李善注所引テキストと現行本

こんばんは。

このところ、曹植作品訳注稿がさっぱり進みません。
それで、毎日の生活の中で、歩くように、呼吸するように進めようと思い立ち、
今朝、その小さな日課をスタートさせました。

ところが、さっそく困ったことが生じて立ち止まり、
なぜ、この作業が遅々として進まないか、改めてそれが分かりました。
いっぺんに完成形に持っていこうとするからいけないのですね。

最近、断続的に訳注に取り組んでいるのは、
曹植「薤露行」との関連性が指摘されている「与楊徳祖書」(『文選』巻42)です。
『文選』所収作品は、基本的に李善注に従って読んでいますが、
困るのは、李善注に指摘する文献と現行本とが時々食い違っていることです。

その乖離が、李善の単純な記憶違いによるのか、
当時、複数存在していたテキストのうち、
李善が見たものと、今に伝わるものとが違うということなのか、
それとも、李善注に記されたテキストが、伝写の過程で書き誤られてしまったのか、
判断しづらいことが多い。
加えて、李善注に指摘された文献の現行本について、
その注釈書などで、当該テキストに異同のあることが指摘されている場合もあります。
今日も、『淮南子』にそのようなケースがありました。

それで、語釈にどう記したものか、考えあぐねていたのですが、
困ったことをそのまま記しておいて、後から剪定していけばよいのでしょう。
そもそもそれが可能だから、随時修正を前提として、
こうした場に少しずつ公開していこうと考えていたのでした。

2020年9月27日

魏の明帝の太極殿

こんばんは。

曹植「惟漢行」の冒頭に見える「太極定二儀」云々と、
魏の明帝が青龍三年(235)に造営した太極殿(『三国志』明帝紀)との間に、
何らかの関連性がないだろうか、と先に記したことがあります

その太極殿に言及する、
渡辺信一郎「宮闕と園林―3~6世紀中国における皇帝権力の空間構成―」の中に、*
次のような指摘が見えています。

太極殿を中心とする宮闕制度は、三国魏の明帝によって創建されたものである。
青龍三年に、太極殿、閶闔門、芳林園が整備され、
同五年に、服色や暦が改定され、七廟制が定められ、圜丘が建造されて郊祀が行われた。
これらのことは、曹魏王朝の本格的な成立を意味する。
宮城の整備は、(皇帝自らをも含む)様々な人々を動員して行われた。
宮城の配置は天の星象を写し取ったものである。

天上界と人間界とは密接に関連しあっているとする、
いわゆる天人相関説は戦国期からある、とも本論文中に記されていますが、
では、この考え方を具現化する宮城は、魏明帝以前には造営されなかったのでしょうか。
もしそうであるならば、なぜこの時に至って初めてそれが出現したのでしょうか。

太極という語は、『易』繋辞伝上にいう「是故易有太極、是生両儀」に由来しますが、
それが天上世界と結びついたのはいつ頃、どういう経緯からでしょうか。
『三国志』巻3・明帝期の裴松之注に引く『魏書』に、明帝の甲子詔を引いて、
「夫太極運三辰五星於上、元気転三統五行於下……」とあります。
ここでは既に、太極は天上界で星々の運行を司るものとして捉えられていますが、
こうした発想はどこからやってきたのか。

現在の自分には把握できていないことがあまりにも多く、
太極殿と曹植「惟漢行」とを直に結びつけるような、迂闊なことは言えないと思いました。

2020年9月26日

*『考古学研究』第47巻第2号(通巻186号)、2000年9月)所収。

曹氏兄弟の仲について追補

こんばんは。

一昨日、建安十六年(211)、曹丕が五官中郎将に任命されたことは、
彼が事実上の太子となったことを意味すると論じる先行研究を紹介しましたが、
このことの証左となり得る曹植作品が目に留まりました。

それは、「離思賦」序(『曹集詮評』巻1)で、次のとおりです。

建安十六年、大軍西討馬超、太子留監国、植時従焉。意有憶恋、遂作離思賦云。
建安十六年、大軍は西のかた馬超を討つに、太子は留まりて国を監、植は時に焉に従ふ。
意に憶恋有り、遂に離思の賦を作りて云ふ。

この序が、もし建安十六年当時に書かれたものだとするならば、
曹植は当時、曹丕のことを「太子」と呼んでいることがここに明らかです。
(序は、後から当時のことを追想して作られた可能性がないではありませんが。)

「憶恋」の対象は曹丕であり、
「離思」とは、兄と離れ離れになっていることへの憂いでしょう。
そう解釈することが妥当であるならば、
この当時はまだ曹氏兄弟の仲は引き裂かれてはおらず、
曹植は兄曹丕を慕っていると知られます。

2020年9月25日

 

堅実さに何かを加えるならば

こんばんは。

後期が始まりました。
今日は、演習科目がひとつと、学生との学期初めの面談を数件。

面談は、前期の成績評価を手渡しながら話を聞くのですが、
たいへん意外だったのは、この前期、成績の伸びた学生が多かったことです。
一方、逆の傾向を示している学生たちもいますから、
必ずしも全体として教員側の評価が甘かったわけでもなさそうです。

聞けば、対面式でない分、毎回どの授業でも課題が多く出る、
それを、手を抜かないで、一つ一つこなしていった、ということらしいです。
(誰も見ていないので、モチベーションの維持には苦労したらしいですが。)

また、通学にかかっていた時間を、睡眠や学業に回せたということもあったらしい。
(本学科の場合、自宅から通ってきている学生が大半を占めているので。)

自分が大学生だった頃と比べると、非常にまじめで堅実です。
この健気な若者たちが、そのエネルギーを明るい方向に発揮していけるよう、
(その健気な心持を不当に搾取されたりすることがないように)
教員として力を尽くそうと思いました。

この堅実さに一点加えるとすればそれは何だろう。
煎じ詰めたところ、自分が授業を通して若い人たちに言いたいのは、

世界にはいろんな考え方の人々がいる、相互に尊重しよう、ということに尽きます。

2020年9月24日

曹氏兄弟対立の真相

こんばんは。

曹丕と曹植との関係について論及されている津田資久氏の論文から、*
自分が知らなかった、有益な資料を教えられました。

ひとつは、『太平御覧』巻241に引く「魏武令」にいう、

告子文、汝等悉為侯、而子桓独不封而為五官郎将、此是太子可知矣。
子文(曹彰)に告ぐ、汝等悉く侯為るに、
子桓(曹丕)は独り封ぜられずして五官郎将為り、此れ是れ太子なること知る可し。

もうひとつは、『初学記』巻10に引く『魏文帝集』にいう、

為太子時、北園及東閣講堂、並賦詩、命王粲・劉楨・阮瑀・応瑒等同作。
太子為りし時、北園及び東閣の講堂にて、並びに詩を賦し、
王粲・劉楨・阮瑀・応瑒等に命じて同に作る。

先の「魏武令」からは、
曹丕が五官中郎将に任命されたのは、事実上、太子となったに等しいことが知られます。
それは、建安16年(211)のことでした。

次の曹丕の文章に見える阮瑀は、建安17年(212)に没しています。
すると、曹丕が「太子であった時」と言っているのは、建安16~17年であって、
建安22年(217)、彼が公的に太子に立てられて以降を指すのでないことは明らかです。

また、同じ津田論文の指摘によると、
曹丕と曹植との党派争いに言及する資料にはすべて、
曹丕は五官中郎将、曹植は臨菑侯という肩書で記されていることから、
両者の対立は、曹植が平原侯から臨菑侯に改封された建安19年(214)以降に特定される、
更に、『魏志』陳思王植伝裴注に引く『魏略』に、
一旦は丁儀が娶る話が出ていた曹操の娘を「公主」と称していることから、
その期間は、曹操が魏王となった建安21年5月以降のことと知られる、とあります。

なるほどそうだったのか、と納得しました。
もともと順当に曹丕が曹操の後を継ぐのが暗黙の了解となっていたところに、
丁儀・丁廙兄弟や楊修らが曹植の才能を称揚し、曹操の気持ちに揺らぎを生じさせた、
というのが真相に近いのでしょう。

結論は、これまでの定説とそれほど違いはないようにも見えますが、
ここまで精緻に史実を押さえた上での論究に、一段と深い理解を与えられました。

2020年9月23日

*津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年)。

公開の交往詩

こんにちは。

先週取り組んでいた論文には、ひとつ欠落した視点があります。
それは、白居易と元稹との交往詩は、広く世の中に公開されていたということです。

たとえば、通州司馬の元稹と、江州司馬の白居易との間に往来した詩について、
『旧唐書』巻166・元稹伝にこうあります。

雖通江懸邈、而二人来往贈答、凡所為詩、有自三十五十韻乃至百韻者。
江南人士、伝道諷誦、流聞闕下、里巷相伝、為之紙貴。
観其流離放逐之意、靡不悽惋。

通州と江州とは遠くかけ離れてはいるが、二人は詩を贈り合って、
凡そ作った詩は三十韻五十韻から百韻に及ぶものまである。
江南の人士は口々に諷誦し、それが朝廷にまで流れ、民間にも伝わり、このため紙価が高騰した。
その都を追われて流浪する思いを詠う詩想を見るに、すべてが悲痛極まりない。

拙稿で取り上げた詩が、この記載内容に該当するかは不明ですが、
遠く離れた彼らの詩のやり取りに対して、世間の人々が注目していたことは確かです。
元白交往詩への愛好は、それ以前から社会現象となっていましたから(前掲『旧唐書』元稹伝)。

このことを念頭に置いて論じる必要があったと思います。
近視眼的一点集中の落とし穴です。

ただし、公開の友情であるからといって、それが虚偽だということにはならない。
むしろ、生々しい感情が昇華されて、真なる思いが立ち現れることもあったのではないでしょうか。
現代でも、往復書簡や対談のスタイルを取る書物があります。
それと同じだろうと思います。

2020年9月22日

夢中から帰還すると

こんばんは。

昨日半日思う存分ぼんやりして、
今日は半分お仕事モードに戻ろうとしたところで、
失念していたことが山のようにあるのに気づいて青ざめました。
もし気づいていなければと思うとさらにぞっとしました。

自分も最近、めきめき老人力がついてきた、と言いたいところですが、
ちょっと今そういう気持ちになれません。
二十何年か前に赤瀬川原平の『老人力』(筑摩書房、1998年)を読んだときは、
大爆笑して、いつか自分もこのセリフを言おうと心に期したのですが。

自分のうっかり失念がもとで、
何かが滞ったり、人様にご迷惑をお掛けしたりしたことが申し訳ないから、
ということももちろんあるのですが(それが一番の理由ですが)、
何か、世の中全体がそういう気分でないようにも感じます。

自分の落ち度については心底反省しています。

それとは別に、世の中に「老人力」という言葉が復活すればいいなとも思います。
一点集中して周りが見えなくなるようなことのないよう、私も自戒します。

そういえば、赤瀬川原平の本の中に(どの本だったか忘れましたが)、
新しい星は、ぼーっと、見るともなく見ていると視界の端の方にひっかかる、
というようなことが書かれていたのを思い出しました。

2020年9月21日

脱稿の脱力

こんにちは。

一週間ほど没頭していた論文(『中唐文学会報』への初投稿)が終わりました。

いつも、あと少しくらいの時が一番楽しく、脱稿した途端に茫然となります。
全力疾走(のろいので疾走ではないですが)している時は、
そこだけに意識を集中させていればいいので、却って気が楽なのですが、
そこからぽんと外れた瞬間、外界の様々な事物がなだれ込んでくるような感じでしんどい。
他の人たちはどうなのでしょう。

そういえば、岡村繁先生は、論文を一本書きあげるたびに寝込み、
息子さんを枕元に呼んで遺言をされていたとか(記憶が増幅しているかもしれませんが)。

私も今日は、寝込んでいいことにします
存分に脱力して、元白交往詩とは関係のないことに心を遊ばせようと思います。

2020年9月20日

論文の主語

こんばんは。

論文を書いていると、どうしても「……だと私は考える。」と言いたくなる時があります。
しかし、これは教科書的にはやってはいけないことらしいですね。

まず、「私は」ではなく、「筆者は」と書くべきだとされています。
理由は、「私」という主語では客観性に欠けるからだ、と。
たしかに、漢文的な意味として、「私」という語は不適切かもしれません。
ですが、現代日本語としては、すでに十分な公共性を獲得しているとも言えるのですが。

また、「考える」ではなく、「思われる」「考えられる」とすべきだともされています。
理由は、上述の「私」と同じく、「考える」という述語では客観性に欠けるから。
ですが、どんなに資料を精査しても、最終的に判断するのは自分です。
自ずからある結論に導かれるような場合は「思われる」がふさわしいけれど、
様々な見方の中で、ある考えを打ち出す場合に「思われる」とするのはどうでしょう。
何か責任を回避しているように自分には「思われる」のですが。

他方、外国語の論文では、主語は複数形とするのがよい、と聞いたことがあります。
一人称単数形では、何かとても威張っているように感じられるのだそうです。
非常に驚きました。
自分としては威張っているつもりはなく、むしろ逆に、
広く認知されてはいない、個人的見解を述べる際に一人称単数形を用いるので。

そういえば、学生たちも教員も、やや謙遜するようなニュアンスで、
「これは私個人の意見ですが」と言うことがよくありますが、
日本語の外側から見れば、これはまるで逆の意味を帯びることになるのでしょう。

第一次資料の精読にもとづいて考察し、自分の責任においてある見解を打ち出す。
そして、その自分の考えに私的なバイアスがかかっていないか精査する。
そうすれば、その論文は十分に公共性を持つと私は思います。

2020年9月19日

 

元白交往詩初探

こんばんは。

先日、自分が使っていた元白応酬詩という言葉は間違いで、
かといって唱和詩と言ってしまうとこぼれ落ちてしまうものがある、と述べました。

それで今日、ふと思い出したのが交往詩という語です。
呉汝煜『唐五代人交往詩索引』(上海古籍出版社、1993年)という本がありました。
この語なら、唱和詩はもとより、交友の中でやり取りされた様々な詩がすべて含まれます。

この語を用いて、小論の題名は「元白交往詩初探」にしようと思います。

「初探」としたのは、まだ先が長いと思ったからです。
白居易と元稹との友情を真に理解するためには、もっと多くの作品を読む必要があります。
また、二人が直接やり取りした詩ばかりでなく、
相手の応酬詩がない(あるいは伝わっていない)作品からも読み取れるものがありそうです。

今回取り上げた作品は、元白とも比較的若い青壮年期のものでしたが、
晩年近くになると、二人の間柄にはまた別の側面が見えてくるように思います。
たとえば、同時期、同じ洛陽郊外の臨都駅で、同じくこれから長安へ赴こうとする友人を見送る詩、
「臨都駅送崔十八(臨都駅にて崔十八を送る)」(『白氏文集』巻57、2751)と、
「酬別微之 臨都駅酔後作(微之に酬い別る 臨都駅にて酔後の作)」(同巻58、2819)とでは、
崔玄亮に対する別れ方に比べて、元稹への態度はずいぶんと冷淡なように感じます。
また、青壮年期、その生き方も含めて全人格的に敬愛しあっていた二人ですが、
ある時期以降、世俗的交流が中心になっていく印象もあります。

退職までの残りの時間、授業を通して元白交往詩を読み継いでいこう。
探究の目当てができて、わくわくしてきました。

2020年9月18日

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