讒言する者の悲しさ

おはようございます。

曹丕は悲しい、と昨日書きました。
同じように、曹丕に曹植ら弟たちのことを讒言した者にも悲しさを感じます。

彼らはいわば人として卑劣なことをしたわけですが、
当時、広くネットワークを形成していた知識人社会に属していれば、
そんなことはしなくても、きっと有意義な社会生活を営むことができたはずです。
ところが、彼らの多くはそうではなかった。
知識人社会に地縁血縁による人脈を持たない、いわゆる単家出身だったのではないでしょうか。

官界に活路を見出したい彼らは、自身の立場を固めたい曹丕と利害関係が一致した、
だから彼らは進んで曹丕の思惑を忖度し、曹植らの言動を逐一あげつらったのではないか、
そう考えていくと、彼らの悲しさが推し測られるようです。
自分は、そうした人間を好きにはなれませんが、
そうした人間を生み出した時代の空気を想像できなくもありません。

そのあたりを起点にして見てみると、
曹丕・曹植らの父、曹操の力量の大きさが推し測られるようです。

2021年3月19日

曹丕の悲しさ

こんばんは。

以前わたしは曹丕のことを、弟を冷遇した酷い兄だと思っていました。
けれども、曹丕の実像は、そうではないのかもしれません。

不遇な生涯を送った曹植と、彼を苛め抜いた兄という構図の物語が、
時の経過とともにだんだんと増幅していったのではないか。
こうしたことはかつてこちらでも述べましたが、
よく知られている「七歩詩」も、そうした流れの中で生じたものかもしれません。

では、なぜそうした兄弟の悲劇を強調する逸話が増殖していったのか。
その原因のひとつに、続く西晋王朝の武帝とその弟との関係があったかもしれません。
晋の武帝司馬炎は、才能豊かな弟の司馬攸を遠方へ追いやり、
それが原因で司馬攸は憤死、司馬炎もそのことを後で非常に悔いたといいます。
(このことは、こちらの論文№43でも、日々雑記でも何度か述べています。)

たとえば、西晋以降の人々が、司馬炎と司馬攸との不幸な関係を、
曹丕と曹植とに重ねて評論するようなことがあったかもしれないと思うのです。

曹丕の実像は、たしかに君主としては凡庸でしたが、
その為人はむしろたいへんに心の優しい、それだけに臆病な人だったのではないか。
(こうしたことについては、こちらの論文№34でも、日々雑記でも何度か触れました。)
臆病であるだけに、弟たちの存在が脅威に思えてならなかったのでしょう。
弟たちへの冷酷な仕打ちは、自信のなさから来るものだったのではないでしょうか。

他方、その弟である曹植の方は、曹丕自身を直接非難してはいません。
自分たちと君主との間を、第三者の讒言が隔てるのだという捉え方をしています。
彼は案外、ほんとうに兄を慕い続けていたのかもしれません。
皮肉や批判も、親しさゆえの無遠慮とも取れます。

何度も昔の拙論を持ち出して自分でも辟易していますが、
ゆきつもどりつしながら、少しずつ曹丕・曹植兄弟への理解を深めていきます。

2021年3月18日

個人の心を描く文学

こんにちは。

もう一か月以上も前のことになりますが、
本年度も副査としてかなりの本数の卒論を読み、口述試問に当たりました。
うち、半分の卒論は社会科学系、半分は近現代の日本文学です。

ここ何年かの傾向として、
近現代日本文学を対象とした卒論の中に、
ライトノベルを対象としたものが含まれるようになってきました。
指導に当たられた先生や、それを書いた学生との対話から分かったことは、
このジャンルの作品は、
誰かひとり、作者がいるのではなくて、
テーマを思いつく人、それを発展させる人、書く人、
更に、その作品を世に送り出すために装丁等を魅力的にする人、
その物語を、映画や漫画、テレビドラマなどに移し替えて展開する人々など、
多くの人々の手によって成る総合文芸だということです。

これは、たとえば中国文学の世界では、小説や戯曲といった分野とよく似ています。
そして、そうした文芸を享受する層もまた似通っているようです。

もしかしたら、近代以降の文学は曲がり角にさしかかっているのかもしれません。
たとえば、近代という時代の歪みが生み出した自我の内面を言葉で抉り出すような小説は、
すでに大多数の人々には必要とされなくなってきているのかもしれません。

ただ、人の心というものは、古代から今に至るまで、
それほど形を変えずに存在し続けていることもまた確かでしょう。
それが、文学というジャンルの扱うものではなくなってきているというだけで。

思えば、わたしが取り組んでいる中国3世紀の文学は、
個人の内面を描くことに文学の価値を置いていたわけではなくて、
それよりも、言葉でどう表現するかというところに心血を注ぐものでした。
にもかかわらず、当時の作品のいくつかには、作者自身の生々しい心情が息づいています。

わたしが強く惹きつけられるのは、そうした個人の唯一無二の思いが垣間見える作品です。
その時代の圧倒的多数を占めている、“みんなの歌”にはそれほど関心が向きません。
それは、わたしがかろうじて近代文学の世界に棲んでいるからでしょうか。
あるいは、個人の思いに目を向けることも、普遍に至るひとつの細い道なのでしょうか。

わたしは曹植のことをいつか理解したいと思っています。
ひとりとして、誰かに理解されることを拒む人はいないのではないでしょうか。
(どうでもいい他人から勝手に決めつけられるのはごめんですが。)

2021年3月17日

曹植「朔風詩」の背景

こんばんは。
今日も、前日の話を引き継いで少しばかり記します。

曹植の「朔風詩」にいう「君」は、
本詩を詠じている人と、その人が思いを馳せる南方にいる人から、
「秋蘭」や、冬に花を咲かせる南方の「桂樹」を贈られようとしています。
「君」がこちらを顧みてくれないにせよ、我々の誠意を表するための証として、と。

この「君」は、文帝曹丕を指すだろうと昨日述べました。
そして、“南方にいる人”は、黄初四年当時、呉王であった曹彪、
本詩を詠じている人は、曹植その人です。

本詩は表向き、詩を詠ずる人と、彼が遠く思いを馳せている人と、
二人の関係性(骨肉の情)が中心的なテーマになっているように見えます。
ですが、分断された二人の関係性の背後にあるのは、第三者である「君」の存在です。

ただし、詩の中ではそのことについて明言されていません。
過日も述べたように、「君」と、「子」「爾」すなわち“南方にいる人”とは、
ともに香草というディテールを纏っているために紛らわしいのです。

もし、本詩の成立を黄初四年とし、
「君」と“南方にいる人”とを上述のように比定するならば、
この紛らわしさは、敢えて設けられたものであろうと納得されます。
曹植は当時、「君」が我々兄弟の間を引き裂いた、などと言おうものなら、
また監国謁者らに密告され、身に危険を招き寄せかねない状況下にあったからです。

2021年3月16日

曹植「朔風詩」と「雑詩六首」

こんばんは。

曹植の「朔風詩」と、「雑詩六首」其一との類似性については、
かつてこちらで述べたことがあります。
その段階では、まだ直観的仮説の域を出なかったのですが、
先日来、「朔風詩」を分析してきて、それが確信になりつつあります。

「朔風詩」と「雑詩六首」其一との間には、幾つかの共通点が認められます。
まず、「舟」という要素を共有していること。
それから、詩中の人物が、南方にいる人物に思いを寄せていること。
その遠くに離別している人物に会うことができないこと。

では、その南方にいる人物とは誰か。
それは、「贈白馬王彪」詩(『文選』巻24)が贈られた曹彪ではないか。
彼は、黄初四年(223)当時、まだ白馬王ではなく、孫呉と接する地の呉王でした。

そして、「朔風詩」の中で「君」と詠われているのは文帝曹丕を指すでしょう。

『文選』巻29に、「朔風詩」と「雑詩六首」とを続けて収録するのは、
あるいは、両作品をあわせて収録する先行作品集をそのまま襲った結果かもしれません。

「雑詩六首」すべての成立年を黄初四年とする李善注の是非はともかく、
(六首はひとまとまりかと考えたこともありますが、まだ保留です)
少なくとも「朔風詩」と「雑詩六首」其一との関連性は、
非常に濃厚であるような感触です。

2021年3月15日

 

 

なぜ論文を書くか。

こんばんは。

論文を書いて、それが誰かに理解されることは僥倖と言ってもよいくらいです。
どんなに言葉を尽くして論じても、だからといって理解者が増えるわけではありません。
それなのに、どうして自分は一所懸命になって、
自身の思い込みを精査し、論証と検討を重ねようとするのだろうか。

いわゆる承認欲求というものではありません。
正直、論さえ残れば、わたしは消えてなくなってしまってもかまわないと思う。

孔子はこのようなことを言っていました。

志有之、「言以足志、文以足言」。不言誰知其志、言之無文、行而不遠。……
(『春秋左氏伝』襄公二十五年)

古い記録にこうある。
「言葉によって意志が十分に伝わり、修辞によって言葉が十全に表現される」と。
言葉を発しなかったら、誰がその思いをわかってくれよう。
言葉を発するのに美しさを伴わなかったら、遠くまでの影響力を持ち得ない。……

「文」を伴う言葉とは、口語ではない、書き言葉(文言)という意味であって、
決して、美しく飾り立てた言葉という意味ではありません。
自分が身を置いている世界の外に向けて開かれた、第三者にも届く言葉。
少しだけ日常的な言語からは距離をもって存在している、理の世界の言葉です。

老荘思想家があれだけ無為自然を言いながら、
その無為自然のなんたるかを、言葉を尽くして説くことも同じでしょう。
やっぱり人は誰かと手を携えて理解し合いたい生き物なのです。

感情に振り回される日常を送っていたとしても、
いつか誰かに届けと念じつつ、自分の説を矯めつ眇めつ鍛え直して論文を書く。
(世間の皆さんに広く影響を及ぼしたいと思っているわけではなくて)
そういうタイプの人間がいることも許されるだろうと思っています。
むろん多数派でないことは承知しています。

2021年3月14日

曹植「朔風詩」、別の見方

こんばんは。

今日も前日の続きです。
曹植「朔風詩」第七・八章に詠じられた、香草をめぐる人物たちについて。

第七章にいう「子」「爾」は、詩を詠じている人と対等の関係にある人、
第八章にいう「君」とは、「子」「爾」とは別の人物で、
詩を詠じている人と、彼が「子」「爾」と呼び掛ける人の両方から香草を捧げられる主君。
昨日はこのように解釈しました。

けれども、「子」「爾」は「芳草を好む」人物で、
「君」に対しても、誠意を示すべく「秋蘭」や「桂樹」が贈られようとしています。

ならば、「子」「爾」「君」は同一人物を指すと見られないでしょうか。
同一作品の中で呼称が変わったことは、心理的な移ろいを表すものとも考え得ます。

今仮に、この三つの呼称が等しく指示している人物を「あなた」とし、
詩を詠じている人物を「わたし」として話を進めてみます。

「わたし」は「あなた」と、昔は親しい間柄だったが、今は長らく別離の状態にある。
このことは、第三・六章で明言されています。

そして、「わたし」は「あなた」と別れて、長らく厳しい旅を続けてきた。
このことは、第四・五章で詠じられています。

では、「わたし」と「あなた」との位置関係はどうでしょうか。
第一・二章からうかがえるのは、二人は南北に引き裂かれているらしいということ。
そして、第九・十章で、「わたし」は「あなた」に向けて、
舟を泛べて会いにいきたいが、その手だてがないのだと詠じています。
舟といえば、南方への交通が思い浮かべられます。
そして、そのことは、第一・二章に詠じらたことと符合します。
そうすると、「わたし」は北方、「あなた」は南方にいることになります。

ところで、第一章で「朔風」に向かう人、つまり南方にいる「あなた」は、
北風に「魏都」を想起し、この実在する地を懐かしんでいました。

ここまできて、よくわからなくなるのです。

実在する土地を持ち出してきているからには、
この詩には、何らかの現実が踏まえられているのでしょう。
「子」「爾」「君」が同一人物だとして、それは誰を指すのでしょうか。

2021年3月13日

曹植「朔風詩」の難解さ(承前)

こんばんは。

昨日に続いて、曹植「朔風詩」の難解さを掘り下げてみます。
説明の都合上、詩の原文を示します。語釈等の詳細は訳注稿をご覧ください。

仰彼朔風、用懐魏都。願騁代馬、倏忽北徂。(第一章)
凱風永至、思彼蛮方。願随越鳥、翻飛南翔。(第二章)
四気代謝、懸景運周。別如俯仰、脱若三秋。(第三章)
昔我初遷、朱華未希。今我旋止、素雪云飛。(第四章)
俯降千仞、仰登天阻。風飄蓬飛、載離寒暑。(第五章)
千仞易陟、天阻可越。昔我同袍、今永乖別。(第六章)
子好芳草、豈忘爾貽。繁華将茂、秋霜悴之。(第七章)
君不垂眷、豈云其誠。秋蘭可喩、桂樹冬栄。(第八章)
絃歌蕩思、誰与銷憂。臨川暮思、何為汎舟。(第九章)
豈無和楽、游非我隣。誰忘汎舟、愧無榜人。(第十章)

冒頭、「古詩十九首」其一とそれが基づく『韓詩外伝』の表現を用いて、
遠く離れ離れになっている二人を象徴的に詠い出します。
第一章に詠われた人は、南から北方を懐かしみ、
第二章の人は、北にいて南方にいる人に思いを馳せています。
ここまでなら問題ありません。

分からないのは、この古詩的表現に「魏都」という現実が混ざりこんでいることです。
魏の都とは、魏王国の鄴をいうのか、それとも魏朝の都である洛陽でしょうか。
いずれにせよ、「代馬」を疾駆させて向かうほど北方にはありません。
南の「蛮方」から見れば、こう感じられるのでしょうか。

第三章で詠われる離別は、第一・二章を受け、南北に引き裂かれた二人を指すでしょう。
第六章に「昔我同袍、今永乖別」というのも、同じ二人のことを言うでしょう。
昨日言及した第七章の「子(そなた)」「爾(おまえ)」は、
この文脈を受けて出てきた呼称です。

そして、結びの第九・十章に、
「舟を汎べて」会いに行きたいけれど叶わないと呼びかけられている人は、
前述の「子」「爾」であり、
第三章でその離別の悲痛が詠じられた相手であり、
この相手と本詩を詠じている人物とは、遠く南北に隔てられています。

そこで目に留まるのが、第八章に見えている、冬に花を咲かせる桂の樹です。
訳注稿の語釈に示したとおり、これは『楚辞』遠遊に詠われている南方特有の植生です。
すると、対を為す「秋蘭」は、相対的に北方にいる人に関連付けられるでしょうか。

第八章に登場する「君」は、「秋蘭」や「桂樹」が捧げられる人物です。
ならば、南方にいると想定される「子」「爾」とは別人だということになります。
そして、南と北とに切り裂かれている二人が、ともに誠意を表したいと思っている相手、
それが「君」だということになります。

そもそも、「子」「爾」は対等に近い間柄で用いられる呼称であり、*
それに対して「君」には上下関係のニュアンスが付いてきます。

本詩における「君」も、文字通り主君と見てよいかもしれません。
そして、南北に隔てられた人物たちから見ての「君」であったのかもしれません。

2021年3月12日

こちらの論文№32の第四章、及びこちらの著書№4のp.428で触れたことがある。

敢えての難解さか?

こんばんは。

本日、曹植作品訳注稿「04-15 朔風」を公開しました。
ただし、これから更に修正しなくてはならない箇所が出てきそうです。
というのは、とにかく何を言っているのかよく分からないところがあるのです。
たとえば、ちょうど中間あたりに位置している次のような表現。

子好芳草  「子」は香しい芳草を好んでいた。
豈忘爾貽  「爾(なんぢ)」にそれを贈ることを、私はどうして忘れるものか。
繁華将茂  けれど、これから豊かに茂って花開こうかというときに、
秋霜悴之  秋の霜がこれを損なってしまった。」
君不垂眷  「君」がこちらを顧みてくださらなくても、
豈云其誠  どうしてその真心をひるがえしたりしようか。
秋蘭可喩  秋蘭(ふじばかま)は誠心の証にすることができるし、
桂樹冬栄  南方では桂の木が冬に花を咲かせるのだ。」

この二章の中に見える呼称「子」「爾」「君」は、同一人物を指すのでしょうか。
それとも、「子」と「爾」は同一人物で、「君」は別の一人を指すのでしょうか。

私は後者の説を取りますが、
話が紛らわしくなっているのは、いずれの人物にも香草が纏わりついているからです。

曹植は敢えてこのような表現をしつらえて、
詩と事実との関係性を分かりにくくしているのかもしれません。

もし本当にそうであるならば、
ではなぜ彼は分かりにくい表現をする必要があったのでしょうか。
この難解さこそが、本詩の成立背景を物語っている可能性もあるように思います。

2021年3月11日

ボールペンと万年筆

こんばんは。

しばらく休ませていた万年筆にインクを入れて、試し書きしてみた一昨日。
危ぶまれていた不調もあらわれず、すっかり回復した様子です。

普段、メモを取るときはボールペンを使っているのですが、
ためしに手帳へのメモを、この回復した万年筆で書いてみたところ、
字がとても丁寧になることにハッとさせられました。

それで思い出したのが、古楽器によるバロック音楽の演奏です。
35年ほど前の手帳に(買ったばかりの万年筆で)書き記してあったことを、
ひっぱり出して読み返してみました。
たぶん、ラジオか何かで聴いたことを契機としてのメモでしょう。

モダン楽器は、どの音程もどの調も均質であることを目指し、
バロックの古楽器は、楽器自体による制約から、
その不均質さを逆に生かして、音の微妙な陰翳を大切にするそうである。
モダンは、楽器を人間に従属させ、
バロックは、楽器から人間への働きかけを、人間が受けとめ、
それとの相互作用によって第三の方向を打ち出す。
他者からの働きかけによる制約は、時としてプラスとなることもあるのだな。

古楽器の音色は、とても繊細でふくよかで、色っぽい感じさえします。

そして、人間がすべてをコントロールする近現代の文明よりも、
人間と自然とが共存する古代中世の人々の方に、私は親しみを感じます。
(もちろん様々な困難があったはずで、単純に昔の方がよかったとは思いませんが)

ボールペンは、自分の思考のスピードに沿ってくれるけれど、
万年筆は、どうしても緩やかな手の動きで記述することとなります。
そして、その時間のたゆたいの中でこそ醸成されるものがあるように感じます。
だからこそ、いつまでの記憶の底に残っていくのでしょう。

古人の作品をノートに書き写すときばかりでなく、
時には考察のメモにも万年筆を使ってみようかと思いました。

2021年3月10日

1 32 33 34 35 36 37 38 39 40 80