時空を超える詩か
こんばんは。
本日、曹植作品訳注稿「05-24 遠遊篇」を公開しました。
少しずつ長い期間にわたって読んでいったためか、
今一つ全体像がつかめていません。
全体の趣旨として、『楚辞』遠遊が踏まえられていることは明らかですが、
個々のディテールが互いにどう関わりあっているのか、
よくわからないところがあるのです。
たとえば、次に示す第13・14句、
将帰謁東父 これから帰って東王父にお会いしようと、
一挙超流沙 飛び立って一挙に流沙を超えてゆくのだ。
「東父」は、それが東王父であれ、東王公を指すのであれ、東方に位置するものです。
ところが、それに謁見するために、砂漠を超えてゆくのだと言っています。
この句の直前に当たる部分には、
「崑崙は本もと吾が宅にして、中州は我が家に非ず」とありますから、
そうすると、西の最果てにいた者が、砂漠を渡って「東父」に会いに行くのでしょうか。
ところが、その前には、東の海上に浮かぶ「方丈」が巨大な亀に載せられています。
その方丈山に戯れているらしい「仙人」や「玉女」の姿を詠じつつ、
本詩の主人公は西方の崑崙山へと思いを馳せていくのです。
詩句の並びを律儀にたどっていくならば、
東方海上の方丈山から、西の果ての崑崙山、そして再び東方へと、
場面(主人公の意識)が目まぐるしく移動します。
この詩を詠じている人は、仙人とともに時空間を自在に飛翔しているのだ、
と、ざっくり解釈すればよいのでしょうか。
細かい理屈は飛び越えてしまえ、と曹植が言っているような気もしますが、
なんとなく呑み込みにくい感じが残ります。
2021年7月19日
書物の中の師
こんにちは。
毎日少しずつ曹道衡先生の論集を書き写しています。
読んで論旨を把握するというよりも、その行論の呼吸を血肉化したくて。
なぜ、曹道衡先生なのかというと、
たとえば「相和」と「清商三調」との違いに目をとめた所論など、*1
これまでに共鳴する内容の論文が多かったからです。
共鳴と言えるような、対等な関係でないことはもとより承知していますが、
論文を書く上で先人の所論を引くときは、同じ土俵上に立っています。
ここでいう共鳴とは、そのようなときに感じた思いです。
さて、先日、嵆康「養生論」の一節を引いて、
古人たちは人知を超えた存在をどう認識していたのか、
という積年の疑問について、新たに得たある視点を述べました。
実は、この嵆康の文章を指し示してくださったのが、
ちょうどその日に書写していた曹道衡先生の「魏晋文学」緒論です。*2
そして今日、写し進めていった先で、次のような言葉に出会いました。
郭璞の「注山海経叙(『山海経』に注するの叙)」を引き、
その思惟の筋道が持つある種の合理性を論じた段にこうあります。
因为人们对世上的事物至今还不能有充分的认识,未知的东西还是比已知的要多。
如果因为不认识、不理解而斥为怪诞,一律否认,亦非求知的好方法。
郭璞这段话,实际上意味着当时人想广泛理解世界的努力。
というのは、人々は世の中の事物に対して、今に至るまでまだ十分な認識は得ておらず、
未知のものはなお既知のものよりもきっと多いに違いないからだ。
もし、知らない、理解できない、という理由でこれを退けて荒唐無稽とし、
一律に否認してしまったなら、それは知を探求する良い方法だとは言えないだろう。
郭璞のこの文章は、当時の人が広く世界を理解しようと努力したことを意味しているのだ。
中国の研究者による論文の中で、このような言葉に出会ったのは初めてです。
研究者の世界に身を置いていてよかったと、心底思いました。
2021年7月18日
*1 曹道衡「《相和歌》与《清商三調》」(『文学評論叢刊』第9巻、1981年5月)。
*2 『曹道衡文集』(中州古籍出版社、2018年)巻四「魏晋文学」p.167。この書物は、この雑記の別のところにも引用したことがあります。書写が亀の歩みであることが知られて恥ずかしい限りです。
そう言ってはみたけれど
こんばんは。
昨日、五言遊仙詩の生成過程を推論しましたが、
一日たってみると、あれは机上の空論だったと思えてきました。
考えていたことを正確に言うならば、
宴席という場を視野の中心に置くことによって、
詩歌(特に楽府詩)に、神仙という題材が流入した経緯を明らかにできるということです。
そして、ここまでは単なる思い付きだったわけではありません。
・後漢時代、楽府詩が宴席で行われていたことはすでに定説となっています。
・神仙に扮した演劇用の出し物が、宴席で行われていたらしいことは昨日述べました。
ただ、神仙を描いた楽府詩から、五言遊仙詩の登場までには少し段差があって、
そこのところは、詠史詩の生成経緯とまったく同じようにはいかないと思いなおしました。
『文選』の細目とその配列については、
それがいつの時点での枠組みであるのかが重要になってくると思います。
『文選』は、すでに存在していた選集からの二番煎じだと推定されていますから、*
当然、その文体の分類も既存の選集のそれを襲っていて、
それは、『文選』からそこまで遡らない時代の産物だと見てよいでしょう。
ただ、分類という作業において、その文体のたどってきた系譜はどこかに反映するはずです。
そのような意味において、詠史詩と遊仙詩との間にある近さ、
すなわち、両者が誕生した場の近さが示唆されているのではないかと考えたのです。
なにはともあれ、まずは作品そのものを精読することです。
曹植作品訳注稿は、公開が滞りがちではあるけれど、停止してはいません。
この訳注作業の中で、曹植の遊仙を詠じた楽府詩を読む際、
その成立背景に宴席という場を想定してみることは無意味ではないように思います。
たとえば、「遠遊篇」にいう、
「大魚若曲陵、承浪相経過(大魚は曲陵の若く、浪を承けて相経過す)」など、
宴会で披露された巨大な動物の出し物、魚龍曼延を彷彿とさせます。
曹植の遊仙楽府詩は、その詠懐的な側面がよく注目されますが、
そのジャンルがもともとどのような場で行われる文芸であったかを踏まえると、
その詩作の意味するところを、一歩踏み込んで理解できるのではないかと考えています。
2021年7月17日
*岡村繁「『文選』編纂の実態と編纂当初の『文選』評価」(『日本中国学会報』第38集、1986年)を参照。
五言遊仙詩の生成過程
こんばんは。
昨日、遊仙詩が、宴席を舞台に誕生したものである可能性を述べました。
漢代の宴席で、神仙に扮した倡優が歌舞劇を繰り広げていたことは、
梁海燕「漢楽府游仙詩的音楽背景考察」の挙げる豊富な文献資料から明らかです。*1
他方、五言詩は宴席を舞台に生成展開してきた文芸ジャンルです。*2
そこで、この両者が、宴席という場で出会って誕生したのが、
遊仙詩というジャンルではないかと考えました。
ここに仮説を述べた五言遊仙詩の生成過程は、
かつて論じたことがある詠史詩のそれと同じ理路をたどっています。*3
ここからは妄想に近い思い付きなのですが、
『文選』巻21において、「詠史」「百一」「遊仙」という細目が続くのは、
もしかしたら、これらのジャンルの出自が近いからではないか、とふと思いました。
そして、その出自とは、先に述べた宴席という場です。
『文選』では、これに先立つ巻20に「公讌」「祖餞」が配せられています。
この配列からも、上述の推論が導き出されるように思います。
(もっとも「百一」は不明です。)
ただ、元来が宴席文芸であったと先に述べた五言詩の祖である古詩が、
『文選』では、ここから少し外れた巻29に「雑詩」という細目で収載されています。
このことは、上述の思い付きとは合致しません。
また、五言詠史詩が、早くも後漢時代にすでに成立していたのに対して、
五言の遊仙詩は、それよりも遅れて登場したこと、
そして、遊仙は五言詩よりも、まず楽府詩で盛んに詠じられこと、
それらの理由が、未解明の問題として残されています。
2021年7月16日
*1『楽府学』第12輯、2015年12月、社会科学文献出版社。
*2 拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)全編で論じました。もっともこれは、広く認知されている考え方ではありません。ただ、このように考えると、これまでばらばらに点在していた諸々の事象が、一連の有機的なつながりをもってそれぞれ所を得ます。そういう意味で、最も合理的な見方ではないかと思っています。
*3 拙論「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)。こちらの学術論文№42をご覧いただければ幸いです。
上演される神仙
こんばんは。
仙人たちは、書物の中に存在していたばかりではなく、
歌劇のような様態の宴席芸能の中にも登場していたらしく思われます。
後漢の張衡(78―139)の「西京賦」(『文選』巻2)に、
平楽観でくつろぐ皇帝の前で披露された様々な芸能、
角觝(力比べ)、鼎の持ち上げ、旗竿のぼり、ジャグリング、綱渡りなどに続いて、
次のような描写が見えています。
女娥坐而長歌 娥皇と女英は坐って声を長く引いて歌い、
声清暢而蜲蛇 その声は清らかに伸びやかに出でて緩やかな渦を巻く。
洪崖立而指麾 洪崖は立って指揮を取り、
被毛羽之襳襹 軽やかな羽毛の衣装を羽織っている。
ここに描かれている洪崖は、
『文選』李善注が引く薛綜注に「三皇の時の伎人なり」と説明する一方、
葛洪『神仙伝』には、衛叔卿と共に博奕に打ち興じた仙人として記されています。
また、少し時代は下りますが、
西晋の陸機(261―303)の「前緩声歌」(『文選』巻28)にも、
仙人たちの集う、この世ならざる宴の様子を描いた中に、
黄帝の楽師、太容と対を為して、歌を歌う洪崖の姿が次のように見えています。
太容揮高絃 太容は高い調子の絃を奏で、
洪崖発清歌 洪崖は清らかな歌声を発する。
当時の人々にとって仙界は、書物の中に実在するばかりか、
宴という場にリアリティをもって出現するものだったのかもしれません。
そして、遊仙詩というジャンルは、そうした場が生み出したものなのかもしれません。
2021年7月15日
神仙へのスタンス
こんばんは。
神仙という、私たちから見ればおよそ現実離れした世界のものを、
昔の人々はどのようなスタンスで捉えていたのか、
このことが長らく謎でした。
たとえば、「古詩十九首」其十三(『文選』巻29)に、
「服食求神仙、多為薬所誤」
(服食して神仙を求むるも、多くは薬の誤る所と為る)とあっても、
この詩が成立した後漢時代以降も、神仙を詠じた詩は陸続と作られ続けています。
もしかしたらこういうことだろうか、という示唆を、
魏の嵆康(224―263)の「養生論」(『文選』巻53)から与えられました。
その冒頭近くに、次のようにあります。
夫神仙雖不目見、然記籍所載、前史所伝、較而論之、其有必矣。
そもそも神仙は目に見えないものではあるけれど、
書物に記されているところ、前代の史書に伝わっているところを比較して検討すれば、
それが存在することはたしかだと言える。
書物に記されているということ自体が、存在の確かな根拠となる、と言っています。
それが、この目で知覚できるものよりも優先するのです。
神仙に限らず、たとえば『捜神記』などで、
怪異な出来事を史書として記したりするのはこういうわけなのでしょう。
さて、嵆康は続けてこう言っています。
似特受異気、禀之自然、非積学所能致也。
(神仙は)特に他とは異なる気を受け、これを自然に授けられているのであって、
学問を積んで修得できるというものではないようである。
自身の常識を超えるものに対して、
これを拒絶するのではなく、凡人とは異なる特殊な存在なのだとして呑み込む。
この姿勢は、常識の埒外にあるものはすべて非合理だと退けるある種の現代科学よりも、
むしろよほど「科学的」ではないかとさえ思いました。
自分にとって未知のものに対してオープンでいるという点で。
(むろん科学的なるものを価値評価の基準にしているわけではありません。)
そう思った矢先、この後に次のような言葉が続きます。
至於導養得理、以尽性命、上獲千餘歳、下可数百年、可有之耳。
而世皆不精、故莫能得之。
養生の道を修めて理を体得し、それで寿命を全うして、
長くて千歳あまり、少なくとも数百年の寿命を得るということなら、これはあり得る。
だが、世間の人々はみな専心して励まないので、この長寿を獲得できるものがいないのだ。
こうなってくると、にわかに嵆康が遠い過去に遠ざかっていってしまいます。
それでも、時として清新な言葉がまっすぐこちらに向かってくる、
それを受け止めることができるのは、古典文学を読む醍醐味なのだと思います。
2021年7月14日
変文に詠われた李陵と蘇武
こんばんは。
以前、蘇李詩(漢代の李陵と蘇武の名に仮託された五言詩)について、
その成立の背景を漢代の宴席という場に求めたことがあります。
そうした場で行われていた様々な芸能のひとつに、
李陵と蘇武の別れを題材とする、演劇もしくは語り物文芸があった。
他方、同じ宴席という場で生成展開してきたのが五言詩である。
五言詩と、李陵・蘇武の物語が、宴席という場で出会い、
そこで誕生したのがいわゆる蘇李詩である、と。
(こちらの学術論文№28の後半です。)
もしかしたら、その傍証になるかもしれないと思ったのが、
変文に「蘇武李陵執別詞」という作品があることです。*
変文は唐代の民間文芸で、
蘇李詩が成ったと推定できる時代からは遠く隔たっています。
けれども、主に口頭で継承されるような民間文芸は、
それがたまたま文字に記されて残った時代を、
そのまま、その作品の成立時期と見るわけにはいきません。
匈奴に残る李陵と、漢に帰還する蘇武との別れは、
それを演劇的な文体で記す『漢書』の成った後漢初めから、
蘇李詩という詩群を生み出した時代を経て、
それが変文として書き留められた唐代に至るまで、
人々の間で長く愛され続けた物語だったのではないでしょうか。
そして、彼らの離別の場面を詠ずる文芸は、
個人的な空間ではなく、多くの人々が集う遊戯的な場で行われたと見られます。
蘇李詩も、そうした場で作られたものだと見るのが自然でしょう。
ただ、その諸篇の成立時期にはばらつきがありそうです。
2021年7月9日
*項楚『敦煌変文選注(増訂本)』(中華書局、2006年)下p.1740~1751を参照。
第一古詩群の最後のピース
こんばんは。
別格扱いの古詩群(第一古詩群)を構成する作品のうち、未詳であった最後の一首は、
「迴車駕言邁」詩(『文選』巻29所収「古詩十九首」其十一)であろうと昨日推定しました。
まず、その詩の全文を、通釈とともに示せば次のとおりです。
01 迴車駕言邁 向かう先をぐるりと転じて馬車を走らせ、
02 悠悠渉長道 長く伸びる道をはるばると経てゆく。
03 四顧何茫茫 四方を眺め渡せば、なんという茫漠たる草原、
04 東風揺百草 東方から吹いてくる風が、百の草を揺らしている。
05 所遇無故物 出会うものすべてに、もとのままの物はないのだから、
06 焉得不速老 みるみる老いてゆくことをどうして止められよう。
07 盛衰各有時 栄枯盛衰にはそれぞれ時機というものがあるけれど、
08 立身苦不早 身を立てるのに遅れを取っていることがつらい。
09 人生非金石 人の命は金石ではないのだから、
10 豈能長寿考 どうして長寿を得ることなどできようか。
11 奄忽随物化 あっという間に万物とともに化して死に至るのなら、
12 栄名以為宝 せめて死後に残る栄誉や名声を宝としよう。
このうち、まず注目したいのは、第9句「人生非金石(人生は金石に非ず)」です。
類似する表現が、第一古詩群に属する別の詩に、次のとおり見えています。*1
『文選』巻29「古詩十九首」其四「今日良宴会」に、
「人生寄一世、奄忽若飆塵(人生 一世に寄りて、奄忽として飆塵の若(ごと)し)」と。
同其三「青青陵上柏」に、
「人生天地間、忽如遠行客(人 天地の間に生くること、忽として遠行の客の如し)」と。
同其十三「駆車上東門」に、
「人生忽如寄、寿無金石固(人生 忽として寄るが如く、寿に金石の固き無し)」と。
前掲「迴車駕言邁」詩の第9句は、これらの古詩と重なり合う部分を持っています。
第一に、「人生」という語を、上記の三首すべてと共有しています。
また、「金石」という語は、上記の其十三にも見えていて、用いる文脈もよく似ています。
「迴車駕言邁」詩の第11句に見える「奄忽」も注目に値します。
この語は、上記の其四詩にも用いられている、洛陽を含む地域一帯の方言です。*2
実は、上記の三首は、第一古詩群のうち、最も遅れて成ったと見られる作品です。
それらの古詩と、複数の点でつながりを持っている「迴車駕言邁」詩は、
第一古詩群の、この諸篇に連なる系列のものである可能性が高いと判断できます。
昨日は、『文選』における作品配列という観点から、
第一古詩群を構成する最後の1ピースをこの詩と推定したのでしたが、
内容面から見ても、この推定は一定の妥当性を持っていると言えるでしょう。
なお、許文雨『文論講疏』(正中書局、1937年)は、
陸機の「遨遊出西城詩」(『藝文類聚』巻28)を「迴車駕言邁」詩の模擬詩と判断した上で、
この古詩を、未詳であった十四首目の伝枚乗作の古詩(第一古詩群)と推定しています。
「辞気」を根拠とする推論に、これまでその当否の判断を保留にしてきましたが、
改めてここに、許文雨氏の慧眼に敬意を表したいと思います。
2021年7月8日
*1 第一古詩群に属する作品の通釈を、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)から抜き書きしてまとめたものがこちらです。ご参照いただければ幸いです。
*2 前掲『漢代五言詩歌史の研究』第二章第一節第一項「第一古詩群に属する詩の分類」を参照。
傅毅と第一古詩群(承前)
こんにちは。
昨日ふと思いついたことの続きです。
古詩の中でも別格扱いの一群は、
確認できる範囲の作品について言うならば、
『文選』巻29所収「古詩十九首」の中に、ほとんど含まれています。
ただ、この十九首の中には、別格でない古詩も、それなりの数、混じっています。
その、別格の諸篇と、そうでない諸篇との収載状況は、以下のとおりです。
『文選』巻29「古詩十九首」 | 陸機所擬古詩 | 枚乗「雑詩」 | 『玉台新詠』巻1「古詩八首」 | 傅毅の詩 | |
○ | 其一「行行重行行」 | 其一 | 其三 | ||
○ | 其二「青青河畔草」 | 其五 | 其五 | ||
○ | 其三「青青陵上柏」 | 其八 | |||
○ | 其四「今日良宴会」 | 其二 | |||
○ | 其五「西北有高楼」 | 其十 | 其一 | ||
○ | 其六「渉江采芙蓉」 | 其四 | 其四 | ||
○ | 其七「明月皎夜光」 | 其十二 | |||
△ | 其八「冉冉孤生竹」 | 其三 | ◎ | ||
○ | 其九「庭中有奇樹」 | 其十一 | 其七 | ||
○ | 其十「迢迢牽牛星」 | 其三 | 其八 | ||
? | 其十一「迴車駕言邁」 | ||||
○ | 其十二「東城高且長」 | 其九 | 其二 | ||
○ | 其十三「駆車上東門」 | 「駕言出北闕行」 | |||
其十四「去者日以疎」 | |||||
其十五「生年不満百」 | |||||
其十六「凛凛歳云暮」 | 其二 | ||||
其十七「孟冬寒気至」 | 其四 | ||||
其十八「客従遠方来」 | 其五 | ||||
○ | 其十九「明月何皎皎」 | 其六 | 其九 |
以上、左端に○を付したものが、別格扱いの古詩群に属する作品です。
これに、『玉台新詠』巻1の枚乗「雑詩九首」其六「蘭若生春陽」を加えた13首が、
現在、別格扱いの古詩(第一古詩群)として確かだと認められるものです。*
さて、昨日見たとおり、『文心雕龍』明詩篇には、
枚乗の作と伝わる古詩のうち、その「冉冉孤生竹」だけは傅毅の作だと断定されていました。
今かりに、この一群を、『文選』編纂者が目とした古詩群Aとしましょう。
すると、『文選』巻29所収「古詩十九首」の其一から其十三までは、
一首を除いて、すべてが連続して古詩群Aに属する詩です。
続く「古詩十九首」其十四から十八までは、古詩群Aには含まれないものです。
そして最後の一首「明月何皎皎」は、古詩群Aに含まれるものです。
古詩群Aとは、先にいう別格の古詩群(第一古詩群)に傅毅の作を加えたものです。
傅毅の「冉冉孤生竹」は、陸機「擬古詩」の模擬対象となっていません。
ということは、『詩品』上品・古詩にいう「陸機所擬十四首」は、
この傅毅の作を除いて十四首あるということでしょう。
では、あと一首はいずれか。
そこで注目されるのが、其十一「迴車駕言邁」です。
その前後に古詩群Aの詩が連なっていて、ここだけ第一古詩群でないのは奇妙です。
未詳だった「陸機所擬十四首」の最後の一首はこれではないか。
これがこのたびの思い付きです。
明日、この推論に少し補足説明を加えます。
2021年7月7日
*第一古詩群に属する作品の通釈を、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)から抜き書きしてこちらにまとめました。ご参照いただければ幸いです。
傅毅と第一古詩群
こんばんは。
古詩の中には、特別な一群があるということを、かつて論証したことがあります。*
(若気の至りで、第一古詩群と命名しました。第二はありません。)
その中で、『文選』巻29所収「古詩十九首」は、
この特別な一群と、そうでない諸作品とに跨って秀作を選りすぐったものである、
ということを述べました。
このことを初めて示した資料(こちら)を、ご参考までにあげておきます。
(青山学院大学で開催された、六朝学術学会第一回例会での発表資料の一部です。)
さて、古詩の中でも、早期から別格視されてきた作品が十四首、
それが陸機「擬古詩」(『文選』巻30)の模擬対象となった古詩諸篇と重なることは、
『詩品』(上品・古詩)が指摘してくれています。
ところが、前掲資料をご覧のとおり、その十三首までは特定できるのですが、
残りの一首がなおも未詳です。
他方、『文心雕龍』明詩篇にこうあります。
又古詩佳麗、或称枚叔、其孤竹一篇、則傅毅之詞。
又古詩は佳麗にして、或いは枚叔(叔は枚乗の字)と称するも、
其の「孤竹」の一篇は、則ち傅毅の詞なり。
実は、前述の別格扱いの古詩は、
陸機の模擬対象となった古詩であると同時に、
枚乗作と伝えられる古詩とも重なる作品群なのですが、
(前掲資料をご覧いただければ幸いです。)
この『文心雕龍』の記事に拠れば、
その特別な一群の中に、一首だけ傅毅の作品が混じっていると読めます。
その傅毅の詩とは、「冉冉孤生竹」(『文選』巻29「古詩十九首」其八)です。
かの陸機議する所の十四首であり、別格とされてきた古詩群に、
この傅毅「冉冉孤生竹」は含まれません。
なぜならば、『玉台新詠』巻1において、
傅毅「冉冉孤生竹」は「古詩八首」其三として収載され、
同書同巻所収の枚乗「雑詩九首」とは並存の関係にあるからです。
先にも述べたとおり、別格扱いの特別な古詩群は、
枚乗「雑詩」として伝えられる古詩群と重なり合うのでした。
『玉台新詠』を編纂した徐陵は、
宮廷の書庫から「艶歌を撰録する」(同書の序による)際に、
傅毅作の詩が、特別な古詩群とは一線を画することを知ったのでしょう。
では、十四首を構成する残りの一首はどの詩でしょうか。
もしかしたらこれか、とわかったかもしれないこと(妄想)があります。
この続きは明日書きます。
2021年7月7日