「経国の大業」という語をめぐって
こんにちは。
曹丕「典論論文」(『文選』巻52)にいう「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」は、
楊修「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)にいう「経国の大美を忘れず」の影響を受けているかもしれない。
このことは、先に(2020年10月2日、11月17日)先行研究を踏まえつつ述べました。
これに類似する表現は、曹植「節遊賦」(『藝文類聚』巻28)にも見えています。
愈志蕩以淫遊 志の蕩じて以て遊びを淫(ほしいまま)にするを愈(たの)しむは、
非経国之大綱 経国の大綱に非ず。
「経国之大○」という表現を、漢魏の時代に絞って検索してみると、*
上記の楊修、曹植、曹丕の3件のみでした。
この他、これに近い表現としては、次の2件が数えられます。
まず、張衡「東京賦」(『文選』巻3)に「忘経国之長基(経国の長基を忘る)」、
これは、李善注の指摘するとおり、上記の楊修「答臨淄侯牋」がこれを踏まえています。
そして、崔琰が若き日の曹丕を諫めた「諫世子書」(『魏志』巻12・崔琰伝)に、
「世子宜遵大路、慎以行正、思経国之高略
(世子は宜しく大路に遵ひ、慎んで行ひを以て正しくし、経国の高略を思ふべし)」と。
後漢中期の張衡を除いては、このフレーズを用いているのは近い間柄の人々です。
曹家の息子たちの教育係として、崔琰は曹丕を戒め、楊修は曹植を励ましているのです。
(ちなみに崔琰は、その兄の娘が曹植に嫁いでいるという姻戚関係も有します。)
いかにも支配者階級の人々がよく口にしそうなフレーズではあるのですが、
意外にも狭い範囲でやり取りされた表現なのでしょうか。
2021年1月14日
*厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』の電子文献(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)で検索。
元白交往詩雑感(3)
こんばんは。
昨日、元和十四年に書かれた白居易の詩「寄微之」を、
「友の心には響かない慰めの詩」と、些か厳しい言葉で言い表しましたが、
これは、白居易がそのような人物であると言っているのではなく、
むしろ、彼がそのような詩を書き送ったのはたいそう意外であるという意味です。
元稹はこの年の秋、娘を亡くすという悲痛のどん底にありました。
彼が白居易から寄せられた詩を前に、何か心ここにあらずといった様子であったのは、
このことが大きく影響しているのではないでしょうか。
では、白居易は、元稹の身に起こったこの不幸を知っていたのかどうか。
私は、知らなかったのだと考えます。
知っていれば、このことを無視したまま官界での不遇を慰めるというような、
薄情無粋なことを彼はしなかったはずだと思うからです。
白居易も、この年の元稹と同様に幼い娘を亡くしたことがあって、
そのことをどうにも呑み込めない苦しみを、たとえば次のように詠じています。
与爾為父子 お前と親子となってから、
八十有六旬 八百六十日。
忽然又不見 突然またお前の姿が見えなくなって、
邇来三四春 以来三四年の春が過ぎていった。
形質本非実 あの子の肉体は、もともと実体のあるものではなく、
気聚偶成身 気が寄り集まって、たまたま人の身体の形となったのだ。*
恩愛元是妄 親子の情愛など、元来が虚妄なるものであって、
縁合暫為親 因縁が交錯して、しばし親子関係を結ぶことになっただけだ。
念茲庶有悟 こう繰り返し自分に言い聞かせて、心の迷いが晴れるようにと切望し、
聊用遣悲辛 とりあえずはそうやって悲しみや辛さを追い遣ろうとしたのだったが、
暫将理自奪 しばしの間そんな理屈で自分自身の本性を奪い去っていただけであって、
不是忘情人 もともと私は情を忘れた聖人ではあり得ないのだった。
白居易が長女の金鑾を亡くしたのは元和6年(811)ですが、
本詩「念金鑾子二首」又一首(『白氏文集』巻10、0469)は、元和8年に作られたものです。
時を隔ててなお、亡き娘のことが忘れられず、こうして詩に詠じたのは、
たまたま金鑾の乳母だった女性に出会ったからだと一首目の詩(0468)にはありますが、
それ以上に、白居易が多情多感な人だったからではないでしょうか。
このような人は、親友が大切な娘を亡くして落胆していることを知っていれば、
きっとまず第一にこのことを慰めたでしょう。
(かつて妻の韋叢を亡くした元稹に対してそうであったように。)
おそらくは元稹も、白居易のこうした性情を熟知していて、
それで、自身の身内の不幸には触れず、「唯だ秋来両行の涙有り」と詠じたのではないか。
そして、「君に対して新たに贈らん遠き詩章」とは、別途また詩を贈ろうという意味ではないか。
先には保留にしていた問題について、こんなふうに考えた方がよいかと思いました。
2021年1月13日
*『荘子』知北遊篇に、「人之生、気之聚也。聚則為生、散則為死。若死生為徒、吾又何患。故万物一也(人の生は、気の集まったものだ。集まれば生となり、散ずれば死となる。もし死生を同族とみるならば、吾はこれ以上何を思い煩うことがあろう。もとより万物は一つなのだ)」と。
元白交往詩雑感(2)
こんにちは。
過日、通釈とともに紹介した白居易の「寄微之」と元稹の「酬楽天歎損傷見寄」は、
二人の思いに微妙なずれがあるように感じられる唱和詩でした。
白居易は、思うに任せぬ官途に落胆しているであろう元稹を、慰め、励まそうとしているのに対して、
元稹の方は、社会的挫折よりはむしろ、心身ともに疲弊していることをこぼし、
親友から寄せられた詩もどこか虚ろに響いているような様子です。
では、白居易はなぜ、友の心には響かない慰めの詩を書き送ったのでしょうか。
元稹は元和14年当時、虢州(雄級…上州*1)の長史(従五品上*2)で、
前職の通州(上州)司馬(従五品下)よりは、少しだけ官位が上昇しています。
それに、これまで彼をひどく苦しめてきた南方特有の瘴気からは解放されているのです。
慣れない風土の地方から、中央寄りの高い等級の土地へ遷ったことを、
まずは祝してもよかったのではないでしょうか。
それなのに、白居易は元稹をねんごろに慰撫していました。
これはどういうわけでしょうか。
白居易はその前年、李夷簡(『新唐書』巻131・宗室宰相列伝)が宰相となったことを聞いて、
元稹に、これで君も貶謫の地を脱出できるだろうと慶賀する詩を送っています。*3
また元稹は、「酬楽天東南行詩一百韻」(『元氏長慶集』巻12)の序に、*4
「(元和)十三年、予以赦当遷(予は赦を以て当に遷るべし)」と記しているように、
淮西の乱の平定に伴う恩赦により、自分は当然、通州司馬から異動になると期待していたようです。*5
ですが、李夷簡は間もなく外任を求めて淮南節度使となり(前掲『新唐書』本伝)、
元稹の昇進は、期待していたようには事が運びませんでした。
(以上、元和13年における二人の動向は、研究生の劉麗丹さんが指摘してくれました。)
このような経緯があったため、
白居易は、元稹がさぞ落胆しているだろうと思い遣り、
先に紹介した「寄微之」詩を、遠方の友に宛てて書き送ったのでしょう。
つづく。
2021年1月12日
*1 平岡武夫・市原亨吉『唐代の行政地理(唐代研究のしおり2)』(同朋舎、1985年。初版は、京都大学人文科学研究所、1954年)p.25、序説p.32を参照。以下同様。
*2 小川環樹編『唐代の詩人―その伝記』(大修館書店、1975年)付録の礪波護「唐代の官制と官職」付「唐代百官表」を参照。以下同様。
*3「聞李尚書拝相、因以長句寄賀微之(李尚書が相に拝せらると聞き、因りて長句を以て微之に寄せ賀す」(『白氏文集』巻17、1052)。明治書院・新釈漢文大系『白氏文集 四』p.53~54を参照。この白詩に唱和した元稹の詩は、『元氏長慶集』巻21に「酬楽天聞李尚書拝相以詩見寄(楽天の李尚書が相に拝せらると聞き詩を以て寄せらるるに酬ゆ)」と題して収載されている。
*4 もととなった白居易の詩は、「東南行一百韻。寄通州元九侍御・澧州李十一舎人・果州崔二十二使君・開州韋大員外・庾三十二補闕・杜十四拾遺・李二十助教員外・竇七校書」(『白氏文集』巻16、0908)、元和十二年の作で、元稹・李建・崔韶、韋処厚・庾敬休・杜元穎・李紳・竇鞏ら友人たちに宛てて、都長安を回顧しつつ、流謫先の江州の様子を詠じたもの。新釈漢文大系『白氏文集 三』p.333~351を参照。
*5 周相録『元稹集校注』(上海古籍出版社、2011年)上、p.369の注[7]を参照。
先輩に学ぶ曹植
こんにちは。
牛の歩みで読み続けている曹植「求自試表」(『文選』巻37)、
今日は次のような表現に遭遇しました。
曹植が古籍を読むたびに慨嘆したという、
忠臣義士たちのあり様について述べた部分にこうあります。
身雖屠裂、而功銘著於景鍾、名称垂於竹帛、
身体は八つ裂きにあっても、
その功績は景鍾(晋の景公が作った鍾)にくっきりと刻まれ、
その名は竹帛に記されて後世に伝えられる、
これとよく似た表現が、
楊修「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)にも、次のとおり見えています。
若乃不忘経国之大美、流千載之英声、銘功景鍾、書名竹帛、
斯自雅量素所畜也。
経国の大業を忘れず、千載の名声を流し、功を景鍾に刻まれ、名を竹帛に書かれる、
こうしたこととなると、これはあなたの雅量がもとより蓄えていたものによるのです。
ちなみに、李善注は曹植と楊修いずれの作品に対しても、
表現の典拠として、『国語』晋語七、『墨子』兼愛下を挙げています。
前者は、晋の悼公が魏顆の子の頡を採用して、その父の武勇を語って聞かせるという記事、
後者は、功績を竹帛、金石、槃盂に刻んで、後世の子孫に伝えるという記述です。
先に、この上表文が短期間に作られたと見られることを述べましたが、
そうした創作においては、真に血肉化した言葉であってこそ自在に出てくるものでしょう。
曹植は、若い頃に傾倒した楊修の、それも自身に直接宛てられた言葉を覚えていて、
それが思わず口をついて出てきたのかもしれません。
(ありふれた発想を、楊修も曹植も用いたのだという可能性もなくはないですが。)
2021年1月11日
元白交往詩雑感(1)
こんにちは。
昨日の演習で、白居易の「寄微之」(『白氏文集』巻18、1144)と、
これに応えた元稹の「酬楽天歎損傷見寄」(『元氏長慶集』巻21)とに対して、
両者の思いが少しすれ違っているように感じる、との感想が学生たちから寄せられました。
この交往詩については、つい最近こちらでも取り上げたことがあるのですが、
学生たちと考察する中で、新たに見えてきたこともありますので、
先には示していなかった通釈とともに再度取り上げます。
さて、白居易詩の自注「時微之為虢州司馬(時に微之は虢州の司馬為り)」から、
この唱和詩は、元和14年(819)の作であることが知られます。
時に、白居易は48歳、元稹は41歳です。
今日はまず、二首の詩を紹介します。
白居易「寄微之(微之に寄す)」
高天黙黙物茫茫 高き天は黙して語らず、万物は茫漠として捉えどころがないが、
各有来由致損傷 損傷を引き寄せるのには、各々しかるべき理由がある。
鸚為能言長翦翅 鸚鵡はおしゃべりがうまいために、翅を切られて長く拘束され、*1
亀縁難死久搘牀 亀はなかなか死なないという特性により、久しく寝台を支え続けることとなった。*2
莫嫌冷落抛閑地 零落してつまらぬ土地に投げ打たれたことを嫌がってはいけない。
猶勝炎蒸臥瘴郷 それでも、蒸し暑さの中で瘴気の立ち込める村に臥せっているよりましなのだから。
外物竟関身底事 一身外の富貴や名利など、結局この身と何の関係があるものか。*3
謾排門戟繋腰章 やたらと門戟を並べ立てたり、腰に印章をかけて見せびらかせたりすることとは。
元稹「酬楽天歎損傷見寄(楽天が損傷を歎じて見寄せらるるに酬ゆ)」
前途何在転茫茫 これから先の道はどちらにあるのか、いよいよ茫漠として捉えどころがない。
漸老那能不自傷 次第に年老いてきて、どうして自分を痛ましく思わないでいられよう。
病為怕風多睡月 病に臥せっては、風にさらされるのも怖くて、月明かりの下でひたすら眠り、
起因行薬暫扶床 起き上がっては、薬効を発散させるため、しばし寝台につかまって歩き回る。
函関気索迷真侶 函谷関は、物悲しい風土が道士を路に迷わせ、
峡水波翻礙故郷 三峡の水は、逆巻く波が長安への道を阻む。
唯有秋来両行涙 ただ、この秋以来、二筋の涙が流れるばかりだ。
対君新贈遠詩章 君に遠くから新たに詩を贈ろう。
たしかに学生たちの言うとおり、
白居易が、ひたすら社会的な意味での不運を慰めようとしているのに対して、
元稹の答えは、どこか虚ろで、白居易の言葉を受け留めきれていないようにすら感じられます。
官僚としての不遇感よりも、心身の健康状態の悪さの方が前面に出ている印象です。
このすれ違いは、どういうわけで生じたのでしょうか。
継続して考えていきます。
2021年1月8日
*1『文選』巻十三、禰衡「鸚鵡賦」に「性辯慧而能言兮、才聡明以識機(性は弁慧にして能く言ひ、才は聡明にして以て機を識る)」「閉以雕籠、翦其翅羽(閉づるに雕籠を以てし、其の翅羽を翦る)」と。
*2『史記』巻128、亀策列伝に「南方老人用亀支牀足、行二十餘歳、老人死、移牀、亀尚生不死(南方の老人 亀を用ひて牀足を支へ、行くゆく二十餘歳、老人死して、牀を移せば、亀は尚ほ生きて死せず)」と。
*3『荘子』外物篇に「外物不可必(外物は必とす可からず)」と。
学者の眼識
こんにちは。
昨日に続いて、『曹集詮評』の校勘作業に関連して。
その巻頭に並んでいるのは辞賦作品ですが、
厳可均(1762―1843)の『全上古三代秦漢三国六朝文』を参照すると、
六朝時代までの文献の面影をよく伝える類書を、最大限尊重していることが窺えます。
丁晏『曹集詮評』が底本とした明代の程氏刻本や、
その校勘に用いられたという張溥『漢魏六朝百三名家集』は、
完全なかたちに近い姿の作品を多く収録しているという良さはあっても、
個々の部分に雑駁さがあるのだろうことは容易に想像されます。
もし、断片でも類書に収載されているならば、それは貴重な資料です。
厳可均がそれらを重要視したのは実に適切な判断でしょう。
ところで、宮崎市定「張溥とその時代:明末における一郷紳の生涯」は、*
この『漢魏六朝百三名家集』の編者について、
「彼は本質的には今日いう所のジャーナリストであったと考えるのが一番適当」と評し、
「厳可均の『全上古三代秦漢三国六朝文』が出来た上は、
張溥の一百三家集は無くもがなの書のように思われる」とまで言い切っています。
時代ごとに、その気風に適合した文化人というものが現れるのでしょう。
一方、長い時を渡って伝えられてゆく言葉や物があることも、また真実だと思います。
2021年1月7日
*『宮崎市定全集13』(岩波書店、1992年)所収。初出は『東洋史研究』33巻3号、1974年、p.323-369。
※その後、『曹集詮評』の校勘作業を進める中で、丁晏は、厳可均が見落としていた資料、特に『北堂書鈔』所収のそれを実によく拾っていることがわかってきました。(2021.02.06追記)
種まきの作業
こんにちは。
始めたばかりの『曹集詮評』の校勘作業、
当初は、丁晏が書き込んでいる異同についてのみ、
そこに指摘された文献に当たって確認するつもりだったのですが、
これはきちんとやらないとだめだと思い直しました。
比較の対象となっている文献を詳しく見ると、*1
指摘された部分以外のところにも文字の違いがあったり、
細かいところで丁晏の指摘どおりでない文字があったりしたからです。
たいへんな作業を経て成ったはずの丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』ですが、*2
やはり人の手と目による作業ですから、間違いは当然あるでしょう。
後から気付いた者が随時修正してゆけばよいのだと思います。
こわいのは、決定版テキストとして全面的に寄りかかってしまうことです。
早い段階でこのことに気づけて幸運でした。
すんでのところで、いい加減な作業を重ねてしまうところでした。
香港中文大学中国文化研究所の『曹植集逐字索引』にも詳しい校勘が記されていますが、*3
やっぱり自分の目で確認をした方がよいと思います。
今きちんとやっておくと、後になって過去の自分に助けられます。
2021年1月6日
*1 たとえば、今日当たったところでは、隋の『北堂書鈔』、唐の『藝文類聚』『初学記』、北宋の『太平御覧』といった、六朝期のテキストをよく保存している類書など。
*2 丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)の出版説明によると、本書は、明の万暦年間の、休陽の程氏による刻本を底本として、明の張溥本(『漢魏六朝百三名家集』)、『文選』を用いて校訂を加え、各種の類書を参考にして佚文を集め、欠落を補正したもので、比較的完備した善本であるという。
*3 魏晋南北朝古籍逐字索引叢刊・集部第九種『曹植集逐字索引』(中文大学出版社、2001年)。
陸機と曹植(再び)
こんにちは。
西晋の陸機が、曹植の文学作品を読み込んでいたらしいことは、
かつてこちらで述べたことがあります。
また、陸機の「文賦」に見えるある対句表現が、
曹植「七啓」を踏まえた可能性があると先日指摘したところです。
本日、『曹集詮評』の校勘作業をしていて、
これもまた、陸機が曹植から受け取ったものかもしれないと思う事例に出会いました。
曹植に、亡父曹操を追慕する「懐親賦」という作品があります。
これを収める『初学記』巻17は、この作品に続けて陸機の「思親賦」を引き、
『藝文類聚』巻20では、陸機の「祖徳賦」「述先賦」「思親賦」の三篇が曹植作品に続きます。
曹植以前の両漢代、
辞賦文学にこのような主題を真正面から取り上げるものがあったのでしょうか。
すべて調べたわけではない、従って単なる印象に過ぎないのですが、
漢代の賦といえば、規模の大きな、宮廷文化に密着した作品がまず思い起こされます。
たとえば班固の「両都賦」や張衡の「南都賦」など都城を詠ずるもの、
皇帝の狩猟や広大な宮苑を詠じた司馬相如の「上林賦」や揚雄の「羽猟賦」など。
他方、魏の時代、創作活動のサロン化に伴い、
賦というジャンルが小品化したことは定説と言ってよいでしょうが、
曹植の「懐親賦」はそうした作品群とも異なっています。
もし、曹植のこの作品が、辞賦文学に新たなテーマをもたらしたのだとすれば、
それは陸機を励まし、創作意欲を大いにかき立てたかもしれません。
曹植にとって曹操が偉大なる父であったのと同様に、
陸機にとって祖父の陸遜と父陸抗は、敬愛し、誇りに思う存在でした。
また、辞賦文学は、その源流をたどれば、わが故郷の南方に由来する文学様式でした。
この文学様式に、このようなテーマを盛ることができるのだと、
彼は、もしかしたら曹植の作品に意を強くしたかもしれないと想像しました。
もちろん十分な調査をした上でないと確かなことは言えませんが。
2021年1月5日
曹植と張華とを結ぶ糸(承前)
あけましてこんにちは。
これまでの日々雑記から曹植関連の記事を読み返してみました。
すると、これまで別々に指摘していたことを結び付けて、
より考察を深めていけるかもしれないと思うことが幾つか出てきました。
たとえば、曹植「箜篌引」(『文選』巻27)が、
西晋王朝で、「野田黄雀行」のメロディに乗せて歌われていることについて。(2020.04.01)
曹植の「箜篌引」は、
側近たちのために設けた宴席の情景を詠ずるもので、
彼の「贈丁廙」詩(『文選』24)と、
同じ場面を詠じながら、宛先の有無だけが異なっていると看取されます。(2020.04.03)
すると、「箜篌引」は、曹植が後に喪うことになる腹心の友人たちを想起させるでしょう。
他方、「野田黄雀行」は、友人を救えなかった自身の不甲斐なさを深く内に刻み込みながら、
危機に瀕した黄雀を助け出せた少年を、つかの間幻視して詠じたと見られます。(2020.10.24)
ところで、曹植「箜篌引」の歌辞を「野田黄雀行」の曲に乗せた歌曲は、
晋楽所奏の「大曲」に分類されるものです。
「大曲」は、荀勗が晋楽を記した「荀氏録」に記録された形跡が残っていません。
「荀氏録」が「清商三調」を収録するものだとすると、
「大曲」は「清商三調」とは別の歌曲群だということになります。(2020.04.02)
思えば、西晋王朝の宮廷音楽の歌辞制作者には、荀勗以外にも張華がいます。
この張華が「大曲」の編集に関わったという可能性はないだろうかと、ふと思いました。
張華作の宮廷歌曲の歌辞に、曹植とのつながりを微かに示唆する表現が認められたからです。(2020.12.21)
また、曹植「七哀詩」に基づく晋楽所奏「怨詩行」は、『宋書』楽志三に楚調とされていますが、
これも「荀氏録」には記録されていません。
(こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」を並べ替えてご覧いただければ幸いです。)
ここからは単なる妄想ですが、
曹植「七哀詩」を晋楽所奏の楚調「怨詩行」に作り直したのも、
もしかしたら張華かもしれないと思いました。
同じ推論ならば、少なくとも、荀勗よりははるかに可能性が高いと言えます。
以前、「怨詩行」が荀勗のアレンジによるものだろうとの推論(こちらの学術論文№43)を、
彼の所業とどうしても齟齬を来してしまうことに困惑しつつ論じたことがあります。
ですが、張華であればすんなりと納得できます。
ちなみに、寒門ながら名望ある張華を、荀勗は疎んじていたといいます(『晋書』巻36・張華伝等)。
それではまた。
2021年1月4日
読む速度と気づき
こんばんは。
一年前の雑記を読み返してみたら、
ほとんど書いたことを忘れてしまっているようなものばかりでした。
顧みられないまま、放り出されているメモ書きの散乱。
思いついたことを書き留めるだけではなくて、
それらを時々読み返し、そこから更に気づいたことを調べていけば、
別の機会に書いたことと結びついて、育っていくのではないかと思いました。
それはともかく、一年前はまだ丁晏『曹集詮評』を毎日入力していたのでした。
(校勘記を入れた上で、その成果はいずれ公開したいと考えています。)
今のような便利な時代に、今更ながらの作業をやっていたのですが、
それはそれで、何かしらの拾い物をしていました。
ところが、最近はさっぱりです。
たぶん、曹植作品の訳注作業ばかりになっているからでしょう。
これが、なかなか進まない、地を這うような作業で、
こうした地味な仕事が必要不可欠なものであることは当然としても、
この速度、この至近距離から見えるものは、
たとえば、作品本文を入力するスピードで感じるものとは当然違ってきます。
ひとつの速度、ひとつの距離感では、頭が膠着してしまう。
といって、授業がある間は、訳注作業を継続するだけで手一杯です。
せめて、一点注視にならないように、ということを心にとめておこうと思います。
2020年12月24日