人は変わるか

こんばんは。

先日から、曹植「求自試表」(『文選』巻37)を読んでいます。
しばらく前に取り組んだ、彼の「惟漢行」とほぼ同時期の作と推定される作品だからです。

その前には、「与楊徳祖書」(同巻42)を読んでいました。
こちらは、同じく彼の「薤露行」と重なり合う時期の作だと推定できるのでした。

「求自試表」「惟漢行」の成立は、明帝が即位して間もない頃、
「与楊徳祖書」「薤露行」の成立は、文帝の即位以前、曹操が生きていた建安年間です。

前者は三十七歳の曹植、後者は二十五歳頃の彼。

二十五歳頃の曹植は、魏王である父曹操を補佐したいという意欲を示す一方で、
それ以上に、文学によって名を成したいという志を強く表明しています。

ところが、三十七歳の曹植からは、文学への志が消えています。
彼の心中を占めているのは、魏王室の一員として功績を上げたいという切望です。

この間、約十二年の時が経過しています。
人は、置かれた境遇によって、変質していくものなのでしょうか。
それとも、遭遇する命運に揉まれるうちに、ある部分がえぐり取られ、形を変えていくのでしょうか。

曹植の心的変化は、なぜ、どのようにして生じたのかを理解したい。
彼の「惟漢行」が、その結節点にある作品であるとは以前に述べたことがありますが、
それと深い関係性を持つ「求自試表」も、このことを探る上で大切な作品となるだろうと思います。

2020年11月23日

曹植に対する魚豢の批評

こんばんは。

先に示したように、魚豢は曹植の作品を高く評価していました。
けれどもそれは、彼の現実面での行動に対する批評に続けて記されたものです。
今、先に示した部分を含めて、曹植に対する魚豢の評の全文を示せば次のとおりです。*
(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く)

諺曰「貧不学倹、卑不学恭」。非人性分也、勢使然耳。此実然之勢、信不虚矣。
仮令太祖防遏植等、在於疇昔、此賢之心、何縁有窺望乎。
彰之挟恨、尚無所至。至於植者、豈能興難*。

乃令楊修以倚注遇害、丁儀以希意族滅、哀夫。
余毎覧植之華采、思若有神。以此推之、太祖之動心、亦良有以也。
 *この四字は、『資治通鑑』魏紀一、世祖文高帝上、黄初元年の記述により補う。

諺に曰く「貧しきは倹を学ばず、卑きは恭を学ばず」と。人の性分に非ずして、勢の然らしむるのみ。此れ実然の勢にして、信に虚ならず。
仮令(もし)太祖の植等を防遏すること、疇昔に在らば、此の賢の心は、何に縁りてか窺望すること有らんや。
彰の恨みを挟むこと、尚ほ至る所無からん。植に至りては、豈に能く難を興こさんや。

乃ち楊修をして倚注を以て害に遇はしめ、丁儀をして希意を以て族滅せしむるは、哀しきかな。
余は植の華采を覧る毎に、神有るが若しと思ふ。此を以て之を推せば、太祖の心を動かせるは、亦た良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。

これをかいつまんで言えば、次のようなことでしょう。
人の心のあり様は、生まれ持った本性ではなく、環境がそうさせるのだ。
もし曹操が曹植らを早期に押さえていれば、不穏な行動を起こすこともなかっただろう。
ところが、曹植の側近たちは誅殺にまで追い込まれてしまった。
ただ、彼のすばらしい文章を見ると、曹操の心が動いたのも無理はないと言える。

今ひとつ不明なのは、魚豢は曹植の行動をどう捉えていたのかということです。
曹植は帝位を奪取する機会を窺っていた、と見ていたのでしょうか。

魚豢の『魏略』は、時として魏王朝の内部事情にまで踏み込む、当代第一級の歴史資料ですが、
彼が目睹した原資料の中に、そうした行動に出た曹植らの記録があったのでしょうか。

もしそうだとすると、
曹植自身が書き残した作品から読み取れる彼の心情と、
魚豢が諸々の史料の中に読み取った曹植の行動との乖離がひどく大きいと感じます。
これはいったいどういうことなのか、結論を保留にしておこうと思います。

2020年11月22日

*この文章は、すでにこちらでも引用していました。

曹植と魚豢(再び承前)

こんばんは。

一昨日述べた、魚豢と曹植とのつながりについて、続きです。

魚豢は、隗禧という儒者から直接教えを受けていますが、
この人物は、『詩経』について、斉・韓・魯・毛の四家の解釈を説いたといいます。*1
(『魏志』巻13・王朗伝の裴松之注に引く『魏略』)

すると、過日示したとおり、魚豢の文章が「韓詩」に拠っていたのは、
もともと彼が特に「韓詩」に造詣が深かったからというよりも、
特に曹植の「求自試表」を強く意識してこその選択であったのかもしれません。
魚豢の文章が、曹植のこの作品から直接影響を受けていることは一昨日述べた通りです。

では、魚豢の思いは曹植のそれとどのような点で交わったのでしょうか。

曹植は、とりわけ明帝期に入ってから、自身を周公旦的存在と位置づけ直し
魏王室の一員として、何らかの働きを為したいという強い意欲を幾度も表明しています。

一方、魚豢は、当時の社会に蔓延する歪んだ人材登用に憤懣を募らせていました。
過日も示した、佞倖を舌鋒鋭く批判する彼の文章には、特にそのことが鮮明に現れ出ています。*2

曹植と魚豢との間に、直接的な接点はありません。
けれども、その心中には非常に近しいものがあったと言えます。
曹植の「利器を抱きて施す所無き」を「常に自ら憤怨」する(『魏志』巻19・陳思王植伝)状態は、
そのまま、魚豢が日頃抱いている憤懣と重なり合うものだったに違いありません。
だからこそ彼は、自身の思想的文脈とは異なるものの、
曹植「求自試表」の一節に強く惹きつけられ、これを踏襲したのでしょう。

2020年11月21日

*1 このことも、清朝の陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』韓詩遺説攷五(王先謙編『清経解続編』巻1154所収)に指摘されている。
*2 拙稿「『魏略』の編者、魚豢の思想」(こちらの学術論文№41)を参照されたい。上述の、佞倖に対する批判の文章にも論及している。

恥ずかしい間違い

こんばんは。

『文選』李善注に引かれている『孫卿子』が『荀子』のことだと、今日初めて知りました。

『孫卿子』は『孫子』のことだと思い込んでいたのです。
「孫」「子」までが一致しているので、疑いもしていませんでした。

興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』(汲古書院、1995年)を手引きに確認すると、

『漢書』巻30・藝文志、諸子略、儒家類に、
「孫卿子三十三篇。〈名況、趙人、為斉稷下祭酒、有列伝。〉」、

その『漢書』顔師古注に「本曰荀卿、避宣帝諱、故曰孫。」とあり、
「荀卿」を「孫卿」と呼ぶようになったのは、
前漢の宣帝の諱「詢」を避けるためであったと知られます。
 (宣帝の諱は、『漢書』巻8・宣帝紀の顔師古注に引く荀悦の注に記されています。)

なお、『史記』巻74・孟子荀卿列伝には「荀卿」のままで記されていますが、
 (司馬遷の『史記』執筆は、宣帝期よりも前の武帝期ですから、これは当然です。)

当該部分に対する司馬貞『索隠』にも、
「名況。卿者、時人相尊而号為卿也。……後亦謂之孫卿子者、避漢宣帝諱改訂也。」と、
前掲の『漢書』藝文志やその顔師古注と同様な説明が見えています。
 (司馬貞は、顔師古(581―645)よりも100年ほど後の、唐代の人です。)

初唐に成った『隋書』巻34・経籍志三には「孫卿子十二巻」とありますから、
ほとんど同じ時代の李善が、『荀子』ではなく、『孫卿子』と記すのは当然のことでした。

勝手な思い込みがほんとうに恥ずかしい。

2020年11月20日

 

曹植と魚豢(承前)

こんばんは。

昨日に続き、曹植と魚豢とのつながりに関する考察です。
二人はともに、同じ「韓詩」に由来する表現をしているというだけでしょうか。
それとも、魚豢の表現は、曹植の言葉から直に何物かを受け取った結果なのでしょうか。

まず、曹植の「求自試表」にいう「尸禄」は、
「韓詩章句」に由来する語ですが、『詩経』魏風「伐檀」には見当たりません。
また、魚豢の文章に見えていた「尸素」という語は、
前述の「韓詩章句」に由来する、曹植が用いていた「尸禄」と、
『詩経』魏風「伐檀」にいう「彼君子兮、不素餐兮(彼の君子は、素餐せず)」の
「素餐」とを組み合わせたものでしょう。

いずれにせよ、曹植と魚豢とがともに用いる「尸」は、「韓詩章句」を経てこそ出てくる語です。
二人はともに、たしかに「韓詩」によって『詩経』を受容していると言えます。

では、二人の間に直接的な影響関係はあるでしょうか。
結論から言えば、それは明らかにあります。

というのは、曹植と魚豢の文章が共有する「虚授」「虚受」という語は、
『詩経』本文はもちろん、「韓詩章句」にも見えていないからです。
つまり、魚豢が、曹植の文章の中にこの語を見出し、これを踏襲したのだということです。

そういえば、魚豢は曹植の文章について、次のような言葉を残していました。

余毎覧植之華采、思若有神。以此推之、太祖之動心、亦良有以也。
 余は植の華采を覧る毎に、神有るが若しと思ふ。
 此を以て之を推せば、太祖の心を動かせるは、亦た良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。
 (『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く)

これにより、魚豢はたしかに曹植の作品を愛読していたと知られます。

2020年11月19日

曹植と魚豢

こんばんは。

『魏略』の撰者魚豢に、今日、思いがけないところで再会しました。
(かつてこちらの学術論文№41で論じたことがある人です。)

読んでいたのは、曹植「求自試表」(『文選』巻37、『魏志』巻19・陳思王植伝)、
その中に、次のようなフレーズがあります。

君無虚授  君主は根拠もないのにむなしく官職を授けることがなく、
臣無虚受  臣下は根拠もないのにむなしくそれを受け取ることがない。
虚授謂之謬挙  根拠もないのにむなしく授ける、これを誤った人材登用といい、
虚受謂之尸禄  根拠もないのにむなしく受ける、これを給料泥棒という。
詩之素餐所由作也  『詩経』の「素餐」の詩(魏風「伐檀」)が作られたわけである。

この表現は、『文選』李善注の指摘によれば、
『詩経』解釈の一派「韓詩章句」にいう次の記述を踏まえたものです。

何謂素餐。素者質也。人但有質朴、而無治民之材、名曰素餐。
 何をか素餐と謂ふ。素とは質なり。人の但だ質朴有るのみにして、民を治むるの材無き、
 名づけて素餐と曰ふ。
尸禄者、頗有所知、善悪不言、黙然不語、苟得禄而已、譬若尸矣。
 尸禄とは、頗る知る所有るに、善悪を言はず、黙然として語らず、
 苟(かりそ)めに禄を得るのみなること、
 譬ふれば尸(しかばね)の若し。

さて、清朝の陳喬樅「韓詩遺説攷」五は、*
曹植「求自試表」の前掲部分を挙げ、
また、魚豢の言(『魏志』巻3・明帝紀の裴松之注に引く)にいう、
次のフレーズを併せて引いて、両者はともに韓詩に基づくと指摘しています。

為上者不虚授  上の位にある者は、根拠もないのにむなしく官職を授けず、
処下者不虚受  下に居る者は、根拠もないのにむなしくそれを受け取らない。
然後外無伐檀之歎  そうして後に、外には「伐檀」の嘆きが無くなり、
  内無尸素之刺  内には給料泥棒の風刺が無くなる。

曹植と魚豢とは、ほぼ同時代の人ではありますが、一見接点はなさそうな二人です。
それが、どういうわけでこのように近似した表現をしているのか、
もう少し考えてみたいと思います。

2020年11月18日

*陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』(王先謙編『清経解続編』巻1154)所収。

第三者に読まれる手紙

こんばんは。

以前にも触れたことがありますが、
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と、楊修の「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)は、
曹丕に読まれていた可能性が極めて高いと判断されます。

楊修が、曹植とのやり取りの中で紡ぎだした、
「不忘経国之大美、流千載之英声(経国の大美を忘れず、千載の英声を流す)」が、
曹丕「典論論文」(『文選』巻52)にいう、
「蓋文章経国之大業、不朽之盛事(蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事なり)」と酷似し、

曹植・楊修の往復書簡と、曹丕の「典論論文」とでは、
前者が後者に先行していること、すでに先行研究によって論証されています。*

ということは、曹丕が楊修の書簡からかの文辞をいただいたということになるでしょう。

曹丕「典論論文」の冒頭にいう「文人相軽んず」の言も、
前掲の先行研究が夙に指摘しているとおり、
曹植の書簡に開陳されていた、無防備な文人批評を意識してのものでしょう。

当時、書簡はすでに文学的に成熟していたので、
これを第三者が読むことは大前提とされていたのでしょうか。
それとも、父曹操の後継者をめぐる緊迫した情況の下、
曹丕は曹植らの書簡を盗み見ながら、その動向に目を光らせていたのでしょうか。

曹植がその書簡の末尾にいう「書不尽懐(書は懐ひを尽くさず)」、
あるいは、楊修の返書の、真意を隠すかのような持って回った述べ方の背後には、
もしかしたら、そうした事情が隠されているのかもしれません。
曹植は何ものにも頓着していない可能性もありますが、
少なくとも楊修の書面が見せる韜晦の表情は、
注意深く構えられたものと見た方がよいように思います。

2020年11月17日

*岡村繁「曹丕の「典論論文」について」(『支那学研究』第24・25号、1960年)を参照。

曹植「与楊徳祖書」の目的

こんばんは。
久しぶりにここに戻ってきました。

先週、やっと曹植の「与楊徳祖書」の通釈を終えました。
まだ解題ができていないので、訳注稿に提示することはできていませんが。

改めてこの書簡の全体を通して訳出すると、
いよいよその内容を過たず把握することの難しさを痛感しました。
話題があちらこちらへと散って、表面上ではその一貫性を見出しにくいのです。
ですが、散らばった話題が相互に伏線となって絡み合いつつ、
ひとつの依頼を為しているようにも読めます。

この書簡は何を目的としてしたためられたものなのか。
それは、この文献が文学評論の資料として取り上げられることとは別に、
一度きちんと押さえておくべき問題ではないかと思いました。

この問題を解明するためには、
楊修からの返書「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)を押さえる必要があるでしょう。
ただ、楊修のこの文章もまた、その真意を明確には記していません。

とはいえ、両者の書簡いずれにも、
具体的な辞句の裏側、意識の底に流れているものがあるはずです。
耳を研ぎ澄ませば、それを聴き取ることができるでしょうか。

2020年11月16日

言語表現の質的転換

こんばんは。

曹植の「薤露行」にいう「人居一世間、忽若風吹塵」は、
「古詩十九首」其四(『文選』巻29)にいう「人生寄一世、奄忽若飆塵」を踏まえています。
また、その第一句「天地無窮極」は、
同じ曹植の「送応氏詩二首」其二(『文選』巻20)にいう
「天地無終極、人命若朝霜」の上の句とほとんど一致しています。
(本詩全体の通釈や、各句の訓み下しについては、こちらの訳注稿をご覧ください。)

「古詩」は、漢代の宴席で生成展開してきたジャンルです。
また、如上の別れの詩は、旅立つ人を見送る宴席で作られました。
この両者に共通するのは、その作品生成の場が宴席であったということです。
ならば、これらの作品と濃厚な影響関係を持つ曹植「薤露行」もまた、
同質の場で作られたものだと推測できるでしょう。

と考えていたのですが、
この論法は、曹植作品のすべてに対して適用できるわけではないと思い至りました。

たとえば、「贈白馬王彪詩」にいう「人生処一世、去若朝露晞」は、
かの李陵が蘇武を説得する科白「人生如朝露、何久自苦如此」(『漢書』蘇武伝)、
古歌辞「薤露」の「薤上朝露何易晞、露晞明朝更復落、人落一去何時帰」を彷彿とさせます。
(本詩全体の通釈や、各句の訓み下しについては、こちらの訳注稿をご覧ください。)

李陵と蘇武の故事は、漢代の宴席で語られ演じられていた可能性が高いものです。
こちらの学術論文№28で論究しています。)
また、「薤露」が後漢時代の宴席で歌われていたことは、すでにこちらでも述べたとおりです。
さらに言えば、前掲の「送応氏詩二首」其二にいう「人命若朝霜」をも思わせます。

この他、「贈白馬王彪詩」には、「古詩」や「蘇李詩」を踏まえる表現も散見します。
たとえば、前掲「古詩十九首」其一の「棄捐勿復道」を踏まえた「棄置莫復陳」、
「古詩十九首」其十一の「人生非金石」を踏まえた「自顧非金石」、
蘇武「詩四首」其三(『文選』巻29)の「去去従此辞」を思わせる「援筆従此辞」等々。
(「蘇李詩」が「古詩」の一分派であることは、前掲学術論文№28に述べました。)

ですが、「贈白馬王彪詩」は、単なる宴席文芸であるとはとても言い切れません。
では、「薤露行」や「送応氏詩二首」等と何が違っているのでしょうか。
ここに、言語表現の質的転換を見ることができるように思いますが、
それは第三者に証明して見せることはできるのでしょうか。

2020年11月6日

文学評論というよりも

こんばんは。

曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)の語釈が、やっとひととおり終わりました。
まだ本文を訳出していないので、これはあくまでも印象に過ぎませんが、
この書簡は、よく言われるような文学評論というよりも、
肝胆相照らす友人に、文学的雑感を書き送ったもののように感じました。
(身近な文人たちに対する遠慮会釈のない批判を大いに含む)

辞賦は小道であり、自分の本懐は、藩侯としての責務を全うことにあるとする主張も、
楊修に自作の辞賦を送ることへの言い訳めいた謙遜の文脈で出てきます。
楊修は、曹植を曹操の後継者に押した、彼の側近の一人ですが、
曹植は楊修のことを、部下というより、文学的遊びでの親友と見ているように感じられます。

ところで、先に「与楊徳祖書」と曹丕の「典論論文」との関係性について、
集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』に指摘するところを紹介しましたが、
これに先んじて、この問題を詳細に論ずる先行研究がありました。
岡村繁「曹丕の「典論論文」について」(『支那学研究』第24・25号、1960年)です。
特に、その成立年代の推定については非常に緻密な論が展開されています。

かつて読んだはずなのに、すっかり忘れていました。
恥じ入るばかりです。

2020年11月5日

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