上陽宮の月

こんばんは。

昨晩の続きです。
月に時の経過を重ねて表現する例は、
そういえば、白居易の新楽府「上陽白髪人」(『白氏文集』巻3、0131)にもありました。
後宮に入れられた美しい少女が、楊貴妃の嫉妬を受けて、
洛陽の上陽宮に閉じ込められたまま長い歳月を過ごして年老いたという歌物語です。
その中に、次のようなくだりが見えています。

秋夜長      秋の夜は長く、
夜長無睡天不明  長い夜を一睡もせずに過ごしても、夜は明けない。
耿耿残灯背壁影  耿耿と照らす残灯の、壁にゆらめく光、
蕭蕭暗雨打窓声  蕭蕭としめやかに降る雨の、窓を打つ音。
春日遅      春の日はゆっくりと過ぎ、
日遅独坐天難暮  ゆっくり過ぎる午後に一人でいると、日はなかなか暮れてくれない。
宮鴬百囀愁厭聞  宮殿の鴬が盛んに囀っても、憂いの中ではこれを聞くのも鬱陶しく、
梁燕双栖老休妬  梁上の燕がつがいで巣を作っても、年老いた私は妬む気にもならない。
鴬帰燕去情悄然  鴬や燕が去っていって、気持ちはしょんぼりと沈み、
春往秋来不記年  春が去り秋が来て、もう何年が過ぎたかも覚えていない。
唯向深宮望明月  ただ奥まった宮殿の中で明月を仰ぎ見ていたが、
東西四五百廻円  東から西へと渡ってゆく月が、四五百回は丸くなっただろうか。

たしかに、繰り返される月の運行に、時の移ろいを重ねて詠じてはいますが、
この女性の心に刻印されるのは、満月だけのようです。
それを目印に、過ぎ去った歳月の堆積を実感しているのです。
そこが、私たち日本人の感性とは違っているかもしれないと思いました。
満ち欠けする月のひとつひとつに目を留めて、
寝待月とか、いざよひ月とか、情感豊かな名で呼んでいる細やかさが、
中国文学にはあっただろうかとふと立ち止まりました。
(私が知らないだけなのかもしれませんが。)

2020年9月1日

時を刻む月

こんばんは。

一昨日ほど前から、夜空の月が明々ときれいです。
今年は冬から春を経て夏へと、ほとんど季節感のない日々を送りながら、
満ち欠けを幾度も繰り返す月に時の移ろいを実感していました。
先日、新月の闇から出発したと思っていたのに、
もう満月が明後日に迫っています。

唐の詩人たちは、満月を眺めては遠くにいる人に思いを馳せますが、
それだけでなく、月に時の経過をも感じていたのではないかとふと思いました。

元稹に「江楼月」という詩があります。
この詩は、先に白居易詩との関係で触れたことがありますが
彼が江陵に左遷される前の年、東川(四川省)への旅の途上で作った詩です。

嘉陵江岸駅楼中  嘉陵江の岸辺、駅舎の高楼の中、
江在楼前月在空  江水は高楼の前を流れ、月は空に懸かっている。
月色満牀兼満地  月光の色はベッドに満ち溢れ、そして地上にもあまねく満ちていて、
江声如鼓復如風  江の水音は、打ち鳴らす太鼓のようであり、また吹きすさぶ風のようでもある。
誠知遠近皆三五  たしかに、遠い都もここも、いずこも同じ十五夜であることはわかってはいるが、
但恐陰晴有異同  ただ、晴れているかどうか、天気に違いがあるのではないかと心配だ。
万一帝郷還潔白  もし都がまた白々と輝く清らかな光に照らされているならば、
幾人潜傍杏園東  何人か、こっそりと杏園の東に近づいて月を愛でているだろうか。

元稹は、都を離れてから毎夜、形を変えていく月を眺めてきたのでしょう。
あるいは蜀への出張を前に、都の友人たちと満月を愛でつつ宴を楽しんだのかもしれません。
そう想像するならば、最後から二句目、「還」と言っているわけが納得できます。

月は、広大な空間を超えて人と人とを結びつけるだけでなく、
その満ち欠けが、積み重なってゆく時の経過を刻むものでもあると実感しました。

2020年8月31日

 

区切られた時間の共有

こんばんは。

本日、やっと動画作成の作業が終わりました。
完璧さを目指すより、予想外のことが生じる面白さに賭ける、
とか昨日は豪語していましたが、
結局、そんなミラクルは起こることもなく、
あちらこちらに小さな綻びがあるといった風なものになりました。
話している最中に、スライドの中にある衍字に気づいて急遽訂正する、
といった大破綻さえもありましたが、もうそれはそのまま残すことにしました。

で、オンライン授業と何が違っていたのだろう、と考えてみました。
授業では、自分としては例年になく、“ミラクル”が多かったものですから。
(聞いている学生さんたちからしたら、“?”だったかもしれませんが。)

使っているのは、同じパワーポイント、PCももちろん同じです。
それで、違っているのは、聞いている人たちとの時間の共有の有無だと思い至りました。

リアルに目の前に学生さんたちがいなくても、
授業の時間が来ると、[会議室]にひとりまたひとりと受講生が入って来ます。
そして、その学生さんたちと、限られた時間を共有しながら、何事かを進めていくのです。
その時間は二度と後戻りできないものです。
この固有の一回性が、ある種の圧になっていたのかと思い至りました。

いつでも視聴できるものとして提供する動画には、それがない、
だから、完成度も高くなく(これは私に限ってのことです)、
かといってライブ感覚にも乏しいものになったのだなとわかりました。

とはいえ、期限までに提出するという限定的時間の中では精いっぱいやりました。
ひとりでも受講希望者がいる限りは全力を尽くします。

2020年8月30日

原稿と思考

こんばんは。

今日は一日、教免更新講習の動画を作成していました。
パワーポイントのスライドに音声を重ねていくという方法なので、
それなら慣れている、すぐにできるだろう、と甘く見ていたらとんでもなかった。
リアルタイムで即興的にコメントを入れながらスライドを提示していくのと、
スライドと音声をきちんと録画するのとではまるで違っていました。

少しやってみて、これは即興では太刀打ちできないと思ったので、
話す内容をすべて書き出した原稿を作ってやってみたら、
なぜか、反対にいよいよ狭い路地に迷い込んでしまったような感じになりました。

原稿があると、それを読み上げればいいと安心するからか、
頭の中が停止して、なにかすべてを人任せにしてしまったように心もとなくなります。

やっぱり、大まかなメモ(スライドで十分)を持つくらいで、
あとは大筋それに乗り、考察内容を追体験しながらしゃべる方が好みです。
言い間違ったり、不用意な沈黙が生じたりしても、そちらの方がずっと面白く感じます。
(受講される方々も、少しの聞き苦しさは許してくださるでしょう。)

原稿を準備すると、その原稿以上のことは脳裏に浮かびませんが、
それが無いと、ふわっと離陸するように、予想外のことを話し始めることがあります。
その楽しさの方に賭けて、完璧さを目指す心は捨てようと思います。

それにしても、即興的ミュージシャンの人たちはすごい。
それを心底実感しました。

2020年8月29日

傅玄「惟漢行」の通釈

こんばんは。

今年の教免更新講習の教材のひとつに、
傅玄「惟漢行」(『楽府詩集』巻27)を加えました。
この楽府詩は、漢文の教科書によく採録されている「鴻門の会」を詠じていて、
歴史故事「鴻門の会」が、宴席で上演されていたことを示す格好の資料であるからです。
こちらの学会発表№17の概要をご参照いただければ幸いです。)

以下、本詩の通釈を載せておきます。

危哉鴻門会  切迫した場面だ、鴻門の会は。
沛公幾不還   沛公(劉邦)はほとんど戻れないところだった。
軽装入人軍   軽装で相手方の軍に入り、
投身湯火間   身を湯火の中に投げ入れた。
両雄不倶立   両雄は並び立つことはできないと、
亜父見此権   亜父(范増)はこの沛公の威勢を見て思った。
項荘奮剣起   項荘は剣を奮って立ち上がる、
白刃何翩翩   その白刃のなんと軽やかであることか。
伯身雖為蔽   項伯は身を挺して沛公を庇ったけれども、
事促不及旋   事態は切迫して危険から連れ戻すまでには至らない。
張良慴坐側   張良は恐れおののいて傍らに坐り、
高祖変龍顔   高祖(劉邦)は顔色を変える。
頼得樊将軍   そこへ、幸いにも樊将軍(樊噲)が現れて、
虎叱項王前   虎のように項王(項羽)を叱り飛ばして進み出た。
嗔目駭三軍   目を怒らせて全軍を震え上がらせ、
磨牙咀豚肩   歯牙を磨き上げて豚の肩の肉に食らいつく。
空巵譲覇主   一斗の大杯を飲み干して覇主(項羽)に譲の拝礼をし、
臨急吐奇言   急場に臨んで凄みのある啖呵を切った。
威凌万乗主   その威勢は一国の主をも凌駕し、
指顧回泰山   あっという間に状況を大きく一転させた。
神龍困鼎鑊   神龍(劉邦)が釜茹でにされそうな窮地に陥っていたのを、
非噲豈得全   樊噲でなければ誰が救い出すことができただろう。
狗屠登上将   卑しい犬の屠殺者(樊噲)は、上将の地位にまで登って、
功業信不原   手柄を上げることに対して、本当に謙遜してみせたりはしないのだ。
健児実可慕   勇ましい兵士こそ、真に心を寄せるべき者たちである。
腐儒安足歎   腐りきった学者など、どうして感嘆に値しよう。

最後から三句目「功業信不原」の「原」の意味は待考。
「郷愿」の「愿(=原)」と捉えましたが、まだすっきりと解釈できません。

2020年8月28日

文学研究にできること

こんばんは。

津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38、2005年)
が届きました。
以下、その概略を記しておきます。

『魏志』陳思王植伝の記述内容には、
『陳思王曹植集』に収録されていたと見られる佚文等と食い違う点が少なくない。
本伝は、「不遇」を訴える曹植自身の文章を巧みに取り入れながら作り上げられたものであり、
事実としては、彼の処遇には後漢時代の諸王と比べてそれほどの落差はない。
このように、陳寿が事実を歪めてまで曹植の不遇を強調しようとしたのは、
西晋当時の、武帝司馬炎による、同母弟・斉王攸に対する冷遇という問題に対して、
これを批判する立場を陳寿が取っていたためである。
他方、曹植らが王朝運営への関与を強く望んだことの思想的背景として、
積極的に至親輔政を主張する『周礼』国家観の高まりがあった。
これも斉王攸の輔政を望む世論と重なっている。

司馬炎と斉王攸との関係が、曹丕と曹植との関係に重なるということには、私も同感です。
(西晋王朝で、曹植「七哀詩」が「怨詩行」に改変されて歌われたのも同源だと考えます。)

他方、陳寿の『三国志』執筆に、そこまでバイアスがかかっているとは思い至りませんでした。
たしかに、曹植の事績が史料によって食い違い、事実を突き止め難いことは多いです。
今後は、正史の本文だからといって鵜呑みにしないように注意したいと思います。

今回も、非常に多くの史料や先行研究を教えられました。
その一方で、では、文学研究の立場としてできることは何だろうとも思いました。
曹植の訴えを主観的な自己申告とみなし、その信憑性を検討することが本当に必要なのか。
そもそも文学に、客観というものがあるのかどうか。
その言葉を残した人にとっての内的真実があるだけなのではないか。
そこを全力で掘り下げることによって、はじめて歴史学と対等の立場に立てるのだと思います。

2020年8月27日

荀勗の仕事

こんばんは。

曹植の「七哀詩」を、西晋王朝の宮廷歌曲「怨詩行」にアレンジした荀勗。
今、その彼が宮廷儀式のために作った歌辞を読んでいます。

もっとも、『宋書』楽志一・二では、彼単独の作とは記されていません。
初唐に成った『晋書』の楽志上には、荀勗の名が明記されています。
初唐までは、具体的な詳細を記す資料が伝存していたのでしょうか。
その『晋書』を、北宋末の『楽府詩集』が踏襲しているようです。

昨日言及した拙論の中で、荀勗が権力の中枢に居座って何をしたかを書きましたが、
そんな彼が、儒家的な仁徳を備えた君主の美質を歌いあげています。
仕事だと、自身から乖離したことも書けてしまうのでしょうか。

当時の儒家的な思想類型に収まっているので、
歌辞の意味が取れなくて困ることはほとんどありません。

一方、古典を踏まえた表現(ほぼ引用)が無秩序に埋め込まれていて、
しかもそれがアンバランスな配置なので、どこにそれが隠れているかが読めません。
たとえば、ひと連なりの二句の、片方には経書からの引用、片方にはそれが無いといったような。

荀勗は詩作が下手なんだろうか、と疑いたくなるような印象です。

2020年8月26日

曹丕も薄葬(追記で結び)

こんばんは。

昨日は、曹操・曹丕父子の薄葬をめぐる雑感へと話が逸れて、
大事なこと(拙論の修正点)を忘れていました。

修正すべきは、次のくだりです。

「曹丕が眠る首陽陵には、当時の慣習により立派な松柏が植えられていただろう。」

阮籍の「詠懐詩」にも詠じられていたとおり、
首陽陵には実際、松柏(を含む種々の常緑樹)が植わっていたと思われます。
ですが、それは、わざわざ植えられたのではなく、
もともと樹木の植わっていた首陽山の一角を陵墓にしたということでした。
それが、曹丕の「終制」によって理解を改めるべき点です。

一方、肝心な部分はそのままで通りそうです。
(何度か書いているのですが、しつこく再度記します。)

すなわち、西晋王朝で演奏された歌曲「怨詩行」は、
本辞の曹植「七哀詩」を、次の点で改変しているのですが、

1、「君若清路塵、妾若濁水泥」を「君為高山柏、妾為濁水泥」へ
2、詩中に吹く風を「西南風」から「東北風」へ

この改変を施された「怨詩行」は、
兄曹丕の陵墓に向かってさまよい続ける曹植の魂を慰める歌だという解釈です。

1の改変は、対句としてはアンバランスですが、
敢えてそうした理由というものがあるはずだと考えた結果です。

2020年8月25日

曹丕も薄葬(続き)

こんばんは。

昨日言及した曹丕の「終制」は、
なんと『三国志』巻2・文帝紀、黄初三年の冬十月の条にありました。
(どうして気づけなかったのか悔しい限りです。)

その中、次のような記述は、曹植「文帝誄」に踏襲されています。

昔堯葬于穀林、通樹之、……故葬於山林、則合於山林。封樹之制、非上古也、吾無取焉。寿陵因山為体、無為封樹。無立寝殿、造園邑、通神道。……
無施葦炭、無蔵金銀銅鉄、一以瓦器、合古塗車・芻霊之義。

昔 堯は穀林に葬られ、通じて之を樹う、……故に山林に葬れば、則ち山林に合す。封樹の制は、上古に非ざれば、吾はここに取る無し。寿陵は山に因りて体を為し、封樹を為すこと無かれ。寝殿を立て、園邑を造り、神道を通ずること無かれ。……
葦炭を施す無く、金銀銅鉄を蔵する無く、一に瓦器を以てし、古の塗車・芻霊の義に合せよ。

薄葬は、彼らの父曹操も遺言していますが、興味深いのはそれを命じた理由です。

曹操の遺令(『三国志』巻1・武帝紀)に見えているのは、
「天下尚未安定、未得遵古也(天下は尚ほ未だ安定せず、未だ古に遵ふを得ざるなり」という言葉、
他方、曹丕が気にしているのは、盗掘されて辱めを受けるということです。

同じ薄葬を命ずるのでも、曹丕にそこはかとなく漂う小物感。
為政者としての器の違いというしかないです。

2020年8月24日

曹丕も薄葬

こんばんは。

昨年の冬、九州国立博物館で開催された特別展「三国志」を見に行って、
曹魏の墓の埋葬品が、立派な蜀のそれと比べて非常に質素であることに打たれました。

その図録に収録する陳彦堂「曹操高陵の考古発見と研究」第四章に、
「高陵が反映する曹魏時代の喪葬制度」と題して、曹魏の薄葬の実態が論じられています。

曹操と曹植が、それぞれの遺言に従って質素に葬られたとは認識していましたが、
曹丕もそうであったとは、この論文を通して初めて知りました。

『三国志』巻2・文帝紀に記された曹丕の葬儀に関する記事、
「自殯及葬、皆以終制従事(殯より葬に及ぶまで、皆終制を以て従事せしむ)」を、
先には、一般に規定する皇帝の葬礼制度に則って葬られたのだと解釈していたのでしたが、
こちらの学術論文№43では、この認識に基づいて論じています。要再考です。)
曹丕には「終制」という文章があって、それに具体的な指示が見えているのだそうです。
また、曹植「文帝誄」(『曹集詮評』巻10)に見える次のくだりからも、
曹丕が自らの「終制」どおりに埋葬されたことが確認できると述べられています。

乃創玄宇、基為首陽。 乃ち玄宇を創り、基づくに首陽を為す。
擬迹穀林、追堯慕唐。 迹を穀林に擬し、堯を追ひ唐を慕ふ。
合山同陵、不樹不疆。 山を合して陵と同じくし、樹へず疆せず。
塗車芻霊、珠玉靡蔵。 塗車芻霊、珠玉 蔵する靡(な)し。
百神警侍、来賓幽堂。 百神 警侍し、賓を幽堂に来らしむ。

ただし、魏末の阮籍「詠懐詩」其六十四は、
「首陽の基」を「松柏は鬱として森沈たり」と描写していますから、
あるいは文帝が埋葬されて以後、松柏がその陵墓に植えられたのかもしれません。

いずれにせよ、薄葬を命じた曹丕に対して、少し認識を改めました。

2020年8月23日

1 48 49 50 51 52 53 54 55 56 82