日曜夜の雑感
こんばんは。
新学期の始まりに伴う慌ただしさが少し落ち着いてきました。
この間、一句ずつでもいいから曹植作品の訳注作業を進めようとしてきましたが、
本当に一日に一句読むのがやっとで、それすら途切れることがありました。
ですが、ここからは曹植と向き合うことにもう少し時間をかけることができそうです。
それとともに痛切に感じるのは、空白の休息が欲しいということ。
日々次々と一点集中して仕事をしていくような状態は、
何か新しいことにふと目が向かう余裕を奪い取られるような感覚です。
今年という年が特殊なので仕方がないのかもしれませんが、
自分で調整できる分は調整しないと、ますます先細りしてしまう。
気を付けようと思います。
2020年10月11日
誰かへの贈り物
こんばんは。
研究費で図書を購入すると、大学図書館の蔵書となります。
ですから、授業中に言及することのあるテーマの図書は当然入れます。
ですが、そうでない図書を入れる場合もあります。
もう十年くらいも前になるでしょうか。
ある学生さんと話をしていて、石田徹也という画家のことを教えてもらいました。
その後、職場で図書の推薦を求められ、この若い画家の遺作集を一冊こっそり加えました。
ほとんど、大学図書館に黄色い紡錘形の爆弾を仕掛けるような気分だった。
ふと昨日検索してみて、庄原キャンパスにも同じ本があると知りました。
どなたかはわからないけれど、学生たちに見てほしいと思った人がいたのでしょう。
なにか目配せし合ったような気持ちになりました。
授業で使う参考文献としてであれば、誰がそれを読むのかは予想がつきます。
そうではなくて、誰かがそれに目をとめて開くだろう、そこから何かが始まるかもしれない、
そう思って、専門分野とはかかわりなく図書館に入れる本があります。
それは見知らぬ誰かへのプレゼントです。
2020年10月10日
唐代における枚皋のイメージ
こんばんは。
以前、言及したことのある、
元稹がその詩中で白居易を喩えた前漢の文人、枚皋について。
先には、枚皋の作風が軽佻浮薄であることに着目し、
そうした文人を白居易に喩えているところに、元稹の不興を読み取りました。
これに対して、ある研究生から次のような内容の指摘を受けました。
たしかに漢代の文献に現れる枚皋は軽薄な文人であるが、
唐代における彼のイメージは、必ずしもそのように否定的なものではない。
たとえば、元稹より少し前の大暦年間の詩人、銭起(?―782)の詩
「和李員外扈駕幸温泉宮(李員外が温泉宮に駕幸するに扈ふに和す)」に、
遥羨枚皋扈仙蹕 遥かに羨む 枚皋が仙蹕[行幸]に扈(したが)ひ
偏承霄漢渥恩濃 偏(ひと)へに霄漢を承(う)けて渥恩の濃きを
(『全唐詩』巻239)
とあるように、華やかな宮廷文人というイメージの方が強い。
言われてみればたしかに銭起の詩はそのとおりです。
では、なぜ唐代、枚皋はそのような人物と捉えられるようになったのでしょうか。
それは、もしかしたら幼学書『蒙求』の影響によるものかもしれない、と思いました。
『蒙求』には、「枚皋詣闕」という句が見えています。*
自ら枚乗の子と名乗り、宮闕に赴いた枚皋の逸話を四字句にまとめたもので、
ここには、彼の軽佻浮薄な文芸活動よりも、宮廷という場の輝きの方が強く感じられます。
前漢王朝と唐王朝とは、都が同じ長安ですから、その輝度は益々増したでしょう。
なお、『蒙求』の現行の注には、末尾の方に、その軽薄な作風への言及が見えますが、
もしかしたら、旧注(佚)ではそれが無かった可能性もあるかもしれません。
標題が、前掲のとおり、宮闕に詣でた枚皋を前面に出していますから。
(なお、以上はあくまでも仮説であって、たしかな根拠は現存しません。)
2020年10月9日
*これと対を為しているのは「充国自賛」です。前漢の将軍、趙充国には、枚皋の軽佻浮薄に匹敵するようなマイナス要素はなさそうですから、いよいよ『蒙求』に引く枚皋の逸話は否定的なイメージをそれほど帯びてはいないのではないかと思われるのです。
記憶による引用
こんばんは。
本田済『東洋思想研究』(創文社、1987年)を図書館に入れました。
その序文に書かれていることがすごかった。
父はつねづね、「四書五経の文句は諳記していないといかん」と言っていた。
私はそれを服膺して、できるだけ諳んずるように努めた心算である。
ただそれがよい加減なものだから、時として酷い結果を生む。
経書の出典をそらで記して、本文に無い語まで入れてしまったり、……
私にはこんな基盤がないので、辞書類を引いて原典に当たる他ありません。
ただ、こうした方法にはどうしても限界があって、
一字一句がそのまま用いられているわけではない場合、
あるいは、その発想がゆるやかに踏まえられているような場合は、
その表現の出典を突き止めることが非常に困難です。
この点、昔の学者(中国の学者は今もそうでしょうか)は、
古典の様々な言葉を日常的に呼吸しているのですからレベルが違います。
そういえば、『文選』の李善注に引く文献は、
現行のテキストとの間に少なからぬ異同が認められますが、
あれも、その多くが記憶による注であるために生じた齟齬なのでしょう。
彼は「書簏(本箱)」と呼ばれた人ですから(『旧唐書』巻202・文芸伝中・李邕伝)。
もう頭を垂れるしかありません。
そうはいっても、昔の漢学者たちの後追いをしても始まりません。
自分は彼らとは別の道をいくしかないと思います。*
2020年10月8日
*膨大な記憶に換わるものが、今のインターネット環境なのでしょう。ただ、そこへのアクセスの仕方には本質的な違いがあって(以前にも同様なことをここに書いたことがあると思いますが)、まったくの代替とは言えません。だから、別の道というしかありません。(翌日に付記)
繰り返し思う言葉
こんばんは。
顔之推(531―591頃)の『顔氏家訓』勉学篇にこうあります。
古之学者為己、以補不足也。 「古の学者は己の為にす」、以て不足を補ふなり。
今之学者為人、但能説之也。 「今の学者は人の為にす」、但だ能く之を説くのみなり。
古之学者為人、行道以利世也。 古の学者の人の為にするは、道を行ひて以て世を利するなり。
今之学者為己、修身以求進也。 今の学者の己の為にするは、身を修めて以て進を求むるなり。
「古の学ぶ者は己の為めにし」、それで自身の足らない部分を補った。
「今の学ぶ者は人の為にし」、ただ人にうまく説いて聞かせることができるだけだ。
古の学ぶ者が人の為に学問をしたのは、正しき道を実践して世の人々に役立つためだ。
今の学ぶ者が己の為に学問をするのは、身を修めて出世を求めるためだ。
前半の二行では、
『論語』憲問篇にいう「古之学者為己、今之学者為人」をそのまま引用し、
それに対する顔之推自身の解釈を述べています。
続く二行で、今度は前半に引用した『論語』の句を一部ひっくり返して提示し、
それをまた、前の二句と同様なスタイルで解釈してみせています。
自身を充実させることと、それを人に披露してみせること。
学んで得たものを、人に喜んでもらうために使うことと、自己利益のために使うこと。
現代では、後者の方を重んずる人の方が声が大きかったりしますが、
それは、今に始まったことではなくて、顔之推の頃からして既にそうだったのですね。
苦労人でありながら、ユーモアにあふれたこの古人の言葉を、
近ごろ繰り返し思うことが増えました。
2020年10月7日
文章は誰のものか。
こんばんは。
引き続き、曹植「与楊徳祖書」についてです。
曹植の側近であった丁廙が、かつて曹植に、自身の著した文章の潤色を求めたところ、
曹植は、自身の才能はこの人には及ばないとして、これを辞退しました。
昔丁敬礼嘗作小文、使僕潤飾之。僕自以才不過若人。辞不為也。
昔 丁敬礼 嘗て小文を作り、僕をして之を潤飾せしむ。
僕は自ら以(おも)へらく 才 若(かくのごと)き人に過ぎずと。辞して為さざるなり。
これに対して丁廙は次のように言います。
卿何所疑難、文之佳悪、吾自得之、後世誰相知定吾文者耶。
きみは何を逡巡しているのか。文章の良し悪しに関する批評は私が蒙るのであって、
後世、誰が、私の文章を修訂した者を特定できるというのか。
文章の添削を人にお願いしておいて、
文章に対する良し悪しの評判は自分が受けるのだ、
誰の添削かはわからないのだから大丈夫だ、という発想がわからない。
加えて不可解なのは、この丁廙の言葉に対する曹植の反応です。
吾嘗歎此達言、以為美談。
わたしはいつもこの至言に感嘆し、美談としている。
なぜこれが美談になるのか、私には長らく理解できなかったのですが、
李善注に指摘する『論語』憲問篇に、少しだけ理解への糸口が見えたような気がします。
為命、裨諶草創之、世叔討論之、行人子羽修飾之、東里子産潤色修飾之。
盟会を命ずる文章を作るのに、
裨諶がその草稿を作り、世叔がこれを検討し、
外交官の子羽がこれを修訂し、東里の子産がこれを美しく彩る。
鄭国の外交文書について、孔子はこのように語っています。
ここにいう文章は、個人的な心情を述べる文学作品ではなく、公的な文書です。
だから、一国の命運を賭けて、複数の人々がその英知を集めて文章を作るのでしょう。
曹植は丁廙の依頼の一件を、前掲のごとく「潤飾之」と表現していましたが、
それは、ここにいう「修飾之」「潤色之」を綴り合わせたものだというのが李善の指摘です。
丁廙のことを指して「若人」と言っているのも、
『論語』公冶長篇に、孔子が子賤のことを称賛するのに用いられている語です。
こうしてみると、ここは前掲の『論語』憲問篇にいう文脈で捉えるべきなのでしょう。
それでもまだ、なんとなく釈然としない思いが残るのですが。
2020年10月6日
曹植の折り目正しさ
こんばんは。
先日は曹植の口の悪さに驚いたのですが、
その「与楊徳祖書」を読み進めると次のような記述に不意打ちを食らいます。
世人之著述、不能無病。僕常好人譏弾其文、有不善者、応時改定。
世の中の人の著述で、欠点が無いということはあり得ない。
僕はいつも人が僕の文章をそしるのを好もしく思い、
善くないところがあれば、その時々に改める。
陳琳を散々嘲笑しても、その同じ目線で自分をも見ています。
そして、自分の作品が悪しざまに言われることをむしろ喜んでいます。
悔しい気持ちもあったでしょうに、批判を受け入れ、文章を改めていったのです。
このような姿勢の背景にあるのは、
李善の指摘によれば、『荀子』修身篇にいう次のような考え方でしょう。
非我而当者、吾師也。是我而当者、吾友也。諂諛我者、吾賊也。
自分を否定的に批判つつ向き合ってくれる者は、我が師である。
自分を肯定的に後押ししつつ向き合ってくれる者は、我が友である。
自分に阿諛追従する者は、我が賊である。
とても当たり前のことを言っているようでもあるけれど、
今の世に在ってはかえって新鮮に感じます。
2020年10月5日
『晋書』陸機伝に対する太宗の制
こんにちは。
渡邉義浩「『晋書』の御撰と正史の成立」を読みました。*
初唐に成った『晋書』は、
巻1・宣帝紀、巻3・武帝紀、巻54・陸機伝、巻80・王羲之伝の巻末に、
唐の太宗李世民自身による制(史評)を付しています。
上記の渡邉論文は、このことをその行論の一部に取り上げて、
太宗がこれにより何を目指したのかを論じています。
このうち、陸機伝に関しては、
その本文に儒教的な色彩の強い作品を多く収録し、
この点、先行する臧栄緒『晋書』とは異なっていることを指摘するのみです。
少なくともこの問題は、もっと丁寧に扱う必要がないだろうかと思いました。
陸機・陸雲兄弟は、南方の呉から、祖国の滅亡を経て晋王朝に参入しています。
そして、隋・唐王朝は、南朝由来の知識人たちを多く擁しています。
そうした人々の中には、たとえば虞世南・虞世基兄弟のように、
陳から隋へ入り、かの二陸の再来かと言われた人もいれば(『旧唐書』巻72・虞世南伝)、
あるいは、その処遇に王朝が苦慮するような人々もいたかもしれません。
『晋書』陸機伝に対する太祖の制が、
その文才を称揚するよりも、身の振り方の拙さを傷む方向に傾いているのは、
そこに、南朝出身者に対するメッセージが隠されているのではないかと思えてなりません。
(ただ、これは感覚的な見通しに過ぎませんし、先行研究にも当たっておりません。)
2020年10月4日
*『三国志研究』第15号、2020年。
六朝文学の萌芽
こんばんは。
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)に関連する先行研究として、
福井佳夫「曹丕の「与呉質書」について―六朝文学との関連」を読みました。*
曹丕の「与呉質書」の中に、
いずれ六朝文学にて展開していく次の四つの要素を指摘する明快な論文です。
1、書簡文を利用した文学批評
2、集団的文学活動が行われる游宴の描写
3、君臣の隔てがない親しい交友関係
4、貴顕の者による文学仲間の死への追悼
その上で、謝霊運「擬魏太子鄴中集詩」(『文選』巻30)、江淹「雑体詩」(同巻31)、
梁の昭明太子蕭統と簡文帝蕭綱、陳の公主陳叔宝、隋の煬帝楊広の書簡文の中に、
曹丕の書簡文の影響を指摘しています。
このうち、建安文壇における君臣間の上下関係の希薄さは、
拙論(こちらの「学術論文」№32)で述べたところと同じ論旨です。
この先行研究のあることを注記すべきでした。
不勉強に恥じ入るばかりです。
2020年10月3日
*『中国中世文学研究』第20号、1991年。
感傷的追想
こんばんは。
建安文人たちに対する評論を載せる曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)は、
曹丕「典論論文」(『文選』巻52)に先立つものであり、
また両者は内容面において何らかの関連性を持つもののようだ、
とは集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』p.625に指摘するところです。
ところで、前掲の曹植「与楊徳祖書」に対する返信として、
楊徳祖すなわち楊修の「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)がありますが、
その中に、次のような句が見えています。
「不忘経国之大美、流千載之英声(経国の大美を忘れず、千載の英声を流す)」と。
このフレーズは、曹丕「典論論文」にいう、
「蓋文章経国之大業、不朽之盛事(蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事なり)」を想起させます。
曹丕は、曹植と楊修との往復書簡を読んでいて、これを踏まえた可能性があります。
さて、楊修の書簡と曹丕「典論論文」とが相関係する可能性ありとは、
自分が学生時代に用いていた胡刻本の李善注『文選』に書いてあったメモです。
ノートに本文を書写することもせず、
不埒にも授業中に聞き及んだことを直接書き込んでいるメモが、
今の自分にとっては貴重なコメントです。
思えば当時、学生たち(特に成績優秀者)は、
国文学、英文学、心理学、社会学といった研究室に多く集まる傾向があって、
中国文学や中國哲学は少ない人数で推移していました。
(今と同じような状況は、すでに40年くらい前からあったということです。)
けれども、そんな少数派であることにひけめを感じるどころか、
自身の専門に自信と誇りを持っていました。
今のように、学生をお客さんと見なし、
来客数でその存在価値を測るような風潮は、
少なくとも当時の大学にはこれっぽっちもなかった。
これは、先生方ががっちりと私たちを守ってくれたおかげです。
ですが今、自分たちはそうした風潮から何者かを守ることができていません。
では、その何者かという部分には何が代入されるのでしょう。
学生や、地域の人々といった言葉を入れることは到底できないように思います。
自分たちはいったい何を一生懸命守ろうとしているのかと心細い昨今です。
どのような経緯でこんなことになってしまったのか。
2020年10月2日