荀勗の仕事

こんばんは。

曹植の「七哀詩」を、西晋王朝の宮廷歌曲「怨詩行」にアレンジした荀勗。
今、その彼が宮廷儀式のために作った歌辞を読んでいます。

もっとも、『宋書』楽志一・二では、彼単独の作とは記されていません。
初唐に成った『晋書』の楽志上には、荀勗の名が明記されています。
初唐までは、具体的な詳細を記す資料が伝存していたのでしょうか。
その『晋書』を、北宋末の『楽府詩集』が踏襲しているようです。

昨日言及した拙論の中で、荀勗が権力の中枢に居座って何をしたかを書きましたが、
そんな彼が、儒家的な仁徳を備えた君主の美質を歌いあげています。
仕事だと、自身から乖離したことも書けてしまうのでしょうか。

当時の儒家的な思想類型に収まっているので、
歌辞の意味が取れなくて困ることはほとんどありません。

一方、古典を踏まえた表現(ほぼ引用)が無秩序に埋め込まれていて、
しかもそれがアンバランスな配置なので、どこにそれが隠れているかが読めません。
たとえば、ひと連なりの二句の、片方には経書からの引用、片方にはそれが無いといったような。

荀勗は詩作が下手なんだろうか、と疑いたくなるような印象です。

2020年8月26日

曹丕も薄葬(追記で結び)

こんばんは。

昨日は、曹操・曹丕父子の薄葬をめぐる雑感へと話が逸れて、
大事なこと(拙論の修正点)を忘れていました。

修正すべきは、次のくだりです。

「曹丕が眠る首陽陵には、当時の慣習により立派な松柏が植えられていただろう。」

阮籍の「詠懐詩」にも詠じられていたとおり、
首陽陵には実際、松柏(を含む種々の常緑樹)が植わっていたと思われます。
ですが、それは、わざわざ植えられたのではなく、
もともと樹木の植わっていた首陽山の一角を陵墓にしたということでした。
それが、曹丕の「終制」によって理解を改めるべき点です。

一方、肝心な部分はそのままで通りそうです。
(何度か書いているのですが、しつこく再度記します。)

すなわち、西晋王朝で演奏された歌曲「怨詩行」は、
本辞の曹植「七哀詩」を、次の点で改変しているのですが、

1、「君若清路塵、妾若濁水泥」を「君為高山柏、妾為濁水泥」へ
2、詩中に吹く風を「西南風」から「東北風」へ

この改変を施された「怨詩行」は、
兄曹丕の陵墓に向かってさまよい続ける曹植の魂を慰める歌だという解釈です。

1の改変は、対句としてはアンバランスですが、
敢えてそうした理由というものがあるはずだと考えた結果です。

2020年8月25日

曹丕も薄葬(続き)

こんばんは。

昨日言及した曹丕の「終制」は、
なんと『三国志』巻2・文帝紀、黄初三年の冬十月の条にありました。
(どうして気づけなかったのか悔しい限りです。)

その中、次のような記述は、曹植「文帝誄」に踏襲されています。

昔堯葬于穀林、通樹之、……故葬於山林、則合於山林。封樹之制、非上古也、吾無取焉。寿陵因山為体、無為封樹。無立寝殿、造園邑、通神道。……
無施葦炭、無蔵金銀銅鉄、一以瓦器、合古塗車・芻霊之義。

昔 堯は穀林に葬られ、通じて之を樹う、……故に山林に葬れば、則ち山林に合す。封樹の制は、上古に非ざれば、吾はここに取る無し。寿陵は山に因りて体を為し、封樹を為すこと無かれ。寝殿を立て、園邑を造り、神道を通ずること無かれ。……
葦炭を施す無く、金銀銅鉄を蔵する無く、一に瓦器を以てし、古の塗車・芻霊の義に合せよ。

薄葬は、彼らの父曹操も遺言していますが、興味深いのはそれを命じた理由です。

曹操の遺令(『三国志』巻1・武帝紀)に見えているのは、
「天下尚未安定、未得遵古也(天下は尚ほ未だ安定せず、未だ古に遵ふを得ざるなり」という言葉、
他方、曹丕が気にしているのは、盗掘されて辱めを受けるということです。

同じ薄葬を命ずるのでも、曹丕にそこはかとなく漂う小物感。
為政者としての器の違いというしかないです。

2020年8月24日

曹丕も薄葬

こんばんは。

昨年の冬、九州国立博物館で開催された特別展「三国志」を見に行って、
曹魏の墓の埋葬品が、立派な蜀のそれと比べて非常に質素であることに打たれました。

その図録に収録する陳彦堂「曹操高陵の考古発見と研究」第四章に、
「高陵が反映する曹魏時代の喪葬制度」と題して、曹魏の薄葬の実態が論じられています。

曹操と曹植が、それぞれの遺言に従って質素に葬られたとは認識していましたが、
曹丕もそうであったとは、この論文を通して初めて知りました。

『三国志』巻2・文帝紀に記された曹丕の葬儀に関する記事、
「自殯及葬、皆以終制従事(殯より葬に及ぶまで、皆終制を以て従事せしむ)」を、
先には、一般に規定する皇帝の葬礼制度に則って葬られたのだと解釈していたのでしたが、
こちらの学術論文№43では、この認識に基づいて論じています。要再考です。)
曹丕には「終制」という文章があって、それに具体的な指示が見えているのだそうです。
また、曹植「文帝誄」(『曹集詮評』巻10)に見える次のくだりからも、
曹丕が自らの「終制」どおりに埋葬されたことが確認できると述べられています。

乃創玄宇、基為首陽。 乃ち玄宇を創り、基づくに首陽を為す。
擬迹穀林、追堯慕唐。 迹を穀林に擬し、堯を追ひ唐を慕ふ。
合山同陵、不樹不疆。 山を合して陵と同じくし、樹へず疆せず。
塗車芻霊、珠玉靡蔵。 塗車芻霊、珠玉 蔵する靡(な)し。
百神警侍、来賓幽堂。 百神 警侍し、賓を幽堂に来らしむ。

ただし、魏末の阮籍「詠懐詩」其六十四は、
「首陽の基」を「松柏は鬱として森沈たり」と描写していますから、
あるいは文帝が埋葬されて以後、松柏がその陵墓に植えられたのかもしれません。

いずれにせよ、薄葬を命じた曹丕に対して、少し認識を改めました。

2020年8月23日

「古典」と古典的文学作品

こんばんは。

昨日は、教免更新講習の資料のうち、日本文学に関わるものを校正しました。
たとえば、以前、岩波の新日本古典文学大系に拠って記していた資料を、
旧版の岩波日本古典文学大系に従って修正するといった作業です。
テキストは新しい方がよりよいのではないかと思いますが、
今年は図書館での調べ物がしづらいため、
手近にあるテキストを用いて確認作業をすることにしたのです。

すると、各本の間に文字や表記などの食い違いが予想以上に多かった。
だから、いずれのテキストに拠ったか、明記することが約束となっているのだと納得しました。

これは、日本文学の世界では当たり前のことなのかもしれません。
しかし、中国古典に関しては、必ずしも当てはまらないようにも思います。
たとえば、経書や正史、諸子百家などは、出典を記すのに書名と篇名だけで十分で、
いずれの出版物に拠ったのか、私は特に明記はしません。
(前に述べたとおり、最近の中国の論文はページに至るまで記すのですが。)

同じように「古典」と称せられてはいても、
その性格が少し違っているのではないかと思わされました。
中国古典の場合は、広範な人々にとっての普遍的な知の共有財産として、
必然的に、決定版というものに収斂していく方向に力が働き、
(もっとも、時代が変われば、決定版的解釈も切り替わっていきますが。)
片や日本の古典文学は、普遍よりは個別性を志向して展開してきたのではないか。
(いや、日本文学でも古典知の形成が認められるそうなのですが。)

中国でも、小説や戯曲といった古典文学には多種類のテキストがあると聞きますが、
日本の古典文学は、こうしたものの方に似ていると感じます。
(以上、管見による感想と空想です。)

2020年8月22日

吉川幸次郎の講演録

こんばんは。

先日、あるきっかけで『吉川幸次郎全集1』に触れなおしたのでしたが、
その中で、「中国の古典と日本人」と題する1953年の講演録がとても印象に残っています。

「野上夫人」とは野上弥生子でしょうか(夫人とはなんともいやはやですが)、
その講演の後を受けて、

さっき野上夫人から、日本人の栄養としては、日本に古来あるものよりも、
日本の本来とは異なったものが必要であるというお話がありましたが、
これは私が平生考えていることと、全く合致いたします。

とあって、日本人の栄養となるものとして、まず西洋のものがあるが、
更にもう一つの異なった表現として中国の書物がある、と述べておられるところ。

また、日本の文学も中国の文学も、
同じように花鳥風月を詠ずるものと思われるかもしれないが、そうではない。
人は人々のために生きるという考え方は、日本では本来それほど根強いものではない、という指摘。

更に、つぎのような言葉にもインパクトを受けました。
ある人々は、過度な近代化を逆に引き戻す力として中国の書物を利用したいと考えているようだが、
真の近代に近づける力、栄養として、中国の書物が読まれることを自分は希望する、と。

教免更新講習の資料の中で、是非この文章を紹介しようと思いました。

吉川幸次郎の文章は立派すぎて、どうにも苦手意識が強かったのですが、
この講演録には違った印象を持ちました。
「野上夫人」の話に少なからず圧倒されたのでしょうか、それを要所要所で援用しながら、
「たいへんまとまりのないお話でありました。これをもって終わりといたします。」
と結ばれたこの講演録、はじめて吉川幸次郎を身近に感じました。

2020年8月21日

曹魏明帝に関する先行研究(2)

こんばんは。

今日は、福原啓郎「三国魏の明帝―奢靡な皇帝の実像」*を読みました。

祖父の曹操にその将来を嘱望された明帝曹叡は、
魏王朝の威信と制度的基盤を作り上げることに尽力した剛毅な皇帝であり、
奢侈な宮殿造営や、自らの廟号を生前に烈祖と定めたこと等はその意思の現われであった、
という論述内容からは、多くの驚きと啓発を受けました。

明帝にはなんとなく影が薄いイメージを持っていたのですが、
歴史家である福原氏の描き出す明帝像は、それとはまるで違っていました。
また、同じ時代に曹植が生きていたということを、ほとんど忘れそうになりました。
(気後れして、中学校の生徒会で先輩の話がまるで分らなかったことを思い出したことです。)

明帝の宗室尊重と、それに対する名族の巻き返しは、福原論文の中でも論及されています。
それで思ったのですが、曹植のような人物が王朝の中枢に加わるということは、
明帝の周辺にいた名族たちが嫌がったのかもしれないと想像しました。
人望もあり、才能にも恵まれた皇族は、勢力伸張を狙う名族たちにとっては邪魔者でしょう。
もちろん文帝の遺命があったにしても、それとは別の立場からの思惑として。

もうひとつ、明帝が造営した太極殿という宮殿名は、
「太極定二儀」という句から歌い起こし、
天人相関説を踏まえつつ、皇帝たる者のあるべき道を示す、
曹植「惟漢行」を意識している可能性がないだろうか、と妄想しました。
太極殿などが造営されたのは青龍三年(235)で(『三国志』明帝紀)、
曹植の没したのはその三年前の太和六年ですから、記憶はまだ薄れてはいないでしょう。
もっとも、太極という語はそれほど特殊な語句ではありませんが。

2020年8月20日

*初出は『古代文化』第52巻第8号、2000年。『魏晋政治社会史研究』(京都大学学術出版会、東洋史研究叢刊之七十七、2012年)に追補版が収載されている。

曹魏明帝に関する先行研究

こんばんは。

曹植「惟漢行」に関する考察を書き終わり、
懸案の、明帝と曹植との関係についての先行研究を探し始めました。

今日は、落合悠紀「曹魏明帝による宗室重視政策の実態」(『東方学』126、2013年)を読み、
いくつかのことを教えられました。

まず、明帝期には宗室を重視する人事が行われていて、
従来の研究では、それは名族を押さえるために設けられた政策だとされてきたこと。

ですが、その実態としては、宗室や外戚を適切に優遇するというもので、
彼らに大きな力を与えて、台頭する名族に対抗しようとするような意図は認められない、
ということを、落合氏は明らかにされていました。

いずれにしても、明帝にそのような政策があったとは知りませんでした。

それならば、あれだけ曹植が苦しんだのは何だったのだろう、
なぜ明帝の恩恵が、叔父の曹植には及ばなかったのか、いよいよ不思議でなりません。

そこで、落合氏が引用しておられた、
津田資久「曹魏至親諸王攷」(『史朋』38、2005年)を取り寄せることにしました。

津田氏の論文には、かつて魚豢『魏略』について考察した際、非常に多くを教えられました。
 (こちらの学術論文№41の注(2)ほかをご覧いただければ幸いです。)

今回も、場合によっては、抜本的に考え直す必要を迫られるかもしれません。
どきどきしながら、複写文献の到着を待つことにします。

2020年8月19日

文学的個性とは

こんばんは。

今日は、曹植「惟漢行」に関する考察を短文にまとめる一方、
西晋王朝の宴席で演奏されていた楽曲の歌辞に訳注を施す作業を進めました。

後者は、当時としては無くてはならない有用の言語芸術だったはずですが、
今は、これを積極的に読もうとするのは、よほど奇特な人(研究者)だろうと思います。
一方、曹植の作品は、もう少し読者の幅が広いかもしれません。

ほぼ同じ歳月を渡って今に至る双方の、かくも異なる生き残りのあり様、
それを分けるのは何なのだろうかと考えを巡らせました。

宮廷儀式を彩る歌曲には、その歌辞を作った人の顔が見えません。
他方、曹植作品にはかなり濃厚にそれが感じられます。

では、私は作品に表れた作者の人間性に引かれているのだろうか。
けれども、曹植は自己表現を目指して詩を作っているわけではありません。
そもそもそうした概念は、当時の人々の文学的価値観の中には存在しなかったものです。

曹植の詩は、たとえ楽府詩のような既存の枠を持つものであっても、
何か、その枠の中に収まり切れない、過剰なものを抱えているように感じます。
それが、彼独特の言語表現となって現れ出ているのです。

文学的個性とは、従来にない表現を志向して作り出すものではなく、
ある規範に沿おうとしても、どうしてもそこからあふれ出てきてしまうものではないか。
もちろん、作者の対外的な制作意図といったものとも関わりなく。
その、その人にしかない一種のいびつさが、人を惹きつける魅力の正体のように思えてなりません。
人は、(自分をも含めて)他にはない、それ固有のものに否応なく惹きつけられ、
そこに自分と通じ合うものを感じ取ったとき魅了されるのだと私は思います。

2020年8月18日

新しい表現が生まれるとき

こんばんは。

教免更新講習の教材のひとつとして、
今年は柳宗元の「南礀中題」という詩(『唐詩選』巻1)を取り上げます。
次のような詩です。

秋気集南礀  秋の気が南の谷川に集まるところに、
独遊亭午時  太陽が空の真ん中に昇る頃、私はひとり散策した。
廻風一蕭瑟  ふいに巻き起こった風のなんともの寂しげであることか、
林景久参差  風に吹かれた林は、いつまでもざわざわとその姿を揺さぶっている。
始至若有得  やってきたばかりの時、何かを感得したような心地がして、
稍深遂忘疲  段々と奥深くまで分け入ってくる頃には、すっかり疲れも忘れていた。
羈禽響幽谷  他郷に身を寄せる禽鳥が、友を求めて奥深い谷に鳴き声を響かせ、
寒藻舞淪漪  寒々しい水草が、さざ波の立つ水面に舞っている。
去国魂已遠  国都を去って、魂はすでに遠く異郷を浮遊し、
懐人涙空垂  なつかしい人のことを想えば、涙がむなしく流れ落ちる。
孤生易為感  ひとりぼっちの人間はものごとに感じやすく、
失路少所宜  道を見失った者は幸運に巡り合うことなど稀である。
索莫竟何事  うらぶれたわびしさの中で、いったい何を務めとすればよいのか。
徘徊祇自知  ぐるぐると歩き回る、この心はただ自分だけが知っている。
誰為後来者  誰か、後からやって来る者となるだろうか。
当与此心期  その未来の人は、きっとこの私の心と出会ってくれることだろう。

第7・8句の「羈禽」「寒藻」について、
『漢語大詞典』では、両方とも柳宗元のこの詩を挙げて解釈していました。
ということは、珍しい詩語だと言ってよいかと思います。

興味深いのは、「禽」に「羈」、「藻」に「寒」という形容詞が付いていることです。
元来は人の心を持たない鳥や植物を見て、
「故郷を遠く離れた」「寒々しい」と感じ取ったのは他ならぬ柳宗元です。*1

彼は当時、都を追われ、南方の永州(湖南省)に流されていました。
左遷の理由は、失敗に終わった政治改革に関わったためです。

そして、そんな新鮮な言葉が、『詩経』に由来する古典語に直結しています。
「幽谷」は、小雅「伐木」にいう「出自幽谷、遷于喬木(幽谷より出で、喬木に遷る)」、
「淪漪」は、魏風「伐檀」にいう「河水清且淪猗(河水は清く且つ淪猗あり」に基づきます。*2
もちろん、柳宗元の中でその『詩経』の文脈は十分に意識されています。

「感を為し易き」「孤生」の詩人が、貶謫という逆境の中で、新たな言葉を紡ぎだした、
その瞬間にまるで立ち会ったかのように感じる読みの体験でした。

また、結びに見える「後来者」は、
『論語』子罕篇にいう「後生可畏也。焉知来者之不如今也」
(後生畏る可きなり。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや)を踏まえると捉え、
自身の理解者(今はいない)を、未来に求めているのだと解釈しました。
ただ、本当に『論語』を踏まえているのか、まだ今ひとつ釈然としないところがあります。

2020年8月17日

*1 下定雅弘『柳宗元詩選』(岩波文庫、2011年)p.69に、「「羈禽」は群れを失い漂泊している鳥。「羈禽」「寒藻」は、貶謫の身である宗元を寓している」との指摘がある。(2020.08.20追記)

*2 この二つの典故については、王国安『柳宗元詩箋釈』(上海古籍出版社、1993年)が既に指摘する。

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