外国文学との戯れ
こんにちは。
江戸時代後期の広島の漢詩人、平賀周蔵の詩を少しずつ読んでいます。
来年度の公開講座に向けて、いわば“お仕事”として始めた読書ではあるのですが、
日々この漢詩人に会うのが楽しみになってきました。たとえば、
江戸時代の宮島には、石風呂というサウナのような施設がありましたが、
これに入ってみたら、十日余りで持病が治ったので、戯れに詠じたという詩があります。
(『宮島町史 地誌紀行編Ⅰ』(宮島町、1992年)所収『藝藩通志』巻32)
その長い詩題の中に自ら「其の語は俗に近く、其の調は俳に類す」と言うとおり、
実にのびのびと漢語と戯れているような作風の詩です。
一例として、洞窟の中に燃え盛る炎を描写した後に続く句、
「莫是玉石倶焚灼(是れ玉石の倶に焚灼せる莫からんや)」について。
「玉石倶焚灼」は、
『書経』胤征にいう「火炎崑岡、玉石倶焚(火は崑岡に炎え、玉石倶に焚く)を踏まえます。
「玉石倶焚」とは、善悪の区別なく災難に巻き込まれることを意味し、
五経のひとつである『書経』に出るだけに、元来はまじめなことを言っているのです。
ところが、平賀周蔵の詩では、この上に「莫是」が来ます。
「まさか~というわけでもあるまい」「あるいは~かもしれない」という語感の俗語です。
「まさか玉と石とが一緒に焼かれているのではあるまいな。」
炎を前にして、たぶん大真面目な表情でこう詠ずる彼は、
内心、こみあげてくる笑いにお腹のあたりを揺さぶられていたかもしれません。
彼は日頃から読んでいる『書経』を取り上げ、これと戯れています。
そして、その戯れを、外国文学である漢詩の中で自在に表現しているのです。
以前目に留まった鈴木虎雄『陸放翁詩解』(弘文堂書房、1950年)の序文にこうあります。
漢字そのものまで放逐してしまえという議論のある時代に一国人が他国の詩を作るなどということは無用のことの様である。しかし智識を世界に求めて自国のすぐれた文学を興そうとするならば他国の文学をよく理解するという必要があるのである。他国の文学をよく理解するには仮りに他国人の地位に置いて之を自ら製作してみる必要もある筈である。(漢字かなづかいは現代のものに改めた。)
平賀周蔵の詩を詠んでいて、これをふと思い出しました。
漢詩の作れない私にできるのは、すばらしい先人たちを敬愛することだけです。
2021年3月6日
文学作品を俯瞰できるか
こんばんは。
先日来ゆるゆると読んできた『文選』巻29所収の曹植「朔風詩」、
本日やっと李善注に従っての語釈を終えましたが、肝心の本文がよく読めません。
李善が珍しく「言ふこころは」云々と句の解釈を示しているのは、
それなくしては読者が意味をよく掴めないからでしょう。
また、本詩の成立年代に関して、先行研究に諸説があることも、*1
本作品の難解さを物語っているようです。
とはいえ、この詩が建安年間の作ではないことは明瞭に看取されます。
本作品が、曹植の後半生、その苦境の中で作られたものであることはほぼ確実でしょう。
艱難の中で詠じられた詩と言えば、阮籍(210―263)の「詠懐詩」八十四篇が思い浮かびますが、
この作品も、比較的近い時代の顔延之(384―456)や沈約(441―513)にとってさえ、
「難以情測(情を以て測り難し)」だったといいます(『文選』巻23李善注所引)。
その真意がつかみにくいという点では、阮籍詩も曹植詩も同じです。
ところで、吉川幸次郎の所論に、阮籍「詠懐詩」についてこう書かれています。
「もはや従来の五言詩のように個人的な哀歓ではない。ひろく人間全体にひろがる問題である。」*2
そして、曹植ら建安詩人たちの作品は「個人の哀歓を主題とする」傾向が強いとしています。
吉川論文は、阮籍「詠懐詩」が「五言詩の歴史の上にしめる地位を明らかにしようと」したものです。
だから、いきおいこのような書き方になるのでしょう。
けれども、地を這うような歩みで曹植作品を読み進めている自分は、
固有の人物の切実な思いを、そんな風に高いところから俯瞰したくないと感じてしまうのです。
2021年3月5日
*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1973年)巻1、p.46―49、伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.99―107を参照。
*2 吉川幸次郎『阮籍の「詠懐詩」について 附阮籍伝』(岩波書店、1981年)p.32を参照。本論文は『吉川幸次郎全集』第七巻所収。初出は『中国文学報』第5冊、1956年10月、及び第6冊、1957年4月。
曹植は政治的野心家か?
こんばんは。
曹植文学を概観した余冠英「建安詩人代表曹植」に、次のような内容の論述が見えています。*
曹植はたいそう手柄を上げることに熱心だった人で、死後の名声を強烈に追求した。
彼の第一の志望は、政治上において功績を打ち立てること、
その次には、学術上において貢献すること、
最後にやっと、ひとりの文学者たることである。
だが、結局はなお文学に敬意をもち、文学でも人は不朽の存在となれると考えた。
だから、皇帝を補佐することが挫折して後は、文学によって後世に名を残そうと決心した。
この論述部分には、曹植の「与楊徳祖書」や「薤露行」の句が織り込まれていますが、
今、その用い方の妥当性については措いておくこととします。
ただ、本当にそう言えるだろうか、と思わず立ち止まったのは、
曹植を政治的野心家だとする余冠英の見方に対して、いくつもの反証が思い浮かんだからです。
たとえば、曹植二十歳頃の逸話として、
冷静沈着な人格者で、毅然とした態度で曹植に接する家丞の邢顒を煙たがり、
文学的才能にあふれた庶子の劉楨と親しく交わって、却って劉楨にたしなめられたとあります。
(『魏志』巻12・邢顒伝)
この曹植の至らなさは、まだ彼が若かったからだとも言えますが、
その後、側近たちが曹植を、父曹操の後継者として強く推すようになっても、
その贈答詩や「与楊徳祖書」を見る限り、彼の意識は文学に向っているように感じられます。
この点、彼は兄の曹丕とは振る舞い方が異なっていると言えます。
たとえば曹丕は、自身の地位を固めるため、賈詡に助言を求めたりしていますから。
(『魏志』巻10・賈詡伝)
曹植はどのような契機から、現実社会での勲功を強く求めるようになったのでしょうか。
それ以前に、そもそも人間は一貫して変わらない存在なのでしょうか。
2021年3月4日
*余冠英「建安詩人代表曹植」(『漢魏六朝詩論叢(中華現代学術名著叢書)』商務印書館、2016年)p.75を参照。
蛇行する思考
こんばんは。
一般に、曹植は魏王朝が成立して以降、ずっと不遇だったとされています。
たしかに、文帝曹丕、明帝曹叡の治世年間(曹植の年齢は29歳から41歳で没するまで)、
彼は王室の一員でありながら、王朝の運営に積極的に関わるということが許されませんでした。
ただ、同じく不遇とはいっても、
文帝期と明帝期とでは、彼の気持ちのあり様はかなり異なっていると窺われ、
その一例として挙げることができるのが、これまでにも何度か言及した「惟漢行」です。
この楽府詩に詠われたような、為政者に対する意欲的な訓戒は、
その言論が厳しく監視されていた文帝期には、およそ為し得ないものでした。
「惟漢行」は、文帝期から明帝期に移行して間もない時期に成った作品なのだと私は見ます。
このことは、かつてこちらでも述べました。
では、曹植は、兄の文帝曹丕や甥の明帝曹叡に対して、どんな思いを抱いていたのでしょうか。
自身を劣悪な環境に捨て置いたまま、力を発揮する場を与えない君主にして骨肉。
彼らのことを曹植は恨みに思っていたのでしょうか。
制作年は不明ながら、曹植は次のような「楽府歌」(『曹集詮評』巻5)を残しています。
膠漆至堅 膠(にかわ)と漆(うるし)とは、この上なく堅固に結びあうものだが、
浸之則離 これを水に浸したならば、両者は離れ離れになる。
皎皎素絲 真っ白に輝く、まだ染めていない絹糸も、
随染色移 染めるに従って色が移ってゆく。
君不我棄 貴方様が私を見捨てたのではなくて、
讒人所為 讒言した者のせいで私たちは引き裂かれたのだ。
「膠漆」「素絲」といった言葉から、捨てられた女性の怨みを詠じたものと見られますが、
それに仮託して、君主に容れられない苦しみを詠じているようにも読めます。
「君」が誰を指しているのかはわかりませんが、
もしこれが魏王室の皇帝(文帝か明帝)を言っているのだとすれば、
曹植は、自分と君主との間を、第三者の讒言が切り裂いたのだと捉えていたことになります。
すでに述べたこと、また、曹植研究においては常識的なことも一部に含んでいますが、
新しく巡り合った作品に言及しながら、少し振り返ってみました。
2021年3月3日
万人に言えること
こんばんは。
『曹集詮評』のテキスト校勘を少しずつ進めています。
曹植の作品は、唐宋時代の類書に引かれて伝わっているものがかなり多く、
そうしたテキスト間には、細々とした文字の異同が交錯していて、
それらをひとつひとつ確認していくのは、実に細かい神経を要する作業です。
この作業に用いた目をふと日常生活に振り向けてみると、愛すべきテキトウだらけですね。
また、文学作品を読むときは、
細かい周波数のアンテナを張って、言葉の端々から様々なものを読み取りますが、
このアンテナも、そのまま日常生活に対して向けるとたいへんなことになってしまいます。
文学研究という姿勢をそのまま社会生活に持ってくると、不都合なことが多いかもしれません。
だから、普段の生活では、スイッチを切っておいた方が安らかでいられます。
けれど、別の見方をするならば、
日常生活では何かと不都合なこうした性質も、文学研究にはプラスに活きると言えます。
どんな性質も、それ自体がダメだというものはないと思います。
欠点を矯正して生きやすい人生を往くよりも、
その特性にもっと磨きをかけた方がずっといいと思う。
その際に必要なのは、自らが知る自身の価値、本当の意味でのプライドです。
2021年3月2日
『文選』の伝播力
こんばんは。
曹植「朔風詩」(『文選』巻29)の中に、次のような対句があります。
昔我同袍 昔 我らは袍を同じくせしも、
今永乖別 今 永(とこしへ)に乖(そむ)き別(わか)る。
この上の句を、多くの先行研究は「昔 我が同袍」と読んで(解釈して)います。
この読みは妥当でしょうか。
『文選』李善注の指摘によれば、
「同袍」は、『毛詩』秦風「無衣」に見える次の句を踏まえています。
豈曰無衣 どうして衣が無いなどというものか、
与子同袍 そなたと綿入れを共にしよう。
これに基づくのならば、「同袍」を「袍を同じくす」と読んでもよいはずです。
ではなぜ、多くの先人が「同袍」と名詞化して捉えたのでしょうか。
この句を含む四句一聯に対して、
(前掲の対句の前に「千仞易陟、天阻可越(千仞も陟り易く、天阻も越ゆ可し)」とあります。)
盛唐に成った『文選』五臣注のひとつ、張銑の注が次のような注釈をつけています。
言険事亦易為也、而嗟我兄弟乖別。同袍、共被之義。
言ふこころは、険事も亦た為し易きなり、而して我が兄弟の乖別するを嗟く。
同袍は、被を共にするの義なり。
これに拠って、唐代以降、「同袍」を、兄弟の意とする解釈が定着していったのしょう。
なお、漢魏晋南北朝時代の詩において、「同袍」という語の用例は、
この曹植「朔風詩」と、
同じ『文選』巻29所収の「古詩十九首」其十六にいう
「錦衾遺洛浦、同袍与我違(錦衾 洛浦に遺れ、同袍 我と違ふ)」の2例のみですが、*
これが唐代に入ると格段に増えます。
そして、その多くは、兄弟、もしくは夫婦の意味で用いられているようです。
兄弟の意は曹植「朔風詩」から、夫婦の意は「古詩十九首」其十六から出たものでしょう。
唐代の知識人たちは『文選』を基本的教養として学びましたから、
そこで用いられている語句は、彼らの間に広く深く浸透していったと思われます。
「同袍」という語の意味的展開と定着は、
『文選』を経由してこそ起こった出来事であると考えます。
2021年3月1日
*逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』の電子資料(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)によって確認した。
言葉の外にある思い
こんばんは。
文学研究上(自由な読書とは別に)作品を読んでいると、
その言葉の向こう側に、作者の思いが透いて見えるときがあります。
でもそれは、作者の言葉を起点に引いた推測の線上に浮かび上がってくるのであって、
その作品を離れて、読者がまったく自由に思い描いたものではありません。
このことを、昨日に続き、曹植「惟漢行」を例に述べてみます。
この作品の最後の一段四句は、昨日挙げた二句を含めて次のとおりです。
(作品全体については、こちらの訳注稿をご覧ください。)
在昔懷帝京 その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
日昃不敢寧 今は亡き先代は、日の傾くまで敢えて休息もせず人材登用に努めたものだ。
濟濟在公朝 その結果、立派な人士たちが威厳をもって朝廷に居並び、
萬載馳其名 永遠にその名声を馳せることになったのだ。
二句目が『書経』無逸篇を踏まえることは昨日も述べたとおりですが、
この句の「寧」、及びこれに続く句の「済済」の出典は、
『詩経』大雅「文王」にいう「濟濟多士、文王以寧(済済たる多士、文王は以て寧し)」、
そして、「済済たるは公朝に在り」という状況が出現したのは、
『史記』周本紀の記事から、賢者に対する君主の手厚い待遇によるものと知られます。
さて、ここで目に留まるのは、
『詩経』における周文王は安寧な心持ちでいるのに、
曹植「惟漢行」で周文王になぞらえられた人物(曹操)は、敢えて安寧ではないことです。
これはどういうわけか。
先代の曹操は、人材登用の現状に安住せず、この課題に尽力し続けていた。
曹植はこのことを、『詩経』との間に敢えてズレを生じさせることで表現したのでしょう。
曹植のこの詩の趣旨は、昨日も述べたとおり、
自身を周公旦になぞらえながら、周文王に相当する曹操の偉業を顕彰しつつ、
成王に重なる、即位して間もない明帝曹叡を戒めるということでした。
ならば、曹植「惟漢行」の末尾四句は、
明帝に対して、一層の人材登用に努めるように進言したものと読めます。
そして、ここからは一歩踏み込んだ推測ですが、
その登用されるべき人材の中には、自分たち諸王が含まれていたかもしれません。
曹植「惟漢行」の制作は、明帝の太和元年(227)秋からほど近い時期と推定されますが、
(このことは、すでにこちらで述べています。)
曹植はその翌年、「求自試表」(『魏志』巻19陳思王植伝、『文選』巻37)を著し、
自身の立場に相応しい役割を与えられたい旨、明帝に訴えています。
こうしてみると、上述の推測はあながち外れてもいないように思います。
2021年2月28日
典故表現のレベル
こんばんは。
標題に挙げた「典故表現のレベル」とは、
典故(古典に出る語や故事)を踏まえた表現の完成度をいうのではありません。
そうではなくて、
典故のどの局面・レベルを踏まえているのかという点は、
作品を読む上で重要なカギを握っている場合があるということです。
といっても、これでは通じないと思うので、以下、例を挙げて説明します。
(ここに示す事例は、すでに何度か論及したことがあるものですが、視角を変えて改めて)
たとえば、曹植「惟漢行」の結びに見える次の二句です。
(詩全体の通釈と語釈はこちらをご覧ください。)
在昔懷帝京 その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
日昃不敢寧 今は亡き先代は、日の傾くまで敢えて休息もせず人材登用に努めたものだ。
このフレーズは、『書経』無逸篇に、周文王の事績について、
自朝至于日中昃、不遑暇食、用咸和萬民。
朝より日の中昃に至るまで、食に遑暇(いとま)あらず、用て咸(ことごと)く万民を和す。
と記すのを踏まえています。
ただ、重要なのは、踏まえられているのが周文王の故事だということのみではありません。
それ以上に、その故事を記したのが誰であるかということに注目したいのです。
『書経』無逸篇は、周公旦が、幼くして即位した成王を戒めるべく著したもので、
その訓戒のために引用されたのが、周文王の逸話です。
周公旦は、周文王の息子であり、成王の叔父に当たります。
そして、この血縁関係は、曹植と、曹操と、明帝曹叡との関係にぴったり重なります。
曹植が「惟漢行」で『書経』無逸篇を踏まえる表現をしたということは、
「惟漢行」において、曹植は自らを周公旦に重ねているということにほかなりません。
すると、前掲「惟漢行」の二句は、
作者の曹植が、自らを周公旦の位置に置き、
周文王に相当する曹操(父)の故事を引きながら、
成王に相当する、即位したばかりの明帝(甥)に対して、
君主たる者の心構えを説いたものである、と読むことができます。
『書経』無逸篇は、誰が、誰に対して、誰の故事を、何のために説いたのか。
これらを丸ごと押さえてこそ、前掲の曹植詩の二句を的確に読み解くことができます。
周文王の故事を踏まえているという点だけでは、上述の推測が導き出せるわけではありません。
そして、このことは当然、曹植「惟漢行」の全体に及ぶものです。
たとえば、本詩はその前半、なぜか、君主たる者の心構えを説いていますが、
その理由は、もうすでに明らかでしょう。
「惟漢行」の末尾に見える典故表現を、上述のような視角から捉え、
このことを梃子として詩の全体像を眺めわたす、そうしてこそ、
曹植がどのような思いから「惟漢行」を詠じたのか、その真意を捉えることができるのです。
2021年2月27日
愛ある査読
こんばんは。
先週、ある学会の学会報編集委員会に初めて出席しました。
事前に、すべての投稿論文について、寄せられた査読コメントを全員で共有し、
それに基づいて、出席者全員で掲載不掲載を検討していったのですが、
感激したのは、善意あふれる査読コメントが多かったことです。
後日、ある査読者にそのことについてお礼を述べると、
自分はある学会誌に投稿して、いただいた査読コメントが本当にありがたかった、
だから、自分も同じようにしたいと思った、とのことでした。
このような善意の循環があれば、学会も健やかに存続していけると思ったことです。
掲載されることとなった論文であっても、そうでなくても、
この学会の編集委員会は、実に真摯に投稿論文に向き合っているのだと知りました。
更に、原稿が無いと最終的な判断が難しい場合があるから、
今後は事前にすべての投稿論文を電子化して共有してはどうか、という動議も出されました。
なんという誠実さでしょう。
すべての学会報がそのようであるかどうかはわかりませんが、
投稿論文がたとえ不掲載となっても、若い人たちには、めげずに再投稿してほしい。
と同時に、自分も愛ある査読をしていきたいものだと強く思いました。
2021年2月26日
似ている言葉
こんばんは。
曹植「愁霖賦」(『曹集詮評』巻2)は、
「迎朔風而爰邁兮(朔風を迎へて爰に邁く)」という語に始まります。
ちょうど今読んでいる「朔風詩」(『文選』巻29)の冒頭にも、
「仰彼朔風、用懐魏都(彼の朔風を仰ぎて、用て魏都を懐ふ)」とあります。
では、同じ「朔風」という語が使われていることを根拠に、
両作品が、同じ時期の、同じ背景のもとに生まれたものだと言えるでしょうか。
一語の一点が共有されているからと言って、そんな判断はできません。
言葉は基本みんなのものですから、このレベルの一致は他にいくらでもあるでしょう。
他方、「朔風詩」は、「失題」(『曹集詮評』巻4)、「雑詩六首」其一(『文選』巻29)、
そして、「贈白馬王彪」(『文選』巻24)に共通する要素を持つと先に述べました。
そう判断したのは、複数の言葉が組み合わさって成る発想の類似性からです。
なお、「愁霖賦」を伝える『藝文類聚』巻2には、
曹植の作品以外に、曹丕、応瑒の同題目の作品も収録されています。
題目を同じくする作品が複数名の文人に見られる場合、多くは競作されたと考えられます。
そして、応瑒の没年(217)から、この賦の成立は建安年間と推定できます。
出征の途上で設けられた宴席での作でしょうか。
一方、「朔風詩」に描かれているのは、南北に引き裂かれた者の離別の悲哀です。
その成立年代は、その内容から見て、建安年間とは思われません。
今述べたこの部分、これが第三者にも通じるように説明できればよいのですが。
2021年2月25日