曹植の無遠慮

こんばんは。

相変わらず遅々として進まない曹植「与楊徳祖書」の訳注ですが、
一句ずつでも毎日続けて読んでいると、面白い拾い物をすることがあります。
犬も歩けば棒に当たります。

今日は、次のような文章にたいそう驚かされました。

以孔璋之才、不閑於辞賦、而多自謂能与司馬長卿同風、譬画虎不成、反為狗也。
前有書嘲之、反作論、盛道僕讃其文。

思うに、陳琳の才能は、辞賦文学には習熟していない。
それなのに、ただ自分では司馬相如と同じ作風を持ち得ていると思っている。
これは、譬えるならば、虎を描いて成らず、かえって犬になってしまうようなものだ。
先に手紙でこれを嘲笑したところ、逆に評論をものして、僕が彼の文章を称賛したと喧伝した。

曹植は当時まだ二十代の、怖いもの知らずの若者です。
そして、この手紙文は、そんな彼が、敬愛する先輩文人の楊修に向かって、
自由闊達に思いのたけを述べたものです。

この無遠慮は、先に触れたこの逸話や、「贈丁儀王粲」詩などをも彷彿とさせます。

曹植は、当代に傑出する文人と目されることから、
なんとなく、人格的にも立派な文人というイメージがあるかもしれません。
また、その後半生、実の兄から冷遇されて長らく苦境にあったため、
悲劇的な側面が強調されがちであるようにも思われます。
ですが、それと表裏一体で、この口の悪い、才気ほとばしる若者がいるのです。
この曹植がいるからこそ、彼の文学作品は光り輝いているのだし、
その後半生の悲劇性も強いコントラストをもって浮かび上がるのでしょう。

自分が若かった頃を思い返すと、まるで人間ができていなかった。
(もちろん、今はできている、という意味ではありません。)

でも、建安年間の曹植作品を読んでいると、それも哄笑の内に肯定されるようです。
若者は愛すべき馬鹿者です。そうでなくてどうする、です。

2020年10月1日

七という数

こんばんは。

『文選』巻42所収の曹植「与楊徳祖書」について、
集英社・全釈漢文大系の『文選(文章編)五』p.627に、次のようなコメントが見えています。

曹植は、この書簡文の中で、
当世の優れた作者として、王粲、陳琳、徐幹、劉楨、応瑒、楊修の六人を挙げ、
これを「此数子」という漠然とした括り方で総称している。

一方、曹丕「典論論文」(『文選』巻52)では、
孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨を挙げて「斯七子」と括っている。

もし、曹植が上記の六人を指して「此六子」と明言していれば、
「建安七子」ではなく、「建安六子」という表現が後世に伝わったかもしれない。

後世にいわゆる「建安七子」の七という数字は、
他に「竹林七賢」にも見えているので、何か特別な意味が宿っているのかもしれません。
枚乗「七発」に代表される文体の「七」や、「七哀詩」の七も、なぜ七なのか分かりません。
分からないから、そこに何かあるのだろうと思うしかありません。

曹丕は、その不思議な数字の力に惹かれて、
当世の優れた文人を七人集め、「七子」と数合わせした可能性もないでしょうか。

2020年9月30日

曹植の愛読書(2)

こんばんは。

以前(2020.05.115.12)、曹植の愛読書のひとつとして、
王充『論衡』があったのではないかと述べました。
今回は『韓詩外伝』です。

曹植作品における『詩経』引用がしばしば「韓詩」に拠っていることは、
伊藤正文『曹植』の解説が夙に指摘しているところですが、*
歴史故事を踏まえた表現が、明らかに『韓詩外伝』由来である事例もあります。

昨日に続き、曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)の中に、次のような句があります。

然此数子猶復不能飛軒絶迹、一挙千里也。
然れども此の数子は猶ほ復た飛軒して迹を絶ち、一挙千里なること能はざるなり。

ここにいう「一挙千里」は、李善注が指摘するように、
『韓詩外伝』巻六に見える、船人の盍胥が晋の平公に対して述べた言葉、
「夫鴻鵠一挙千里、所恃者六翮爾(夫れ鴻鵠は一挙千里、恃む所は六翮のみ)」を踏まえます。
同じ故事は、前漢の劉向『新序』雑事一、『説苑』尊賢にも記されていますが、
そこでは、「一挙千里」という語は用いられていません。

また、『韓詩外伝』の同じ条に、
同じく盍胥が晋の平公に語った人材登用に関わる話の中に見える、
「夫珠出於江海、玉出於昆山(夫れ珠は江海より出で、玉は昆山より出づ)」は、
曹植「贈丁廙」詩(『文選』巻24)の次の句を彷彿とさせます。

大国多良材  大国には良材多く、
譬海出明珠  譬ふれば海の明珠を出すがごとし。

辞句がそれほど重なり合っていないためか、
管見の及ぶ限り、どの注釈者も指摘していませんが、
同じ『韓詩外伝』の同じ条から、

同じ曹植の別の作品への引用が認められることを考え合わせるならば、
前掲の「贈丁廙」詩に見える表現は、『韓詩外伝』由来である可能性が高いと考えられます。
発想と文脈も、両者はよく一致しています。

こうしてみると、曹植は『韓詩外伝』をかなり読み込んでいると推し測れます。
これもまた、彼の愛読書のひとつだったと言えるかもしれません。

2020年9月29日

*『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.22を参照。

李善の取捨選択

こんばんは。

『文選』巻42所収の曹植「与楊徳祖書」の中に、次のような句が見えます。

吾王於是     吾が王は是に於いて
設天網以該之、  天網を設けて以て之を該(つつ)み、
頓八紘以掩之、  八紘を頓(くだ)して以て之を掩(おほ)ひ、
今悉集茲国矣。  今 悉(ことごと)く茲(こ)の国に集まれり。

曹操が天下に網を敷き広げ、八方に天地をつなぐ綱を垂らして、人々を広く覆い取った結果、
優れた文人たちがこぞってこの魏の国に集まった、と。

これに非常によく似た表現が、
馬融の「広成頌」(『後漢書』巻六十上・馬融伝)に、
「挙天網、頓八紘(天網を挙げ、八紘を頓ふ)」と見えています。
ただ、この対句は、人ではなく、鳥獣を捕獲することをいう場面に出ています。

だからなのか、李善はこれを取らず、
ほぼ馬融と同時代の崔寔「政論」(佚)にいう、*
「挙弥天之網、以羅海内之雄(弥天の網を挙げて、以て海内の雄を羅す)」と、
『淮南子』地形訓にいう、九州の外の八殥、八殥の外にある「八紘」を挙げています。

ですが、語句の類似性から言えば、曹植の表現は圧倒的に馬融「広成頌」の方に近い。
ならば、これをそのまま挙げるわけにはいかないのでしょうか。
ここでは人を一網打尽にするような言い方をしているのだと捉えてしまうのです。

おそらく李善は、馬融「広成頌」のあることを知っていながら、
人を禽獣扱いするわけにはいかないと判断し、
上記のような取捨選択をしたのではないかと思われます。
けれども、そのことと引き換えに、
曹植作品が元来持っていた荒削りな勢いが削がれるようにも感じられます。

2020年9月28日

*「政論」、李善注は「本論」に作る。今、厳可均『全後漢文』巻四十七に従う。

李善注所引テキストと現行本

こんばんは。

このところ、曹植作品訳注稿がさっぱり進みません。
それで、毎日の生活の中で、歩くように、呼吸するように進めようと思い立ち、
今朝、その小さな日課をスタートさせました。

ところが、さっそく困ったことが生じて立ち止まり、
なぜ、この作業が遅々として進まないか、改めてそれが分かりました。
いっぺんに完成形に持っていこうとするからいけないのですね。

最近、断続的に訳注に取り組んでいるのは、
曹植「薤露行」との関連性が指摘されている「与楊徳祖書」(『文選』巻42)です。
『文選』所収作品は、基本的に李善注に従って読んでいますが、
困るのは、李善注に指摘する文献と現行本とが時々食い違っていることです。

その乖離が、李善の単純な記憶違いによるのか、
当時、複数存在していたテキストのうち、
李善が見たものと、今に伝わるものとが違うということなのか、
それとも、李善注に記されたテキストが、伝写の過程で書き誤られてしまったのか、
判断しづらいことが多い。
加えて、李善注に指摘された文献の現行本について、
その注釈書などで、当該テキストに異同のあることが指摘されている場合もあります。
今日も、『淮南子』にそのようなケースがありました。

それで、語釈にどう記したものか、考えあぐねていたのですが、
困ったことをそのまま記しておいて、後から剪定していけばよいのでしょう。
そもそもそれが可能だから、随時修正を前提として、
こうした場に少しずつ公開していこうと考えていたのでした。

2020年9月27日

魏の明帝の太極殿

こんばんは。

曹植「惟漢行」の冒頭に見える「太極定二儀」云々と、
魏の明帝が青龍三年(235)に造営した太極殿(『三国志』明帝紀)との間に、
何らかの関連性がないだろうか、と先に記したことがあります

その太極殿に言及する、
渡辺信一郎「宮闕と園林―3~6世紀中国における皇帝権力の空間構成―」の中に、*
次のような指摘が見えています。

太極殿を中心とする宮闕制度は、三国魏の明帝によって創建されたものである。
青龍三年に、太極殿、閶闔門、芳林園が整備され、
同五年に、服色や暦が改定され、七廟制が定められ、圜丘が建造されて郊祀が行われた。
これらのことは、曹魏王朝の本格的な成立を意味する。
宮城の整備は、(皇帝自らをも含む)様々な人々を動員して行われた。
宮城の配置は天の星象を写し取ったものである。

天上界と人間界とは密接に関連しあっているとする、
いわゆる天人相関説は戦国期からある、とも本論文中に記されていますが、
では、この考え方を具現化する宮城は、魏明帝以前には造営されなかったのでしょうか。
もしそうであるならば、なぜこの時に至って初めてそれが出現したのでしょうか。

太極という語は、『易』繋辞伝上にいう「是故易有太極、是生両儀」に由来しますが、
それが天上世界と結びついたのはいつ頃、どういう経緯からでしょうか。
『三国志』巻3・明帝期の裴松之注に引く『魏書』に、明帝の甲子詔を引いて、
「夫太極運三辰五星於上、元気転三統五行於下……」とあります。
ここでは既に、太極は天上界で星々の運行を司るものとして捉えられていますが、
こうした発想はどこからやってきたのか。

現在の自分には把握できていないことがあまりにも多く、
太極殿と曹植「惟漢行」とを直に結びつけるような、迂闊なことは言えないと思いました。

2020年9月26日

*『考古学研究』第47巻第2号(通巻186号)、2000年9月)所収。

曹氏兄弟の仲について追補

こんばんは。

一昨日、建安十六年(211)、曹丕が五官中郎将に任命されたことは、
彼が事実上の太子となったことを意味すると論じる先行研究を紹介しましたが、
このことの証左となり得る曹植作品が目に留まりました。

それは、「離思賦」序(『曹集詮評』巻1)で、次のとおりです。

建安十六年、大軍西討馬超、太子留監国、植時従焉。意有憶恋、遂作離思賦云。
建安十六年、大軍は西のかた馬超を討つに、太子は留まりて国を監、植は時に焉に従ふ。
意に憶恋有り、遂に離思の賦を作りて云ふ。

この序が、もし建安十六年当時に書かれたものだとするならば、
曹植は当時、曹丕のことを「太子」と呼んでいることがここに明らかです。
(序は、後から当時のことを追想して作られた可能性がないではありませんが。)

「憶恋」の対象は曹丕であり、
「離思」とは、兄と離れ離れになっていることへの憂いでしょう。
そう解釈することが妥当であるならば、
この当時はまだ曹氏兄弟の仲は引き裂かれてはおらず、
曹植は兄曹丕を慕っていると知られます。

2020年9月25日

 

堅実さに何かを加えるならば

こんばんは。

後期が始まりました。
今日は、演習科目がひとつと、学生との学期初めの面談を数件。

面談は、前期の成績評価を手渡しながら話を聞くのですが、
たいへん意外だったのは、この前期、成績の伸びた学生が多かったことです。
一方、逆の傾向を示している学生たちもいますから、
必ずしも全体として教員側の評価が甘かったわけでもなさそうです。

聞けば、対面式でない分、毎回どの授業でも課題が多く出る、
それを、手を抜かないで、一つ一つこなしていった、ということらしいです。
(誰も見ていないので、モチベーションの維持には苦労したらしいですが。)

また、通学にかかっていた時間を、睡眠や学業に回せたということもあったらしい。
(本学科の場合、自宅から通ってきている学生が大半を占めているので。)

自分が大学生だった頃と比べると、非常にまじめで堅実です。
この健気な若者たちが、そのエネルギーを明るい方向に発揮していけるよう、
(その健気な心持を不当に搾取されたりすることがないように)
教員として力を尽くそうと思いました。

この堅実さに一点加えるとすればそれは何だろう。
煎じ詰めたところ、自分が授業を通して若い人たちに言いたいのは、

世界にはいろんな考え方の人々がいる、相互に尊重しよう、ということに尽きます。

2020年9月24日

曹氏兄弟対立の真相

こんばんは。

曹丕と曹植との関係について論及されている津田資久氏の論文から、*
自分が知らなかった、有益な資料を教えられました。

ひとつは、『太平御覧』巻241に引く「魏武令」にいう、

告子文、汝等悉為侯、而子桓独不封而為五官郎将、此是太子可知矣。
子文(曹彰)に告ぐ、汝等悉く侯為るに、
子桓(曹丕)は独り封ぜられずして五官郎将為り、此れ是れ太子なること知る可し。

もうひとつは、『初学記』巻10に引く『魏文帝集』にいう、

為太子時、北園及東閣講堂、並賦詩、命王粲・劉楨・阮瑀・応瑒等同作。
太子為りし時、北園及び東閣の講堂にて、並びに詩を賦し、
王粲・劉楨・阮瑀・応瑒等に命じて同に作る。

先の「魏武令」からは、
曹丕が五官中郎将に任命されたのは、事実上、太子となったに等しいことが知られます。
それは、建安16年(211)のことでした。

次の曹丕の文章に見える阮瑀は、建安17年(212)に没しています。
すると、曹丕が「太子であった時」と言っているのは、建安16~17年であって、
建安22年(217)、彼が公的に太子に立てられて以降を指すのでないことは明らかです。

また、同じ津田論文の指摘によると、
曹丕と曹植との党派争いに言及する資料にはすべて、
曹丕は五官中郎将、曹植は臨菑侯という肩書で記されていることから、
両者の対立は、曹植が平原侯から臨菑侯に改封された建安19年(214)以降に特定される、
更に、『魏志』陳思王植伝裴注に引く『魏略』に、
一旦は丁儀が娶る話が出ていた曹操の娘を「公主」と称していることから、
その期間は、曹操が魏王となった建安21年5月以降のことと知られる、とあります。

なるほどそうだったのか、と納得しました。
もともと順当に曹丕が曹操の後を継ぐのが暗黙の了解となっていたところに、
丁儀・丁廙兄弟や楊修らが曹植の才能を称揚し、曹操の気持ちに揺らぎを生じさせた、
というのが真相に近いのでしょう。

結論は、これまでの定説とそれほど違いはないようにも見えますが、
ここまで精緻に史実を押さえた上での論究に、一段と深い理解を与えられました。

2020年9月23日

*津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年)。

公開の交往詩

こんにちは。

先週取り組んでいた論文には、ひとつ欠落した視点があります。
それは、白居易と元稹との交往詩は、広く世の中に公開されていたということです。

たとえば、通州司馬の元稹と、江州司馬の白居易との間に往来した詩について、
『旧唐書』巻166・元稹伝にこうあります。

雖通江懸邈、而二人来往贈答、凡所為詩、有自三十五十韻乃至百韻者。
江南人士、伝道諷誦、流聞闕下、里巷相伝、為之紙貴。
観其流離放逐之意、靡不悽惋。

通州と江州とは遠くかけ離れてはいるが、二人は詩を贈り合って、
凡そ作った詩は三十韻五十韻から百韻に及ぶものまである。
江南の人士は口々に諷誦し、それが朝廷にまで流れ、民間にも伝わり、このため紙価が高騰した。
その都を追われて流浪する思いを詠う詩想を見るに、すべてが悲痛極まりない。

拙稿で取り上げた詩が、この記載内容に該当するかは不明ですが、
遠く離れた彼らの詩のやり取りに対して、世間の人々が注目していたことは確かです。
元白交往詩への愛好は、それ以前から社会現象となっていましたから(前掲『旧唐書』元稹伝)。

このことを念頭に置いて論じる必要があったと思います。
近視眼的一点集中の落とし穴です。

ただし、公開の友情であるからといって、それが虚偽だということにはならない。
むしろ、生々しい感情が昇華されて、真なる思いが立ち現れることもあったのではないでしょうか。
現代でも、往復書簡や対談のスタイルを取る書物があります。
それと同じだろうと思います。

2020年9月22日

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