訂正(元白交往詩の空白期間)
こんにちは。
長慶4年(824)6月から約5年間、元稹と白居易との間には詩の往来が途切れる、
と先日述べたことについて、訂正します。
現存する二人の作品を縦覧する限りはそのとおりなのですが、
『白氏文集』を見る限り、少なくともこの間、白居易から元稹に寄せられた詩はあります。
元稹から白居易に送られた詩が、現行の『元氏長慶集』に認められないだけです。
花房英樹氏の研究によって明らかにされているように、*1
太和二年(828)当時、元白交往詩集として「唱和」「因継」の十六巻があり、*2
この巻数から見て、現存する元白交往詩が、そのすべてを伝えていないことは明白です。
杭州の白居易と越州の元稹との間でやり取りされた詩、
あるいはその前の時期、江州の白居易と通州の元稹との間を往来した詩は、
とりわけ世の人々に歓迎されたため、その多くが今に伝えられることとなった、
他方、後半生の作は、特に元稹側の作品が残りにくかった、ということなのでしょう。
ただ、二人の間に流れる気持ちのあり様は、
後半生、かなり変質しているように感じられることはたしかです。
丁寧に読んでいきたいと思います。
2021年1月29日
*1 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)p.310―340、同『白居易研究』(世界思想社、1971年)p.217―286、同『元稹研究』(彙文堂書店、1977年)p.203―217に詳しい。
*2 白居易「和微之詩二十二首 并序」(『白氏文集』巻52、2250)に記す。前掲花房英樹『元稹研究』p.203の指摘による。
解釈を読者に委ねる詩
こんにちは。
過日、こちらで述べたことの続きです。
前途が見えないと嘆く元和14年の元稹に対しても(その様子を思い浮かべながら)、
前途が開けるに違いないと詠う長慶3年の元稹詩に答えるときも、
白居易は等しく、官界での窮達に一喜一憂することの無意味さを説いていました。
これだけ見ると、白居易は悟りきった超俗の人のように感じられますが、
実際にはそんな風に美化することはできないと思います。
たとえば元和15年(820)、忠州刺史から司門員外郎として都に戻る途上、
彼は「宿渓翁(渓翁に宿す)」(『白氏文集』巻11、0565)と題するこんな詩を詠んでいます。
衆心愛金玉 大衆の心は金銀財宝を愛し、
衆口貪酒肉 大衆の口は酒や肉を貪るものだ。
何此渓上翁 ところが、なんとこの渓谷の畔の翁は、
飲瓢亦自足 瓢で水を飲むような質素な暮らしにも自ら満足している。
渓南刈薪草 渓谷の南で芝刈りをし、
渓北修牆屋 渓谷の北で庵を修理し、
歳種一頃田 一年に一頃の田を耕し、
春駆両黄犢 春には二頭の黄色い仔牛を追いたてる。
於中甚安適 彼の心の中は非常に安定して満ち足りた状態で、
此外無営欲 これ以外には何も欲というものを持っていない。
渓畔偶相逢 私は渓谷の畔でたまたまこの翁と出会い、
庵中遂同粥 かくして彼の庵の中で同じ粥をすすったのであった。
辞翁向朝市 翁に別れを告げ、賑やかな都へ赴こうとした時、
問我何官禄 彼は私に向かって「何という官禄をもらうのかい」と聞いてきた。
虚言笑殺翁 そこで、私はこう大言壮語して翁を大笑いさせたのである。
郎官応列宿 「郎官は、天空に居並ぶ星座に対応する、輝かしい公職なのですよ」と。
白居易は、山中でつつましい生計を営んでいる翁を敬愛しつつも、
自身が拝命した官職のことを、いかにも嬉しそうに、誇らしげに語って聞かせています。
それで、彼はまったく、愛すべき俗人だ、と思ったのです。
ただ、この翁に対する大言壮語をどう見るか。
もしかしたら、山中の翁を相手にこんなホラが吹けるほど、
官僚社会における窮達を相対化して見ていた、とも考え得るかもしれません。
大真面目に「拝命する」よりも、浮世の戯れと捉えていたのだ、と。
こうなると、解釈は読者に委ねられるのでしょう。
読む人によって、読む時々によって、鏡のように映す姿を変える詩があります。
2021年1月28日
史実を知りたくなる時
こんばんは。
昨日に続いて、中年期以降の元白交往詩について。
(二人の年齢等については、こちらの「白居易元稹年表」をご参照ください。)
長慶3年(823)10月から翌年5月までの間、杭州の白居易と越州の元稹は、
現存するだけで、あわせて二十組もの詩をやり取りしています。*
ところがその後、二人の往来はふつりと途絶えます。
白居易が太子左庶子、蘇州刺史、秘書監、刑部侍郎と遷っていく間、
すなわち、長慶4年(824)6月以降、太和2年(828)歳暮までの約5年間、
越州刺史・浙東観察使であった元稹と間には、一篇の詩の往還も認められないのです。
(失われた交往詩、あるいは返事のなかった詩があるかもしれませんが。)
この空白は何を物語っているのでしょうか。
遠く離れていても、頻繁に連絡を取り合うのでなくても、
深い理解と共感で結ばれている友情はたしかに存在すると私は思います。
では、白居易と元稹の場合はどうでしょうか。
太和3年(829)の春、白居易が58歳の時に詠じた、
「想東遊五十韻(東遊を想う五十韻)」(『白氏文集』巻57、2717)という詩があります。
その序によると、洛陽での半隠遁的な生活に入る直前、
かつて元稹と風光明媚な浙江で遊んだことをなつかしく思い出し、
一度、越州に彼を訪ねてみようと思い立って作ったのが本詩だということです。
この百句から成る詩を、白居易は次のように結んでいます。
志気吾衰也 私の志気はすっかり衰えてしまった。
風情子在不 君の風流を愛でる心はご健在だろうか。
応須相見後 こんな具合では、再会した後にはきっと、
別作一家遊 各々別の遊びをしなくてはならないことだろう。
なにかひどく気落ちしているような様子の白居易です。
その背景に何があったのでしょうか。
そうなると、彼を取り巻いていた環境を知らないわけにはいかなくなります。
2021年1月27日
*花房英樹『元稹研究』(彙文堂書店、1977年)213―217頁を参照。
友情の変質か(承前)
こんばんは。
先に見たように、長慶3年の元稹「寄楽天」と白居易「答微之詠懐見寄」との間には、
わずかな言葉のすれ違いが認められます。
うらぶれ老いぼれた身だが、前途はきっと開けると詠ずる元稹に対して、
一方の白居易は、世の中での栄達も困窮も、語るだけの価値がないと言っていたのでした。
更に前に見た、元和14年の白居易「寄微之」にも、
「外物は竟(つひ)に身の底事(なにごと)にか関せん」とありましたが、
それは、自己不遇感に沈んでいるであろう元稹を思い遣り、慰めようとしてのことでした。
ですが、このたびの「答微之詠懐見寄」は異なります。
元稹から寄せられた、官界に対する意欲を内に秘めた詩に対して、
それを軽くいなすかのような、「聚散・窮通は何ぞ道(い)ふに足らん」なのです。
元和14年(819)の元白交往詩と、長慶3年(823)のそれと、
偶然か、それとも詩人たちがそれを意識していたか、奇妙な一致が認められます。
先に相手に詩を送ったのは、前者は白居易、後者は元稹ですが、詩題がともに「寄○○」です。
この詩題はよく用いられるものなので、特に作為はないかもしれません。
ですが、長慶3年の元稹詩に見える「前途」は、元和14年のそれにも見えていました。
この語は、元稹詩には3例認められ、うち2例がこれですから、無作為とは言い難いように思います。
そして白居易は、先には自身から送った詩に、後には元稹からの詩を受けて、
そのいずれにおいても、官界での浮き沈みに一喜一憂することの無意味さを説いています。
長慶3年10月、越州に赴任する元稹が、杭州刺史を務めていた白居易を訪ねてから、
翌年5月、白居易が太子左庶子として洛陽へ赴くまでの数か月間、
元稹と白居易の間には幾篇もの詩がやり取りされました。
けれどもそれは、若い頃のそれとは異質なものとなっていたかもしれません。
たとえば、元和元年(806)の「贈元稹詩」(『白氏文集』巻1、0015)と比べれてみれば、
その落差は歴然としています。
自我従宦遊 故郷を離れての役人生活を始めて、
七年在長安 長安での暮らしはもう七年になろうとしているが、
所得唯元君 得られたのはただ元君という友人のみで、
乃知定交難 そこでしじみじとわかった。友人関係を結ぶのは本当に難しい。
豈無山上苗 家柄のよい山上の苗のごとき人々はいくらでもいるが、
径寸無歳寒 ほんの少しも苦労というものがわかっていない。
豈無要津水 世に出る機会を与えてくれる人々も少なくないけれど、
咫尺有波瀾 ほんのわずかな隙にも、人を転覆させるような波が仕掛けられてくる。
之子異於是 ところが、この人だけはこうした連中とは違っていて、
久処誓不諼 久しく付き合っていても、日頃の言葉を裏切るということがない。
無波古井水 まるで古井戸の水のように波瀾は起こさないし、
有節秋竹竿 秋空に伸びる竹の幹のように、堅い節義を持っている。
先に述べた彼らと、若き文人官僚であったこの頃の二人との間には、
小さくはない隔たりを感じざるを得ません。
2021年1月26日
さばききれない仕事
こんにちは。
一昨日の続きはまた後日に回して、
今日は古人とともに多忙をぼやきたいと思います。
この頃、学生たちにレポート課題を出すと、
所定の書式に従えなかったり、期日を守れなかったりすることが多くあります。
それは、今年度に入ってから始まったのではなく、もう数年来のことのように記憶します。
学生たちばかりではありません。私もよく同様の失敗をします。
なぜこんな風になってしまったのか。
文書の電子化ということが、このことに深く関わっていると私は思っています。
40年ほど前の学生時代には、すべてを手書きしていました。
それが、ある時期以降コピーを多用するようになり、
今は文書のほぼすべてをパソコン画面に向って作成しています。
(論文の基礎になる作品の読解やメモはノートに手書きです。)
たしかに便利で速い。けれど、人間の脳がそれに追い付いていないのではないでしょうか。
仕事(研究はこの例外)に追われるといつも思い出す詩があります。
今から1800年くらい前の建安詩人、劉楨が作った「雑詩」(『文選』巻29)です。
職事相填委 役所の仕事がうずたかく積み重なって、
文墨紛消散 文書はてんでに散乱している。
馳翰未暇食 筆を走らせ続けて、食事をする暇もなく、
日昃不知晏 日が傾く頃になっても、休息を忘れているほどだ。
沈迷簿領書 帳簿や記録の間に沈んで迷路をさまよい、
回回自昏乱 ぐるぐると頭の中は混乱している。
釈此出西城 こんなことはうっちゃって、西の城壁から外へ出て、
登高且遊観 高みに登って、しばし眺望を楽しんだ。
方塘含白水 四角く縁どられた池は清らかな水をたたえ、
中有鳬与雁 その中に鴨や雁が浮かんでいる。
安得粛粛羽 ああ、なんとかして軽やかに羽ばたける翼を手に入れ、
従爾浮波瀾 お前たちに従って波のまにまに戯れたいものだ。
この頃の文書は、まだ竹簡木簡が主流でしょうか。
それとも、そろそろお役所仕事に紙が流布しつつあったでしょうか。
(左思の「三都賦」が洛陽の紙価を高からしめたのは、このわずか数十年先のことです。)
戦乱期を抜け、製紙法の改良という技術革新を既に経たこの頃、
劉楨もまた、増殖する書類仕事に倦むようになっていたのかもしれません。
なお、本詩の文学的新しさについては、
かつてこちらの学術論文№31で触れたことがあります。
よろしかったらご覧ください。
2021年1月25日
友情の変質か
おはようございます。
一昨日の続きです。
長慶二年(822)頃の元稹の周囲には、
宦官との交際をめぐる黒いうわさが立ち込めていました。
それゆえ、彼が工部侍郎として、宰相と同等の同平章事を拝命した時、
世の人々は冷笑したといいます(『旧唐書』巻166・元稹伝)。
ただ、第三者が語る話からのみ、彼の為人を決めつけていいものか、
彼にとっての真実は、彼自身がその思いを詠じた作品の中にこそあるはずだ、
と先には述べて、翌長慶三年の彼の詩「寄楽天」を紹介しました。
とはいったものの、
元稹という人にはこの間、何らかの変質が生じていたのかもしれません。
というのは、前掲の元稹詩に答えた白居易の詩を読むと、
それ以前に二人の間でやり取りされた詩とは少し異質なものを感じるからです。
その「答微之詠懐見寄(微之が懐を詠じて寄せらるるに答ふ)」(『白氏文集』巻53、2320)は、
次のような詩です。
閤中同直前春事 官庁の中でともに宿直したのは、前の年の春のことだった。
船裏相逢昨日情 船の中で再会を喜び合ったのは昨日のことである。
分袂二年労夢寐 袂を分かって二年、ありがたくも君は夢の中でも私を気にかけてくださり、
並牀三宿話平生 寝台を並べて同宿した三日間の夜、我等は往年のことを語り合った。
紫微北畔辞宮闕 私は、紫微省(中書省)の北で、皇城に別れを告げ、
滄海西頭対郡城 大海原の西で、郡の都城に向き合っている。
聚散窮通何足道 人の世の離合集散や困窮栄達など、語るに足るほどの価値はない。
酔来一曲放歌行 酔いが回ってきた、一曲、声を張り上げて歌を歌おう。
長慶二年の7月まで、白居易は中書舎人(正五品上)として中央官庁に勤めていました。
一方の元稹も、同年2月から6月まで、工部侍郎(正四品下)にして同平章事(宰相)でした。*
白居易詩の第1句は、このことを背景としているでしょう。
翌年8月、元稹は同州刺史(従三品)から越州刺史・浙東観察使に転出することとなり、
10月、その赴任途上で杭州に立ち寄り、前年に当地の刺史となっていた白居易と再会しました。
前掲の白居易詩の第2句は、このことを指して言っています。
第3・4句、第5・6句も淡々と対句を重ねるばかりで、そこに特段の感情の高ぶりは認められません。
若い頃にまで記憶を遡り、来し方を振り返って感慨を詠ずる元稹詩に比べると、
白居易のこの詩はやや冷ややかなようにも感じられます。
更に結びの「聚散窮通 何ぞ道(い)ふに足らん」はどうでしょう。
元稹詩の「猶ほ応(まさ)に更に前途の有る在り」との温度差を感じないではいられません。
末尾の「酔ひ来たりて一曲 放歌行せん」も、どこかはっきりしない句です。
「放歌行」せざるを得ない感情のうねりは見えるものの、
その思いの内実は隠されているかのようです。
その数年ほど前、元稹宛ての書簡「与微之書」(『白氏文集』巻28、1489)の中で、
「籠鳥も檻猿も倶に未だ死なず、人間相見ること是れ何れの年ぞ」と詠じていた白居易の面影は、
この「答微之詠懐見寄」詩のどこにも認められません。
(つづく)
2021年1月23日
*白居易・元稹の経歴に関しては、昨日注記した先行研究と同じものを参照。以下同様。
伝記と作品
こんばんは。
元稹と白居易との交往詩を読んでいる演習、
今日取り上げたのは、
長慶三年(823)の作とされる、元稹「寄楽天」(『元氏長慶集』巻22)と、
白居易「答微之詠懐見寄(微之が懐を詠じて寄せらるるに答ふ)」(『白氏文集』巻53、2320)です。
当時、白居易は52歳、その前年7月に、自ら外任を求めて、中書舎人から杭州刺史に転出、
他方、元稹は45歳、その前年に、宦官との交際が裴度(白居易も敬慕する名臣)に厳しく批判され、
2月に穆宗から同平章事(宰相あつかい)に任命されたものの、6月には同州刺史に出され、
翌長慶三年、越州刺史・浙東観察使に遷ったのでした(『旧唐書』巻166)。*
元稹の「寄楽天(楽天に寄す)」は次のような詩です。
閑夜思君坐到明 静かな夜、君のことを思ってぼんやり坐したままいつしか朝を迎える。
追尋往事倍傷情 往時を追想すれば、感傷的な思いが益々こみ上げる。
同登科後心相合 我等はともに吏部試(書判抜萃科)に合格してから意気投合し、
初得官時髭未生 初めて官職を得た時には、口ひげがまだ生えていないほど若かった。
二十年来諳世路 二十年来 世の中を渡る道の険しさを知り尽くし、
三千里外老江城 都から三千里の外 大江(銭塘江)のほとりの街で老いてゆく。
猶応更有前途在 それでもきっと更に開けてゆく前途があるに違いない。
知向人間何処行 いったい我等はこの世界でどちらに向かって行くのだろうか。
この詩から浮かび上がってくるのは、
長年の辛苦を振り返りつつも、なお官界における希望を失わないでいる元稹の横顔です。
それは、歴史書が記す、濁りを含んだ彼の足跡とは混じり合わないものです。
第三者が人々の伝聞を書き留めた元稹伝と、彼自身がその胸の内を開陳する詩と、
そのどちらが本当の元稹なのでしょうか。
人には、様々な巡り合わせで、自身の思惑を超えて事態が動くということがあるように思います。
その人の心の中にある真実は、第三者が外側から決めつけられるものではないでしょう。
たとえ言葉によって当人が作り上げてしまう「真実」があるのだとしても、
当人の周辺に点在する伝聞から、その人の人物像を作り上げてしまうよりかはずっとましです。
自分が探求したいのは、その人自身の言葉が訴える「真実」です。
2021年1月21日
*白居易と元稹の閲歴については、小川環樹編『唐代の詩人―その伝記』(大修館書店、1975年)、花房英樹『白居易研究』(世界思想社、1971年)所収「白居易年譜」、朱金城『白居易年譜』(上海古籍出版社、1982年)、花房英樹『元稹研究』(彙文堂書店、1977年)所収「年譜」、卞孝萱『元稹年譜』(斉魯書社、1980年)、周相録『元稹年譜新編』(世紀出版集団・上海古籍出版社、2004年)を参照。
兄弟を思う賦
こんばんは。
曹植には、今は亡き父を追慕する「懐親賦」という作品があって、
これを踏襲したと見られる作品が陸機にあることは、先にこちらで述べました。
これと同質の継承関係かと思われる事例が、『藝文類聚』巻21「友悌」に見られます。
すなわち、兄弟への思いを詠じた曹植の「離思賦」「釈思賦」に続けて、
陸機の「述思賦」が採録されているのがそれです。
辞賦文学としては、そのテーマが非常に個人的な小品ですが、
そうした作品は、曹植以前の時代、それほど一般的ではなかったかもしれない、
それを陸機ががっちりと受け継いでいるというように見える、『藝文類聚』の採録の仕方です。
先の親を思う賦とともに、この兄弟を思う賦についても、
ほんとうに曹植よりも前に作られた事例がないのか、検証する必要があります。
ところで、それとは別の興味関心として、
曹植はその後半生、兄の曹丕からひどい仕打ちを受けたのでしたが、
それ以前の曹植は兄のことをどのように思っていたのか、
それが「離思賦」に垣間見えるかもしれません。
(このことについては、かつてこちらでも触れたことがあります。)
少年時代から、親しみ慕っていた兄が、
ある時期以降、自分を傷めつける人間へと変貌していったとするならば、
その絶望の深さには息をのんで黙り込むしかありません。
それでもなお曹植は、その「吁嗟篇」の結びでこう詠じています。
願為中林草 できることならば林の中の草となり、
秋随野火燔 秋の日、野火に身をゆだねて焼かれてしまいたい。
糜滅豈不痛 焼けただれて消滅することに、痛みを感じないわけがないけれど、
願与根荄連 もとの根っこに連なりたいという一心なのだ。
2021年1月20日
曹植と楊修
こんにちは。
先日、「経国の大○」という表現をめぐって、
曹植「節遊賦」(『藝文類聚』巻28)は、
楊修「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)との間につながりを持つかもしれない、
との推測を述べました。
他方、楊修にも曹植と同じ題名の「節遊賦」という作品があります。
同じ『藝文類聚』巻28に、曹植の「節遊賦」「感節賦」に続いて収載されています。
もしかしたら、両者は同じ機会に競作されたのかもしれません。
趙幼文は、上記のことを指摘した上で、
そこに王粲や徐幹の作が収載されていないことから、
曹植や楊修が「節遊賦」を制作した時期は、
多くの文人たちが流行病で亡くなった建安22年(217)以降かと推測しています。*
趙幼文が推測しているとおりかもしれません。
建安22年以降、楊修が曹操に誅殺される同24年(219)までの間は、
曹植と楊修とが親密さをいよいよ深めた時期でもあります。
2021年1月19日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.186を参照。
ひとりしょんぼり
こんにちは。
本日の授業で、『聊斎志異』巻11「竹青」を翻案した、太宰治「竹青」を読みました。
この太宰治の小説には、それが基づいたという田中貢太郎訳にも、原文にもない、
おびただしい数の中国古典や漢詩の引用が認められます。
(こちらにその主だったものを挙げてみました。)
その用いられ方は、たとえば、次のような具合です。
(主人公魚容の妻は)魚容が「大学の道は至善に止るに在り」などと口ずさむのを聞いて、ふんと鼻で笑い、「そんな至善なんてものに止るよりは、お金に止って、おいしい御馳走に止る工夫でもする事だ」とにくにくしげに言って……
魚容が口ずさんだのは、『礼記』大学にいう「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」、
それを、彼の妻はこのように言い換えて小ばかにしているのです。
また、帰郷してひどい目にあってばかりの魚容が、竹青との日々を思い出して、
「朝に竹青の声を聞かば夕に死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほど劇しく懐慕せられるのである。
この魚容の科白は、『論語』里仁にいう「子曰、朝聞道、夕死可矣」をもじったものです。
「道」を「竹青」に変換して言っているのが、可笑しくてそこはかとなく悲しい。
今ここに挙げたのは、非常にわかりやすい例ですが、
多くの引用は、このような調子で、小説に何ともいえないおかしみを添えています。
ところが、これが学生たちに通じませんでした。
オンライン授業を終えて、ひとり憮然(しょんぼり)としています。
2021年1月18日