堅実さに何かを加えるならば
こんばんは。
後期が始まりました。
今日は、演習科目がひとつと、学生との学期初めの面談を数件。
面談は、前期の成績評価を手渡しながら話を聞くのですが、
たいへん意外だったのは、この前期、成績の伸びた学生が多かったことです。
一方、逆の傾向を示している学生たちもいますから、
必ずしも全体として教員側の評価が甘かったわけでもなさそうです。
聞けば、対面式でない分、毎回どの授業でも課題が多く出る、
それを、手を抜かないで、一つ一つこなしていった、ということらしいです。
(誰も見ていないので、モチベーションの維持には苦労したらしいですが。)
また、通学にかかっていた時間を、睡眠や学業に回せたということもあったらしい。
(本学科の場合、自宅から通ってきている学生が大半を占めているので。)
自分が大学生だった頃と比べると、非常にまじめで堅実です。
この健気な若者たちが、そのエネルギーを明るい方向に発揮していけるよう、
(その健気な心持を不当に搾取されたりすることがないように)
教員として力を尽くそうと思いました。
この堅実さに一点加えるとすればそれは何だろう。
煎じ詰めたところ、自分が授業を通して若い人たちに言いたいのは、
世界にはいろんな考え方の人々がいる、相互に尊重しよう、ということに尽きます。
2020年9月24日
曹氏兄弟対立の真相
こんばんは。
曹丕と曹植との関係について論及されている津田資久氏の論文から、*
自分が知らなかった、有益な資料を教えられました。
ひとつは、『太平御覧』巻241に引く「魏武令」にいう、
告子文、汝等悉為侯、而子桓独不封而為五官郎将、此是太子可知矣。
子文(曹彰)に告ぐ、汝等悉く侯為るに、
子桓(曹丕)は独り封ぜられずして五官郎将為り、此れ是れ太子なること知る可し。
もうひとつは、『初学記』巻10に引く『魏文帝集』にいう、
為太子時、北園及東閣講堂、並賦詩、命王粲・劉楨・阮瑀・応瑒等同作。
太子為りし時、北園及び東閣の講堂にて、並びに詩を賦し、
王粲・劉楨・阮瑀・応瑒等に命じて同に作る。
先の「魏武令」からは、
曹丕が五官中郎将に任命されたのは、事実上、太子となったに等しいことが知られます。
それは、建安16年(211)のことでした。
次の曹丕の文章に見える阮瑀は、建安17年(212)に没しています。
すると、曹丕が「太子であった時」と言っているのは、建安16~17年であって、
建安22年(217)、彼が公的に太子に立てられて以降を指すのでないことは明らかです。
また、同じ津田論文の指摘によると、
曹丕と曹植との党派争いに言及する資料にはすべて、
曹丕は五官中郎将、曹植は臨菑侯という肩書で記されていることから、
両者の対立は、曹植が平原侯から臨菑侯に改封された建安19年(214)以降に特定される、
更に、『魏志』陳思王植伝裴注に引く『魏略』に、
一旦は丁儀が娶る話が出ていた曹操の娘を「公主」と称していることから、
その期間は、曹操が魏王となった建安21年5月以降のことと知られる、とあります。
なるほどそうだったのか、と納得しました。
もともと順当に曹丕が曹操の後を継ぐのが暗黙の了解となっていたところに、
丁儀・丁廙兄弟や楊修らが曹植の才能を称揚し、曹操の気持ちに揺らぎを生じさせた、
というのが真相に近いのでしょう。
結論は、これまでの定説とそれほど違いはないようにも見えますが、
ここまで精緻に史実を押さえた上での論究に、一段と深い理解を与えられました。
2020年9月23日
*津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年)。
公開の交往詩
こんにちは。
先週取り組んでいた論文には、ひとつ欠落した視点があります。
それは、白居易と元稹との交往詩は、広く世の中に公開されていたということです。
たとえば、通州司馬の元稹と、江州司馬の白居易との間に往来した詩について、
『旧唐書』巻166・元稹伝にこうあります。
雖通江懸邈、而二人来往贈答、凡所為詩、有自三十五十韻乃至百韻者。
江南人士、伝道諷誦、流聞闕下、里巷相伝、為之紙貴。
観其流離放逐之意、靡不悽惋。
通州と江州とは遠くかけ離れてはいるが、二人は詩を贈り合って、
凡そ作った詩は三十韻五十韻から百韻に及ぶものまである。
江南の人士は口々に諷誦し、それが朝廷にまで流れ、民間にも伝わり、このため紙価が高騰した。
その都を追われて流浪する思いを詠う詩想を見るに、すべてが悲痛極まりない。
拙稿で取り上げた詩が、この記載内容に該当するかは不明ですが、
遠く離れた彼らの詩のやり取りに対して、世間の人々が注目していたことは確かです。
元白交往詩への愛好は、それ以前から社会現象となっていましたから(前掲『旧唐書』元稹伝)。
このことを念頭に置いて論じる必要があったと思います。
近視眼的一点集中の落とし穴です。
ただし、公開の友情であるからといって、それが虚偽だということにはならない。
むしろ、生々しい感情が昇華されて、真なる思いが立ち現れることもあったのではないでしょうか。
現代でも、往復書簡や対談のスタイルを取る書物があります。
それと同じだろうと思います。
2020年9月22日
夢中から帰還すると
こんばんは。
昨日半日思う存分ぼんやりして、
今日は半分お仕事モードに戻ろうとしたところで、
失念していたことが山のようにあるのに気づいて青ざめました。
もし気づいていなければと思うとさらにぞっとしました。
自分も最近、めきめき老人力がついてきた、と言いたいところですが、
ちょっと今そういう気持ちになれません。
二十何年か前に赤瀬川原平の『老人力』(筑摩書房、1998年)を読んだときは、
大爆笑して、いつか自分もこのセリフを言おうと心に期したのですが。
自分のうっかり失念がもとで、
何かが滞ったり、人様にご迷惑をお掛けしたりしたことが申し訳ないから、
ということももちろんあるのですが(それが一番の理由ですが)、
何か、世の中全体がそういう気分でないようにも感じます。
自分の落ち度については心底反省しています。
それとは別に、世の中に「老人力」という言葉が復活すればいいなとも思います。
一点集中して周りが見えなくなるようなことのないよう、私も自戒します。
そういえば、赤瀬川原平の本の中に(どの本だったか忘れましたが)、
新しい星は、ぼーっと、見るともなく見ていると視界の端の方にひっかかる、
というようなことが書かれていたのを思い出しました。
2020年9月21日
脱稿の脱力
こんにちは。
一週間ほど没頭していた論文(『中唐文学会報』への初投稿)が終わりました。
いつも、あと少しくらいの時が一番楽しく、脱稿した途端に茫然となります。
全力疾走(のろいので疾走ではないですが)している時は、
そこだけに意識を集中させていればいいので、却って気が楽なのですが、
そこからぽんと外れた瞬間、外界の様々な事物がなだれ込んでくるような感じでしんどい。
他の人たちはどうなのでしょう。
そういえば、岡村繁先生は、論文を一本書きあげるたびに寝込み、
息子さんを枕元に呼んで遺言をされていたとか(記憶が増幅しているかもしれませんが)。
私も今日は、寝込んでいいことにします
存分に脱力して、元白交往詩とは関係のないことに心を遊ばせようと思います。
2020年9月20日
論文の主語
こんばんは。
論文を書いていると、どうしても「……だと私は考える。」と言いたくなる時があります。
しかし、これは教科書的にはやってはいけないことらしいですね。
まず、「私は」ではなく、「筆者は」と書くべきだとされています。
理由は、「私」という主語では客観性に欠けるからだ、と。
たしかに、漢文的な意味として、「私」という語は不適切かもしれません。
ですが、現代日本語としては、すでに十分な公共性を獲得しているとも言えるのですが。
また、「考える」ではなく、「思われる」「考えられる」とすべきだともされています。
理由は、上述の「私」と同じく、「考える」という述語では客観性に欠けるから。
ですが、どんなに資料を精査しても、最終的に判断するのは自分です。
自ずからある結論に導かれるような場合は「思われる」がふさわしいけれど、
様々な見方の中で、ある考えを打ち出す場合に「思われる」とするのはどうでしょう。
何か責任を回避しているように自分には「思われる」のですが。
他方、外国語の論文では、主語は複数形とするのがよい、と聞いたことがあります。
一人称単数形では、何かとても威張っているように感じられるのだそうです。
非常に驚きました。
自分としては威張っているつもりはなく、むしろ逆に、
広く認知されてはいない、個人的見解を述べる際に一人称単数形を用いるので。
そういえば、学生たちも教員も、やや謙遜するようなニュアンスで、
「これは私個人の意見ですが」と言うことがよくありますが、
日本語の外側から見れば、これはまるで逆の意味を帯びることになるのでしょう。
第一次資料の精読にもとづいて考察し、自分の責任においてある見解を打ち出す。
そして、その自分の考えに私的なバイアスがかかっていないか精査する。
そうすれば、その論文は十分に公共性を持つと私は思います。
2020年9月19日
元白交往詩初探
こんばんは。
先日、自分が使っていた元白応酬詩という言葉は間違いで、
かといって唱和詩と言ってしまうとこぼれ落ちてしまうものがある、と述べました。
それで今日、ふと思い出したのが交往詩という語です。
呉汝煜『唐五代人交往詩索引』(上海古籍出版社、1993年)という本がありました。
この語なら、唱和詩はもとより、交友の中でやり取りされた様々な詩がすべて含まれます。
この語を用いて、小論の題名は「元白交往詩初探」にしようと思います。
「初探」としたのは、まだ先が長いと思ったからです。
白居易と元稹との友情を真に理解するためには、もっと多くの作品を読む必要があります。
また、二人が直接やり取りした詩ばかりでなく、
相手の応酬詩がない(あるいは伝わっていない)作品からも読み取れるものがありそうです。
今回取り上げた作品は、元白とも比較的若い青壮年期のものでしたが、
晩年近くになると、二人の間柄にはまた別の側面が見えてくるように思います。
たとえば、同時期、同じ洛陽郊外の臨都駅で、同じくこれから長安へ赴こうとする友人を見送る詩、
「臨都駅送崔十八(臨都駅にて崔十八を送る)」(『白氏文集』巻57、2751)と、
「酬別微之 臨都駅酔後作(微之に酬い別る 臨都駅にて酔後の作)」(同巻58、2819)とでは、
崔玄亮に対する別れ方に比べて、元稹への態度はずいぶんと冷淡なように感じます。
また、青壮年期、その生き方も含めて全人格的に敬愛しあっていた二人ですが、
ある時期以降、世俗的交流が中心になっていく印象もあります。
退職までの残りの時間、授業を通して元白交往詩を読み継いでいこう。
探究の目当てができて、わくわくしてきました。
2020年9月18日
準素人の自由
こんばんは。
相変わらず元白唱和詩の論文に苦戦しています。
感覚としては、これはこれとつながるのだと確信できるのに、
それを言語化して論理的に組み立てていこうとするとうまくいきません。
なにか、はしごを掛け違ったような感じになるのです。
また、こちらに書いたときにはおぼろげながらも把握できていたことが、
長文で述べるとなるとうまく表現がつながりません。
それぞれの文章には、その長さに適した言葉使いというものがあるのでしょうか。
まあ、のろのろとしか進めない人間にこそ見えてくるものもあるでしょう。
そう思って、不器用な者はその不器用さを活かしていきます。
さて、今書いている論文は、
白居易と元稹との友情にはそれ相当の振幅がある、
という、ある意味当たり前のことを述べようとするものです。
ただ、『日本における白居易の研究(白居易研究講座第七巻)』(勉誠社、1998年)や、
『白居易研究年報(白居易研究会)』(勉誠出版、2000年~)の論文目録を縦覧する限り、
非常に意外ですが、元白唱和詩に関する先行研究はそれほど多くないのです。
平岡武夫『白居易(中国詩文選17)』(筑摩書房、1977年)の所論に圧倒されて、
おいそれとは近づけないと感じる専門家が多いのでしょうか。
こういう時、専門外の人間は少し自由です。
2020年9月17日
自信に満ちた人々
こんばんは。
このところ、白居易の元稹に宛てた詩に見られる強い自信に圧倒されてきましたが、
これは彼にのみ認められることなのか、そうでもないかと立ち止まりました。
というのは、次のような文章があることを思い出したからです。
南朝梁の文人何遜が、衡山県侯蕭恭のために代作した恋文、
「為衡山侯与婦書(衡山侯の為に婦に与うる書)」(『藝文類聚』巻32)で、*1
その末尾にこうあります。
遅枉瓊瑶 遅(ま)つ、瓊瑶を枉(ま)げて、
慰其杼軸 其の杼軸をも慰めんことを。*2
私は、今や遅しと待ちわびております。あなたがお返事をくださって、
(私ばかりか)あなたのそのうつろな気持ちをも慰められますことを。
これを初めて読んだときには驚きました。
自分に返事を書くということが、相手の慰めにもなるはずだと言っているのですから。
そういえば、以前中国からの留学生に聞いたところでは、
古典文学では、あまり自己否定のようなことはしない(心当たりがない)、
近年の文化大革命を振り返って作られた傷痕文学はあるけれど、とのことでした。
まばゆいほど、自信に満ち溢れた人たちなのだなあと思ったことです。
ところで、今書いている論文(元白唱和詩)では、
ちょうどよい言葉が見つからないで頭を抱えるということがしばしばです。
脳内の筋力がまるで足りません。
こんなとき、自信に満ちた人々は、きっと自分は乗り越えてみせると思うのでしょう。
こんな自信ならば、自分にも持つことができるかもしれません。
2020年9月16日
*1 岡村繁「駢文」(『文学概論』大修館書店、中国文化叢書4、1967年)を参照。
*2 「瓊瑶」は、『詩経』衛風「木瓜」にいう「報之以瓊瑶(之に報ゆるに瓊瑶を以てせん)」を踏まえ、「報之」すなわちお返しをするという意味を表す。「杼軸」は、『詩経』小雅「大東」にいう「杼軸其空(杼軸、其れ空し)」を踏まえ、「其空」すなわち空虚だという意味を表す。詳細は、岡村前掲論文を参照されたい。
大きな懐を持つ人
こんにちは。
白居易は「相思相愛」の人だと昨日は書いたのですが、
それは、相手の気持ちも無視して自分の思いを押し付けるということではないと思います。
相手がどう受け取るかは措いておいて、自分の思いはこうなんだと堂々と言う。
だから、たとえ相手の不興を買ったとしても、それはそれとして受け止め、
自分の方に非があったとはそれほど考えない。
自分の相手への思いに嘘はないから、ということでしょうか。
このあたり、私にはどうもまだ納得のいく考察ができていません。
元稹からの応酬詩に、自身の元稹への思いを「瞥然塵念」と表現された白居易が、
その数年後、相手に宛てた書簡の中に、この語をさらりと混ぜている、
それをどう解釈したものか、いまだに呑み込めないのです。
(先にこちらでも考察を試みたのですが。)
元稹の「酬楽天八月十五夜禁中独直玩月見寄」詩は、
一見不機嫌そうに肩ひじを張った辞句で埋め尽くされているのですが、
それは、深い信頼関係で結ばれた二人だからこそ成り立つ表現であったのかもしれません。
あるいは、元稹は親友である白居易に対して負の感情をも遠慮なくぶつけたが、
白居易はそれを大きな懐で受けとめ、若干の諧謔の気持ちをも交えて、
数年後の書簡の中に「瞥然塵念」という語を混ぜ込んだのか。
かなり長い間、この語を記憶にとどめていたわけですから、
白居易にとって、かの元稹の応酬詩はかなり堪えるものだったとも考えられます。
彼らの友情を深く理解するためには、
更に多くの作品を読み、また、自身の心情を耕す必要があると思います。
2020年9月15日