電脳泣かせの表現
こんばんは。
古代漢語は、電脳に高い適応性を持つ言語だと思います。
語尾が変化したりすることもない、一語一語がブロックのような言語ですから、
たとえば、ある文字や辞句を、テキストの集積の中から探し出すのは比較的容易です。
近年、膨大な中国古典のデータベースがネット上で利用できるようになって、
いわゆる典故表現の出所を突き止めるのはとても楽になりました。
ただ、そうした電脳をもってしても、
なかなかその真意にたどり着けない表現というものがあります。
作者の頭の中で、古典の辞句が十分に消化されている場合、
その古典の辞句が、ほとんど原型を留めずに用いられていたりするのです。
たとえば、先日来取り上げている成公綏「晋四箱歌十六篇」の第七篇に、
すばらしい治世の結果を歌う次のような表現があります。
宇宙清且泰 天下は清らかにかつ安らかに治まり、
黎庶咸雍熙 民たちはみな和らぎ、のびのびと暮らしている。
この下の句「黎庶咸雍熙」について。
この一句は、『尚書』堯典にいう「黎民於變時雍」をまず踏まえています。
「黎庶」は、人民大衆をいい、『尚書』に見える「黎民」に同じです。
更に、一句の中の「咸雍熙」の部分は、
同じ『尚書』堯典にいう「允釐百工、庶績咸熙」を踏まえているでしょう。
更に、「雍熙」という語は、
後漢・張衡「東京賦」(『文選』巻3)に「百姓同於饒衍、上下共其雍熙」と見えています。
これらの古典は、作者成公綏の内臓の一部くらいになっていたかもしれません。
そうした語句が混然一体となって融合し、前掲の表現として浮かび上がってきたのでしょう。
もちろん、十分に自身の血肉となった古典語を、
敢えて出典がそれと分かるようなかたちで引用する場合もあります。
典故表現と言われるそうした修辞技法は、中国の古典文学には広く認められるもので、
それはまだしも辞書やデータベース検索でなんとかたどることが可能です。
こうした表現技法は、当時の人々にとってはごく当たり前の、
また、やり取りをする人と人との間では極上の楽しみでもあったのでしょうが、
これは、現代人との間を隔てる壁ともなっています。
他方、上述の、特に原型を半ば溶解させたような表現は、
人のリアルな頭脳が、電脳の網をどこまで振り切ることができるか、
現代人に挑んでいるようにも感じられます。
2021年4月28日
困難な訳注、楽しい読書
こんにちは。
本日、曹植「名都篇」(05-09)の訳注稿を公開しました。
先の「白馬篇」の公開から、25日もかかってやっとひととおりの完成です。
(もっとも、完成には程遠いものばかりで、だから「訳注稿」です。随時修正していきます。)
訳注は(かつて言ったことがありますが)、
一番、自身の持てるものが露骨に現れる作業です。
場合によっては、一本の論文を書くことよりも困難であり、
また他の研究者への貢献度も、論文より高い場合が多いかもしれません。
そのようなわけで、体力気力が落ちている時にはなかなか困難な作業と感じられます。
けれども、ここで踏ん張っておくと、何より後で自分がそれに助けられます。
だから、時間がかかってもやるべき作業です。
ところで、大学では教員の業績評価というものが行われます。
かつて、『白氏文集』(明治書院、新釈漢文大系)のある冊がやっと完成したとき、
この訳注は、一本の紀要論文よりも点数が低く、愕然としたことがあります。
相対的に、他の分野では、翻訳と注釈にそれほどの労力を要しないのかもしれず、
だから、中国古典文学におけるこの作業の重要性が理解されなかったのだろうと思います。
そもそも多種多彩な分野の学術的業績をひとつの尺度で図ることは不可能でしょう。
かくして、人の評価とは距離を置く、道家的な考え方に一層親近感を覚えるようになりました。
訳注の作業は、できるだけ朝の一番よい時間帯に行うようにしています。
一方、夕方のひととき、読み進めるのを楽しんでいるのが平賀周蔵の漢詩です。
つきつめて語釈をすることは、今は保留して、描写された江戸期の宮島を想い描きます。
楽しむにはちょうどよい距離感です。
2021年4月27日
考証学者との距離
こんばんは。
先にこちらで言及した、
曹植「名都篇」に見える「寒」という調理法について、
黄節『漢魏楽府風箋』巻十五所収「名都篇」箋にも引かれている、
朱蘭坡『文選集釈(選学叢書)』巻十七「名都篇」を確認してみました。
『周礼』天官冢宰・漿人の鄭玄注に、「涼、今寒粥也(涼とは、今の寒粥なり)」といい、
同じく天官冢宰・膳夫の注で、「涼」と「䣼」とを通じて用いるテキストがあり、
『広雅』釈器に「酪・酨・䣼、漿也(酪・酨・䣼は、漿なり)」とある、
ということが指摘されています。
この一連の説明によると、「寒」は、冷製スープのようなものだと言えそうです。
朱蘭坡『文選集釈』には、その前の句の「臇」についても詳しい考証が見えています。
考証学者のこの細かさには、正直なところ、そこまでしなくてもと感じることも多いです。
様々な文献を渉猟した結果が、常識とそれほど大差なかったりする場合もあります。
ただ、現代風のいい加減な語釈をして大きな誤解をすることは、
こうした研究成果をきちんと踏まえることによって回避できるかもしれません。
なんにせよ、自分が一番ものを知らない人間であることはたしかなので、
これからも古人の著作から教わるという姿勢を持ち続けます。
ただ、古人だからといって、絶対視する必要はないとも思っています。
それは、今人の先行研究に対して、全面的に寄りかかることがないのと同じです。
2021年4月26日
それぞれの事情
こんにちは。
先に、成公綏の「晋四箱歌十六篇」第六篇を取り上げて、
『易』と、西晋王朝の成立を上天に告げる文章の語句とが対を為すことを指摘しました。
その際、成公綏によるこの歌辞が、
これほど濃厚に王朝への忠誠心を含んでいることに少なからず驚かされたのでしたが、
では、この成公綏という文人はどのような背景を持つ人物なのでしょうか。
『晋書』巻92・文苑伝(成公綏)には、次のようなことが記されています。
成公綏は幼い頃から聡明で、儒教の経典に広く通じていたが、
元来が寡欲な人柄で、極貧生活の中でも安らかな心持を保っていた。
辞賦に優れた才能を持っていたが、世の中に広く知られることは求めなかった。
西晋王朝の時代となって、重臣の張華に見出され、博士、秘書郎、中書郎を歴任し、
張華とともに詔を受けて詩賦を作ったり、賈充らと法律を策定したりした。
泰始九年(273)、43歳で亡くなったことからすると、
成公綏という文人は、その二十代、三十代を、
魏が西晋に簒奪されてゆく過程の中で過ごしたことになります。
もしかしたら彼は、
弱体化した魏王朝の有り様をなすすべもなく眺めつつ過ごし、
次の西晋王朝が成立してから、張華の推挙に応じたのかもしれません。
貧しい、とても有力な家柄の出ではなさそうな彼としては、
似た境遇から身を起こした張華からの推挙はうれしいものだったかもしれません。
とはいえ、西晋王朝に仕えることを、彼自身がどう思っていたかは不明です。
その「鸚鵡賦(序)」(『太平御覧』巻764・924)に、次のようにいいます。
小禽也。以其能言解意、故為人所愛、育之金籠、昇之堂殿。然未得鳥之性。
鸚鵡(オウム)は小禽である。
その、よく話し、言葉の意味を理解できるという能力によって人間に愛玩され、
人はこの鳥を金籠の中で育て、長じては御殿の堂上に上らせる。
けれども、この鳥はいまだ鳥の本性を全うできていない。
鸚鵡はこの時代、割合よく賦に詠じられる題材ではありますが、
そうした小さな存在に目を留め、それを「未だ鳥の性を得ず」と表現した彼の心中は、
必ずしも自身のあり様に満足しきっていたとも言えないように感じられます。
(ただし、この作品の成立年代や背景などはすべて未詳です。)
新しい組織への対し方、距離の取り方には、人それぞれの事情がある。
そうした当たり前のことを、成公綏に気づかされました。
2021年4月25日
知識人と大衆
こんばんは。
曹道衡『魏晋文学』第一章第二節「魏晋的社会状況和思潮」に、*
王莽新に抵抗したのは、赤眉ら農民軍以外に、地方豪族らがいたこと、
豪族たちは、農民にも役人に対しても、一定の影響力を持っていたことが述べられ、
その事例として、次のような記事が列挙されています。
赤眉軍をその徳でもって退却させた樊宏(『後漢書』巻32・樊宏伝)。
また、隠者の逢萌は、北海太守の招きに応じなかったために捕えられそうになったところ、
当地の人民たちがこれに抵抗して彼を守ったこと(同巻83・逸民伝)。
更に、黄巾賊から、県境に侵入しないことを丁重に約束された儒者の鄭玄(同巻35・鄭玄伝)。
こうした知識人と民衆との幸福な関係は、
今の時代からすると、非常に新鮮に感じられます。
また、少し前の中国で吹き荒れた文化大革命のことも想起されます。
曹道衡先生は、抑制のきいた筆致で、
光武帝が名士たちを集めたのは、彼らの名声を慕ったのみならず、
彼らが一般人民に対して持っていた影響力を考慮に入れたためである、と論じておられますが、
もしかしたら、先の時代のことが意識の底にあったかもしれないとひそかに思いました。
何も分かっていない者の不躾な想像です。
2021年4月24日
*『曹道衡文集』(中州古籍出版社、2018年)巻四に収載。
阮籍の不服従
こんばんは。
今日も『宋書』楽志所収の楽府詩について。
王朝が主催する公的な宴席で流れる楽曲の歌辞には、
『易』『書経』『詩経』といった儒教の経典に出る語が散りばめられています。
そして、これはこの種の楽府詩に限定されることではありませんが、
対句においては、基本的に同等の古典に由来する語を配置するのが普通であって、
それを踏み外した作品は、自分のような者から見ても、少し下手なように感じられます。
王朝の威信をかけた場で演奏される楽曲の歌辞なのですから、
当然、立派な典故を踏まえた対句が並んでいるはずだと思って読んでいると、
時々、一見そこから外れたように見える辞句に出会うことがあります。
たとえば、昨日と同じ成公綏による「晋四箱歌十六篇」の第六篇に見える次の対句、
德光大 德は光大にして(皇帝の徳は広く輝きわたり)、
道熙隆 道は熙隆す(その治世の道が盛大に興る)。
「德光大」は、『易』坤卦彖伝に見える次の辞句を踏まえています。
坤厚載物 徳合无疆 坤は厚く物を載せ、徳 无疆に合す。
含弘光大 品物咸亨 含弘光大にして、品物 咸(みな)亨(とほ)る。
ところが、対を為す「道熙隆」については、『易』に釣り合う出典が見つかりません。
おかしいなあと思って調べてみたところ、*
『晋書』巻3・武帝紀に記す、
西晋王朝が成立した泰始元年(265)の冬十二月丙寅(17日)、
武帝司馬炎が魏からの受禅を上帝に告げる文章の中に、次のとおりありました。
昔者唐堯、熙隆大道、禅位虞舜。舜又以禅禹、邁徳垂訓、多歴年載。
昔 唐堯は、大道を熙隆し、位を虞舜に禅(ゆず)る。
舜も又以て禹に禅り、徳に邁(つと)めて訓を垂れ、多く年載を歴(へ)たり。
大いなる「道」と「熙隆」とが一緒に用いられているので、
前掲の成公綏の歌辞は、これを念頭に置いた表現であることほぼ確実でしょう。
『易』と、禅譲を上天に報告する文章とを同等に置いている。
その王朝に対する服従のあり様に、そこまでなのかと驚きを禁じ得ません。
これに対置させてみると、阮籍の不服従の重みが想像できるようです。
彼は、いずれ西晋王朝を立てることになる司馬氏の庇護下に生き延びた人物ではありますが、
その不埒とも見える型破りの行動が、どんなに強い思い切りを要するものであったか、
親友とも死別し、独自の道を歩んだ彼の孤独を思います。
2021年4月23日
*台湾の中央研究院による漢籍電子文献で検索しました。自力ではたどり着けなかった文献です。
楽府詩の押韻
こんばんは。
これは、音韻学の分野では疑問に値しないことなのかもしれませんが。
『宋書』楽志二に収録された楽府詩(歌詞)を読む研究会で、
時々、異なる声調にわたって押韻しているのかと疑われるような事例に遭遇します。
現代中国語に四声(四つの音調)があるように、
古漢語にも、平声・上声・去声・入声の四つの声調がありますが、
たとえば唐代の定型詩では、この声調の枠を越えて押韻することはないと聞きます。
ところが、この原則に合致しない事例が、上記の楽府詩群には割合よく見られるのです。
(以下の話は、こちらの韻目表をあわせてご覧いただければと思います。)
たとえば、西晋の「食挙楽東西箱歌十二篇」の第十一篇は、
偶数句末に「塵・鄰・秦・仁・民・震・人・賓・陳・鈞・珍・身・新」という字が並びますが、
隋代に成った韻書『切韻』の系譜を引く、北宋初期の韻書『広韻』によると、
「鈞」は上平声18「諄」、「震」は去声21「震」、他はすべて上平声17「眞」の韻です。
(上平声とは、分量の多い平声を上下ふたつに分割した、その上という意味です。)
このうち、「眞」「諄」の韻は、
唐代の定型詩(近体詩)でも通用され、
『広韻』にも「同用」と記されている、実質上ほぼ同じ響きの韻と見られるものです。
これら、「眞」「諄」の韻に属する上記の文字はすべて平声です。
ところが、その間に挟まれた「震」韻は去声であり、これだけが異質です。
押韻を、同じ平声のものだけに限定し、声調の異なる「震」のみを除外すると、
一首の脚韻が全体として整わないということになるでしょう。*
更に、次のような事例もあります。
成公綏による「晋四箱歌十六篇」の第八篇です。
本詩は、第一句に「命」、
偶数句末に「聖・盛・政・聖・仁・鈞・潤・儁・胤・昆」という字が並びます。
このうち、「命」は去声43「映」、「聖・盛・政・聖」は去声45「勁」で、
この「映」「勁」の両韻は、『広韻』でも同用と記されている、実質上同じ韻です。
ここまでは何の問題もありません。
換韻して、続く「仁」は上平声17「真」、「鈞」は上平声18「諄」、
「潤・儁」は去声22「稕」、「胤」は去声21「震」、
そして「昆」は上平声23「魂」です。
このうち、「真」と「諄」の韻、及び「震」と「稕」の韻は、
それぞれ相互に『広韻』で同用と記される、実質上は同じ響きの韻と目されるものです。
他方、「魂」韻は、同じ平声の「真」「諄」韻と同用ではありません。
けれど、これら三つの韻はすべて、古詩においては通押する、近い響きを持つ韻です。
(ここまでは問題ありません。問題はここからです。)
もし声調が同じであることを押韻の条件とするならば、
この楽府詩の後半部分の押韻は、
「仁・鈞」「潤・儁・胤」「昆」の三つに区分されることとなり、
すると、最後の「昆」だけがぽつんと取り残されることになってしまいます。
ここは、声調が(平声と去声とで)異なってはいても、
「仁」以下「昆」に至るまで、すべて押韻していると捉えるべきでしょう。
『宋書』楽志二に採録されている歌辞は、
その当時、歌われていたことが確実であるものばかりです。
声調は、楽曲のうねりの中に埋没してしまうものなのかもしれません。
ならば、声調は度外視して、韻の響きにのみ注意が向けられても不思議はありません。
2021年4月22日
*于安瀾『漢魏六朝韻譜』(河南大学出版社、2015年)魏晋宋譜・真諄臻(p.175)に、去声の震韻が平声の真韻と通押している例として、張華「武帝哀策文」(『藝文類聚』巻十三)を挙げる。この文章は特に音楽に乗せられたものではなさそうだ。すると、この時代の詩文における押韻は、基本的に声調にはそれほど注意を向けない、緩やかなものだったとも考えられるだろうか。
当たり前は記されない
こんにちは。
やっと先が見えてきた曹植「名都篇」の訳注稿、
語釈において意外と手こずったのが、料理の内容やその調理法についての説明です。
膾鯉臇胎鰕 鯉を膾(まなす)にし 胎鰕を臇(あつもの)にし、
寒鼈炙熊蹯 鼈(すっぽん)を寒にし 熊蹯(くまのてのひら)を炙(あぶ)る。
まず、料理の素材として並んだ語のうち、「胎鰕」は未詳です。
これと対を為す「熊蹯」、またその上に並ぶ「鯉」「鼈」は他の作品でも見かける語ですが、
「胎鰕」は、辞書や類書などでも大抵、曹植のこの「名都篇」が用例に上がります。
『文選』五臣注の劉良注、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)、
あるいは『漢語大詞典』(漢語大詞典出版社、1990年)はこれに語釈を施していますが、
それだって、何か根拠となる一次資料が示されているわけではありません。
更に、「寒」という調理法の説明にも困りました。
『文選』李善注は、前漢の桓寛撰『塩鉄論』散不足での用例に加えて、
後漢の劉煕撰『釈名』釈飲食の説明を挙げ、「寒」「韓」が通じることを付記して、
その調理法が韓の国由来のものであることを示しています。
ですが、肝心の具体的な調理法は不明です。
なぜ、「寒」という料理について具体的な説明が為されないのか。
それは、漢魏の時代、「寒」はあまりにも当たり前の語句であったため、
わざわざその調理の実態を示す必要はないと判断されたのではないかと想像します。
思うに、「寒」という調理法に、この字本来の意味が含まれないはずはないでしょう。
「寒食」という語で示される風習があることから推し測られるように、
これは今でいう冷製のようなものかもしれません。
あまりにも当たり前のことは、文献に足跡を残さないものなのかもしれません。
なお、「寒」と「膾」とを対句で用いる例は、
曹植「七啓」(『文選』巻34)にも次のとおり見えています。
寒芳蓮之巣亀 芳蓮の巣亀を寒にし、
膾西海之飛鱗 西海の飛鱗を膾にす。
こちらの李善注には、「寒、今〓[月+正]也(寒とは、今の肉の炒り煮である)」とあり、
続けて前掲の『塩鉄論』『釈名』を同様に引いています。
2021年4月21日
「侍太子坐」解題への追記
こんばんは。
丁晏『曹集詮評』を底本とした曹植作品のテキストファイルを作成し、
少しずつ、諸本に当たって文字の異同を確認する交換作業を進めていますが、
地味な作業の中、時々拾い物をすることがあります。
昨日も『初学記』巻10に引く『魏文帝集』に目が留まりました。
曹丕が太子に立てられたのは建安22年(217)ですが(『魏志』文帝紀)、
実はそれ以前、すでに曹操の後継者と定められていたようで、
このことを示すのが、その『魏文帝集』の記述です。
喜び勇んでノートに書いたのですが、念のため確認をしたら、
すでにこちらの雑記に、津田資久氏の論文に教わったこととして記していました。
曹植作品訳注稿「04-02 侍太子坐」の解題に、本日このことを追記しました。
新しい収穫が何もない日もあれば、
天啓のような光がたくさん降ってくる日もあります。
何もない地味な日々を、くさらずに焦らずに、丁寧に踏みしめていきたい。
2021年4月20日
古詩を取り込んだ楽府詩
こんにちは。
昨日紹介した、阮籍「詠懐詩」其六十四が踏まえた可能性のある、
曹植「送応氏詩二首」其一について。
その末尾にいう「念我平常居、気結不能言」は、
訳注稿にも示したとおり、『玉台新詠』巻1所収「古詩八首」其七を踏まえています。
今、その全文を挙げれば次のとおりです。
01 悲与親友別 親友と別れるのが悲しくて、
02 気結不能言 気は結ぼれてものを言うこともできない。
03 贈子以自愛 そなたに、どうかご自愛くださいとの言葉を送ろう。
04 道遠会見難 道は遠く、お会いすることも難しくなるだろう。
05 人生無幾時 人の一生はいくばくもなくて、
06 顛沛在其間 その短い間には思いがけない挫折が待ち構えているものだ。
07 念子棄我去 繰り返し念頭に浮かび上がるのは、そなたが私を捨て去ってゆき、
08 新心有所歓 新しい心持で、親密な友に巡り会うのだろうということだ。
09 結志青雲上 世に出て、青雲の志を実現されたあかつきには、
10 何時復来還 いつかまた帰ってきてくれるだろうか。
相手に対する思いの濃密さ、距離の近さに少しく違和感を覚えるような詩ですが、
当時の中国の士人たちにとってはこれが普通だったのでしょうか。
それはともかく、「気結不能言」という句は、
別に、『宋書』巻21・楽志三所収の「艶歌何嘗行・白鵠」にも見えています。
ただ、この晋楽所奏の「艶歌何嘗行・白鵠」は、
この楽府詩の原型と見られる『玉台新詠』巻1所収の古楽府「双白鵠」に、
前掲の古詩「悲与親友別」や、
『文選』巻29所収の蘇武「詩四首」其三の句などが流入して成ったものと見られます。*
このような理由により、
曹植「送応氏詩二首」其一の語釈に、
晋楽所奏「艶歌何嘗行・白鵠」を挙げることはしませんでした。
2021年4月19日