最良の教育
こんばんは。
昨日から、大学院の授業で『文選』所収の曹植「与楊徳祖書」を読み始めました。
正規の院生は(交換留学生を含めて)いないのですが、
後期から受け入れることになった研究生のために開くことにしまして。
それで、配布資料を作成するにあたって、
昔、自分が受けた『文選』の授業のレジュメを開いてみました。
自分はこのとき大学院生、保存していたのは学部生の作成したレジュメです。
驚きました。
李善注に指摘する出典を、すべて原文で抄出していて(手書き)、
訓み下しも、もちろん翻訳なども書いていません。
手書きなのは、まだワープロすら普及していない時代だったからですが、
原文をごろりと書いてあるだけのレジュメで、当時は演習が成立していたのですね。
もうひとつ、自分で意外だったのは、
レジュメ作成者の名前を見て、すぐに顔を思い出せたということです。
私は決して「親切な先輩」ではなかったと思います。
演習の準備をしている後輩に、自ら手助けしたり助言したりすることはなかった。
というのは、私自身がかつて自力で準備をしたい学部生であったから。
(こういう姿勢は、多分に再考の余地があると今は思っています。)
それでも、名前を見ればその顔がたたずまいとともに浮かび上がってきました。
これは、短い期間ではあれ、研究室という空間を共にしつつ同じ時を過ごしたからでしょう。
岡村先生は、そうした私たちを少し離れたところから見守っていてくださいました。
『文選』という書物を、全員が研究者を目指すわけではない学部生に示し、
示されたものに全力で取り組むことを当然のこととしておられました。
そこから何を学ぶか(あるいは学ばないか)は、個々人にゆだねられていました。
最良の教育を受けたのだと今にして思います。
今の自分の授業では、自身が受けた教育方法を取ることはできないので、
李善注を中心に、補足説明や簡略化などの手を加えながら講読することにしました。
2020年10月17日
親切な本
こんばんは。
古川末喜『二十四節気で読みとく漢詩』(文学通信、2020年)を読んでいます。
正確に言うと、いっぺんに読み通すのではなくて、
これから先、折に触れて、楽しみながら開く本になるでしょう。
太陽の運行に沿って設けられた二十四の季節の節目について、
まずこの二十四節気というシステムが、精緻にかつすっきりと説明されています。
そして、その季節の折々に詠じられた漢詩が挙げられ解説されています。
あとがきに記されたその漢詩の選択基準を見ると(選択基準に限らず)、
古川氏がいかに真摯に、そして楽しげに詩の読解に取り組まれたかがわかります。
また、氏は参照された参考文献や情報サイトを豊富に紹介してくださっています。
これを手引きに、多くの人々が的確な知識を得ることができると思います。
この本によって、生活に潤いを得る人がどれほどいるでしょう。
ほんとうに親切な本です。
また、この本によって、詩の季節感を的確に捉えることができるようになります。
古今東西を渡る学術的な広がりをも想い描かせてくれる本です。
著者の古川末喜氏に、大きな声でありがとうと言いたい。
そして、このようなお仕事に対して、心から尊敬の気持ちを捧げます。
2020年10月16日
親切な人々
こんばんは。
オンライン授業にも慣れが出てきましたが、
授業の前後にかなりの時間を割かねばならないことに変わりはありません。
特に、話した内容がどこまで理解されたのかを知るため、
毎回ミニレポート(問いはこちらで設定)を書いてもらうのですが、
Word文書だととてもさばききれません。
そこで、楽に、学生たちの声を聞き取るため、前期は基本、MicrosoftのFormsを使っていました。
ところが、後期はひとつ、Zoomを使う他ない科目があり、それだと当然これは使えません。
そこで、GoogleのFormを使ってみることにしました。
これも、データを一括してダウンロードできるようだから、便利だと思ったのです。
ところが、それを開いてみたところが文字化けしていて読めない。
困って、ネット上を探し、あるサイトから、どうすればよいかを教わりました。
総じて、IT関係の方々は親切だと感じます。
持てるものを惜しげもなく私たちに分け与えてくださる。
自分もかくありたいものだと思います。
ただ、自分が持ち合わせているものはあまり人から求められないのが難点。
けれども、人として生きる姿勢が基本親切、これならできそうです。
(ふさいでいるよりも気持ちが軽くなりますし。)
2020年10月15日
曹植のぼやき
こんばんは。
今日も、曹植「与楊徳祖書」についてです。
先日、袋小路に迷い込んで記した「南威」「龍泉」のくだりに続くのは、
次のような一文です。
劉季緒才不能逮於作者、而好詆訶文章、掎摭利病。
劉季緒 才は作者に逮(およ)ぶ能はざるに、好んで文章を詆訶し、利病を掎摭す。
劉季緒は、李善注に引く摯虞『文章志』(佚)によると、
劉表の子で、官は楽安太守にまで至った人。詩賦頌六篇を著したといいます。
『三国志』陳思王植伝の裴松之注に引く同書は、劉季緒の名が脩であることを記しています。
この劉季緒という人物に関しては、今のところこれ以上は未詳です。
その彼は、実作ではとても一流とは言えないのに、
(実際、時の経過とともにその伝記も失われる程度の人物だったのでしょう。)
好んで人の文章を大仰にそしり、長所や短所をあげつらう、と曹植は批判しています。
批判というよりも、ぼやきでしょうか。
というのは、曹植のこの書簡に返した楊修の「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)の末尾近くに、
「季緒璅璅、何足以云(季緒の璅璅たる、何ぞ以て云ふに足らんや)」とあって、*
その言い方に、曹植の愚痴をそれとなく受け、慰めている感があるから。
曹植は、この書簡の前半で、代表的な建安文人たちを列記し、
その中には、かなり遠慮なく批評している部分も含まれているのですが、
その動機の一端に、こうした小人物による心無い、些末な批判があったのかもしれません。
もしこの想像があながち外れてもいないのならば、
この時期の文学評論を見る上では必ず言及される本作品であるだけに、
その些か下世話な意外性を面白く感じます。
あたかも泥の中から咲き出でた蓮の花のようです。
2020年10月14日
*集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』p.629に指摘する。
昨日の一部訂正
こんにちは。
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)に見える異同について、
昨晩、袋小路に足を踏み入れてしまったのでしたが、
本日、日光の下で『文選』諸本を確認したら、問題の一部が氷解しました。*1
『文選』の六家注本も六臣注本も、本文は「龍淵」に作り、
その下に「善本作泉(善本は泉に作る)」との注記が見えています。*2
六臣注は、李善・五臣(呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰)の順で、
六家注は、五臣・李善の順で、本文の間に注を入れる合本ですが、
李善注が先か後かにかかわらず、本文は五臣注本に拠っているということになります。
ただ、昨日も記したとおり、李善注に指摘する『戦国策』は「龍淵」に作るので、
李善自身が目睹して注した元々の『文選』本文も、「龍淵」に作っていたと見るのが妥当です。
それが、なぜか李善単注本は、本文のみ「龍泉」に改められている。
このことについて、『新校訂六家注文選』(鄭州大学出版社、2015年)第五冊2780頁には、
「按、作「泉」者、避唐諱改(按ずるに、「泉」に作るは、唐の諱を避けて改むるなり)」とあります。
ではなぜ、注の方は「龍淵」のまま残されたのでしょうか。
そこはやっぱりわかりません。
2020年10月13日
*1 『文選』諸本の流伝の系譜については、こちらをご参照ください。
*2 確認したのは、六家注本として足利本、韓国奎章閣旧蔵本、六臣注本としては和刻本(慶安五年刊本)、四部叢刊本です。
袋小路
こんばんは。
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)の続きを読み進める中で、
本文と李善注との小さな食い違いに遭遇しました。
次のようなフレーズです。
蓋有南威之容、乃可以論於淑媛 蓋し南威の容有りて、乃ち以て淑媛を論ずべく、
有龍泉之利、乃可以議於断割 龍泉の利有りて、乃ち以て断割を議すべし。
思うに、南威のような美貌を持っていてこそ美人について論評でき、
龍泉のような鋭利さがあってこそ、剣の切れ味を批評することができるのだ。
「南威」は、「南之威」とも表記され、
『戦国策』巻二十三・魏策二に、晋の平公を魅了した美女として見えています。
これと対を為す「龍泉」は、名剣の名称で、その産地に因んでこう呼ばれます。
李善注は、『戦国策』巻二十六・韓策一に、蘇秦が韓王を説得するセリフ中に見えることを指摘します。
ところが、少しばかり引っかかるのは、
『戦国策』の方は「龍泉」を「龍淵」に作っていて、本文と食い違っていることです。
「泉」も「淵」も、意味としては同じようなものですが、
李善はこうした場合、大抵、両者は通じるのだということを注記しますから。
また、『戦国策』以外の文献で、同じこの名剣を「龍泉」と表記するものは少なくありません。
それなのに、李善注は「龍淵」に作る『戦国策』を出典として指摘しています。
(「南威」に対して『戦国策』を注記したのと合わせたのでしょうか。)
他方、『三国志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く本作品は、「龍淵」に作っています。
もしかしたら、『文選』の本文も、もとは「龍淵」に作っていた、
それを、唐王朝の高祖李淵の諱を避けて、「龍泉」に表記しなおしたのでしょうか。
李善注が「龍淵」に作る『戦国策』を挙げているのは、その証左かもしれない。
ですが、それなら、唐代の李善注が「淵」を温存させているのなぜか。
やっぱり不可解です。
極小サイズの袋小路に入ってしまいました。
2020年10月12日
日曜夜の雑感
こんばんは。
新学期の始まりに伴う慌ただしさが少し落ち着いてきました。
この間、一句ずつでもいいから曹植作品の訳注作業を進めようとしてきましたが、
本当に一日に一句読むのがやっとで、それすら途切れることがありました。
ですが、ここからは曹植と向き合うことにもう少し時間をかけることができそうです。
それとともに痛切に感じるのは、空白の休息が欲しいということ。
日々次々と一点集中して仕事をしていくような状態は、
何か新しいことにふと目が向かう余裕を奪い取られるような感覚です。
今年という年が特殊なので仕方がないのかもしれませんが、
自分で調整できる分は調整しないと、ますます先細りしてしまう。
気を付けようと思います。
2020年10月11日
誰かへの贈り物
こんばんは。
研究費で図書を購入すると、大学図書館の蔵書となります。
ですから、授業中に言及することのあるテーマの図書は当然入れます。
ですが、そうでない図書を入れる場合もあります。
もう十年くらいも前になるでしょうか。
ある学生さんと話をしていて、石田徹也という画家のことを教えてもらいました。
その後、職場で図書の推薦を求められ、この若い画家の遺作集を一冊こっそり加えました。
ほとんど、大学図書館に黄色い紡錘形の爆弾を仕掛けるような気分だった。
ふと昨日検索してみて、庄原キャンパスにも同じ本があると知りました。
どなたかはわからないけれど、学生たちに見てほしいと思った人がいたのでしょう。
なにか目配せし合ったような気持ちになりました。
授業で使う参考文献としてであれば、誰がそれを読むのかは予想がつきます。
そうではなくて、誰かがそれに目をとめて開くだろう、そこから何かが始まるかもしれない、
そう思って、専門分野とはかかわりなく図書館に入れる本があります。
それは見知らぬ誰かへのプレゼントです。
2020年10月10日
唐代における枚皋のイメージ
こんばんは。
以前、言及したことのある、
元稹がその詩中で白居易を喩えた前漢の文人、枚皋について。
先には、枚皋の作風が軽佻浮薄であることに着目し、
そうした文人を白居易に喩えているところに、元稹の不興を読み取りました。
これに対して、ある研究生から次のような内容の指摘を受けました。
たしかに漢代の文献に現れる枚皋は軽薄な文人であるが、
唐代における彼のイメージは、必ずしもそのように否定的なものではない。
たとえば、元稹より少し前の大暦年間の詩人、銭起(?―782)の詩
「和李員外扈駕幸温泉宮(李員外が温泉宮に駕幸するに扈ふに和す)」に、
遥羨枚皋扈仙蹕 遥かに羨む 枚皋が仙蹕[行幸]に扈(したが)ひ
偏承霄漢渥恩濃 偏(ひと)へに霄漢を承(う)けて渥恩の濃きを
(『全唐詩』巻239)
とあるように、華やかな宮廷文人というイメージの方が強い。
言われてみればたしかに銭起の詩はそのとおりです。
では、なぜ唐代、枚皋はそのような人物と捉えられるようになったのでしょうか。
それは、もしかしたら幼学書『蒙求』の影響によるものかもしれない、と思いました。
『蒙求』には、「枚皋詣闕」という句が見えています。*
自ら枚乗の子と名乗り、宮闕に赴いた枚皋の逸話を四字句にまとめたもので、
ここには、彼の軽佻浮薄な文芸活動よりも、宮廷という場の輝きの方が強く感じられます。
前漢王朝と唐王朝とは、都が同じ長安ですから、その輝度は益々増したでしょう。
なお、『蒙求』の現行の注には、末尾の方に、その軽薄な作風への言及が見えますが、
もしかしたら、旧注(佚)ではそれが無かった可能性もあるかもしれません。
標題が、前掲のとおり、宮闕に詣でた枚皋を前面に出していますから。
(なお、以上はあくまでも仮説であって、たしかな根拠は現存しません。)
2020年10月9日
*これと対を為しているのは「充国自賛」です。前漢の将軍、趙充国には、枚皋の軽佻浮薄に匹敵するようなマイナス要素はなさそうですから、いよいよ『蒙求』に引く枚皋の逸話は否定的なイメージをそれほど帯びてはいないのではないかと思われるのです。
記憶による引用
こんばんは。
本田済『東洋思想研究』(創文社、1987年)を図書館に入れました。
その序文に書かれていることがすごかった。
父はつねづね、「四書五経の文句は諳記していないといかん」と言っていた。
私はそれを服膺して、できるだけ諳んずるように努めた心算である。
ただそれがよい加減なものだから、時として酷い結果を生む。
経書の出典をそらで記して、本文に無い語まで入れてしまったり、……
私にはこんな基盤がないので、辞書類を引いて原典に当たる他ありません。
ただ、こうした方法にはどうしても限界があって、
一字一句がそのまま用いられているわけではない場合、
あるいは、その発想がゆるやかに踏まえられているような場合は、
その表現の出典を突き止めることが非常に困難です。
この点、昔の学者(中国の学者は今もそうでしょうか)は、
古典の様々な言葉を日常的に呼吸しているのですからレベルが違います。
そういえば、『文選』の李善注に引く文献は、
現行のテキストとの間に少なからぬ異同が認められますが、
あれも、その多くが記憶による注であるために生じた齟齬なのでしょう。
彼は「書簏(本箱)」と呼ばれた人ですから(『旧唐書』巻202・文芸伝中・李邕伝)。
もう頭を垂れるしかありません。
そうはいっても、昔の漢学者たちの後追いをしても始まりません。
自分は彼らとは別の道をいくしかないと思います。*
2020年10月8日
*膨大な記憶に換わるものが、今のインターネット環境なのでしょう。ただ、そこへのアクセスの仕方には本質的な違いがあって(以前にも同様なことをここに書いたことがあると思いますが)、まったくの代替とは言えません。だから、別の道というしかありません。(翌日に付記)