曹植の至らなさ
こんばんは。
黄初年間の初めに曹植が得た罪とは、いったい何だったのか。
『魏志』巻19・陳思王植伝には、
黄初二年、監国謁者の潅均が文帝曹丕におもねって、
「植酔酒悖慢、刧脅使者(曹植は酒に酔っぱらって暴れ、朝廷からの使者を脅しつけた)」と奏上し、
これがもとで所管の役人から処罰するよう要請があったことが記されています。
一方、曹植自身の「黄初六年令」(『曹集詮評』巻8)には、*
まず、東郡太守・王機や防輔吏・倉輯等の誣告により、朝廷に罪を得たとあり、
更に、雍丘に移ってから、また「監官の挙ぐる所と為り」、紛糾して今に至るまで三年、
と記されています。
曹植「黄初六年令」にいう「監官」は、『魏志』にいう「監国謁者」かもしれません。*
いずれにしても、曹植は、明らかに法に触れるような罪過を犯したわけではなさそうです。
ただ、こうした咎めを引き寄せる素地が、彼自身にもあったかもしれません。
たとえば、これまでに触れた建安年間の事例を挙げるならば、
宮城の門内で鉢合わせした韓宣という人物をどやしつけたり(2020.06.18記)、
建安二十二年の疫病流行に際して、民人の迷信的なふるまいを嘲笑したり、
同じ頃、宮殿の司馬門を勝手に開いて出たり(2019.11.21記)。
また、「柳頌序」(『曹集詮評』巻8)という文章では、
楊修の家を訪ね、庭に植わった柳の枝葉を戯れに折り取って「柳頌」を書き残し、
「遂因辞勢、以譏当世之士(遂に辞勢に因りて、以て当世の士を譏る)」と、
筆の勢いに乗じて、同時代の人士たちを非難したことを、自ら書き記しています。
そういえば、「贈丁儀」詩でも舌鋒鋭く為政者批判をしていましたが、
もしこれが曹丕が魏王となった年の作だとするならば、十分に罪過に当たる物言いでしょう。
悪気はない、むしろその粗削りの言動の奥に真率なる誠実ささえ感じられるのですが、
そうした無防備なふるまいは、これを陥れようとする者たちの格好の餌食となったでしょう。
2020年9月11日
*津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)に指摘する。
曹植の罪状とは(承前)
おはようございます。
昨日言及した津田論文について、少し訂正します。
津田氏の文学研究に対する言及は、曹氏兄弟の後継者争いについてではありません。
文学研究の分野においては、概して、
曹植の詩文は、彼の政治的「不遇」を背景に制作されている、
との前提で、作品の繋年・解釈が為されているようだが、
その「不遇」の実態については、深く精査する必要があるのではないか、
という問いかけが為されているのです。
(昨日はたいへん不正確なことを書いてしまいました。)
王朝の一員として働きたいという曹植の願いは、それほど的外れの願望であったのか。
この問題は、目下検討している彼の「惟漢行」「薤露行」の解釈と直結します。
それで、津田論文の問いかけに応える必要があると思ったのです。
この点、もう少し検討してみます。
さて、曹植が皇帝の座を狙うようなことがあったのか、という問題について、
私も、なかったと考える立場を取りますが、
伝存する史料から、完璧にこれを証明することはできません。
一方、彼自身の文学作品から、その心情を掬い上げることは不可能ではなく、
(制作年代の推定を行う前の段階において、もっぱら表現面からの分析により、です。)
そこから彼の政治的野心の有無やその内実を推し測ることはできるように思います。
文学研究の立場からできることとしたら、このあたりからでしょうか。
先に述べたことは、このような意味においてです。
2020年9月10日
曹植の罪状とは
こんばんは。
『三国志(魏志)』巻19・任城陳蕭王伝の裴松之注に、
『典略』『魏略』を著した三国魏の歴史家・魚豢の評語が引かれていて、
その中に次のような句が見えています。
仮令太祖防遏植等、在於疇昔、此賢之心、何縁有窺望乎。
彰之挟恨、尚無所至、至於植者、[豈能興難。*]
乃令楊修以倚注遇害、丁儀以希意族滅、哀夫。
もし太祖曹操が曹植らを早くに抑えていたら、
この賢者の心に、情勢を窺うような機縁が生じたはずはない。
曹彰の恨みを含んだ状態でさえ、決起するには至らなかったのだから、
まして曹植にどうして動乱を起こすようなことができただろう。
それなのに、楊修は曹植に肩入れするあまり害に遭い、
丁儀は太祖の意向に迎合して一族皆殺しとなったのは、悲しいことだ。
いったい曹植は何かを「窺望」して事を企てたりしたのでしょうか。
同じ魚豢は、すでにこちらでも述べたとおり、
自分を担ぎ上げようとする曹彰に対して、曹植は言下にこれを斥けた、
そのことを、曹植自身の言葉とともに記しています。
(同巻・任城王曹彰伝の裴注引『魏略』)
曹植が兄の曹丕と跡目争いをするつもりはなかった、とは、
伊藤正文以来、文学研究の方面ではほぼ常識になっているようにも思うのですが、
先日読んだ津田論文には、それとは異なる捉え方が示されていました。
『三国志』の記述にバイアスがかかっている可能性があると思うと、
本当のところどうだったのか、疑念が生じてきました。
魚豢は、楊修や丁儀・丁廙兄弟の思惑を取り上げて、
その企図を曹植その人に発するものと解釈しただけなのかもしれませんが。
2020年9月9日
*『資治通鑑』巻69・魏紀・文帝黄初元年の条によって補う。
曹植の息子
こんばんは。
父の想念は、その子への対し方に現れ、
ひいてはその子自身のあり様に影響を及ぼすものなのでしょうか。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝によると、
曹植は、末っ子の曹志の才徳を見込んで自身の跡継ぎとしましたが、
長子を無条件に立てるということをしなかったのは、
もしかしたら、兄との不幸な確執が記憶に残っていたからかもしれません。
一方、文帝曹丕は長らく太子を立てず、
曹叡を疎んじ、曹霖を溺愛していたことは、以前こちらに書いたとおりです。
さて、曹植の跡を継いだ曹志は、
西晋の武帝司馬炎と面談して、その器を高く評価されましたが、
司馬炎がその同母弟の司馬攸を藩国に出そうとしたとき、
これを厳しい調子で諫めて武帝の怒りを買い、免官となっています。
安有如此之才、 どうして、このような才能、
如此之親、 このように近しい親族でありながら、
而不得樹本助化、 王朝の根本を打ち立て、教化を助けるということができず、
而遠出海隅者乎。 遠く海辺の隈に出されるようなことがあってよいものか。
この慨嘆の言葉は、そのまま父曹植のことを指していると言ってもよいほどです。
(以上、前掲本伝裴松之注に引く『(曹)志別伝』より)
曹志のこの言動は、父曹植の無念と深く結びついているに違いありません。
曹志は多感な少年時代、父の渦巻く苦悩を目の当たりにしてきたのでしょうから。
しかも、彼の抑制のきいた日頃のふるまいから判断するに、
そうした憤懣はあらわにすべきではないと父から教えられてきたようにも察せられます。
それでもこうした局面に遭遇して、父への真情がほとばしり出たのでしょう。
なお、上記の司馬兄弟の悲劇の背後に、
先日来何度か言及している荀勗がいることは、以前こちらで述べた通りです。
2020年9月8日
自分との約束
こんばんは。
六朝学術学会のHP会員研究ノートに、
「曹植における 「惟漢行」 の制作動機」と題する短文を投稿しました。
もし可能であれば御批正いただければありがたく存じます。
この研究ノートには書ききれなかったことがいくつかあるのに、
このところ、しばらくこの問題から離れ、その後の検討を放置していました。
(今年の夏は、授業も成績評価も、教免更新講習も、少し特殊な状況だったこともあって)
明日からは、再び曹植文学に関する諸問題に取り組みます。
特に、しばらく停止していた曹植作品訳注稿の作成は継続的に進めたい。
それは、自分との約束であり、曹植との約束(と自分では思っている)でもあります。
後回しにしてもかまわないわけではないはずです。それなのに、
どうしてもわかりやすく人様のお役に立てることを優先しがちになるのはなぜでしょう。
本当は等価のはずだし、自分だって「人様」の一部のはずなんですが。
2020年9月7日
既存の言葉の直接引用
こんばんは。
先日にも触れた西晋王朝の宮廷儀式で歌われる歌辞を、研究会で読みました。
経書の一句をまるごと引いたかと思えば、
それと対を為すような部分で何もそれらしい典故表現が認められない、
あるいは、漢字そのものはよく見かけるが、その語順が見慣れたそれではない、
そんな事例が比較的多く目についたものですから、
先には、荀勗は詩作が下手なんだろうかなどと書いたのですが、
安易にそんなことを言っていた自分がはずかしいです。
経書をそのまま引く場合は、私にも比較的アプローチしやすいのですが、
それにアレンジが加わっている場合や、発想のみが踏襲されているような場合は、
実は、これを読む側の経験値が試されるのですね。
そして今回、自身の至らなさを思い知らされることしきりでした。
それから、経書の句をまるごと引く部分がある一方、
曹操が後漢末においてその地保を固めていったことを示す公的文書や、
後漢王朝が曹丕に禅譲し、魏王朝が成立したことを宣言する公的文書などを、
一句そのままのかたちで引く箇所も少なからず認められました。
なぜ荀勗は、そうした類の文章の、直接引用を敢えて行ったのでしょうか。
西晋王朝の草創期に、こうした歌辞が作られたことの意味を考えてみたいと思います。
2020年9月6日
民国時代の日本観
こんばんは。
昨日、知不足斎叢書に日本の学術書が収められていることを述べましたが、
これをもって、その編者が中華思想からは自由な考え方を持っていたとは言えません。
鮑廷博は中国古典の持つ価値を信じ、
これを大切にする人なら、分け隔てなく評価したということでしょう。
中国の人が、日本にも独自の文化があることに目を留めたのは、
二十世紀前半、民国時代のことなのだろうと思います。
というのは、このような資料があるからです。
1929年10月28日出版の『語絲』第5巻第33期に広告が載っている、
謝六逸という人物による『日本文学史』という書物が、
中国人による日本文学史の嚆矢のようです。
この記事は、20年ほど前、北京大学の図書館で、民国時代の雑誌を縦覧しながら、
五言詩の成立年代をめぐる論争を追っていた時、たまたま見つけたものです。
(私にとって「見つけた」でも、この時代の専門家には周知の資料かもしれません。)
この学術的な論争が、上記の記事と同じ時代の出来事だと思えば、
鈴木虎雄の学説がかの国で受けた強い反発はとてもよく理解できました。
もしよかったらこちら(学術論文№16、著書№4)をご覧いただければ幸いです。
日中比較文学論の授業で、日本人学生からはこういうコメントがよく出ます。
「日本の文学が中国の文学に影響を与えた例はないのか気になる」
(「気になる」と言わず、質問というかたちで言ってくれたらいいのですが。)
他方、秋吉收『魯迅 野草と雑草』(九州大学出版会、2016年)により、
魯迅が、日本の与謝野晶子や芥川龍之介から影響を受けていることを指摘すると、
交換留学生たちから、「そういうのだったら昔から中国にあります」などとよく言われます。
なかなか難しいものです。
2020年9月5日
至道を学べば
こんばんは。
昔のノートに、『礼記』学記篇に出る次のようなくだりを記していました。
雖有嘉肴弗食、不知其旨也。 ごちそうがあっても食べないのは、その旨さを知らないからだ。
雖有至道弗学、不知其善也。 すばらしき道があっても学ばないのは、その善さを知らないからだ。
是故学然後知不足、 だから、学んではじめて自身の不足がわかり、
教然後知困、 教えてはじめて自身の至らなさがわかり、
知不足、然後能自反也。 不足がわかってはじめて自分を顧みることができ、
知困、 然後能自強也。 至らなさがわかってはじめて自分を補強することができる。
この中の一句を取ってその名に冠する、清朝の鮑廷博「知不足斎叢書」は、
日本の学術書、市河寛斎『全唐詩逸』や、太宰春台『古文孝経孔氏伝』等も収載している、
ということから興味を引かれ、その叢書名の出典を調べたようです。
(過去の自分はもはや別人です。ほとんど忘れていました。)
つい先日、中国古典の世界が持つ中華思想に辟易したところでしたが、
本当に真摯に学ぶ者は、そこを突破して広やかな知性に至ることができるのですね。
この叢書を編んだ鮑廷博は豪商で、私財をなげうって書物を収集したのだといいます。
学問は仕官のため、という中国知識人の類型からは外れていたのでしょうか。
もしそうなのだとしたら、そのことにも惹かれます。
2020年9月4日
古典ではなくて
こんばんは。
今日も昨日と同じく、西晋王朝の宮廷儀式で用いられた歌辞を読みながら、
ふとこのような考えが浮かんできました。
文化人類学者が、現代文明の入っていない地域に分け入って調査するように、
こうした文献は読まれるべきではないだろうか。
これを古典と思うのではなくて。
古典とは、時間のやすりに耐え抜いて生き残った、人類共通の知的遺産でしょう。
そう思うから、落胆したり、妙な反発心を抱いたりするのだと思います。
そうではなくて、これは未知の文明なんだと思えばいい。
未知ではあるが、幸い、自分たちにもなんとか理解できる言葉によって記録されている、
それを読み解けば、彼らが持つ独特の世界観が見えてくるだろう、
そう思って取り組めばよいのではないかと思ったのです。
文化人類学という方法は、
たとえば、現代日本企業の特異性を明らかにし、
その問題を解決するためのヒントを提供したりすることもあると聞きます。
それならば、過去の文明を考察対象とすることもありえないことではないでしょう。
問題解決といったような部分は除くとしても。
難しいのは、中国古代文明が完全に過去の遺物とはなり切っていないことです。
一部は、現代の東アジア社会に屈折を経た形のものが残存している。
それを嫌悪するにしても、反対に美化してこれを利用しようとするにしても、
本来の姿をまっすぐに見ることを阻害する点では同じです。
もし、そのどちらでもない中立の立場を取ることができたならば、
私たちはそこに興味深いものを見るに違いありません。
同じ人間の考えることですから、崇高さも卑しさも、美しさも醜さも、
私たちとは同じ地下水脈で通じているはずです。
2020年9月3日
インとアウト
こんばんは。
先日触れた、荀勗の作と伝えられている儀式的歌辞を今日も読みました。
ザ・中華思想とでもいうべき、異民族政策の勝利を歌い上げる内容の歌辞です。
3世紀くらいの東アジアでは、唯一の文明圏は中国大陸だと言えることはたしかなので、
四方の異民族国家が自分たちに帰順してくることを誇らしげに歌うのは当然かもしれません。
でも、同じことをもし現代人が言ったならば、正気かどうかを疑います。
思えば、かつてはこのような考え方が常識だったわけで、
当時の詩人たちの誰もが、こうした中華思想をベースに発想していたはずです。
(それが永遠不滅の絶対的思想でないことは、その渦中にいる限りはほとんど感知できません。)
でも、その中で、生き残っている作品と、そうでないものとがある。
その生死を分けるものは何なのでしょうか。
その当時、完全にインであったものは、
少し時代が移ろうと、すぐにアウトになるものだと思います。
では、その渦中にありながら、そこから外れた視点を持つことは可能でしょうか。
それが可能であることを、今も生き残っている作品が示唆してくれていると思います。
なんだか繰り返し同じようなことを考えているようですが、
それは、自身が携わっている分野の存続に、絶対的な確信が持てないからです。
完全にインであるような論文ばかりを書いていたのではだめだと思う。
2020年9月2日