伝記と作品

こんばんは。

元稹と白居易との交往詩を読んでいる演習、
今日取り上げたのは、
長慶三年(823)の作とされる、元稹「寄楽天」(『元氏長慶集』巻22)と、

白居易「答微之詠懐見寄(微之が懐を詠じて寄せらるるに答ふ)」(『白氏文集』巻53、2320)です。

当時、白居易は52歳、その前年7月に、自ら外任を求めて、中書舎人から杭州刺史に転出、
他方、元稹は45歳、その前年に、宦官との交際が裴度(白居易も敬慕する名臣)に厳しく批判され、
2月に穆宗から同平章事(宰相あつかい)に任命されたものの、6月には同州刺史に出され、
翌長慶三年、越州刺史・浙東観察使に遷ったのでした(『旧唐書』巻166)。*

元稹の「寄楽天(楽天に寄す)」は次のような詩です。

閑夜思君坐到明  静かな夜、君のことを思ってぼんやり坐したままいつしか朝を迎える。
追尋往事倍傷情  往時を追想すれば、感傷的な思いが益々こみ上げる。
同登科後心相合  我等はともに吏部試(書判抜萃科)に合格してから意気投合し、
初得官時髭未生  初めて官職を得た時には、口ひげがまだ生えていないほど若かった。
二十年来諳世路  二十年来 世の中を渡る道の険しさを知り尽くし、
三千里外老江城  都から三千里の外 大江(銭塘江)のほとりの街で老いてゆく。
猶応更有前途在  それでもきっと更に開けてゆく前途があるに違いない。
知向人間何処行  いったい我等はこの世界でどちらに向かって行くのだろうか。

この詩から浮かび上がってくるのは、
長年の辛苦を振り返りつつも、なお官界における希望を失わないでいる元稹の横顔です。
それは、歴史書が記す、濁りを含んだ彼の足跡とは混じり合わないものです。

第三者が人々の伝聞を書き留めた元稹伝と、彼自身がその胸の内を開陳する詩と、
そのどちらが本当の元稹なのでしょうか。

人には、様々な巡り合わせで、自身の思惑を超えて事態が動くということがあるように思います。
その人の心の中にある真実は、第三者が外側から決めつけられるものではないでしょう。
たとえ言葉によって当人が作り上げてしまう「真実」があるのだとしても、
当人の周辺に点在する伝聞から、その人の人物像を作り上げてしまうよりかはずっとましです。
自分が探求したいのは、その人自身の言葉が訴える「真実」です。

2021年1月21日

*白居易と元稹の閲歴については、小川環樹編『唐代の詩人―その伝記』(大修館書店、1975年)、花房英樹『白居易研究』(世界思想社、1971年)所収「白居易年譜」、朱金城『白居易年譜』(上海古籍出版社、1982年)、花房英樹『元稹研究』(彙文堂書店、1977年)所収「年譜」、卞孝萱『元稹年譜』(斉魯書社、1980年)、周相録『元稹年譜新編』(世紀出版集団・上海古籍出版社、2004年)を参照。

兄弟を思う賦

こんばんは。

曹植には、今は亡き父を追慕する「懐親賦」という作品があって、
これを踏襲したと見られる作品が陸機にあることは、先にこちらで述べました。

これと同質の継承関係かと思われる事例が、『藝文類聚』巻21「友悌」に見られます。
すなわち、兄弟への思いを詠じた曹植の「離思賦」「釈思賦」に続けて、
陸機の「述思賦」が採録されているのがそれです。

辞賦文学としては、そのテーマが非常に個人的な小品ですが、
そうした作品は、曹植以前の時代、それほど一般的ではなかったかもしれない、
それを陸機ががっちりと受け継いでいるというように見える、『藝文類聚』の採録の仕方です。

先の親を思う賦とともに、この兄弟を思う賦についても、
ほんとうに曹植よりも前に作られた事例がないのか、検証する必要があります。

ところで、それとは別の興味関心として、
曹植はその後半生、兄の曹丕からひどい仕打ちを受けたのでしたが、
それ以前の曹植は兄のことをどのように思っていたのか、
それが「離思賦」に垣間見えるかもしれません。
(このことについては、かつてこちらでも触れたことがあります。)

少年時代から、親しみ慕っていた兄が、
ある時期以降、自分を傷めつける人間へと変貌していったとするならば、
その絶望の深さには息をのんで黙り込むしかありません。
それでもなお曹植は、その「吁嗟篇」の結びでこう詠じています。

願為中林草    できることならば林の中の草となり、
秋随野火燔    秋の日、野火に身をゆだねて焼かれてしまいたい。
糜滅豈不痛    焼けただれて消滅することに、痛みを感じないわけがないけれど、
願与根荄連    もとの根っこに連なりたいという一心なのだ。

2021年1月20日

曹植と楊修

こんにちは。

先日、「経国の大○」という表現をめぐって、
曹植「節遊賦」(『藝文類聚』巻28)は、
楊修「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)との間につながりを持つかもしれない、
との推測を述べました。

他方、楊修にも曹植と同じ題名の「節遊賦」という作品があります。
同じ『藝文類聚』巻28に、曹植の「節遊賦」「感節賦」に続いて収載されています。
もしかしたら、両者は同じ機会に競作されたのかもしれません。

趙幼文は、上記のことを指摘した上で、
そこに王粲や徐幹の作が収載されていないことから、
曹植や楊修が「節遊賦」を制作した時期は、
多くの文人たちが流行病で亡くなった建安22年(217)以降かと推測しています。*

趙幼文が推測しているとおりかもしれません。
建安22年以降、楊修が曹操に誅殺される同24年(219)までの間は、
曹植と楊修とが親密さをいよいよ深めた時期でもあります。

2021年1月19日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.186を参照。

ひとりしょんぼり

こんにちは。

本日の授業で、『聊斎志異』巻11「竹青」を翻案した、太宰治「竹青」を読みました。

この太宰治の小説には、それが基づいたという田中貢太郎訳にも、原文にもない、
おびただしい数の中国古典や漢詩の引用が認められます。
こちらにその主だったものを挙げてみました。)

その用いられ方は、たとえば、次のような具合です。

(主人公魚容の妻は)魚容が「大学の道は至善に止るに在り」などと口ずさむのを聞いて、ふんと鼻で笑い、「そんな至善なんてものに止るよりは、お金に止って、おいしい御馳走に止る工夫でもする事だ」とにくにくしげに言って……

魚容が口ずさんだのは、『礼記』大学にいう「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」、
それを、彼の妻はこのように言い換えて小ばかにしているのです。

また、帰郷してひどい目にあってばかりの魚容が、竹青との日々を思い出して、

「朝に竹青の声を聞かば夕に死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほど劇しく懐慕せられるのである。

この魚容の科白は、『論語』里仁にいう「子曰、朝聞道、夕死可矣」をもじったものです。
「道」を「竹青」に変換して言っているのが、可笑しくてそこはかとなく悲しい。

今ここに挙げたのは、非常にわかりやすい例ですが、
多くの引用は、このような調子で、小説に何ともいえないおかしみを添えています。

ところが、これが学生たちに通じませんでした。
オンライン授業を終えて、ひとり憮然(しょんぼり)としています。

2021年1月18日

「経国の大業」という語をめぐって

こんにちは。

曹丕「典論論文」(『文選』巻52)にいう「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」は、
楊修「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)にいう「経国の大美を忘れず」の影響を受けているかもしれない。
このことは、先に(2020年10月2日11月17日)先行研究を踏まえつつ述べました。

これに類似する表現は、曹植「節遊賦」(『藝文類聚』巻28)にも見えています。

愈志蕩以淫遊  志の蕩じて以て遊びを淫(ほしいまま)にするを愈(たの)しむは、
非経国之大綱  経国の大綱に非ず。

「経国之大○」という表現を、漢魏の時代に絞って検索してみると、*
上記の楊修、曹植、曹丕の3件のみでした。
この他、これに近い表現としては、次の2件が数えられます。

まず、張衡「東京賦」(『文選』巻3)に「忘経国之長基(経国の長基を忘る)」、
これは、李善注の指摘するとおり、上記の楊修「答臨淄侯牋」がこれを踏まえています。

そして、崔琰が若き日の曹丕を諫めた「諫世子書」(『魏志』巻12・崔琰伝)に、
「世子宜遵大路、慎以行正、思経国之高略
(世子は宜しく大路に遵ひ、慎んで行ひを以て正しくし、経国の高略を思ふべし)」と。

後漢中期の張衡を除いては、このフレーズを用いているのは近い間柄の人々です。
曹家の息子たちの教育係として、崔琰は曹丕を戒め、楊修は曹植を励ましているのです。
(ちなみに崔琰は、その兄の娘が曹植に嫁いでいるという姻戚関係も有します。)

いかにも支配者階級の人々がよく口にしそうなフレーズではあるのですが、
意外にも狭い範囲でやり取りされた表現なのでしょうか。

2021年1月14日

*厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』の電子文献(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)で検索。

元白交往詩雑感(3)

こんばんは。

昨日、元和十四年に書かれた白居易の詩「寄微之」を、
「友の心には響かない慰めの詩」と、些か厳しい言葉で言い表しましたが、
これは、白居易がそのような人物であると言っているのではなく、
むしろ、彼がそのような詩を書き送ったのはたいそう意外であるという意味です。

元稹はこの年の秋、娘を亡くすという悲痛のどん底にありました。
彼が白居易から寄せられた詩を前に、何か心ここにあらずといった様子であったのは、
このことが大きく影響しているのではないでしょうか。

では、白居易は、元稹の身に起こったこの不幸を知っていたのかどうか。
私は、知らなかったのだと考えます。
知っていれば、このことを無視したまま官界での不遇を慰めるというような、
薄情無粋なことを彼はしなかったはずだと思うからです。

白居易も、この年の元稹と同様に幼い娘を亡くしたことがあって、
そのことをどうにも呑み込めない苦しみを、たとえば次のように詠じています。

与爾為父子  お前と親子となってから、
八十有六旬  八百六十日。
忽然又不見  突然またお前の姿が見えなくなって、
邇来三四春  以来三四年の春が過ぎていった。
形質本非実  あの子の肉体は、もともと実体のあるものではなく、
気聚偶成身  気が寄り集まって、たまたま人の身体の形となったのだ。*
恩愛元是妄  親子の情愛など、元来が虚妄なるものであって、
縁合暫為親  因縁が交錯して、しばし親子関係を結ぶことになっただけだ。
念茲庶有悟  こう繰り返し自分に言い聞かせて、心の迷いが晴れるようにと切望し、
聊用遣悲辛  とりあえずはそうやって悲しみや辛さを追い遣ろうとしたのだったが、
暫将理自奪  しばしの間そんな理屈で自分自身の本性を奪い去っていただけであって、
不是忘情人  もともと私は情を忘れた聖人ではあり得ないのだった。

白居易が長女の金鑾を亡くしたのは元和6年(811)ですが、
本詩「念金鑾子二首」又一首(『白氏文集』巻10、0469)は、元和8年に作られたものです。
時を隔ててなお、亡き娘のことが忘れられず、こうして詩に詠じたのは、
たまたま金鑾の乳母だった女性に出会ったからだと一首目の詩(0468)にはありますが、
それ以上に、白居易が多情多感な人だったからではないでしょうか。

このような人は、親友が大切な娘を亡くして落胆していることを知っていれば、
きっとまず第一にこのことを慰めたでしょう。
(かつて妻の韋叢を亡くした元稹に対してそうであったように。)

おそらくは元稹も、白居易のこうした性情を熟知していて、
それで、自身の身内の不幸には触れず、「唯だ秋来両行の涙有り」と詠じたのではないか。
そして、「君に対して新たに贈らん遠き詩章」とは、別途また詩を贈ろうという意味ではないか。
先には保留にしていた問題について、こんなふうに考えた方がよいかと思いました。

2021年1月13日

*『荘子』知北遊篇に、「人之生、気之聚也。聚則為生、散則為死。若死生為徒、吾又何患。故万物一也(人の生は、気の集まったものだ。集まれば生となり、散ずれば死となる。もし死生を同族とみるならば、吾はこれ以上何を思い煩うことがあろう。もとより万物は一つなのだ)」と。

元白交往詩雑感(2)

こんにちは。

過日、通釈とともに紹介した白居易の「寄微之」と元稹の「酬楽天歎損傷見寄」は、
二人の思いに微妙なずれがあるように感じられる唱和詩でした。
白居易は、思うに任せぬ官途に落胆しているであろう元稹を、慰め、励まそうとしているのに対して、
元稹の方は、社会的挫折よりはむしろ、心身ともに疲弊していることをこぼし、
親友から寄せられた詩もどこか虚ろに響いているような様子です。

では、白居易はなぜ、友の心には響かない慰めの詩を書き送ったのでしょうか。

元稹は元和14年当時、虢州(雄級…上州*1)の長史(従五品上*2)で、
前職の通州(上州)司馬(従五品下)よりは、少しだけ官位が上昇しています。
それに、これまで彼をひどく苦しめてきた南方特有の瘴気からは解放されているのです。
慣れない風土の地方から、中央寄りの高い等級の土地へ遷ったことを、
まずは祝してもよかったのではないでしょうか。
それなのに、白居易は元稹をねんごろに慰撫していました。
これはどういうわけでしょうか。

白居易はその前年、李夷簡(『新唐書』巻131・宗室宰相列伝)が宰相となったことを聞いて、
元稹に、これで君も貶謫の地を脱出できるだろうと慶賀する詩を送っています。*3
また元稹は、「酬楽天東南行詩一百韻」(『元氏長慶集』巻12)の序に、*4
「(元和)十三年、予以赦当遷(予は赦を以て当に遷るべし)」と記しているように、
淮西の乱の平定に伴う恩赦により、自分は当然、通州司馬から異動になると期待していたようです。*5
ですが、李夷簡は間もなく外任を求めて淮南節度使となり(前掲『新唐書』本伝)、
元稹の昇進は、期待していたようには事が運びませんでした。
(以上、元和13年における二人の動向は、研究生の劉麗丹さんが指摘してくれました。)

このような経緯があったため、
白居易は、元稹がさぞ落胆しているだろうと思い遣り、
先に紹介した「寄微之」詩を、遠方の友に宛てて書き送ったのでしょう。

つづく。

2021年1月12日

*1 平岡武夫・市原亨吉『唐代の行政地理(唐代研究のしおり2)』(同朋舎、1985年。初版は、京都大学人文科学研究所、1954年)p.25、序説p.32を参照。以下同様。
*2 小川環樹編『唐代の詩人―その伝記』(大修館書店、1975年)付録の礪波護「唐代の官制と官職」付「唐代百官表」を参照。以下同様。
*3「聞李尚書拝相、因以長句寄賀微之(李尚書が相に拝せらると聞き、因りて長句を以て微之に寄せ賀す」(『白氏文集』巻17、1052)。明治書院・新釈漢文大系『白氏文集 四』p.53~54を参照。この白詩に唱和した元稹の詩は、『元氏長慶集』巻21に「酬楽天聞李尚書拝相以詩見寄(楽天の李尚書が相に拝せらると聞き詩を以て寄せらるるに酬ゆ)」と題して収載されている。
*4 もととなった白居易の詩は、「東南行一百韻。寄通州元九侍御・澧州李十一舎人・果州崔二十二使君・開州韋大員外・庾三十二補闕・杜十四拾遺・李二十助教員外・竇七校書」(『白氏文集』巻16、0908)、元和十二年の作で、元稹・李建・崔韶、韋処厚・庾敬休・杜元穎・李紳・竇鞏ら友人たちに宛てて、都長安を回顧しつつ、流謫先の江州の様子を詠じたもの。新釈漢文大系『白氏文集 三』p.333~351を参照。
*5 周相録『元稹集校注』(上海古籍出版社、2011年)上、p.369の注[7]を参照。

先輩に学ぶ曹植

こんにちは。

牛の歩みで読み続けている曹植「求自試表」(『文選』巻37)、
今日は次のような表現に遭遇しました。

曹植が古籍を読むたびに慨嘆したという、
忠臣義士たちのあり様について述べた部分にこうあります。

身雖屠裂、而功銘著於景鍾、名称垂於竹帛、

身体は八つ裂きにあっても、
その功績は景鍾(晋の景公が作った鍾)にくっきりと刻まれ、
その名は竹帛に記されて後世に伝えられる、

これとよく似た表現が、
楊修「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)にも、次のとおり見えています。

若乃不忘経国之大美、流千載之英声、銘功景鍾、書名竹帛、
斯自雅量素所畜也。

経国の大業を忘れず、千載の名声を流し、功を景鍾に刻まれ、名を竹帛に書かれる、
こうしたこととなると、これはあなたの雅量がもとより蓄えていたものによるのです。

ちなみに、李善注は曹植と楊修いずれの作品に対しても、
表現の典拠として、『国語』晋語七、『墨子』兼愛下を挙げています。
前者は、晋の悼公が魏顆の子の頡を採用して、その父の武勇を語って聞かせるという記事、

後者は、功績を竹帛、金石、槃盂に刻んで、後世の子孫に伝えるという記述です。

先に、この上表文が短期間に作られたと見られることを述べましたが、
そうした創作においては、真に血肉化した言葉であってこそ自在に出てくるものでしょう。
曹植は、若い頃に傾倒した楊修の、それも自身に直接宛てられた言葉を覚えていて、
それが思わず口をついて出てきたのかもしれません。
(ありふれた発想を、楊修も曹植も用いたのだという可能性もなくはないですが。)

2021年1月11日

元白交往詩雑感(1)

こんにちは。

昨日の演習で、白居易の「寄微之」(『白氏文集』巻18、1144)と、
これに応えた元稹の「酬楽天歎損傷見寄」(『元氏長慶集』巻21)とに対して、
両者の思いが少しすれ違っているように感じる、との感想が学生たちから寄せられました。

この交往詩については、つい最近こちらでも取り上げたことがあるのですが、
学生たちと考察する中で、新たに見えてきたこともありますので、
先には示していなかった通釈とともに再度取り上げます。

さて、白居易詩の自注「時微之為虢州司馬(時に微之は虢州の司馬為り)」から、
この唱和詩は、元和14年(819)の作であることが知られます。
時に、白居易は48歳、元稹は41歳です。

今日はまず、二首の詩を紹介します。

白居易「寄微之(微之に寄す)」
高天黙黙物茫茫 高き天は黙して語らず、万物は茫漠として捉えどころがないが、
各有来由致損傷 損傷を引き寄せるのには、各々しかるべき理由がある。
鸚為能言長翦翅 鸚鵡はおしゃべりがうまいために、翅を切られて長く拘束され、*1
亀縁難死久搘牀 亀はなかなか死なないという特性により、久しく寝台を支え続けることとなった。*2
莫嫌冷落抛閑地 零落してつまらぬ土地に投げ打たれたことを嫌がってはいけない。
猶勝炎蒸臥瘴郷 それでも、蒸し暑さの中で瘴気の立ち込める村に臥せっているよりましなのだから。
外物竟関身底事  一身外の富貴や名利など、結局この身と何の関係があるものか。*3
謾排門戟繋腰章    やたらと門戟を並べ立てたり、腰に印章をかけて見せびらかせたりすることとは。

元稹「酬楽天歎損傷見寄(楽天が損傷を歎じて見寄せらるるに酬ゆ)」
前途何在転茫茫 これから先の道はどちらにあるのか、いよいよ茫漠として捉えどころがない。
漸老那能不自傷 次第に年老いてきて、どうして自分を痛ましく思わないでいられよう。
病為怕風多睡月 病に臥せっては、風にさらされるのも怖くて、月明かりの下でひたすら眠り、
起因行薬暫扶床 起き上がっては、薬効を発散させるため、しばし寝台につかまって歩き回る。
函関気索迷真侶 函谷関は、物悲しい風土が道士を路に迷わせ、
峡水波翻礙故郷 三峡の水は、逆巻く波が長安への道を阻む。
唯有秋来両行涙 ただ、この秋以来、二筋の涙が流れるばかりだ。
対君新贈遠詩章 君に遠くから新たに詩を贈ろう。

たしかに学生たちの言うとおり、
白居易が、ひたすら社会的な意味での不運を慰めようとしているのに対して、
元稹の答えは、どこか虚ろで、白居易の言葉を受け留めきれていないようにすら感じられます。
官僚としての不遇感よりも、心身の健康状態の悪さの方が前面に出ている印象です。

このすれ違いは、どういうわけで生じたのでしょうか。
継続して考えていきます。

2021年1月8日

*1『文選』巻十三、禰衡「鸚鵡賦」に「性辯慧而能言兮、才聡明以識機(性は弁慧にして能く言ひ、才は聡明にして以て機を識る)」「閉以雕籠、翦其翅羽(閉づるに雕籠を以てし、其の翅羽を翦る)」と。
*2『史記』巻128、亀策列伝に「南方老人用亀支牀足、行二十餘歳、老人死、移牀、亀尚生不死(南方の老人 亀を用ひて牀足を支へ、行くゆく二十餘歳、老人死して、牀を移せば、亀は尚ほ生きて死せず)」と。
*3『荘子』外物篇に「外物不可必(外物は必とす可からず)」と。

学者の眼識

こんにちは。

昨日に続いて、『曹集詮評』の校勘作業に関連して。

その巻頭に並んでいるのは辞賦作品ですが、
厳可均(1762―1843)の『全上古三代秦漢三国六朝文』を参照すると、
六朝時代までの文献の面影をよく伝える類書を、最大限尊重していることが窺えます。

丁晏『曹集詮評』が底本とした明代の程氏刻本や、
その校勘に用いられたという張溥『漢魏六朝百三名家集』は、
完全なかたちに近い姿の作品を多く収録しているという良さはあっても、
個々の部分に雑駁さがあるのだろうことは容易に想像されます。
もし、断片でも類書に収載されているならば、それは貴重な資料です。
厳可均がそれらを重要視したのは実に適切な判断でしょう。

ところで、宮崎市定「張溥とその時代:明末における一郷紳の生涯」は、*
この『漢魏六朝百三名家集』の編者について、
「彼は本質的には今日いう所のジャーナリストであったと考えるのが一番適当」と評し、
「厳可均の『全上古三代秦漢三国六朝文』が出来た上は、
張溥の一百三家集は無くもがなの書のように思われる」とまで言い切っています。

時代ごとに、その気風に適合した文化人というものが現れるのでしょう。
一方、長い時を渡って伝えられてゆく言葉や物があることも、また真実だと思います。

2021年1月7日

*『宮崎市定全集13』(岩波書店、1992年)所収。初出は『東洋史研究』33巻3号、1974年、p.323-369。

※その後、『曹集詮評』の校勘作業を進める中で、丁晏は、厳可均が見落としていた資料、特に『北堂書鈔』所収のそれを実によく拾っていることがわかってきました。(2021.02.06追記)

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