曹植の折り目正しさ
こんばんは。
先日は曹植の口の悪さに驚いたのですが、
その「与楊徳祖書」を読み進めると次のような記述に不意打ちを食らいます。
世人之著述、不能無病。僕常好人譏弾其文、有不善者、応時改定。
世の中の人の著述で、欠点が無いということはあり得ない。
僕はいつも人が僕の文章をそしるのを好もしく思い、
善くないところがあれば、その時々に改める。
陳琳を散々嘲笑しても、その同じ目線で自分をも見ています。
そして、自分の作品が悪しざまに言われることをむしろ喜んでいます。
悔しい気持ちもあったでしょうに、批判を受け入れ、文章を改めていったのです。
このような姿勢の背景にあるのは、
李善の指摘によれば、『荀子』修身篇にいう次のような考え方でしょう。
非我而当者、吾師也。是我而当者、吾友也。諂諛我者、吾賊也。
自分を否定的に批判つつ向き合ってくれる者は、我が師である。
自分を肯定的に後押ししつつ向き合ってくれる者は、我が友である。
自分に阿諛追従する者は、我が賊である。
とても当たり前のことを言っているようでもあるけれど、
今の世に在ってはかえって新鮮に感じます。
2020年10月5日
『晋書』陸機伝に対する太宗の制
こんにちは。
渡邉義浩「『晋書』の御撰と正史の成立」を読みました。*
初唐に成った『晋書』は、
巻1・宣帝紀、巻3・武帝紀、巻54・陸機伝、巻80・王羲之伝の巻末に、
唐の太宗李世民自身による制(史評)を付しています。
上記の渡邉論文は、このことをその行論の一部に取り上げて、
太宗がこれにより何を目指したのかを論じています。
このうち、陸機伝に関しては、
その本文に儒教的な色彩の強い作品を多く収録し、
この点、先行する臧栄緒『晋書』とは異なっていることを指摘するのみです。
少なくともこの問題は、もっと丁寧に扱う必要がないだろうかと思いました。
陸機・陸雲兄弟は、南方の呉から、祖国の滅亡を経て晋王朝に参入しています。
そして、隋・唐王朝は、南朝由来の知識人たちを多く擁しています。
そうした人々の中には、たとえば虞世南・虞世基兄弟のように、
陳から隋へ入り、かの二陸の再来かと言われた人もいれば(『旧唐書』巻72・虞世南伝)、
あるいは、その処遇に王朝が苦慮するような人々もいたかもしれません。
『晋書』陸機伝に対する太祖の制が、
その文才を称揚するよりも、身の振り方の拙さを傷む方向に傾いているのは、
そこに、南朝出身者に対するメッセージが隠されているのではないかと思えてなりません。
(ただ、これは感覚的な見通しに過ぎませんし、先行研究にも当たっておりません。)
2020年10月4日
*『三国志研究』第15号、2020年。
六朝文学の萌芽
こんばんは。
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)に関連する先行研究として、
福井佳夫「曹丕の「与呉質書」について―六朝文学との関連」を読みました。*
曹丕の「与呉質書」の中に、
いずれ六朝文学にて展開していく次の四つの要素を指摘する明快な論文です。
1、書簡文を利用した文学批評
2、集団的文学活動が行われる游宴の描写
3、君臣の隔てがない親しい交友関係
4、貴顕の者による文学仲間の死への追悼
その上で、謝霊運「擬魏太子鄴中集詩」(『文選』巻30)、江淹「雑体詩」(同巻31)、
梁の昭明太子蕭統と簡文帝蕭綱、陳の公主陳叔宝、隋の煬帝楊広の書簡文の中に、
曹丕の書簡文の影響を指摘しています。
このうち、建安文壇における君臣間の上下関係の希薄さは、
拙論(こちらの「学術論文」№32)で述べたところと同じ論旨です。
この先行研究のあることを注記すべきでした。
不勉強に恥じ入るばかりです。
2020年10月3日
*『中国中世文学研究』第20号、1991年。
感傷的追想
こんばんは。
建安文人たちに対する評論を載せる曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)は、
曹丕「典論論文」(『文選』巻52)に先立つものであり、
また両者は内容面において何らかの関連性を持つもののようだ、
とは集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』p.625に指摘するところです。
ところで、前掲の曹植「与楊徳祖書」に対する返信として、
楊徳祖すなわち楊修の「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)がありますが、
その中に、次のような句が見えています。
「不忘経国之大美、流千載之英声(経国の大美を忘れず、千載の英声を流す)」と。
このフレーズは、曹丕「典論論文」にいう、
「蓋文章経国之大業、不朽之盛事(蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事なり)」を想起させます。
曹丕は、曹植と楊修との往復書簡を読んでいて、これを踏まえた可能性があります。
さて、楊修の書簡と曹丕「典論論文」とが相関係する可能性ありとは、
自分が学生時代に用いていた胡刻本の李善注『文選』に書いてあったメモです。
ノートに本文を書写することもせず、
不埒にも授業中に聞き及んだことを直接書き込んでいるメモが、
今の自分にとっては貴重なコメントです。
思えば当時、学生たち(特に成績優秀者)は、
国文学、英文学、心理学、社会学といった研究室に多く集まる傾向があって、
中国文学や中國哲学は少ない人数で推移していました。
(今と同じような状況は、すでに40年くらい前からあったということです。)
けれども、そんな少数派であることにひけめを感じるどころか、
自身の専門に自信と誇りを持っていました。
今のように、学生をお客さんと見なし、
来客数でその存在価値を測るような風潮は、
少なくとも当時の大学にはこれっぽっちもなかった。
これは、先生方ががっちりと私たちを守ってくれたおかげです。
ですが今、自分たちはそうした風潮から何者かを守ることができていません。
では、その何者かという部分には何が代入されるのでしょう。
学生や、地域の人々といった言葉を入れることは到底できないように思います。
自分たちはいったい何を一生懸命守ろうとしているのかと心細い昨今です。
どのような経緯でこんなことになってしまったのか。
2020年10月2日
曹植の無遠慮
こんばんは。
相変わらず遅々として進まない曹植「与楊徳祖書」の訳注ですが、
一句ずつでも毎日続けて読んでいると、面白い拾い物をすることがあります。
犬も歩けば棒に当たります。
今日は、次のような文章にたいそう驚かされました。
以孔璋之才、不閑於辞賦、而多自謂能与司馬長卿同風、譬画虎不成、反為狗也。
前有書嘲之、反作論、盛道僕讃其文。
思うに、陳琳の才能は、辞賦文学には習熟していない。
それなのに、ただ自分では司馬相如と同じ作風を持ち得ていると思っている。
これは、譬えるならば、虎を描いて成らず、かえって犬になってしまうようなものだ。
先に手紙でこれを嘲笑したところ、逆に評論をものして、僕が彼の文章を称賛したと喧伝した。
曹植は当時まだ二十代の、怖いもの知らずの若者です。
そして、この手紙文は、そんな彼が、敬愛する先輩文人の楊修に向かって、
自由闊達に思いのたけを述べたものです。
この無遠慮は、先に触れたこの逸話や、「贈丁儀王粲」詩などをも彷彿とさせます。
曹植は、当代に傑出する文人と目されることから、
なんとなく、人格的にも立派な文人というイメージがあるかもしれません。
また、その後半生、実の兄から冷遇されて長らく苦境にあったため、
悲劇的な側面が強調されがちであるようにも思われます。
ですが、それと表裏一体で、この口の悪い、才気ほとばしる若者がいるのです。
この曹植がいるからこそ、彼の文学作品は光り輝いているのだし、
その後半生の悲劇性も強いコントラストをもって浮かび上がるのでしょう。
自分が若かった頃を思い返すと、まるで人間ができていなかった。
(もちろん、今はできている、という意味ではありません。)
でも、建安年間の曹植作品を読んでいると、それも哄笑の内に肯定されるようです。
若者は愛すべき馬鹿者です。そうでなくてどうする、です。
2020年10月1日
七という数
こんばんは。
『文選』巻42所収の曹植「与楊徳祖書」について、
集英社・全釈漢文大系の『文選(文章編)五』p.627に、次のようなコメントが見えています。
曹植は、この書簡文の中で、
当世の優れた作者として、王粲、陳琳、徐幹、劉楨、応瑒、楊修の六人を挙げ、
これを「此数子」という漠然とした括り方で総称している。
一方、曹丕「典論論文」(『文選』巻52)では、
孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨を挙げて「斯七子」と括っている。
もし、曹植が上記の六人を指して「此六子」と明言していれば、
「建安七子」ではなく、「建安六子」という表現が後世に伝わったかもしれない。
後世にいわゆる「建安七子」の七という数字は、
他に「竹林七賢」にも見えているので、何か特別な意味が宿っているのかもしれません。
枚乗「七発」に代表される文体の「七」や、「七哀詩」の七も、なぜ七なのか分かりません。
分からないから、そこに何かあるのだろうと思うしかありません。
曹丕は、その不思議な数字の力に惹かれて、
当世の優れた文人を七人集め、「七子」と数合わせした可能性もないでしょうか。
2020年9月30日
曹植の愛読書(2)
こんばんは。
以前(2020.05.11、5.12)、曹植の愛読書のひとつとして、
王充『論衡』があったのではないかと述べました。
今回は『韓詩外伝』です。
曹植作品における『詩経』引用がしばしば「韓詩」に拠っていることは、
伊藤正文『曹植』の解説が夙に指摘しているところですが、*
歴史故事を踏まえた表現が、明らかに『韓詩外伝』由来である事例もあります。
昨日に続き、曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)の中に、次のような句があります。
然此数子猶復不能飛軒絶迹、一挙千里也。
然れども此の数子は猶ほ復た飛軒して迹を絶ち、一挙千里なること能はざるなり。
ここにいう「一挙千里」は、李善注が指摘するように、
『韓詩外伝』巻六に見える、船人の盍胥が晋の平公に対して述べた言葉、
「夫鴻鵠一挙千里、所恃者六翮爾(夫れ鴻鵠は一挙千里、恃む所は六翮のみ)」を踏まえます。
同じ故事は、前漢の劉向『新序』雑事一、『説苑』尊賢にも記されていますが、
そこでは、「一挙千里」という語は用いられていません。
また、『韓詩外伝』の同じ条に、
同じく盍胥が晋の平公に語った人材登用に関わる話の中に見える、
「夫珠出於江海、玉出於昆山(夫れ珠は江海より出で、玉は昆山より出づ)」は、
曹植「贈丁廙」詩(『文選』巻24)の次の句を彷彿とさせます。
大国多良材 大国には良材多く、
譬海出明珠 譬ふれば海の明珠を出すがごとし。
辞句がそれほど重なり合っていないためか、
管見の及ぶ限り、どの注釈者も指摘していませんが、
同じ『韓詩外伝』の同じ条から、
同じ曹植の別の作品への引用が認められることを考え合わせるならば、
前掲の「贈丁廙」詩に見える表現は、『韓詩外伝』由来である可能性が高いと考えられます。
発想と文脈も、両者はよく一致しています。
こうしてみると、曹植は『韓詩外伝』をかなり読み込んでいると推し測れます。
これもまた、彼の愛読書のひとつだったと言えるかもしれません。
2020年9月29日
*『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.22を参照。
李善の取捨選択
こんばんは。
『文選』巻42所収の曹植「与楊徳祖書」の中に、次のような句が見えます。
吾王於是 吾が王は是に於いて
設天網以該之、 天網を設けて以て之を該(つつ)み、
頓八紘以掩之、 八紘を頓(くだ)して以て之を掩(おほ)ひ、
今悉集茲国矣。 今 悉(ことごと)く茲(こ)の国に集まれり。
曹操が天下に網を敷き広げ、八方に天地をつなぐ綱を垂らして、人々を広く覆い取った結果、
優れた文人たちがこぞってこの魏の国に集まった、と。
これに非常によく似た表現が、
馬融の「広成頌」(『後漢書』巻六十上・馬融伝)に、
「挙天網、頓八紘(天網を挙げ、八紘を頓ふ)」と見えています。
ただ、この対句は、人ではなく、鳥獣を捕獲することをいう場面に出ています。
だからなのか、李善はこれを取らず、
ほぼ馬融と同時代の崔寔「政論」(佚)にいう、*
「挙弥天之網、以羅海内之雄(弥天の網を挙げて、以て海内の雄を羅す)」と、
『淮南子』地形訓にいう、九州の外の八殥、八殥の外にある「八紘」を挙げています。
ですが、語句の類似性から言えば、曹植の表現は圧倒的に馬融「広成頌」の方に近い。
ならば、これをそのまま挙げるわけにはいかないのでしょうか。
ここでは人を一網打尽にするような言い方をしているのだと捉えてしまうのです。
おそらく李善は、馬融「広成頌」のあることを知っていながら、
人を禽獣扱いするわけにはいかないと判断し、
上記のような取捨選択をしたのではないかと思われます。
けれども、そのことと引き換えに、
曹植作品が元来持っていた荒削りな勢いが削がれるようにも感じられます。
2020年9月28日
*「政論」、李善注は「本論」に作る。今、厳可均『全後漢文』巻四十七に従う。
李善注所引テキストと現行本
こんばんは。
このところ、曹植作品訳注稿がさっぱり進みません。
それで、毎日の生活の中で、歩くように、呼吸するように進めようと思い立ち、
今朝、その小さな日課をスタートさせました。
ところが、さっそく困ったことが生じて立ち止まり、
なぜ、この作業が遅々として進まないか、改めてそれが分かりました。
いっぺんに完成形に持っていこうとするからいけないのですね。
最近、断続的に訳注に取り組んでいるのは、
曹植「薤露行」との関連性が指摘されている「与楊徳祖書」(『文選』巻42)です。
『文選』所収作品は、基本的に李善注に従って読んでいますが、
困るのは、李善注に指摘する文献と現行本とが時々食い違っていることです。
その乖離が、李善の単純な記憶違いによるのか、
当時、複数存在していたテキストのうち、
李善が見たものと、今に伝わるものとが違うということなのか、
それとも、李善注に記されたテキストが、伝写の過程で書き誤られてしまったのか、
判断しづらいことが多い。
加えて、李善注に指摘された文献の現行本について、
その注釈書などで、当該テキストに異同のあることが指摘されている場合もあります。
今日も、『淮南子』にそのようなケースがありました。
それで、語釈にどう記したものか、考えあぐねていたのですが、
困ったことをそのまま記しておいて、後から剪定していけばよいのでしょう。
そもそもそれが可能だから、随時修正を前提として、
こうした場に少しずつ公開していこうと考えていたのでした。
2020年9月27日
魏の明帝の太極殿
こんばんは。
曹植「惟漢行」の冒頭に見える「太極定二儀」云々と、
魏の明帝が青龍三年(235)に造営した太極殿(『三国志』明帝紀)との間に、
何らかの関連性がないだろうか、と先に記したことがあります。
その太極殿に言及する、
渡辺信一郎「宮闕と園林―3~6世紀中国における皇帝権力の空間構成―」の中に、*
次のような指摘が見えています。
太極殿を中心とする宮闕制度は、三国魏の明帝によって創建されたものである。
青龍三年に、太極殿、閶闔門、芳林園が整備され、
同五年に、服色や暦が改定され、七廟制が定められ、圜丘が建造されて郊祀が行われた。
これらのことは、曹魏王朝の本格的な成立を意味する。
宮城の整備は、(皇帝自らをも含む)様々な人々を動員して行われた。
宮城の配置は天の星象を写し取ったものである。
天上界と人間界とは密接に関連しあっているとする、
いわゆる天人相関説は戦国期からある、とも本論文中に記されていますが、
では、この考え方を具現化する宮城は、魏明帝以前には造営されなかったのでしょうか。
もしそうであるならば、なぜこの時に至って初めてそれが出現したのでしょうか。
太極という語は、『易』繋辞伝上にいう「是故易有太極、是生両儀」に由来しますが、
それが天上世界と結びついたのはいつ頃、どういう経緯からでしょうか。
『三国志』巻3・明帝期の裴松之注に引く『魏書』に、明帝の甲子詔を引いて、
「夫太極運三辰五星於上、元気転三統五行於下……」とあります。
ここでは既に、太極は天上界で星々の運行を司るものとして捉えられていますが、
こうした発想はどこからやってきたのか。
現在の自分には把握できていないことがあまりにも多く、
太極殿と曹植「惟漢行」とを直に結びつけるような、迂闊なことは言えないと思いました。
2020年9月26日
*『考古学研究』第47巻第2号(通巻186号)、2000年9月)所収。