選りすぐりの漢詩を持ち寄って
こんばんは。
『文華秀麗集』中に収められた嵯峨天皇の「王昭君」、
その後には、良岑安世、菅原清公、朝野鹿取、藤原是雄の「奉和王昭君」が続いています。
これらの人々の漢詩も、嵯峨天皇のそれと同様に、
六朝期から初唐にかけての王昭君詩を明らかに踏まえていることは、
小島憲之校注『懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』(岩波・日本古典文学大系、1964年)に、
以下のように指摘されています。
良岑安世の「願為孤飛雁、歳々一南翔」は、
初唐の盧照鄰「昭君怨」にいう「願逐三秋雁、年々一度帰」を踏まえる。
菅原清公の「誰堪氈帳所、永代綺羅房」は、
隋の薛道衡「昭君怨」にいう「毛裘易羅綺、氈帳代帷屏」を踏まえる。
朝野鹿取の「閼氏非所願、異類誰能安」は、
西晋の石崇「王明君詞」にいう「加我閼氏名」「殊類非所安」を踏まえる。
藤原是雄の「琵琶多哀怨、何意更為弾」は、
石崇「王明君詞」序にいう「昔公主嫁烏孫、令琵琶馬上作楽」「其造新曲、多哀怨之声」を踏まえる。
今ここに挙げた日本漢詩句はすべて、結びの部分です。
このように、一首の印象を決定づけるところに中国詩が踏まえられていて、
しかも、彼らの参照している漢詩は、特定の一首に集中せず、思いのほか多様です。
彼らはいったい何を参照していたのでしょうか。
「盧照鄰集廿(巻)」は『日本国見在書目録』に見えますが、薛道衡の別集は見えません。
「詩苑英(華)十(巻)」「続古今詩苑英華集十(巻)」といった総集類を参照していた可能性もあります。
嵯峨朝の頃、王昭君関連の作品を集めた選集のようなものがあったのではないか。
このように先には想像したのでしたが、根拠がありません。
天皇主催の晴れやかな宴で自作の漢詩を披露するため、
彼らは様々な別集や総集類の中から、選りすぐりの王昭君詩を持ち寄ったのではないか。
こう想像することもできますが、よくわかりません。
2020年10月21日
忘れ去られた漢詩
こんにちは。
昨日、平安朝の『千載佳句』や『和漢朗詠集』には、
「王昭君」という部立てが単独で設けられていることに触れました。
では、どのような作品がそこに収録されているのでしょうか。
『千載佳句』上、人事部、王昭君に収載されているのは、陳潤なる詩人の「王昭君」のみ。
同詩句は、『全唐詩』巻773には、王偃の「明君詞」として収載され、
同巻の冒頭に、それが『玉台後集』より採られたということが記されています。
『玉台後集』は、李康という人物の編纂になるもので(『新唐書』巻60・藝文志四)、
李康は、徳宗・憲宗期、剣南東川節度使を務めた人です(『旧唐書』巻13・徳宗紀下ほか)。
すると、『玉台後集』は、白居易や元稹らと同時代に編まれた選集のようです。
また、『和漢朗詠集』巻下、王昭君に収載されているのは、
中国の漢詩では白居易「王昭君」(『白氏文集』巻14、0805)一首のみ。
これに続けて引かれているのは、紀長谷雄、大江朝綱、源英明による日本漢詩です。
ちなみに、『新撰朗詠集』は、『千載佳句』所収の句を、陳国なる作者名で採録します。
部立てや、日本漢詩が多数を占めていることは、『和漢朗詠集』に同じです。
このように、平安朝中期以降に成った『千載佳句』『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』には、
嵯峨朝の日本漢詩も、それに影響を与えた六朝詩も採られていません。
よほど朗詠に適さないと思われたのか、それとも、
すでに、六朝詩の影響を受けた嵯峨朝の日本漢詩は時代遅れだったのでしょうか。
それに代わって収載されているのは、白居易詩やその頃の漢詩、
そして、遣唐使廃止後の日本漢詩です。
漢詩文全盛期の日本は、
平安朝の人々にとって忘れ去りたい過去だったのでしょうか。
2020年10月20日
なまけものの想像
こんばんは。
『文華秀麗集』中・楽府に、嵯峨天皇御製の「王昭君」が収録されています。*1
王昭君を詠じた楽府詩としては、石崇「王明君詞」(『文選』巻27)が名高いのですが、
嵯峨天皇の本詩には、石崇作品には無い要素が幾つか認められます。
まず、「漢」と「胡」とを対比的に詠じていること、
そして、「漢」たる「長安」を照らす「月」を詠じていること。
この二つの特徴は、六朝期の南朝の詩人たちが王昭君を詠ずる詩歌に認められるものです。*2
また、嵯峨天皇は、「蝉鬢」「玉顔」といった言葉で王昭君の容貌を描写しますが、
これもまた、六朝期末の宮体詩を彷彿とさせるものです。
以上のような特徴を備えている六朝期の作品として、
たとえば、梁の簡文帝蕭綱「明君詞」や陳の張正見「明君詞」がありますが、*3
嵯峨天皇はこれらの作品を参照していたのかもしれません。
では、こうした六朝期末の王昭君作品は、
どのようにして嵯峨天皇の目に触れることとなったのでしょうか。
『日本国見在書目録』卅九・(集部)別集家に、
「梁簡文帝集八十(巻)」「張正見集三(巻)」と見えていることから、
彼らの作品が日本に伝わって来ていたことは確実です。
嵯峨天皇は、前述の石崇「王明君詞」を収載する『文選』のみならず、
こうした別集類からも、王昭君にまつわる漢詩を広く摂取していたのでしょう。
ただ、平安朝の人々がみな別集類を一冊一冊読んでいたのかどうか。
「王昭君」は、後に『千載佳句』や『和漢朗詠集』などに独立した部立てが設けられるほどです。
もしかしたら、嵯峨朝の頃、このテーマの作品のみを集めたものが既にあったか、
あるいは、編纂しようという機運が高まっていたのではないか。
そう想像したりもするのですが、どうでしょう。
当時の人々を、なまけものの自分と同列に置くのは笑止千万ですが。
2020年10月19日
*1 その全文を、通釈とともに示せば次のとおり。
弱歳辞漢闕 髪上げをしたばかりの年で漢王朝の宮殿を辞去し、
含愁入胡関 悲しみを胸に秘めて匈奴の関所に入った。
天涯千万里 ここは天のはて、都を去ること千万里、
一去更無還 一度ここを超えたならば二度と漢へ戻ることはない。
沙漠壊蝉鬢 沙漠は、蝉の羽のように薄く梳いた鬢髪を痛めつけ、
風霜残玉顔 風や霜は、玉のような顔をそこなってしまう。
唯余長安月 ただ長安にも懸かる月が空に残っていて、
照送幾重山 幾重もの山々を超えていく王昭君を照らしつつ見送る。
*2 西川ゆみ「庾信北朝期作品における華北・長安表現の独自性」(『日本中国学会報』第69集、2017年)を参照。
*3 現在は、北宋末に成った郭茂倩『楽府詩集』巻29に、同系列作品をまとまったかたちで見ることができます。楽府詩を網羅的に収載するこの詩集は、嵯峨天皇の時代には、まだ存在していなかったものです。
平安朝の詠史詩
こんばんは。
詠史詩は、漢代の宴席芸能に出自を持つものであると論じたことがあります。
建安文人たちの詠史詩も、この漢代宴席芸能としての詠史詩の流れを汲むものです。
(こちらの学術論文№42「五言詠史詩の生成経緯」をご覧いただければ幸いです。)
このことは、下って六朝期末の「賦得」の詩(宴席における競作詩)にも認められるところで、
たとえば、陳朝の人々には次のような作品が残っています(『藝文類聚』巻55)。
張正見の「賦得韓信詩」
周弘直と楊縉の「賦得荊軻詩」
阮卓の「賦詠得魯連詩」
劉刪の「賦得蘇武詩」
祖孫登の「賦得司馬相如詩」
いずれも、『史記』等の歴史書で、どこか通俗的な記述を内包する逸話の持ち主たちです。
「賦得」とは、「集会の席」で「数人が共通の大題の下に、それぞれ小題を分得して作」るもので、*
さまざまな事物が題目に取り上げられて競作されました。
歴史故事という題材は、その中のひとつです。
さて、日本の平安朝初期の勅撰漢詩集『文華秀麗集』巻中に、
次のような詠史詩が収載されています。
(嵯峨天皇)御製の「史記講竟、賦得張子房」
良岑安世の「賦得季札」
仲雄王の「賦得漢高祖」
菅原清公の「賦得司馬遷」
「賦得」とあることからも、これらが集会の席で作られた作品であることは確かですが、
ただ、中国の詠史詩とは若干異なるニュアンスが感じられます。
それはおそらく、御製の詩題にいう「史記講竟」がかもし出しているのでしょう。
『史記』の講義が終わったところで、
それに基づいて詩の競作が為されたようですが、
外国文学に対する勤勉な学習の成果とも言えるような雰囲気です。
この点、中国の詠史詩は元来もっと娯楽色が強いものです。
文化的発祥の地である中国と、それを受けて摂取する側に立つ日本と、
同じ詠史詩ではあっても、それが位置する文化的座標には歴然とした違いがある、
このことを認めないわけにはいきません。
2020年10月18日
*斯波六郎「「賦得」の意味について」(『六朝文学への思索』創文社、2004年。初出は『中国文学報』第3冊、1955年)を参照。
最良の教育
こんばんは。
昨日から、大学院の授業で『文選』所収の曹植「与楊徳祖書」を読み始めました。
正規の院生は(交換留学生を含めて)いないのですが、
後期から受け入れることになった研究生のために開くことにしまして。
それで、配布資料を作成するにあたって、
昔、自分が受けた『文選』の授業のレジュメを開いてみました。
自分はこのとき大学院生、保存していたのは学部生の作成したレジュメです。
驚きました。
李善注に指摘する出典を、すべて原文で抄出していて(手書き)、
訓み下しも、もちろん翻訳なども書いていません。
手書きなのは、まだワープロすら普及していない時代だったからですが、
原文をごろりと書いてあるだけのレジュメで、当時は演習が成立していたのですね。
もうひとつ、自分で意外だったのは、
レジュメ作成者の名前を見て、すぐに顔を思い出せたということです。
私は決して「親切な先輩」ではなかったと思います。
演習の準備をしている後輩に、自ら手助けしたり助言したりすることはなかった。
というのは、私自身がかつて自力で準備をしたい学部生であったから。
(こういう姿勢は、多分に再考の余地があると今は思っています。)
それでも、名前を見ればその顔がたたずまいとともに浮かび上がってきました。
これは、短い期間ではあれ、研究室という空間を共にしつつ同じ時を過ごしたからでしょう。
岡村先生は、そうした私たちを少し離れたところから見守っていてくださいました。
『文選』という書物を、全員が研究者を目指すわけではない学部生に示し、
示されたものに全力で取り組むことを当然のこととしておられました。
そこから何を学ぶか(あるいは学ばないか)は、個々人にゆだねられていました。
最良の教育を受けたのだと今にして思います。
今の自分の授業では、自身が受けた教育方法を取ることはできないので、
李善注を中心に、補足説明や簡略化などの手を加えながら講読することにしました。
2020年10月17日
親切な本
こんばんは。
古川末喜『二十四節気で読みとく漢詩』(文学通信、2020年)を読んでいます。
正確に言うと、いっぺんに読み通すのではなくて、
これから先、折に触れて、楽しみながら開く本になるでしょう。
太陽の運行に沿って設けられた二十四の季節の節目について、
まずこの二十四節気というシステムが、精緻にかつすっきりと説明されています。
そして、その季節の折々に詠じられた漢詩が挙げられ解説されています。
あとがきに記されたその漢詩の選択基準を見ると(選択基準に限らず)、
古川氏がいかに真摯に、そして楽しげに詩の読解に取り組まれたかがわかります。
また、氏は参照された参考文献や情報サイトを豊富に紹介してくださっています。
これを手引きに、多くの人々が的確な知識を得ることができると思います。
この本によって、生活に潤いを得る人がどれほどいるでしょう。
ほんとうに親切な本です。
また、この本によって、詩の季節感を的確に捉えることができるようになります。
古今東西を渡る学術的な広がりをも想い描かせてくれる本です。
著者の古川末喜氏に、大きな声でありがとうと言いたい。
そして、このようなお仕事に対して、心から尊敬の気持ちを捧げます。
2020年10月16日
親切な人々
こんばんは。
オンライン授業にも慣れが出てきましたが、
授業の前後にかなりの時間を割かねばならないことに変わりはありません。
特に、話した内容がどこまで理解されたのかを知るため、
毎回ミニレポート(問いはこちらで設定)を書いてもらうのですが、
Word文書だととてもさばききれません。
そこで、楽に、学生たちの声を聞き取るため、前期は基本、MicrosoftのFormsを使っていました。
ところが、後期はひとつ、Zoomを使う他ない科目があり、それだと当然これは使えません。
そこで、GoogleのFormを使ってみることにしました。
これも、データを一括してダウンロードできるようだから、便利だと思ったのです。
ところが、それを開いてみたところが文字化けしていて読めない。
困って、ネット上を探し、あるサイトから、どうすればよいかを教わりました。
総じて、IT関係の方々は親切だと感じます。
持てるものを惜しげもなく私たちに分け与えてくださる。
自分もかくありたいものだと思います。
ただ、自分が持ち合わせているものはあまり人から求められないのが難点。
けれども、人として生きる姿勢が基本親切、これならできそうです。
(ふさいでいるよりも気持ちが軽くなりますし。)
2020年10月15日
曹植のぼやき
こんばんは。
今日も、曹植「与楊徳祖書」についてです。
先日、袋小路に迷い込んで記した「南威」「龍泉」のくだりに続くのは、
次のような一文です。
劉季緒才不能逮於作者、而好詆訶文章、掎摭利病。
劉季緒 才は作者に逮(およ)ぶ能はざるに、好んで文章を詆訶し、利病を掎摭す。
劉季緒は、李善注に引く摯虞『文章志』(佚)によると、
劉表の子で、官は楽安太守にまで至った人。詩賦頌六篇を著したといいます。
『三国志』陳思王植伝の裴松之注に引く同書は、劉季緒の名が脩であることを記しています。
この劉季緒という人物に関しては、今のところこれ以上は未詳です。
その彼は、実作ではとても一流とは言えないのに、
(実際、時の経過とともにその伝記も失われる程度の人物だったのでしょう。)
好んで人の文章を大仰にそしり、長所や短所をあげつらう、と曹植は批判しています。
批判というよりも、ぼやきでしょうか。
というのは、曹植のこの書簡に返した楊修の「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)の末尾近くに、
「季緒璅璅、何足以云(季緒の璅璅たる、何ぞ以て云ふに足らんや)」とあって、*
その言い方に、曹植の愚痴をそれとなく受け、慰めている感があるから。
曹植は、この書簡の前半で、代表的な建安文人たちを列記し、
その中には、かなり遠慮なく批評している部分も含まれているのですが、
その動機の一端に、こうした小人物による心無い、些末な批判があったのかもしれません。
もしこの想像があながち外れてもいないのならば、
この時期の文学評論を見る上では必ず言及される本作品であるだけに、
その些か下世話な意外性を面白く感じます。
あたかも泥の中から咲き出でた蓮の花のようです。
2020年10月14日
*集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』p.629に指摘する。
昨日の一部訂正
こんにちは。
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)に見える異同について、
昨晩、袋小路に足を踏み入れてしまったのでしたが、
本日、日光の下で『文選』諸本を確認したら、問題の一部が氷解しました。*1
『文選』の六家注本も六臣注本も、本文は「龍淵」に作り、
その下に「善本作泉(善本は泉に作る)」との注記が見えています。*2
六臣注は、李善・五臣(呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰)の順で、
六家注は、五臣・李善の順で、本文の間に注を入れる合本ですが、
李善注が先か後かにかかわらず、本文は五臣注本に拠っているということになります。
ただ、昨日も記したとおり、李善注に指摘する『戦国策』は「龍淵」に作るので、
李善自身が目睹して注した元々の『文選』本文も、「龍淵」に作っていたと見るのが妥当です。
それが、なぜか李善単注本は、本文のみ「龍泉」に改められている。
このことについて、『新校訂六家注文選』(鄭州大学出版社、2015年)第五冊2780頁には、
「按、作「泉」者、避唐諱改(按ずるに、「泉」に作るは、唐の諱を避けて改むるなり)」とあります。
ではなぜ、注の方は「龍淵」のまま残されたのでしょうか。
そこはやっぱりわかりません。
2020年10月13日
*1 『文選』諸本の流伝の系譜については、こちらをご参照ください。
*2 確認したのは、六家注本として足利本、韓国奎章閣旧蔵本、六臣注本としては和刻本(慶安五年刊本)、四部叢刊本です。
袋小路
こんばんは。
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)の続きを読み進める中で、
本文と李善注との小さな食い違いに遭遇しました。
次のようなフレーズです。
蓋有南威之容、乃可以論於淑媛 蓋し南威の容有りて、乃ち以て淑媛を論ずべく、
有龍泉之利、乃可以議於断割 龍泉の利有りて、乃ち以て断割を議すべし。
思うに、南威のような美貌を持っていてこそ美人について論評でき、
龍泉のような鋭利さがあってこそ、剣の切れ味を批評することができるのだ。
「南威」は、「南之威」とも表記され、
『戦国策』巻二十三・魏策二に、晋の平公を魅了した美女として見えています。
これと対を為す「龍泉」は、名剣の名称で、その産地に因んでこう呼ばれます。
李善注は、『戦国策』巻二十六・韓策一に、蘇秦が韓王を説得するセリフ中に見えることを指摘します。
ところが、少しばかり引っかかるのは、
『戦国策』の方は「龍泉」を「龍淵」に作っていて、本文と食い違っていることです。
「泉」も「淵」も、意味としては同じようなものですが、
李善はこうした場合、大抵、両者は通じるのだということを注記しますから。
また、『戦国策』以外の文献で、同じこの名剣を「龍泉」と表記するものは少なくありません。
それなのに、李善注は「龍淵」に作る『戦国策』を出典として指摘しています。
(「南威」に対して『戦国策』を注記したのと合わせたのでしょうか。)
他方、『三国志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く本作品は、「龍淵」に作っています。
もしかしたら、『文選』の本文も、もとは「龍淵」に作っていた、
それを、唐王朝の高祖李淵の諱を避けて、「龍泉」に表記しなおしたのでしょうか。
李善注が「龍淵」に作る『戦国策』を挙げているのは、その証左かもしれない。
ですが、それなら、唐代の李善注が「淵」を温存させているのなぜか。
やっぱり不可解です。
極小サイズの袋小路に入ってしまいました。
2020年10月12日