模倣と創作と著作権

こんばんは。

来週の「日中比較文学論」で、魯迅に与えた日本近代文学の影響を取り上げます。
それで、秋吉收『魯迅 野草と雑草』(九州大学出版会、2016年)を読み返していました。

魯迅の散文詩集『野草』が、日本の近代文学からどれほど多くの素材を摂取しているか、
厖大な質量の資料を元手として、精緻で行き届いた論証が展開されています。
昨年の授業で交換留学生に今一つ伝わらなかったところは
『晨報副刊』所掲作品と『野草』執筆の準備期間との関連性を明示するつもりです。

ところで、この授業ではずっと、現代的な著作権の問題が伏流しています。
古来、日本の文学がどれほど中国文学から直接的な影響を受けているかを知った学生が、
それを現代的常識に照らして、どうなんだろうと疑問に感じたようで、
これは、そこから浮かび上がってきた問題意識なのです。

この問題について、今回真正面から取り上げることができるかもしれません。
というのは、秋吉收氏が本書の「あとがき」で触れているように、
魯迅自身が“模倣による創作”という流儀にコンプレックスを抱いていたらしいからです。
言うまでもなく、こうした表現手法は古来中国には普通にあったものですが、
近代初頭に位置する魯迅には、それが後ろめたいこととして感じられていたらしい。
時代が大きく切り替わる、その狭間を生きた人ならではの苦しさだったのかもしれません。

それにしても、これは本当に凄い本で、毎年この授業で紹介できることに誇りを感じます。
本物の論著を世に問える研究者がここにいる、と指し示すことができる誇らしさ。
自分の研究成果ではないのに、この世界もまだまだ捨てたものではないと嬉しくなるのです。
このような研究に触れると、自分もがんばろうと元気が湧いてきます。

2020年12月15日

李善注をめぐる想像

こんばんは。

李善注には時々、一見不用ではないかと思われるようなものが見られます。
今日も、次のような事例に遭遇しました。

本文「伏見先武皇帝武臣宿兵、年耆即世者有聞矣」の「即世」に対して、
李善は「左氏伝、子朝曰、太子寿、早夭即世」と注しています(『文選』巻37/9a)。

本文を読み下せば、
「伏して見るに先の武皇帝が武臣宿兵、年耆(お)いて世に即く者に聞こゆる有り」、
これを訳せば、
「愚考するに、先の武帝の武将や老練の兵士は、年老いて逝去した者に高い評判がある」。

この本文で、「即世」すなわち逝去したのは、武帝に従った将軍や兵士たちです。

ところが、李善が指摘する『春秋左氏伝』昭公二十六年の記事を見ると、
「即世」の主語は、周の景王の太子寿とその母穆后で、
その後に続くのは、単旗・劉狄が私心から年少者を立て、先王の制に違ったという記事です。

本文と李善注とは、まったく文脈がかみ合っていません。
それに、「即世」という語は、『左伝』のこの部分以外にも用例は少なくないものです。
では、李善はなぜ、わざわざ上記の注を付したのでしょうか。

こういぶかしんでいたのですが、
『左伝』のこのあたりの部分を翻訳で読み、何かひっかかりを覚えました。*
それは、李善が示すとおり、「子朝」の諸侯への布告を記す部分だったのですが、
李善が敢えて「子朝曰」としたのには、意図するところがあったと考えるべきでしょう。

「子朝」は、景帝の子、王子朝。
当初、景帝は彼を立てようとしていたが、たまたま崩御し、国人は長子の猛を王に立てた。
子朝は猛を殺し、晋人は、子朝を攻めて、丏を立てた。それが敬王である。
『史記』巻4・周本紀には、このようなことが記されています。

李善はこう考えたのかもしれません。
曹植は、『春秋左氏伝』を熟読している。
だから、文脈は異なっても、『左伝』の言葉が自然と出てきたのだろう。
それに、『左伝』昭公二十六年のこの記事は、魏にもあった後継者争いを想起させる。
そのことに、曹植の意識が向かっていたとは十分あり得ることだろう、と。

曹植は自身を周公旦になぞらえましたが、
それをする以上、周王朝全般の歴史に拠って熟考していたはずだ、
と、李善は指摘しておきたかったのかもしれません。

この想像の当否はともかく、
李善の注釈態度に、単なる博引旁証とは言い切れない何かを感じたので記しておきます。

2020年12月14日

*小倉芳彦訳『春秋左氏伝』下(岩波文庫、1989年)p.269―271を参照。

日常に美を見出した表現者たち

こんばんは。

『アンリ・ル・シダネル展』カタログ(2011年)を、*
今日、広島市立図書館から借りてきました。
縁あって、来年度、このフランスの画家と絵画に関連する話を、
公開講座のひとつで担当することになったので。

図録や解説を閲覧しながら、
その日常の中に美を見出していく姿勢に惹かれました。
そして、こうした美意識は、唐代の詩人、白居易とも通ずると感じました。

そういえば、以前の公開講座で、
薔薇を詠じた白居易詩について話したことがありますが、
それは、このカタログの展覧会に連携する講座であったことを思い出しました。

シダネルは、ジェルブロワという町に構えた自宅の庭に薔薇園を作り、
この古い街を、薔薇でいっぱいにしたそうです。
一方、白居易も、自宅の庭園を非常に愛し、その様子を詩文に描写しましたし、
また薔薇の花を、まるで人を愛しむかのように詠じてもいます。

自然物に向かって、人に対するかのように語りかける詩人と、
庭や窓辺に咲く花やテーブルなど、日常生活の中の情景を愛しみながら描く画家と、
その感性において共鳴するものがあるように感じます。

19世紀末のフランスの画家と、9世紀の中国の詩人と、
こんなにかけ離れていても響き合うものがある、ということは、
日常の中に美を見出して表現するということの普遍的価値を示唆しているでしょう。

白居易の作品は自分の専門ではないけれど、
縁あって、これを読む経験を積んできてよかったと思いました。

2020年12月11日

*監修・執筆:ヤン・ファリノー=ル・シダネル、古谷可由
翻訳:古谷可由、小林晶子

 

初めて見た李善注

こんばんは。

『文選』李善注で、「漢書文也」というだけのものに遭遇しました。
私としては初めて見るスタイルの注記だったので、
この曹植「求自試表」(胡刻本『文選』巻37/8b)以外にもあるのかと調べてみました。

すると、類似する注記として、
班彪「王命論」(『文選』巻52/3b、4a)に「史記文」とありました。

後から出典を追記するのにコンパクトな表記にしたのか、
それとも、『史記』や『漢書』からの直接引用であることを敢えて示そうとしたのか。
「王命論」の冒頭近くには「論語文也」という注記もあって、
このような書物が見落とされるはずはないので、追記説は苦しいかもしれません。

ところで、班彪(3―54)は、その息子の班固が著した『漢書』を見ずに没していますが、
その「王命論」に対する李善注では、著者が未見のはずの『漢書』が随所に引かれています。
これは、いずれ『漢書』に流れ込んでいく記述内容だという認識からの注記なのか、
それとも、ただ単に、『漢書』に記されている内容が、
「王命論」に踏まえられているということを指摘するだけなのでしょうか。
前漢時代の出来事を注記しようとしたら、『漢書』を挙げるほかないのかもしれませんが。

2020年12月10日

曹植と孔融

こんばんは。

曹植「求自試表」(『文選』巻37)に、次のような一節があります。

昔賈誼弱冠求試属国、請係単于之頸而制其命、
終軍以妙年使越、欲得長纓占其王、羈致北闕。

昔 賈誼は弱冠二十歳にして属国の官として試されんことを求め、
単于の首をとらえ、その命を制圧せんと申し出た。
終軍は年若くして越に使者として赴くのに、
長い纓(冠の紐)を拝受し、その王を占し、拘束して宮殿の北門まで連れてこようとした。

李善注の導きにより、これに類似する表現が、
孔融の「薦禰衡表」(『文選』巻37)に、次のとおり見えていることが知られます。

昔賈誼求試属国、詭係単于、終軍欲以長纓、牽致勁越。
昔 賈誼は属国に試されんことを求めて、単于を係(つな)ぐと詭(いつは)り、
終軍は欲するに長纓を以てして、勁越を牽(ひ)き致さんとす。

ここに用いられた逸話は、それぞれ『漢書』に次のとおり記されています。

巻48・賈誼伝に引く彼の文帝に対する上疏;
陛下何不試以臣為属国之官、以主匈奴。行臣之計、請必係単于之頸而制其命。
陛下 何ぞ試みに臣を以て属国の官と為し以て匈奴に主たらしめざる。
臣の計を行ひて、請ふらくは必ずや単于の頸を係ぎて其の命を制せんことを。

巻64下・終軍伝;
南越与漢和親、乃遣軍使南越、説其王、欲令入朝、比内諸侯。
終軍自請、願受長纓、必羈南越而致之闕下。
南越 漢と和親せんとし、乃ち軍を遣はして南越に使ひし、其の王に説かしめ、入朝して、諸侯に比(なら)び内(い)れしめんと欲す。
終軍 自ら請ふらく「願はくは長纓を受け、必ず南越を羈(つな)ぎて之を闕下に致さんと」と。

『漢書』、孔融「薦禰衡表」、曹植「求自試表」を照らし合わせてみると、
『漢書』には無いけれど、孔融・曹植の表に揃って見いだせる表現というものがあって、
その顕著なものが「求試属国」です。
また、曹植は、賈誼と終軍とを並べる発想を、孔融から受け取ったのかもしれません。

曹植は、孔融のこの文章を自身の中に蓄積していたのでしょうか。
もしそうだとすると、とても興味深く思います。
というのは、禰衡も孔融も、曹植の父曹操をたいそう不快がらせた人物たちだからです。
こちらの[曹操の事績と人間関係]で検索してみていただければ幸いです。)
孔融が処刑されたのは建安13年、時に曹植は17歳でした。
そうしたこととは関係なく、曹植は孔融の文章を愛読していたのでしょうか。

2020年12月9日

電子資料[曹操の事跡と人間関係]の公開

こんばんは。

電子資料[曹操の事跡と人間関係]の公開が実現しました。
アプライドの濱田様には、たいへんな作業を完遂していただきました。

これは、高秀芳・楊済安編『三国志人名索引』(中華書局、1980年)を手引きとして、
『三国志』の本文及び裴松之注に出てくる曹操の事跡を網羅したものです。
原文のままではなくて、多少端折ったり補足したりもしています。
現行の中華書局標点本と、ちくま文庫『正史三国志』のページ数を記しているので、
御覧になるのに便利かと存じます。
どうぞご利用ください。
間違い等があればご教示いただけるとありがたく存じます。

曹操はその生涯、いったいどれほど多数の人々と関わったのでしょうか。
その傘下には、全国から陸続と優秀な人々が集まってきました。
あまりにも大勢いるので、中にはその存在を忘れられる人もいたようです。
他方、曹操の招きにどうしても応じない人々もいました。
そうした人々のことも、この歴史書はたしかに書き留めています。

この資料を作り始めたのは、もう20年近く前のことです。
その頃のことを思うと、少しだけ感慨に浸ってもいいかという気持ちです。

2020年12月8日

表現者の幸福

こんばんは。

曹植の作品を読みながらふと思いました。
彼は、特にその後半生、あまり報われることのなかった人ですが、
表現者としては、実はとても幸福な人だったのではないか、
自分はそれを確認したくて彼の文学に取り組んでいるのでないかということです。

まず、言葉によって自身の思いを表現している間は、
現実とは別の次元で、とても充実した幸福感を味わっていたはずだと思います。

それに、こうも考えます。

曹植の作品は、その死後、多くの人々に読まれ、その表現が継承されました。
近い時代では、『魏略』の撰者魚豢、竹林七賢の阮籍、嵆康、西晋の陸機、潘岳らです。
彼は後の時代の人々にたくさんの贈り物をしたのです。

本人はすでにこの世にはいないのだから、無意味だという考え方もあるけれど、
どこかで彼は、そのことを喜んでいるように思えてなりません。

見知らぬ他者に手渡される言葉を生み出した者こそが、真の文学者だと私は考えます。
そして、その「文学」というものの成立を、
曹植の表現の上にたしかに跡付けたいという研究の趣旨を自分は掲げています。

ですが、実は、曹植の上述のような表現者としての幸福を見届けたい、
それによって彼を弔いたいのだと思います。
(たいへん不遜な物言いですが、思うのは自由ですから。)

2020年12月7日

演習授業の方法

こんばんは。

昨日は、曹植の「求自試表」について、
明帝を周の成王に重ねているという点から見るとその趣旨が明瞭になる、
といったふうなことを述べたばかりなのですが、
今日は、当時の三国鼎立の情勢を、周の宣王の故事に重ねるくだりに遭遇しました。
この作品は、まだ半分も読んでいません。
まだ見通しを立てる段階にはない、と戒められたように感じました。

ところで、私はこれまで(少なくとも十年以上)、
演習科目では白居易と元稹との交往詩を読み続けてきました。
それは、学生に古典文学作品と直に向き合ってほしいという願いからです。
加工された情報ではなく、直接、古人の言葉に触れる体験をしてほしかったのです。
ですが、来年度からこの方法はやめにして、
比較的多くの同僚たちが取っている授業の方法、つまり、
自分で見つけたテーマで研究発表をするという方式にしようかと考えています。
学生たちが置かれた情勢の流れる速度に、
私が長らく保持してきた授業方法が適合しなくなっていると感じるのです。

ただ、中国古典文学という非常に大きなものを相手に、
半年かそこらで何かを論じることができるようになると考えることは、
大変に不遜というかなんというか。
論じるというより、興味を以て近づいてみる、というくらいがよさそうです。
そして、論じるときは、必ず原文に触れて、そこから引き出されたものであること。
こうした条件を示すならば、私の思いも学生たちに通じるでしょうか。

2020年12月4日

少しずつ明らかに

こんばんは。

少しずつ読み進めている「求自試表」(『文選』巻37)ですが、
李善注に従って読むほどに、明帝が即位して間もない頃の曹植の思いが明らかとなってきました。

やはり、この上表文は、彼の「惟漢行」と緊密に結び合っています。
明帝の歴史的位置を、周の成王になぞらえて表現する句が踵を接して現れるのです。
すると、成王を補佐した周公旦のことも、当然これに付随して想起され、
そこに浮かび上がってくるのは、曹植が望む、魏王朝における自身の立ち位置です。

王朝の中で役割が与えられないという自身の不遇を訴えるよりも、
自身が明帝を補佐する立場となることは、歴史的必然性として主張されているようです。
幼少期からその将来を嘱望されてきた人ならではの、迷いの無さです。

それにしても、李善は実に多くのことを示唆してくれます。
それにかかる時間は、現代社会において物事が進む速度とは大きくかけ離れていますが、
これはどうしても必要なことです。

2020年12月3日

忘れ去られないように

こんばんは。

広島の漢詩人、平賀周蔵という人物の作品を読むことにしました。
宮島に遊んだことを詠ずる詩を、比較的多く作っているのが目に留まりまして。

江戸時代中期から後期の人で、広島藩の重臣浅野士敦に仕えたそうです。
本名よりも、平賀蕉斎という号の方で知られているようです。
その作品集として、『白山集』『独醒庵集』『蕉斎筆記』があって、
岩波『日本古典文学大辞典』にも記載があります。

ところが、この人物や作品を論じた先行研究が、
日本の論文データベースCiNii(https://ci.nii.ac.jp/)にも、
科学研究費助成事業データベースKAKEN(https://kaken.nii.ac.jp/ja/index/)にも、
見当たりません。

CiNiiは、単行本に収録された論文は網羅していないので、
もしかしたら、論文集所収の先行研究があるのかもしれませんが。

非常に意外な感じがしました。
やはり、漢文というだけで敬遠されているのでしょうか。

その宮島遊覧の詩は、『藝藩通志』『宮島町史』に翻刻はされていますが、
ほとんど本格的に読まれていないのならば、これを紹介する意義はあるだろうと思います。

2020年12月2日

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