、古い時代の書物には、
孝子曹参とその母の故事(この記事の致命的な誤記を修正しました)や、
孔子の師となった子ども項橐の故事など、
文献上にはその話のほんの一部しか記されていない、
つまり、その話が周知であることを前提とするような記述が見えます。
(そうした話は往々にして画像石に描かれています。)
これも、民間に流布する口承文芸のようなものだったのでしょう。
曹植作品には、そのような俗文芸が多く取り込まれているようです。
もっとも、曹植には伝存する作品数が多いので、
そのことが際立って見えるということなのかもしれませんが。
2022年5月17日
暗中迷路
こんばんは。
昨日、曹植の「矯志」詩は、
古代の通俗的な教訓詩の系統に連なるのではないかと述べました。
本日、『曹集詮評』巻六の校勘作業を行っている中で、
「頌」の文体が、「矯志」詩によく似た雰囲気を持つことに目が留まりました。
「頌」は本来ほめ歌のはずですが、称賛はよき規範の提示でもあり、
いきおいそれは教訓的になるということでしょうか。
他方、黄節『曹子建詩註』に言及されていたのは、
「臨淄矯志、大類銘箴(臨淄(曹植)の「矯志」は、大いに銘・箴に類す)」という、
明の胡応麟『詩藪』巻一・古体上・雑言に見えている批評です。
四言詩「矯志」と、頌と、箴とは類似する部分を持っているようです。
けれども、たとえば『文心雕龍』では、
「頌讃」と「銘箴」とは、別々に項目立てられています。
その文体の発祥や、当初の用途が異なっていることを踏まえてでしょうか。
出口のない迷路に入り込んだような気分です。
というより、そもそも路に迷っているのは自分だけかもしれない。
退職も近いというのに、いまだに伸びしろしかありません。
あと、「曹植作品訳注稿」の「雑詩六首」其二(04-05-2)、
語釈に大幅な遺漏があることに気づきました。
近日中に追補修正します。
2022年5月16日
世俗的な教訓詩
こんばんは。
曹植の「矯志」という四言詩を読んでいます。
非常に多くの古典語や故事が踏まえられているのですが、
黄節ら先人の注釈書に導かれながらその典拠をたどっていると、
(更に、その典拠である書物の、先人による注釈書を紐解いてみると)
複数の書物に、同じような言葉や故事が記されている例によく遭遇します。
たとえば、
カマを振り上げる螳蜋(カマキリ)に怖気づいて軍を撤退した斉の荘公は、
『韓詩外伝』巻八にも、『淮南子』人間篇にも見えますし、
勇士を募るため、怒った蛙に対して敬礼してみせた越王の故事は、
『韓非子』内儲説上にも、『尹文子』大道上にも見えているという具合です。
(更に多くの他書にも引かれているかもしれません。)
これは、どういうことでしょうか。
思うに、複数ある書物の中のいずれかが源流というわけではなくて、
周知の故事や言葉を、それぞれの書物が書き留めたということかと考えます。
そして、それら周知の言葉や故事は、
経書のようないわゆる古典とは少し肌合いが異なっていて、やや通俗的です。
口頭で広く流布していた故事や言葉である可能性もあります。
もしかしたら、曹植の「矯志」詩そのものが、
古代によくある通俗的な教訓詩の系譜を引く作品なのかもしれません。*
ならば、そうした作品に通俗的な典故が引かれるのは自然なことだろうと思います。
2022年5月15日
*鄭振鐸『俗文学史』第二章「古代的歌謡」第七節を参照。
再び想起する張華
こんばんは。
昨日まで連続して書いてきた「清商三調」と「大曲」との関係について、
なんと二年前にも同じ内容で考察していたことに気づきました。
それで、「大曲」及びそれに続く楚調「怨詩行」の編者は、
荀勗以外の誰か、たとえば張華であった可能性はないかと考えていたのですが、
このこともすでに、一年半ほど前に述べていました。
こちらやこちらの記事がそれです。
自分の耄碌ぶりにがっくりきます。
(考察は螺旋状に深化していくものではあるけれど。)
やっぱりメモは見返していく必要があると思いなおしました。
(このこと自体も、かつて書いていながら、実行できていませんでした。)
このところ、なぜ「大曲」や張華のことを想起したかというと、
曹植との関わり、曹植作品の近い時代の人々への波及、という観点からです。
「大曲」や楚調「怨詩行」は、
西晋時代のものと見てほぼ間違いないでしょう。
こうした宮廷音楽は、西晋王朝の滅亡とともに散逸し、
その復元は、南朝の劉宋時代まで待たねばなりませんでしたから。
(先日来頻繁に言及している王僧虔「技録」は、この南朝宋の産物です。)
その西晋時代に編成された歌曲群の中に、
曹植による歌辞の歌曲が二篇あることに興味を引かれます。
武帝曹操、文帝曹丕、明帝曹叡の歌辞、及び漢代の古辞に交じって、
曹植「野田黄雀行・置酒」(『文選』巻27では「箜篌引」と題されている)や、
曹植「七哀詩」をその歌辞に用いる楚調曲「怨詩行」が演奏されている、
そのことの意味を再度考え直したいのです。
荀勗にはそうした動機が生ずるとは考えにくいのですが、
張華においてはその可能性が十分にあります。
また、曹植と陸機との接点も、張華を中に置くと理解できるかもしれません。
(まだうまく言葉にできない段階のものを書き記しておきます。)
2022年5月14日
「清商三調」と「大曲」(承前)
こんばんは。
『宋書』楽志三に収載する「大曲」は、
「艶歌羅敷行」が、「荀氏録」に瑟調曲とあるほか、
その多くは、王僧虔「大明三年宴楽技録」に瑟調曲として記録されています。
(5月10日に示した一覧表に、こちらの「楽府関係年表」もあわせてご覧ください。)
このうち、「白頭吟」は、
王僧虔「技録」では楚調曲とされていますが、
『宋書』楽志三では「大曲」に組み入れられた上で、
「与櫂歌同調(櫂歌と調を同じくす)」と注記されています。
「櫂歌行」ならば、王僧虔「技録」に瑟調曲として記されています。
同じく「大曲」の中、
武帝と明帝の歌辞をのせる二篇の「歩出夏門行」は、
この楽府題自体は、王僧虔「技録」には見えていないのですが、
『楽府詩集』巻37に、「隴西行」のまたの名を「歩出夏門行」ということが記され、
もしこの説明が正しければ、これもまた瑟調曲だということになります。
「隴西行」は、王氏「技録」に瑟調曲として記されていますので。
こうしてみると、「大曲」はすべて、瑟調曲として演奏されたもののようです。
けれども、これらの曲は、「荀氏録」には瑟調曲として記されてはいませんでした。
また、「荀氏録」には「大曲」に関わる記載もないのでした(5月11日雑記)。
「荀氏録」は、『宋書』楽志三にいう「清商三調」とよく重なり合います(5月10日雑記)。
そして、『宋書』楽志三にいう「清商三調」とは、
「荀勗撰旧詞施用者(荀勗の旧詞を撰して施用する者なり)」、
つまり、西晋の荀勗が、漢魏の歌辞から選び取って、三調の楽曲に乗せた歌曲です。
この「清商三調」と重ならないのが「大曲」という歌曲群です。
以上のことから「大曲」の輪郭を描き出してみると、
それはまず、平・清・瑟の三調とは別次元の範疇に属するもののようです。*
そして、その歌曲群の編成は、荀勗以外の誰かが手掛けたのだろうと推し測られます。
2022年5月13日
*増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社、一九七五年)にも「大曲」に関する論述が見えるが、ここでは、先学とは異なる視点からの私見を述べた。
「清商三調」と「大曲」
こんばんは。
『宋書』楽志三に収載する「清商三調」の中には、
同書に続けて引く「大曲」と楚調「怨詩行」とは含まれないのではないか、
と推し測れることを昨日述べました。
このことについて、ひとつ傍証を補足しておきます。
『楽府詩集』巻43に載せる「大曲」の説明に、
編者の郭茂倩は、『宋書』楽志、次いで『古今楽録』を引いています。
昨日、『宋書』楽志三所収「清商三調」とよく重なると指摘した「荀氏録」は、
『楽府詩集』が引く『古今楽録』に引用されて今に伝わる文献です。
そして、『古今楽録』の撰者である陳の釈智匠は、
必ずや西晋時代の荀勗の歌曲目録を目睹できていたはずです。
一部の歌曲について「今不伝」といったコメントが付されているのは、
まさしく、彼が「荀氏録」を参照できる状態にあったことを物語っています。
もし「大曲」について「荀氏録」が何らかの記述を残していれば、
釈智匠は『古今楽録』にそれを書き留めたはずですし、
郭茂倩は『楽府詩集』にその『古今楽録』を引用したでしょう。
ところが、上記のとおり、『楽府詩集』にはそれが無いのです。
したがって、「荀氏録」には「大曲」に関わる記録はなかったと見るのが妥当です。
2022年5月11日
晋楽所奏「清商三調」
こんばんは。
以前、曹植「七哀詩」を楽府詩に変換した、
楚調「怨詩行・明月」(『宋書』巻21・楽志三)について論じたことがあります。
この徒詩と楽府詩との間にある辞句の違いに着目して、
「怨詩行」が、西晋時代の人々による、曹植への鎮魂歌である可能性を述べたものです。
その際、楚調は、いわゆる「清商三調」の中に含まれるものとして考えました。
ただ、そうすると、「清商三調」の撰者である荀勗が、
この「怨詩行」を晋楽所奏の歌曲として取り込んだ張本人だということになり、
彼という人物の為人や足跡とは相容れないものを感じざるを得ません。
(ことの詳細は、こちらの№43からご覧いただけます。)
また、『宋書』楽志三所収の「清商三調」には、
その歌辞の配列や、選択された楽曲に、少しく偏りがあるように感じます。
気になっていたこれらの点を少しでも明らかにしたいと思い、
改めて、晋楽所奏「清商三調」とは何なのか、整理し直してみました。
こちらの一覧表がそれです。
『楽府詩集』、『宋書』楽志三、王僧虔「技録」、荀勗「荀氏録」所収歌辞の一覧表で、
こちらに公開している「漢魏晋楽府詩一覧」を利用して並べ替えてみたものです。
(各資料の説明は、同ファイルの「説明」シートをご覧ください。)
こうしてみると、平・清・瑟の三調曲については、
「荀氏録」と『宋書』楽志三とは、よく重なることに気づかされます。
他方、『宋書』楽志所収の「大曲」諸歌辞と楚調「怨詩行」は、
「荀氏録」には記録が見当たりません。
もっとも、「荀氏録」は釈智匠『古今楽録』(『楽府詩集』所引)に引かれて伝わるので、
完全に「無い」とは言い切れないのですが。
それでも、中には、「荀氏録」に瑟調曲として記録されていながら、
『宋書』楽志は「大曲」として収載する「艶歌羅敷行」のような例もありますから、
少なくとも「大曲」と「荀氏録」とは重ならないと見ることができます。
荀勗の撰になる『宋書』楽志三所収「清商三調」に、
「大曲」と楚調「怨詩行」は含まれていなかったと見た方が妥当かもしれません。
2022年5月10日
曹植の政治思想
こんにちは。
本日、曹植「喜雨」詩の訳注稿を公開しました。
大干ばつの後、やっと雨に恵まれたことを喜ぶこの詩は、
『北堂書鈔』巻156に記されて伝わる佚文により、
明帝の太和二年(228)に作られたということが知られます。
そうすると、本詩は「求自試表」(『文選』巻37)と同年の作であり、
また、「惟漢行」の翌年の作と推定されることにもなります。
(もしこちらの所論*が妥当であるならば)
本詩の序文と見られる上記の佚文には、
飢餓に苦しみながらも、それに甘んじている農民のことが記されています。
曹植の眼差しは、干ばつから農民たちの苦境へと広がっているのです。
同種の眼差しは、「贈丁儀」詩(『文選』巻24)にも認められました。
また、「喜雨」詩の一句目に見えている「天覆」という語は、
天が広く世界を覆っていることを意味するのみならず、そこから敷衍して、
天からの使命を受けた天子が、万物に広く恩沢を敷き広げることをも意味します。
つまり、この詩は、「雨を喜ぶ」ことに、
天子の善政を慶賀するという意味が重ねられているのです。
こうした発想は、近代以前の知識人階級にはごく自然なものです。
けれど、明帝期の曹植が置かれた状況を思えば、当然とも言えないかもしれません。
兄の曹丕が文帝として即位した220年以降、この明帝期初めに至るまで、
曹植はずっと王朝運営から疎外された状態にありましたから。
曹植はこうした政治的意欲を若い頃から持っていたように看取されますが、
(ここでいう政治とは、日本語でいう「政治」とは異なります。)
実際の経験を積むことなく時を経てしまっただけに、
その政治思想は、純粋な、観念的なままのそれだったかもしれません。
「野田黄雀行」における半狂乱の有様を見るに、
現実的な力を持たなければ、人ひとり救うこともできない、
このことを、丁氏兄弟を亡くしてはじめて、彼は骨身に刻み付けたと思われます。
けれども、その後の彼は、権力を持つ方向へは向かわなかった、
というより、その選択肢を王朝から与えられなかったというのが現実です。
曹植の政治思想の発露には、
どこか、痛々しさを感じないではいられません。
2022年4月25日
*『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号(2022年3月)に投稿した原稿です。こちらをご覧ください。