「斉瑟行」への疑問
こんにちは。
曹植「名都篇」の訳注に入りました。
この楽府詩は、先に読んだ「美女篇」、「白馬篇」と合わせて三首、
「斉瑟行」の歌辞であると、『歌録』(佚、『文選』李善注等に引く)に記されています。*1
篇名の「名都」「美女」「白馬」は、その歌辞の冒頭二字を取ったものです。
「斉瑟行」という楽府題の作品で、曹植に先行する、あるいは同時代の人の作は、
『楽府詩集』巻63(雑曲歌辞)を見る限り見当たりません。
曹植に続く作品であれば少なくはないのですが。
そもそも、「斉瑟行」という楽府題は、
「善哉行」「董逃行」「艶歌羅敷行」等のように漢代からあったものなのでしょうか。
それとも、曹植のある時期の連作楽府詩をまとめて、後世こう称するようになったのでしょうか。
歌辞の発する雰囲気からして、上記の三篇は同質であり、
また、曹植の不遇な後半生の作ではなさそうだと私には感じられます。
この感触は、もちろん今後の検証が必要であること言うまでもありませんが、
少なくとも、そこに詠われた内容から、後半生の明帝期と判断することには躊躇します。*2
何が詠じられているか、ということに依拠して、現実と作品とを結びつけるわけにはいきません。
2021年4月4日
*1『歌録』という書物について、拙著(こちらの著書№4)のp.377注(43)から、以下抜き書きしておきます。「増田前掲書(注7[1])五四三―五四五頁に『歌録』への言及が見える。この書物は、『隋書』巻三十五・経籍志四(集部・総集類)に「歌録十巻」と記すのみで、著者、成立年代ともに未詳。ただ、富永一登『文選李善注引書索引』(一九九六年、研文出版)によって閲してみると、李善注には「沈約宋書」として『宋書』楽志を引く例が複数個所あるので、李善が「相和」の説明に『宋志』を引かず、『歌録』を引いたのは[2]、この文献を、『宋書』楽志よりは古い、しかも依拠するに足る文献と判断したからだろう。なお、この李善注に引く『歌録』に記す「古相和歌十八曲」は、『宋書』楽志三にいう「本十七曲」[3]よりも一曲多い。魏楽以前の「相和」の数であろうか。」
この注だけでは意味不明な部分について、以下付記しておきます。
[1]『楽府の歴史的研究』(1975年、創文社)をいう。
[2]『文選』巻18、馬融「長笛賦」にいう「吹笛為気出精列相和」に対して、李善が「『歌録』曰、古相和歌十八曲、「気出」一、「精列」二」と注していることを指していう。
[3]『宋書』巻21・楽志三に「相和、漢旧歌也。絲竹更相和、執節者歌。本一部、魏明帝分為二、更逓夜宿。本十七曲、朱生・宋識・列和等、復合之為十三曲(相和とは、漢の旧曲なり。絲竹更相和して、節を執る者歌ふ。本一部なりしも、魏の明帝、分かちて二と為し、更逓りて夜宿せしむ。本十七曲なるも、朱生・宋識・列和等、復たこれを合して十三曲と為す)」と。
*2 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻3は、このように推定しています。その根拠として、「美女篇」は、曹植自身の自己不遇感が美女に重ね合わせられているといい、「白馬篇」の背景には、当時における鮮卑族の勢力拡大があるといい、「名都篇」は、明帝期の洛陽城造営が背景にあるとします。いずれに対しても反証を示すことが可能です。もちろん、先行研究のすべてがこのような見方をしているわけではありません。
「思い出す」文学研究
こんばんは。
文学研究とは「思い出す」ことだ、
とは、たしか小林秀雄が言っていたのだったかと思いますが、
十数年ほど来、折に触れて思い出す言葉です。
研究の対象である文学作品を、客体化して評論するのではなく、
自分自身の中にある記憶を掘り起こすこととして行う。
これはいったいどういうことでしょうか。
どんなに昔の人であっても、人間の心はそんなに変質してはいない、
だから、その人の思うことは、自分の中にもその片鱗は存在しているはずで、
それを掘り起こし、思い出す、それが文学研究である、と。
ただ、このことは、研究対象を自分に引き付けて好きに解釈することではありません。
まず、生きた時代や環境が違うのだから、それは実は不可能です。
ある作家、作品、文学的事象などを、自分の記憶として「思い出す」ためには、
その相手の座標に飛び込んでいく必要があります。
その上で、作品なり記録なりを読んでいく。
対象を理解しようとすれば、自分自身の中を耕すことは必然です。
素の自分にはなかった、はじめて出会う思いにも遭遇することがありますから。
けれど、同じ人間である以上、必ずどこかに理解の糸口はあるはずで、
そうして耕された自分になって始めて、冒頭に述べた「思い出す」ことができます。
思えば、一見客観性があるかのように思われる研究分野においてさえも、
誰から見ても同一の結論になることばかりではないようです。
文学を研究する自分は、もっと自信をもって、
古を生きた自身を「思い出す」ということをしたいと思います。
2021年4月3日
身を投げ出す、とは言っても
こんばんは。
本日、曹植「白馬篇」の訳注稿を公開しました。
その中で、「捐躯」という辞句になんとなく既視感を覚えて調べてみると、
他にも三例、すでに訳注を施している作品の中に見つかりました。
まず、秦の穆公の死に殉じた三人の臣下を詠じた「三良」詩(04-18)に、
誰言捐躯易 誰か言はん 躯を捐(す)つること易しと、
殺身誠独難 身を殺すことは誠に独り難し。
転がってゆく蓬を描写した「雑詩六首」其二(04-05-2)に、
類此遊客子 類す 此の遊客子の、
捐躯遠従戎 躯を捐てて遠く戎に従ふに。
また、明帝に対して、自らの任用を求めて切実な、
「求自試表」(07-06)にも次のようなフレーズが見えています。
固夫憂国忘家、捐躯済難、忠臣之志也。
固(もと)より夫れ国を憂へ家を忘れ、躯を捐てて難を済(すく)ふは、忠臣の志なり。
このうち、「三良」詩は建安16年(211)頃の作、
「求自試表」は明帝の太和2年(228)の作であること確実です。
「雑詩六首」其二については未詳ですが、
『文選』李善注には、文帝の黄初4年(223)の作だとの推定が示されています。
(制作年代の推定に関する詳細は、それぞれの作品の解題をご覧ください。)
曹植はこのように、時期を問わず、「捐躯(わが身を捨て去る)」という語を用いています。
けれども、その語の用い方、ニュアンスには違いがあるようです。
「三良」詩では、我が身を投げ出すことの困難を、
「雑詩六首」其二では、我が身を捨てて従軍する人の悲哀を詠じる一方、
「求自試表」では、国難を救うため、我が身を犠牲にすることを志願しています。
「捐躯」という語が、作者の置かれた状況とどう関わっているのか。
そこに着目すれば、自ずから曹植におけるこの語義の位置が見えてくると考えます。
「白馬篇」における「捐躯」はどうでしょうか。
もし、本作品の制作年代を推定する必要に迫られたならば、
この語が引き受けている文脈を、ひとつの糸口にすることは可能かもしれません。
2021年4月2日
駄目な一日
こんばんは。
今日から新しい年度が始まりました。
この一年間は、ずっと地を這っているような感覚で過ごしたので、
あまり年度が改まったような新鮮さを感じません。
気づかないうちに神経が疲弊していたのだと思います。
一昨年度からだったか、勤務状況の自己申告が義務付けられています。※
月曜日から金曜日、朝9時から夕方の5時55分までが、通常の勤務時間です。
けれども、実態はこのとおりではありません。
実態に即して記入、提出することが不都合だというのであれば、
所定のとおりの時間を書いておくから、
せめて自由にさせてもらえないかとよく思います。
今日はメリハリのない駄目な一日でした。
こんなときは、いっそ職場を出た方がいいに決まっているのに、
それをするためには年休を取らなくてはならない。
その手続きをすることさえ億劫なときはもうどうしようもありません。
駄目な日は駄目なりに、もっと独創的な駄目にしたい。
魏の黄初年間、言動を厳しく監視されていた曹植の、
暴れた気持ちがわかります(想像できます)。
2021年4月1日
※このことが、国から義務付けられていることだとは承知しています。また、安易に自由裁量としたら別の問題が起こることもわかっています。ですから、自分の中で適当に折り合いをつけましょうということなのでしょう。そういうのがとても苦手です。加減がよくわからなくて。
むき出しの人間存在
こんにちは。
本日、曹植「白馬篇」(『文選』巻27)の語釈をひととおり終えました。
これから通釈をする中で、さらに語釈が必要な表現が出てくるかもしれません。
訳してみて始めて分かっていない点に気づくことが多々あるので。
とはいえ、ひとつの作品の訳注稿の中で、小さな一区切りがつきました。
さて、その作業の中で、ふと目に留まった表現があります。
棄身鋒刃端 身を鋒刃の端に棄てん、
性命安可懐 性命 安(いづく)んぞ懐(おも)ふ可けんや。
父母且不顧 父母すら且つ顧みず、
何言子与妻 何ぞ子と妻とを言はんや。
北方異民族との戦いに自身の生命を投げ出そうとする男が、
父母でさえ世話をすることができないのに、どうして妻や子のことなど問題にできよう、
と気持ちを高ぶらせているくだりです。
これを見て、阮籍「詠懐詩」(『文選』巻23所収十七首の其三)の次の表現を想起しました。*1
一身不自保 一身すら自ら保たざるに、
何況恋妻子 何ぞ況んや妻子を恋ひんや。
切迫した状況下で、妻子を守り通すことの困難を述べるのに、
より重みがあると思われるものを対置させている、
その表現の発想がよく似ています。
ただ、阮籍のこの詩は、曹植「白馬篇」に歌われたような戦乱を背景にはしていません。
彼がこの詩を詠ずるに至った動機は、具象をすべて剥ぎ取られています。
そして、両作品の中で、妻子に対して、より重要なものとして対置されているのが、
曹植の作品では父母、阮籍の方は自分自身だという点で違っています。
こうした酷薄な内容自体は、
この時代の詩歌には特段珍しいものではありません。*2
しかしながら、妻子を持ち出して切実さを表現している点で、
阮籍詩は、曹植詩との間に実質的なつながりを持っている可能性を感じました。
阮籍詩における曹植作品の影響の可能性について、これまで何度か触れたことがありますが、
ひとりの人間の存在がごろりと投げ出されているようなむき出しの感覚は、*3
曹植作品には認められない点であるように、現段階では思います。
2021年3月31日
*1 黄節『阮歩兵詠懐詩註』、古直『阮嗣宗詩箋』等の配列では其三、『阮籍集』(上海古籍出版社、1978年)では其五。
*2 鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)第二章第五項三「非情の文学について」、及び「漢魏の詩歌に示された非情な文学感情」(『中国中世文学研究』第3号、1963年12月)には様々な具体例が示されている。妻子を見捨てる話に限らず、非情な文学感情はこの時代に顕著である。
*3 こちらでも述べたが、吉川幸次郎『阮籍の「詠懐詩」について 附・阮籍伝』(岩波文庫、1981年)は、こうした視点から論じられている。
古い知り合いとの再会
こんばんは。
もう十年以上も前になりますが、厳島神社に伝わる舞楽「蘭陵王」について、
宮島に関する共同研究の一環として、公開講座の報告を書いたことがあります。(こちらの№12)
その際、注の中で次のように述べました。
中国から来日した研究者の中には、本国では夙に滅びた芸能が日本に伝わっていることに感動し、専門的論文「舞楽蘭陵王考」(初出は『東方学報』第10冊 第4分、1941年)、「奈良春日若宮祭的神楽与舞楽」(前掲論文とともに、『白川集』文求堂書店、1943 年所収。初出は『東光』第1巻第1号、1941年)などを著した傅芸子のような人物もいる。
この傅芸子という人物に、思いがけないところで再会しました。
中里見敬「九州大学附属図書館濱文庫所蔵の戯単―濱一衛の北平訪問、観劇活動、戯単収集―」に、*
中国戯曲研究者、濱一衛と関わりのあった人物として、その名が記されていたのです。
特に、その注12には、傅芸子の日本滞在中における研究教育活動について、
次のような内容の詳しい説明がなされています。
「1932年から1942年まで」「東方文化学院京都研究所で日本に伝来した中国古代文物書籍の研究に従事し、あわせて京都帝国大学で中国語を教えた。」
「在学時期から見て、濱一衛は傅芸子の最初の学生であったと思われる。」
(古い知り合いが、実はある分野の大物だったというような感じで、自分の無知が恥ずかしいばかりです。)
当時の情況を重ねてみると、日中間の文化的交流のたしかさに胸が熱くなります。
これを思えば、現代中国の暴走に、日本の中国学研究者が不安がっている場合ではありません。
それはともかく、中里見敬氏の論文は、その注の隅々に至るまで綿密に調べ上げられていて、
しかも、手にしている資料を大切に思う気持ちが、記述の端々に感じられます。
つくづく、これが学術論文というものか、と打ちのめされる思いです。
中国学の分野にはこんなに優れた研究があるぞと胸を張りたくなる一方、
わたしには何ができるのだろうかと心もとなくなりもしますが、
自分は自分なりに精いっぱい励むだけですね。
2021年3月30日
*中里見敬編『中国戯単の世界―「戯単、劇場と20世紀前半の東アジア演劇」学術シンポジウム論文集―(九州大学大学院言語文化研究院FLC叢書)』(花書院、2021年)所収。
現代中国と中国古典
こんばんは。
まだ旧年度内に身を置いてはいますが、
カーテンを一枚めくれば次の年度がもうすぐそこに待っています。
何人の学生が中国古典文学に関係する授業を受講するか、
いつも年度初めは気持ちが落ち着きません。
様々な地域と分野から成る国際文化学科というところで長く揉まれ、
現代社会の縮図のような学科で肩身の狭い思いをすることには慣れましたが、
(もちろん投げ出したわけではありません。)
昨今は、ニュースなどで流れてくる「中国」への拒否反応から、
中国の古典に対しても冷ややかな距離感を持つ学生が、
文学部を備えたような大学でも目立って増えてきたとよく耳にします。
とんだとばっちりです。
とはいえ、現代中国と中国古典とはまったくの別物だと言えるか。
私には両者を切り離して考えることはできないように思えてなりません。
中国古典文学と、近現代の中国文学は、地続きです。
同じように、近代以前の中国と、現代中国とは同じ根でつながっているはずです。
中華思想はもちろん今も昔も健在ですが、
国家とか、国境といったような概念は比較的新しいものでしょう。
両者が合体した時に、非常に圧迫感を周囲に与える存在になるかもしれない。
また、現代の日本人が持つ嫌らしさのようなものも、
昔からあった性質が、何かと融合して醜く肥大化したものかもしれません。
そもそも、どんな文化圏でも、また個人でも、
完全なる善、あるいは完全なる悪というものは存在しないでしょう。
それに、本質はそんなに短いスパンで変わるものではないし、
本来的には、あるものが備えている特質に、良いも悪いもないはずです。
そして、その特質には、それを備えるに至った理由が必ずあるものだと思います。
こうしたことを、どんなふうに学生たちに考察してもらおうか。
新学期を前にしてぼんやりあれこれ思います。
2021年3月29日
漢魏の人々のユーモア
こんばんは。
『曹集詮評』を底本にして、本文を校勘する作業を進めています。
校勘を終えたテキストは、いずれこちらでも公開しようと考えております。
(たぶんこの時代に今更なぜと思われる作業なのでしょうが敢えて。)
本日、ひととおり作業を終えた「鷂雀賦」(巻3)は、
猛禽類の鷂(ハイタカ)と、危うくその餌食になりかけた雀とのやり取り、
そして、危機を脱した雀が、連れ合いに自身の体験を自慢げに語って聞かせる段という、
二つの場面から成る、ユーモラスな、科白劇のような作品です。
福井佳夫氏は、この曹植「鷂雀賦」について、先行研究を丁寧に紹介した上で、
さる論文が、石刻資料に基づいて本作品の成立年を黄初二年(221)としていることを述べ、
これを土台として、本作品を次のように位置付けておられます。
民間文学に似せた寓話ふうスタイルをとり、
本音をユーモアの糖衣で韜晦させながら、さりげなく心情を吐露した。*
黄初二年といえば、その前年、腹心であった丁儀丁廙兄弟を兄の文帝曹丕に殺され、
依然として、厳しくその言動を監視されているのが当時の曹植の現状です。
そうした現実を踏まえてなお、この作品をユーモア文学と捉える福井氏の所論は、
実に含蓄深い捉え方であり、十分な説得力を持っていると私は思います。
そして、とても興味深いと感じるのは、曹植が持つ気持ちの幅の広さです。
自身が置かれた現状に絶望しつつも、その心情を諧謔的に表現する。
そして、その表現によって、おそらくは幾許かの慰めや解放感を味わったのではないか。
この時代の人々の、心のしなやかな重層性を思います。
ちなみに、雀の頭を「果蒜(にんにくの粒)」と描写しているのが何とも可愛らしく、
これから雀の後頭部を見る機会があるごとに思い出しそうです。
2021年3月28日
*福井佳夫『六朝の遊戯文学』(汲古書院、2007年)pp.197―218「曹植「鷂雀賦」論」を参照。
何によって得た知識か
こんばんは。
毎日少しずつ、平賀周蔵が嚴島を訪れて詠んだ詩を読んでいます。
読むごとに、この江戸期の詩人に段々と親しみを感じるようになってきました。
よく理解できるようになったとは到底言えませんが、
よく分からない点が浮かび上がってくるようになってきたのが進歩です。
たとえば、この人は割合よく唐代の詩を踏まえたと見られる表現をしますが、
それらの辞句は何によって吸収したものだったのでしょうか。
江戸期の人々によく読まれたという『唐詩選』にも見当たらない詩だったりするので、
愛読する詩人の作品集を手元に置いていたのかとも思われますが、未詳です。
また、先日は、『旧唐書』巻192・隠逸伝に記された、
田遊巖が皇帝に語ったという次の言葉を用いていることに驚かされました。
臣泉石膏肓、煙霞痼疾、既逢聖代、幸得逍遥。
わたくしは、泉や石、霞たなびく景色に魅せられる病に罹っておりますが、
聖君の御代に巡り会いまして、幸いにも自由気ままに過ごすことができております。
実は、「煙霞痼疾」とか「泉石煙霞」とかいった語は、
ちょっとネット検索をしてみただけで、すぐに出典付きで出てきたりします。
ですが、平賀周蔵は『旧唐書』全巻を読破していたのでしょうか。
『旧唐書』という書物は、そこまで普遍的古典の位置を獲得していたとは思えません。
では、彼はこの言葉をどのような経路で得たのでしょうか。
今の段階で自分が平賀周蔵について知りたいのは、
まず、彼の教養的基盤がどのようにして形成されたのかということです。
成語にせよ漢詩にせよ、彼は何によってそれらを自分のもとに引き寄せたのでしょうか。
たとえば彼が読んだ漢籍の目録のようなもの、
あるいは、読書日録のようなものがあればいいのに、と思います。
2021年3月27日
「功」とは何か。
こんばんは。
今日は半日かけて、大学院の時間割を組みました。
くたびれましたが、それでも、何とも安らかな喜びに浸っています。
帰宅時に目に入った夜桜がきれいでした。
これが昔の人が言う「功」なのかもしれない、と、ふと思いました。
古人は、死後にも人々の記憶に残ることとして、三つの「不朽」を挙げました。
一つ目は「徳」、二つ目が「功」、三つ目が「言」。
このうち、「功」には、今ひとつ腑に落ちないものを感じていたのですが、
それは、これを利己的な功名心と見ていたからです。
そうではなくて、人のために働きを為すことが、自身にとっても喜びである、
そんなイメージで「功」を捉えるならば、納得できます。
思えば、「徳」も「言」も、周りの人がいてこそ存在意義をもつものです。
つくづく、儒学は人間社会を基礎に据える思想だと感じます。
時にはそれが少々鬱陶しくもなったりしますが、
人々がいて、あくまでもその中で自分は生きていくのだという覚悟は、
一見、平凡で面白みに欠けるようではあるけれど、実は奥行きのあるものだと思います。
2021年3月26日