周公旦と宴

こんばんは。

曹植における周公旦への意識は、
甥の曹叡が明帝として即位した頃から浮上してきたかと思っていましたが、
調べてみるとそうでもなさそうだということがわかりました。

周公旦は歴史上の大有名人ですから、それは当然です。
たとえば、曹植は歴史上の大人物たちを取り上げて賛を作っていますが、
その中に、三皇五帝らに並んで、周の文王、武王、周公旦、成王の賛が見えています。
(丁晏『曹集詮評』巻6)

また、宴の楽しみを詠じた「娯賓賦」(『曹集詮評』巻1)に、次のような句が見えています。

文人騁其妙説兮 文人は其の妙説を騁(は)せ、
飛軽翰而成章  軽翰を飛ばして章を成す。
談在昔之清風兮 談は昔の清風に在り、
総賢聖之紀綱  賢聖の紀綱を総(す)ぶ。
欣公子之高義兮 公子の高義を欣ぶ、
徳芬芳其若蘭  徳は芬芳として其れ蘭の若し。
揚仁恩於白屋兮 仁恩を白屋に揚ぐること、
踰周公之棄餐  周公の餐を棄つるを踰ゆ。
聴仁風以忘憂兮 仁風を聴きて以て憂を忘れ、
美酒清而肴甘  美酒は清くして肴は甘し。

「白屋」とは、貧者の住まう粗末な家で、
一句は、周公旦がそうしたところからすぐれた人物を推挙したことを言います。
「周公之棄餐」とは、周公旦が食事も中断してすぐれた来客を迎えたことを言います。
いずれも、『韓詩外伝』巻三に見えている語句や故事です。

ところで、この典故は、曹操の「短歌行・対酒」(『宋書』巻21・楽志三、『文選』巻27)にも、
「周公吐哺、天下帰心(周公は哺を吐きて、天下は心を帰す)」と見えています。

曹操の「短歌行」も、宴の歌です。
つまり、曹植「娯賓賦」と同様な情景を詠じています。
もしかしたら、両作品は、何らかのつながりを持っているのかもしれません。

2020年7月27日

考察と論述と

こんばんは。

曹植の「薤露行」「惟漢行」に関する考察をひととおり終えて、
今日は凪のような一日でした。

自身が立てた問いについて、
ここまで調査、読解、考察を重ねてきましたが、
ひととおり、自分なりに納得のいく答えが導き出せたところで、
今度はそれらを俯瞰しつつ再構成していく作業です。

考察することと論述することとは別物で、
自分の考察してきた経過をそのまま再現しただけでは、
人にすんなりと理解してもらえるものにはならないと思っています。

自分のわからない部分を突破していくことの方が楽しいけれど、
わかってもらえた瞬間のうれしさはまた格別ですから、
ここは頭を切り替えて、再出発します。

2020年7月26日

「薤露行」と「惟漢行」

こんばんは。

曹植における「惟漢行」は、
その「薤露行」の続編であるとの仮説を昨日述べました。

ですが、曹植の「惟漢行」と「薤露行」とは句数が異なっています。
「薤露行」は、曹操の「薤露・惟漢二十二世」と同数の句を持っていますが、
(そのことが意味することは、先にこちらで推測しました。)
曹操「薤露」に拠っていることをその楽府題が明示している「惟漢行」は、
曹操「薤露」や曹植「薤露行」よりも四句多いのです。
このことをどう考えるべきでしょうか。

曹植が「惟漢行」歌辞を作ったとき、
曹操「薤露」は、「相和」の一曲として魏の宮中で歌われていました。
ですから、そのメロディは当然生きています。
だからこそ、葬送歌であるというその本来の意味を離れて、
先行作品とは異なる内容の歌辞をそれに乗せることもできたのだと言えます。
(新歌辞が楽府題の意味に沿って作られるのは、そのメロディが滅びてからです。)

それなのに、曹植の「惟漢行」は、曹操「薤露」と句数が同じではない。
このことは、両者の拠ったメロディが果たして同じなのか、私たちに疑念を抱かせます。

さらに、西晋の傅玄には、曹植「惟漢行」と同じ楽府題を持つ作品がありますが、
傅玄「惟漢行」の句数は、曹植のそれとも、曹操「薤露・惟漢二十二世」とも異なっています。
傅玄は、魏から西晋時代を生きた人なので、彼もまた当然、
「相和」の一曲として歌われる曹操「薤露」を聞き知っていたはずなのですが。

曹操「薤露」は16句、曹植「惟漢行」は20句、傅玄「惟漢行」は26句、
三者はいずれも五言ではありますが、句数においてこれを貫く法則性は見出せません。
他方、曹操「薤露」の本辞である「薤露」古辞は、
崔豹『古今注』(『文選』巻28、陸機「挽歌詩三首」李善注引)に記すところでは七言3句、
いよいよ魏楽所奏「相和」の「薤露」とは乖離しています。

「薤露」の楽曲が現存していない以上、これより先には遡れませんが、
少なくとも、曹植「惟漢行」と曹操「薤露」や曹植「薤露行」の句数が一致しないということが、
すなわち双方の無関係性を意味するわけでもない、ということは言えるかと思います。
あるいは曲全体やその一節を繰り返したり、
あるいはまた、歌辞の一部をメロディの枠からあふれさせてみたり、
言葉と音楽との関係が、想像する以上にゆるやかであった可能性が考えられます。

2020年7月25日

妄想改め仮説として

おはようございます。

先日来の検討を通して、
曹植の「惟漢行」は、明帝を戒める趣旨で作られたという見通しが立ちました。

では、なぜそのような内容を、「薤露」という楽曲に乗せる必要があったのでしょうか。

曹操「薤露・惟漢二十二世」が保持する葬送歌としての要素を、
曹植「惟漢行」は持っていません。
「薤露」が本来的に持つこの要素を加えて深読みすればするほど、
曹植「惟漢行」の読みは破綻してしまう、そのことは先にも述べたとおりです

前述のような内容を歌に乗せて表現しようとするならば、
別に「薤露」でなくても、様々にある歌曲のひとつを選べばよかったはずです。

そこで想起されるのが、
曹植には、「薤露」に基づく楽府詩が二篇あったということです。
もう一篇の「薤露行」は、曹操の「薤露」と同じ句数を持ち、
そこに開陳されているのは、これもまた葬送歌とは関わりのない、現実参加への意欲です。

「薤露行」は、古直が指摘する「与楊徳祖書」との近似性により、
楊修(175―219)が存命中の、後漢建安年間の作だと見るのが妥当でしょう。
もしかしたら、宴の席で、曹操の「薤露」と同じ機会に披露された可能性もあります。
当時において、「薤露」という楽曲は宴席を彩る芸能のひとつとして行われていましたから。

曹植「薤露行」は、彼が非常に幸福であった時にわが志を詠じたものです。
それを思い起こし、再び自らの志を表明しようとしたのが「惟漢行」ではなかったでしょうか。
だから、同じ楽曲でなければならなかったのだと思うのです。
曹植にとって、「惟漢行」は、若き時代の作「薤露行」の続編であったということです。
亡き父曹操に向けて、現時点における自らの志を言明するという意味もあったかもしれません。

明帝が即位して、新しい時代が到来した。
これからは、自らの立場にふさわしく、新皇帝を補佐する役割を果たしていこう。
そう彼は思い立って「惟漢行」を作ったのではないでしょうか。
ですが、それが王朝の不興を買ったであろうことは昨日述べたところです。

2020年7月24日

曹植「惟漢行」をめぐる妄想

こんばんは。

曹操の「薤露・惟漢二十二世」に基づく曹植の「惟漢行」は、
明帝が即位してそれほどの時を経ていない大和元年(227)秋頃の作だと思われます。

仮にこの推定が妥当だとして、
この詩を、ほぼ同じ時期、太和二年に作られた「求自試表」と比べると、
何かが決定的に違うように感じられるのはなぜでしょうか。

「惟漢行」も「求自試表」も、周王室を意識していることでは共通しています。
ですが、「惟漢行」には顕著な能動性、
すなわち、甥に当たる新皇帝を諫める立場に自らを規定して言葉を発する姿勢が、
「求自試表」にはほとんど認められません。
こちらは、皇帝に仕える臣下として、ひたすらに立功の機会を懇願するばかりです。

これはあくまでも想像ですが、
曹植は、文帝曹丕が亡くなって明帝曹叡に代替わりした時、
自分の立場にふさわしい役割が与えられることを期待したかもしれません。
周公旦が成王を補佐したように、曹叡の叔父にあたる自分は明帝を補佐するのだ、と。
そこで、周公旦が周文王の逸話を語って聞かせつつ成王を戒めたように、
曹操の偉業を意識しながら、明帝を諫めようとしたのが「惟漢行」ではないかと思うのです。

ですが、明帝を戒める内容の歌辞を、
宮廷歌曲「相和」の、しかも曹操の歌辞による「薤露」に乗せるということは、
皇帝周辺の官僚たちには、王朝の権威をないがしろにするものとして危険視され、
それがもとで、曹植はいよいよ朝廷から遠ざけられることになったのかもしれません。
そこで、その誤解を払拭し、自身を試してほしいと懇願したのが「求自試表」だったのではないか。
こう想像したのは、
制作年も近く、同様な内容を織り込みながら、
その言葉の発し方が両作品間でひどく異なっているからです。

2020年7月23日

曹植作品の佚文か?

こんばんは。

昨日言及した『魏略』に引く曹植の言葉は、諸々の曹植集には未収録です。
これが文章なのか、それとも口頭によるものなのか、後からも検討できるように、
その前文も含めてここに全文を記し、訓み下しを付します。

植雖上此表、猶疑不見用、故曰、
「夫人貴生者、非貴其養体好服、終竟年寿也。貴在其代天而理物也。
夫爵禄者、非虚張者也。有功徳然後応之、当矣。
無功而爵厚、無徳而禄重、或人以為栄、而壮夫以為恥。
故太上立徳、其次立功*1。蓋功徳者所以垂名也。
名者不滅、士之所利。
故孔子有夕死之論*2、孟軻有棄生之義*3。
彼一聖一賢、豈不顧久生哉。志或有不展也。
是用喟然求試。必立功也。
嗚呼、言之未用、欲使後之君子知吾意者也。

植は此の表を上(たてまつ)ると雖も、猶ほ用ひられざらんことを疑ひ、故に曰く、
「夫れ人の生を貴ぶは、其の体を養ひ服を好みて、年寿を終竟するを貴ぶに非ざるなり。貴きは其の天に代はりて物を理(をさ)むるに在るなり。
夫れ爵禄なる者は、虚しく張る者に非ざるなり。功徳有りて然る後に之に応ずるは、当たれり。
功無くして爵厚く、徳無くして禄重きは、或る人は以て栄と為すも、而して壮夫は以て恥と為す。
故に太上は徳を立て、其の次は功を立つ。蓋し功徳は名を垂るる所以なり。
名は滅せずして、士の利とする所なり。
故に孔子に夕べに死するの論有り、孟軻に生を棄つるの義有り。
彼は一聖一賢なるも、豈に久生を顧はざらんや。志に或いは展(の)びざること有ればならん。
是を用て喟然として試みられんことを求む。必ずや功を立つるなり。
嗚呼(ああ)、言の未だ用ひられず、後の君子をして吾が意を知らしめんと欲する者なり。

なお、ここに複数個所見えている「立功」の語は、
『曹植集逐字索引』(中文大学出版社、2001年)によると本作品集の四箇所に見え、
うち三件までは「求自試表」(『文選』巻37)での用例です。

2020年7月22日

*1 『春秋左氏伝』襄公二十四年に、「死而不朽(死して朽ちず)」の意味を問う范宣子(士匄)に穆叔(叔孫豹)が応じて、「大上有立徳、其次有立功、其次有立言(大上には徳を立つる有り、其の次には功を立つる有り、其の次には言を立つる有り)」と。
*2 『論語』里仁篇に、「子曰、朝聞道、夕死可矣(子曰く、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)」と。
*3 『孟子』告子篇上に、生亦我所欲也。義亦我所欲也。二者不可得兼、舎生而取義者也(生も亦た我の欲する所なり。義も亦た我の欲する所なり。二者は兼ぬるを得可からざれば、生を舎(す)てて義を取る者なり)」と。

※厳可均『全三国文』巻十五は、この文章を、『藝文類聚』巻五十三所収「又求自試表」に続けて収載していました。(2022・07.04追記)

 

 

曹植「薤露行」の成立年代

こんばんは。

曹植の太和二年の「求自試表」に関して、
『三国志』巻19「陳思王植伝」裴松之注に引く『魏略』に、
次のような内容の記事が見えています。すなわち、

曹植はこの上表が取り上げられないことを危惧した。そこで、
その地位にふさわしい働きを為し、それによって名を残したいという思いを、
後世の心ある人士に向けて述べた、と。

この中で注目したいのは、『春秋左氏伝』襄公二十四年に出る次の言葉です。

故太上立徳  故に太上は徳を立つなり、
 其次立功  其の次は功を立つるなり、
蓋功徳者所以垂名也  蓋し功徳なる者は名を垂るる所以なり。

『左伝』では、「立徳」「立功」「立言」と並ぶのですが、
上記の曹植の文章(発言)では、「立言」の一要素が抜け落ちています。

ここから推測しうることは、
明帝期初め頃の曹植には、言語表現によって名を成そうという思いはなく、
ひたすらに魏王室の一員として有用でありたいと願っていたらしいということです。

そこで思い起こしたいのが、
その成立年代が未確定であった、彼の「薤露行」です。

古直が指摘しているとおり、本詩の内容は「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と重なるところが多く、
その最後の部分には、著述によって身を立てたいという志が表明されています。

こうしてみると、「薤露行」は、明帝期の作ではないと判断されます。
明帝期の曹植には、立言への志が明確には認められないのですから。
また、言動が厳しく制限された、文帝期黄初年間の作だとも考えにくいでしょう。

この楽府詩は、曹植が父の愛情をいっぱいに受けて、のびのびと抱負を詠ずることができた、
建安年間の作だと見るのが最も妥当だと考えます。

2020年7月21日

曹植の憤懣

こんばんは。

曹植の「求自試表(自ら試みられんことを求むる表)」(『文選』巻37)は、
魏の太和二年(228)、明帝に奉られたものです(『三国志』巻19「陳思王植伝」)。
その中に、次のような句が見えます。

今陛下以聖明統世  今、陛下はすばらしき聡明さを発揮して世の中を統治され、
 将欲卒文武之功  周の文王や武王による草創期の功績を見届け、
   継成康之隆  成王や康王の隆盛を継承しようとしていらっしゃいます。

このように、この時期の曹植は、明帝を成王になぞらえようとしていること明白です。
すると、必然的に曹植自身は周公旦に比定されることになるでしょう。

先に取り上げた曹植「惟漢行」の最後の段には、
周公旦が周文王を顕彰して成王を戒める、『書経』無逸篇が踏まえられていました。

明帝期の作であることが明らかな「求自試表」にも、
周文王の直系に当たる王たちの名が見えていることを考え合わせると、
「惟漢行」を明帝期の作とする推定は、かなり説得力のある説だと言えるように思います。

ところで、『三国志』本伝はこの上表文を引くに先立って、
「植常自憤怨、抱利器而無所施(植は常に自ら憤怨す、利器を抱きて施す所無きを)」と記しています。
このとおりだとすると、
彼の「惟漢行」は彼自身の内にしまい込まれたりせず、
朝廷においてではないにせよ、実際に声に発して歌われていたかもしれないと思えてきます。
そして、そうした姿勢がいよいよ彼に対する風当たりを強くしていったのかもしれません。

2020年7月20日

中島敦の「弟子」

こんにちは。

明日の概説的な授業では、儒教をテーマに話をする予定で、
その素材のひとつとして、今年初めて中島敦の「弟子」を取り上げます。

現代人にとって、儒教はあまり魅力的な思想のようには捉えられていません。
ですが、漠然としたイメージで敬遠し、葬り去るにはあまりにも惜しい。
なぜ負の先入観を持たれるかといえば、それは、彼我の間に壁があるからでしょう。

そんな壁をほかならぬ著者自身が自覚し、その異物感と対話しながら、
儒教という思想の本質、孔子の思想家としての魅力を描いているのが本作品です。
だから、私たち現代人が儒教にアプローチする上で、とてもよい“文献”だと考えたのです。

「弟子」は、主に子路の視点から、孔子のあり様を描いています。
子路たち弟子が孔子に対して投げかける問いは、
おそらく、中島敦の儒教に対する疑問と重なっているでしょう。
それは、私たちが儒教に感じる違和感を言語化して見せてくれるものです。

また、子路の目に映じた孔子の姿には、
私たちには見えづらい儒教の本質が、凝縮されて現れています。
中島敦の精神の中には、やはり儒家的な筋が通っていた。
それは、英国のスティヴンスンを主人公とする「光と風と夢」にも感じるところです。

ところで、子路と孔子との関係は、
師匠から授けられた教えを、弟子が後生大事に守り抜くというようなものではありません。
師弟が対等にディスカッションするといったようなものでも更々ありません。

子路は、孔子の弟子たることによって仕官が有利になるだとか、
目的意識を掲げて学び、自己研鑽を図るとか、
そういったことは考えていません。
彼は、孔子の人としての奥行きに魅了され、
ただ欣然と従っただけなのだと、そんな人物像に描かれています。
美しい結晶物のようなその純粋さに私は打たれます。

2020年7月19日

曹植「惟漢行」への疑問(続き)

こんばんは。

曹植の「惟漢行」が曹操の「薤露・惟漢二十二世」を意識しているとして、
弔われているのは、魏王朝そのものでなければ、前年に亡くなった曹丕でしょうか。
いずれにしても、それは解釈次第で不穏な意味を帯びることになります。

曹植「惟漢行」の成立が太和元年だとして、
曹植は同年、雍丘から浚儀に移され、翌年、再び雍丘に戻されています。
この異動は、「惟漢行」が放つ不穏当さに起因するものであった可能性もあります。

でなければ、曹植「惟漢行」は人に知られないことを前提に作られたのでしょうか。

一般に、鋭い批判も歌に乗せれば罪せられないはずですが、
ある種の歌に乗せることは、かえってその歌辞に別の意味を重ねることになります。
「惟漢行」の新歌辞を作るということはまさしくそれでしょう。
明帝を諫めるという趣旨に、滅びゆく(亡くなった)ものを弔う意味が重なる、
このことを曹植が知らなかったはずはありません。

曹植は、この「惟漢行」が明帝には届かないのを前提で作ったのでしょうか。
明帝は、一番にその言葉を届けたい相手であったにも関わらず。

あるいは、明帝に為政者としての自覚を促しつつ、
もし姿勢を正しく保てないならば滅亡だ、と戒めているのでしょうか。
そんな劇薬のような言葉は、諫言としての効果を期待できないように思います。

曹植が、曹操の「薤露」を踏まえた理由、
そして、その新歌辞を作った後、それをどうしたのかが釈然としない。
明帝に奉ったのか、封国で歌わせたのか、それともしまい込んでいたのでしょうか。

2020年7月18日

1 50 51 52 53 54 55 56 57 58 80