根源的な渇望
こんばんは。
今学期は、すべてオンラインの、顔が見えない状態での授業でした。
先には、案外これも悪くないと書きましたが、(それは嘘ではないのですが)
やはり直接言葉を交わすということがどれほど人を元気にするかも身に沁みました。
私のような人間でさえ、人とのちょっとした会話に眼の前が明るくなったりするのです。
まして、曹植のような人が、後半生、兄弟と連絡を取り合うことも禁じられ、
周りに話し相手もいないような環境に捨て置かれていたのですから、
その鬱屈には想像を絶するものがあっただろうと思います。
その前半生、建安年間の彼の作品には、多くの文人たちが登場し、
曹植は彼らと、誠実で自由闊達な交わりを結んでいこうとしていたことがうかがわれます。
そんな彼が、理不尽な孤絶状態に投げ込まれたのですから。
明帝期の曹植が幾度となく朝廷に上奏したのは、
彼が王朝運営への参画に強い意欲を持っていたというよりは、
人間としてもっと根源的な渇望に根差した望みだったのではないかと思います。
2020年8月16日
他者を理解したい
こんばんは。
先日から断続的に考察している「惟漢行」ですが、
曹植はこの楽府詩を作ったことによって魏王朝の不興を買ったらしい。
そのことは、ほぼ同時期に作られた「求自試表」(『文選』巻37)から推し測れます。
では、なぜ「惟漢行」は曹植の境遇を悪化させたのでしょうか。
その頃(太和元年)、明帝曹叡はまだ即位したばかりです。
その時点で、明帝は皇帝として直接曹植と面会したことはありません。
(明帝が曹植ら諸王と再会したのは、太和六年(232)正月前後のことでした。)
先代の文帝には、兄弟たちを冷遇する理由が、彼なりにあったのだろうと思われますが、
(皇帝として適切さに欠ける、多分に私情の介入した理由ではあっても)
明帝に曹植を冷遇しなければならない動機はあったでしょうか。
もしかしたら、明帝その人の判断によるのではなく、
明帝を取り巻く臣下たちが、曹植に対する待遇を決めたのかもしれません。
それを明らかにしたいと思い立ちました。
「惟漢行」には、「求自試表」と照らし合わせて始めて見えてくるものがあります。
「薤露行」と「与楊徳祖書」(『文選』巻42)、
「雑詩」の特に其五と、「責躬詩」及びその上表文(『文選』巻20)との関係も同じです。
詩が、現実に働きかける文章と深く関わりあっていて、
その文章の外側には、それを曹植に書かせるに至った具体的な状況があったはずです。
その具体的背景を押さえなくては、曹植その人の思いには近づけません。
別に作者の人生や思いを明らかにする必要はない、
作者と作品とを切り離して、表現そのものを分析すべきだとする考えもあるでしょう。
ですが、私はそちらの方向ではなく、作者の思いを明らかにする方向を取ります。
自分は元来が狭い人間なので、もっと多くの他者と出会いたいからです。
自身を中心とした同心円を描くのではなくて、
遠く離れた人の思いを核として、あちらとこちらの双方に中心点を持つ曲線を描いていく、
そうすれば、自分の狭い思い込みを打破することができると思っています。
2020年8月15日
知の小人
こんにちは。
交換留学生(ずっと海を隔ててオンライン授業)からの質問を受けて、
筑摩書房『吉川幸次郎全集』の、特に第一巻を縦覧しました。
中国文学の特質は「現実参加の志」にあるということを、
吉川幸次郎という日本の学者が言っていると先の授業で述べたところ、
それについて詳しく知りたいという要望が寄せられたのです。
私の記憶違いであったか、この言葉そのものは見当たりませんでした。
そうした趣旨のことは、本書の随所に記されてはいるのですが。
(どなたか教えていただければありがたいです。)
それはともかく、吉川幸次郎という知の巨人の言葉に触れ、
中国文学の本質について、非常に納得させられるところがありました。
立派すぎる人の言葉に圧倒されると、
若い頃はそれだけで自分の存在意義を見失うのが常でした。
しかし今は違います。
自分は知の小人、これでいくのだと思っています。
今日もひとつ、新たに分かったことがあってよかった。
2020年8月14日
疑問氷解(曹植「惟漢行」)
こんばんは。
曹植「惟漢行」の読みで、ずっと不明瞭だったところが、本日ぱっと見通せました。
それは、以前にも触れたことのある本詩の結び、以下に示す部分です。
在昔懐帝京 在昔 帝京を懐ふに、
日昃不敢寧 日の昃(かたむ)くまで敢へて寧(やすん)ぜず。
済済在公朝 済済たるは公朝に在り、
万載馳其名 万載 其の名を馳す。
まず、3行目の「済済」は、『詩経』大雅「文王」にいう、
済済多士 威厳をもって居並ぶ人士たち、
文王以寧 これでこそ文王の御霊も安寧だ。
を踏まえると見るのがやはり妥当です。
先には、「済済」が文王のあり様を形容する、『詩経』大雅「棫樸」を踏まえるかと考えましたが、
今これを取り下げ、再び「文王」を活かします。
というのは、その前の句「日昃不敢寧」の「寧」にも、
前掲『詩経』大雅「文王」が影響を及ぼしていると見られるからです。
ただし、『詩経』では「文王は以て寧(やす)らかなり」と詠じているところが、
曹植詩はこれを反転させ、「敢へて寧んぜず」としています。
これはいったいどういうことでしょうか。
そこで、「日昃不敢寧」の語釈として新たに追補したいのが、
『史記』巻四・周本紀に、同じ周文王の仕事ぶりについて記す次の記述です。
礼下賢者、日中不暇食以待士。士以此多帰之。
(周文王は)礼儀正しい態度で賢者にへりくだり、
日が高く昇るまで食事をする時間も惜しんで優れた人士をもてなした。
人士たちは、これによって多く周文王に帰順することとなった。
『書経』無逸篇にいう「自朝至于日中昃、不遑暇食」だけでは、
周文王が、どのような仕事に対して、寸暇を惜しんで励んでいたのかが不明瞭ですが、
この『史記』周本紀の記述と併せて読むならば、それが明らかとなります。
周文王は、人材登用という仕事に対して「敢へて寧んぜず」であった、
つまり、現状に満足することなく、優れた人士の招聘に努め続けたということです。
以上を踏まえて、先の四句を次のように通釈し直します。
その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
今は亡き先代は、日の傾くまで休息もせず、人材登用に努めたものだ。
その結果、大勢集まった人士たちが、威厳をもって朝廷に居並び、
永遠にその名声を馳せることとなったのだ。
ここにいう「今は亡き先代」とは、
『書経』無逸篇を記した周公旦から見ての先代、すなわち周文王であり、
同時に、今、周公旦に自らを重ねている曹植から見ての先代、すなわち曹操を指します。
2020年8月13日
驚く力
こんばんは。
先ほど、概説的な科目のレポートを採点し終わりました。
成績評価というものがなければ、教員も学生も幸福なのに、といつも思います。
どうしても、このようなことを書けば評価されるのではないかという打算が見えるものがあって、
そうした姿勢になってしまうことに同情はしますが(大学受験の弊害)、
少なくとも私は「そういうのは評価しないの、ごめんね」ということになります。
というか、人を評価するとかしないとか、そういうこと自体が嫌い。
思いもよらなかったことを新たに知って驚く、
そんな体験がひとつでもあれば十分ではないかと思うのです。
(そんなことを言うのは現代日本の大学教員としては落ちこぼれでしょうけど)
だから、「授業を通して中国文学に対する認識が変わったこと」を書いてもらいました。
驚くということにはある種のエネルギーが要る、と気付かされました。
たとえば、中国古典文学といえば、教訓的で硬い儒教のイメージが一般的ですが、
そうではないものもあった、として志怪小説を挙げるのと、
儒教そのものに対する認識が変化したことを述べるのとでは次元が違います。
前者は、儒教というものの本質については保留したまま、別の分野に目を向けている、
後者の場合は、儒教に対する自身の先入観が切り払われて、そこで新しい思想に出会っているのです。
後者のような驚きを感じる人が、ひとりでも多く出てきてくれればと思います。
2020年8月12日
自己満足とは別のもの
こんばんは。
ここに書いていることは、基本、自分の日々の研究上の気づきです(何もない日もある)。
けれども、それは自己満足とは別のものです。
むしろ、自己満足から脱したくて書いていると言ってもよいくらい。
書くということは、否応なく、自身を客体化する知力を鍛えあげてくれます。
ですから、自分個人の考察を書いてはいますが、閉じているわけではなくて、
これはいつかきっと誰かのもとには届くだろうと信じているのです。
ですが、それとは別に、啓蒙というものの必要性を近年とみに感じます。
この分野が絶滅危惧種のような状態にあると自覚しているから。
(中国古典的教養が日本から失われていくことはたいへんな損失です。)
だから、多くの人に中国古典の面白さを伝導できる人はすばらしいと思います。
他方、本当は、皆が協力し合ってそれをやるべきなのではないか、
そういう状態まで来ているのではないか、とも思います。
(もちろん、そうした入門書が皆無というわけではありませんが。)
ただ、自分は定説を過不足なく伝えるということがとても下手です。
だから、せめて、この不器用な有り様を見ていただいて、
こんなに右往左往しながら考えていくのか、
全然計画どおりなんかじゃないんだな、
それでも、なんだか楽しそうだな、
と思ってもらえれば、と思っています。
2020年8月11日
結節点に位置する作品
こんばんは。
曹植は「惟漢行」において、魏王室の一員たらんとする意欲を詠じていました。
この作品は、彼の生涯において重要な位置を占めていると見られます。
というのは、この作品以後とそれ以前とでは、
曹植の王朝に対するスタンスに歴然たる違いが認められるように思うからです。
「惟漢行」以降の曹植は、
王朝運営に参画できない自己不遇感と絶望に塗りつぶされていきます。
このことは、「怨歌行」及び明帝期に書かれた数々の文章が物語っているとおりです。
そして、この時期の曹植は、絶望の淵に身を置きながらも、
自身の能力を発揮する機会を求め続ける姿勢においては一貫しています。
では、「惟漢行」以前、すなわち文帝期の曹植はどうだったのでしょうか。
この時期の作と推定されている文章を縦覧すると、*
魏朝の成立を慶賀する「慶文帝受禅表」「魏徳論」「上九尾狐表」「龍見賀表」などの文章、
あるいは以前にも述べたことがある、兄の文帝曹丕に貢ぎ物を奉る文章、
そして、自身の過ちを詫びる「責躬詩」及びその上表文、自戒の文章「写灌均上事令」、
このような類の、自らを低く置くような作品が目に付く一方、
主体的に王朝運営に携わろうとする意欲を示すものはほとんど認められません。
文帝期の曹植は、厳しい監視下で、我が身を守るのに精いっぱいだったように看取されます。
魏朝成立後の曹植は、たしかにずっと不遇でしたが、
このように見てくると、その鬱屈は一様ではなかったように思われます。
文帝期の不自由な精神的軟禁状態から、
主体的な現実参加を思い立ってすぐに挫折した明帝期初頭、
その挫折を挽回しようとして果たせなかった明帝期の半ばに当たる最晩年。
文帝期から明帝期へ、色が変わる結節点に位置するのが「惟漢行」なのだと考えます。
2020年8月10日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)の編年を参照。ただし、「龍見賀表」は、魏朝成立期ではなく、黄初三年の作かと推測されている。同書p.251を参照。(2022.07.19追記)
西晋時代の「相和」
こんばんは。
曹植の「相和」歌辞制作は、
一種の不敬罪に当たった可能性があると考えられる背景を昨日述べました。
では、魏王朝が西晋王朝に移ってからはどうだったのでしょう。
「相和」の替え歌を作るのは、西晋時代でも憚られるようなことだったのでしょうか。
西晋の傅玄(217―278)には、曹植と同じく、
曹操「薤露・惟漢二十二世」に基づく「惟漢行」があります。
もし傅玄の「惟漢行」が西晋時代に入ってから作られたのであれば、*1
当時「相和」はすでに、宮廷音楽としての位置にはなかったと見ることができるかもしれません。
一方、陸機(261―303)には「相和」歌辞が一首もありません。*2
彼は多くの楽府詩を残していますが、それらは「清商三調」か雑曲に属するものです。
このことをどう見るべきでしょうか。
西晋時代、「相和」はやはり宮廷音楽としての威厳を保っていたのか、
それとも、宮廷音楽ではなくなっていたけれども、陸機が新歌辞を作らなかったのか。
もし後者であった場合、たまたま心が惹かれなくて作らなかっただけなのか、
それとも、何らかの理由があって、作ることを敢えて回避したのか。
そのあたりのことを明らかにしたいのですが、
西晋王朝における「相和」演奏の実態はなんとも不明瞭です。
『宋書』巻21・楽志三では、
魏の「相和」諸歌辞の後に続けて、西晋の荀勗が編成した「清商三調」が列記され、
「相和」の宮廷音楽としての命脈については、特に明記されていません。
『楽府詩集』巻26・27・28では、
そこに収載する「相和」諸歌辞のひとつひとつに、
「魏楽所奏」「魏晋楽所奏」「晋楽所奏」といった付記が見えています。
ですが、これも以前に述べたとおり、根拠が不明です。
また同じ行き止まりに来てしまいました。
後で再び逢着したときのために、ここに旗を立てておきます。
2020年8月9日
*1 傅玄「惟漢行」が魏の時代に作られた可能性はゼロではない。その場合は、宮廷音楽の、しかも王朝の創始者が作った歌辞にかぶせて替え歌を作るということも、無名の作者であるがゆえに問題視されなかったという解釈も成り立つ。
*2 陸機の楽府詩のうち、『楽府詩集』に、狭義の「相和」に属するものとして収録されている作品はある。だが、そのいずれもが本来の「相和」ではない。「挽歌」は、『楽府詩集』巻27に、「薤露」「蒿里」に続けて収録されているが、これは内容的なつながりから関連付けられただけであろうか、明確な根拠は示されていない。また、「日出東南隅行」は、同巻28に、「陌上桑(艶歌羅敷行)」に連なるものとして引かれているが、そもそも「艶歌羅敷行・日出東南隅」は、『宋書』楽志三には「大曲」として収載される作品であり、『楽府詩集』同巻に引く陳の釈智匠『古今楽録』は、「「陌上桑」歌瑟調古辞「艶歌羅敷行」日出東南隅篇(「陌上桑」は、瑟調古辞「艶歌羅敷行」日出東南隅篇を歌ふ)」と記す。つまり、もともと「艶歌羅敷行」は瑟調曲であったのが、ある時期からその歌辞が「陌上桑」として(その楽曲に乗せて?)歌われるようになったということである。この古辞「艶歌羅敷行」に基づくことが明白な陸機「日出東南隅行」は、もとより「相和」の「陌上桑」を踏襲したのではない。(2020.08.10追記)
「相和」歌辞制作という不遜
こんばんは。
昨日取り上げた曹植「惟漢行」について、
「相和」の歌辞を作ったということが不遜とされた可能性を指摘しました。
なぜそのように推測し得るのか、少し追記します。
「相和」は、別紙のとおり、魏の宮中で演奏された歌曲群です。
他方、魏晋の時代、「清商三調」と総称される歌曲群が別にありました。
「相和」と「清商三調」とは、北宋末の『楽府詩集』では相和歌辞と総称されていますが、
少なくとも魏晋当時においては、両者は明確に区別されていたと判断されます。
「相和」と「清商三調」との異質性として、
まず、「相和」諸歌曲は、歌辞と楽曲とが基本的に一対一で対応しますが、
「清商三調」は、一つの楽府題(楽曲)に対して複数の歌辞がある、
つまり、誰でもその替え歌を作ることができるようなものであったと思われます。
また、「相和」にはその来歴が非常に古いものが多いのに対して、
「清商三調」は相対的に新しく、古辞であっても遡って後漢時代あたりまでです。
更に、「古詩」との影響関係は、「清商三調」の方にのみ認められます。
総じて、「清商三調」は当時の游宴の場で作られた歌辞であり、
「相和」は、漢王朝以来の、何か特別な来歴を持つ歌曲群であったと推測されます。
それゆえ、「相和」歌辞の作者は、詠み人知らず、武帝曹操、文帝曹丕に限定されるのでしょう。
(以上のことについては、こちらの学術論文№17,19に詳しく論じました。)*
ところが、こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」を見てみると、
「相和」諸曲に対して、別の歌辞を付けた者としては以下の数例があり、
うち、魏王朝当時の作者としては曹植のみです。
・曹植「薤露行」 ・張駿(前涼の君主)「薤露」
・曹植「惟漢行」 ・傅玄(西晋王朝の文人)「惟漢行」
・曹植「平陵東」
曹植にしてみれば、
我が父の「薤露・惟漢二十二世」に寄せて新歌辞を作るのに何の問題もなかったでしょう。
ですが、同時代の口さがない連中は、
誰もが敢えて手を触れないものに触れた、とこれを非難したかもしれません。
冒頭に述べたことは、以上のような検討を経ての推測です。
2020年8月8日
*「清商三調」は、『宋書』巻21・楽志三の定義によるならば、西晋王朝の宮廷音楽のために、荀勗が漢魏の旧詞から選び出した歌曲である。ここでは、荀勗に選び取られる以前、魏王朝もしくは後漢末の建安文壇において、「清商三調」の楽曲にのせて作られた歌辞を指すものとして述べた。
曹植の「惟漢行」と「怨歌行」
こんばんは。
先日来、試行錯誤しつつ検討してきた、
曹植の「惟漢行」(たとえばこちら)と「怨歌行」(直近はこちら)は、
ともに明帝期に入ってからの作だと推定されます。
そして、両作品とも周公旦の故事に触れているという共通項を持っています。
では、この二首の楽府詩はどのような関係にあるのでしょうか。
「惟漢行」の「日昃不敢寧」という句は、
周公旦が成王に文王の事蹟を説いて聞かせる『書経』無逸篇を踏まえています。
そのことから、この楽府詩は、作者である曹植が自身を周公旦に重ね、
曹操の逸話をも示しつつ、若き明帝を戒める趣旨で作ったものだと推定されたのでした。
一方の「怨歌行」は、ほぼ全篇、周公旦の逸話を述べるものです。
周王室を補佐しながら、身内の管叔鮮と蔡叔度から讒言されて東国へ流され、
のちに天威によってその赤心が明らかにされ、成王の信頼を回復するという一連の故事が、
もっぱら『書経』金縢篇の記述に基づいて詠じられています。
この両作品は、いずれが先に作られたのでしょうか。
このことについて、次のように見るのが最も妥当ではないかと考えます。
まず、明帝が即位して間もない頃、曹植は上記の意図から「惟漢行」を作ったと思われます。
それは、王朝運営への参画の抱負を詠じた「薤露行」の続編としてであったでしょう。
この楽府詩には、不思議なほどまっすぐにその志が映じられています。
ところが、「惟漢行」に表明された志は、魏王朝には認められなかったようです。
それは、骨肉には王朝運営に関わらせないという、魏王朝草創期からの方針によるものか、
あるいは、曹操「薤露」に基づくということが、王朝の滅亡を連想させたためか、
はたまた、宮廷歌曲「相和」の歌辞を作ったことが不遜と捉えられたか、
その理由は状況から推測するほかないのですが、ともかく、
これは曹植にとって、大きな挫折であったことは間違いありません。
そこで、この「惟漢行」に起因する不遇を打破しようとして、
周公旦の不遇と名誉回復とを詠ずる「怨歌行」を作り、その赤心を示そうとしたのではないか、
つまり、「惟漢行」の後を受けて「怨歌行」が作られたのだと私は推測します。
なお、曹植における「怨歌行」制作の意図は、
明帝期、曹植が盛んに王朝に対して上奏をしていることと機軸を一にするでしょう。
たとえば、「求自試表」「求通親親表」「陳審挙表」は、「怨歌行」の詠ずるテーマに通じます。
(三篇とも『三国志』巻19「陳思王植伝」に引く。前二者は『文選』巻37にも収載。)
その他、「輔臣論」「諫取諸国士息表」「諫伐遼東表」といった作品も同種と見なせるでしょう。
こうした作品は、前の文帝期には認められないものです。
2020年8月7日