傅玄「惟漢行」の通釈
こんばんは。
今年の教免更新講習の教材のひとつに、
傅玄「惟漢行」(『楽府詩集』巻27)を加えました。
この楽府詩は、漢文の教科書によく採録されている「鴻門の会」を詠じていて、
歴史故事「鴻門の会」が、宴席で上演されていたことを示す格好の資料であるからです。
(こちらの学会発表№17の概要をご参照いただければ幸いです。)
以下、本詩の通釈を載せておきます。
危哉鴻門会 切迫した場面だ、鴻門の会は。
沛公幾不還 沛公(劉邦)はほとんど戻れないところだった。
軽装入人軍 軽装で相手方の軍に入り、
投身湯火間 身を湯火の中に投げ入れた。
両雄不倶立 両雄は並び立つことはできないと、
亜父見此権 亜父(范増)はこの沛公の威勢を見て思った。
項荘奮剣起 項荘は剣を奮って立ち上がる、
白刃何翩翩 その白刃のなんと軽やかであることか。
伯身雖為蔽 項伯は身を挺して沛公を庇ったけれども、
事促不及旋 事態は切迫して危険から連れ戻すまでには至らない。
張良慴坐側 張良は恐れおののいて傍らに坐り、
高祖変龍顔 高祖(劉邦)は顔色を変える。
頼得樊将軍 そこへ、幸いにも樊将軍(樊噲)が現れて、
虎叱項王前 虎のように項王(項羽)を叱り飛ばして進み出た。
嗔目駭三軍 目を怒らせて全軍を震え上がらせ、
磨牙咀豚肩 歯牙を磨き上げて豚の肩の肉に食らいつく。
空巵譲覇主 一斗の大杯を飲み干して覇主(項羽)に譲の拝礼をし、
臨急吐奇言 急場に臨んで凄みのある啖呵を切った。
威凌万乗主 その威勢は一国の主をも凌駕し、
指顧回泰山 あっという間に状況を大きく一転させた。
神龍困鼎鑊 神龍(劉邦)が釜茹でにされそうな窮地に陥っていたのを、
非噲豈得全 樊噲でなければ誰が救い出すことができただろう。
狗屠登上将 卑しい犬の屠殺者(樊噲)は、上将の地位にまで登って、
功業信不原 手柄を上げることに対して、本当に謙遜してみせたりはしないのだ。
健児実可慕 勇ましい兵士こそ、真に心を寄せるべき者たちである。
腐儒安足歎 腐りきった学者など、どうして感嘆に値しよう。
最後から三句目「功業信不原」の「原」の意味は待考。
「郷愿」の「愿(=原)」と捉えましたが、まだすっきりと解釈できません。
2020年8月28日
文学研究にできること
こんばんは。
津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38、2005年)
が届きました。以下、その概略を記しておきます。
『魏志』陳思王植伝の記述内容には、
『陳思王曹植集』に収録されていたと見られる佚文等と食い違う点が少なくない。
本伝は、「不遇」を訴える曹植自身の文章を巧みに取り入れながら作り上げられたものであり、
事実としては、彼の処遇には後漢時代の諸王と比べてそれほどの落差はない。
このように、陳寿が事実を歪めてまで曹植の不遇を強調しようとしたのは、
西晋当時の、武帝司馬炎による、同母弟・斉王攸に対する冷遇という問題に対して、
これを批判する立場を陳寿が取っていたためである。
他方、曹植らが王朝運営への関与を強く望んだことの思想的背景として、
積極的に至親輔政を主張する『周礼』国家観の高まりがあった。
これも斉王攸の輔政を望む世論と重なっている。
司馬炎と斉王攸との関係が、曹丕と曹植との関係に重なるということには、私も同感です。
(西晋王朝で、曹植「七哀詩」が「怨詩行」に改変されて歌われたのも同源だと考えます。)
他方、陳寿の『三国志』執筆に、そこまでバイアスがかかっているとは思い至りませんでした。
たしかに、曹植の事績が史料によって食い違い、事実を突き止め難いことは多いです。
今後は、正史の本文だからといって鵜呑みにしないように注意したいと思います。
今回も、非常に多くの史料や先行研究を教えられました。
その一方で、では、文学研究の立場としてできることは何だろうとも思いました。
曹植の訴えを主観的な自己申告とみなし、その信憑性を検討することが本当に必要なのか。
そもそも文学に、客観というものがあるのかどうか。
その言葉を残した人にとっての内的真実があるだけなのではないか。
そこを全力で掘り下げることによって、はじめて歴史学と対等の立場に立てるのだと思います。
2020年8月27日
荀勗の仕事
こんばんは。
曹植の「七哀詩」を、西晋王朝の宮廷歌曲「怨詩行」にアレンジした荀勗。
今、その彼が宮廷儀式のために作った歌辞を読んでいます。
もっとも、『宋書』楽志一・二では、彼単独の作とは記されていません。
初唐に成った『晋書』の楽志上には、荀勗の名が明記されています。
初唐までは、具体的な詳細を記す資料が伝存していたのでしょうか。
その『晋書』を、北宋末の『楽府詩集』が踏襲しているようです。
昨日言及した拙論の中で、荀勗が権力の中枢に居座って何をしたかを書きましたが、
そんな彼が、儒家的な仁徳を備えた君主の美質を歌いあげています。
仕事だと、自身から乖離したことも書けてしまうのでしょうか。
当時の儒家的な思想類型に収まっているので、
歌辞の意味が取れなくて困ることはほとんどありません。
一方、古典を踏まえた表現(ほぼ引用)が無秩序に埋め込まれていて、
しかもそれがアンバランスな配置なので、どこにそれが隠れているかが読めません。
たとえば、ひと連なりの二句の、片方には経書からの引用、片方にはそれが無いといったような。
荀勗は詩作が下手なんだろうか、と疑いたくなるような印象です。
2020年8月26日
曹丕も薄葬(追記で結び)
こんばんは。
昨日は、曹操・曹丕父子の薄葬をめぐる雑感へと話が逸れて、
大事なこと(拙論の修正点)を忘れていました。
修正すべきは、次のくだりです。
「曹丕が眠る首陽陵には、当時の慣習により立派な松柏が植えられていただろう。」
阮籍の「詠懐詩」にも詠じられていたとおり、
首陽陵には実際、松柏(を含む種々の常緑樹)が植わっていたと思われます。
ですが、それは、わざわざ植えられたのではなく、
もともと樹木の植わっていた首陽山の一角を陵墓にしたということでした。
それが、曹丕の「終制」によって理解を改めるべき点です。
一方、肝心な部分はそのままで通りそうです。
(何度か書いているのですが、しつこく再度記します。)
すなわち、西晋王朝で演奏された歌曲「怨詩行」は、
本辞の曹植「七哀詩」を、次の点で改変しているのですが、
1、「君若清路塵、妾若濁水泥」を「君為高山柏、妾為濁水泥」へ
2、詩中に吹く風を「西南風」から「東北風」へ
この改変を施された「怨詩行」は、
兄曹丕の陵墓に向かってさまよい続ける曹植の魂を慰める歌だという解釈です。
1の改変は、対句としてはアンバランスですが、
敢えてそうした理由というものがあるはずだと考えた結果です。
2020年8月25日
曹丕も薄葬(続き)
こんばんは。
昨日言及した曹丕の「終制」は、
なんと『三国志』巻2・文帝紀、黄初三年の冬十月の条にありました。
(どうして気づけなかったのか悔しい限りです。)
その中、次のような記述は、曹植「文帝誄」に踏襲されています。
昔堯葬于穀林、通樹之、……故葬於山林、則合於山林。封樹之制、非上古也、吾無取焉。寿陵因山為体、無為封樹。無立寝殿、造園邑、通神道。……
無施葦炭、無蔵金銀銅鉄、一以瓦器、合古塗車・芻霊之義。
昔 堯は穀林に葬られ、通じて之を樹う、……故に山林に葬れば、則ち山林に合す。封樹の制は、上古に非ざれば、吾はここに取る無し。寿陵は山に因りて体を為し、封樹を為すこと無かれ。寝殿を立て、園邑を造り、神道を通ずること無かれ。……
葦炭を施す無く、金銀銅鉄を蔵する無く、一に瓦器を以てし、古の塗車・芻霊の義に合せよ。
薄葬は、彼らの父曹操も遺言していますが、興味深いのはそれを命じた理由です。
曹操の遺令(『三国志』巻1・武帝紀)に見えているのは、
「天下尚未安定、未得遵古也(天下は尚ほ未だ安定せず、未だ古に遵ふを得ざるなり」という言葉、
他方、曹丕が気にしているのは、盗掘されて辱めを受けるということです。
同じ薄葬を命ずるのでも、曹丕にそこはかとなく漂う小物感。
為政者としての器の違いというしかないです。
2020年8月24日
曹丕も薄葬
こんばんは。
昨年の冬、九州国立博物館で開催された特別展「三国志」を見に行って、
曹魏の墓の埋葬品が、立派な蜀のそれと比べて非常に質素であることに打たれました。
その図録に収録する陳彦堂「曹操高陵の考古発見と研究」第四章に、
「高陵が反映する曹魏時代の喪葬制度」と題して、曹魏の薄葬の実態が論じられています。
曹操と曹植が、それぞれの遺言に従って質素に葬られたとは認識していましたが、
曹丕もそうであったとは、この論文を通して初めて知りました。
『三国志』巻2・文帝紀に記された曹丕の葬儀に関する記事、
「自殯及葬、皆以終制従事(殯より葬に及ぶまで、皆終制を以て従事せしむ)」を、
先には、一般に規定する皇帝の葬礼制度に則って葬られたのだと解釈していたのでしたが、
(こちらの学術論文№43では、この認識に基づいて論じています。要再考です。)
曹丕には「終制」という文章があって、それに具体的な指示が見えているのだそうです。
また、曹植「文帝誄」(『曹集詮評』巻10)に見える次のくだりからも、
曹丕が自らの「終制」どおりに埋葬されたことが確認できると述べられています。
乃創玄宇、基為首陽。 乃ち玄宇を創り、基づくに首陽を為す。
擬迹穀林、追堯慕唐。 迹を穀林に擬し、堯を追ひ唐を慕ふ。
合山同陵、不樹不疆。 山を合して陵と同じくし、樹へず疆せず。
塗車芻霊、珠玉靡蔵。 塗車芻霊、珠玉 蔵する靡(な)し。
百神警侍、来賓幽堂。 百神 警侍し、賓を幽堂に来らしむ。
ただし、魏末の阮籍「詠懐詩」其六十四は、
「首陽の基」を「松柏は鬱として森沈たり」と描写していますから、
あるいは文帝が埋葬されて以後、松柏がその陵墓に植えられたのかもしれません。
いずれにせよ、薄葬を命じた曹丕に対して、少し認識を改めました。
2020年8月23日
「古典」と古典的文学作品
こんばんは。
昨日は、教免更新講習の資料のうち、日本文学に関わるものを校正しました。
たとえば、以前、岩波の新日本古典文学大系に拠って記していた資料を、
旧版の岩波日本古典文学大系に従って修正するといった作業です。
テキストは新しい方がよりよいのではないかと思いますが、
今年は図書館での調べ物がしづらいため、
手近にあるテキストを用いて確認作業をすることにしたのです。
すると、各本の間に文字や表記などの食い違いが予想以上に多かった。
だから、いずれのテキストに拠ったか、明記することが約束となっているのだと納得しました。
これは、日本文学の世界では当たり前のことなのかもしれません。
しかし、中国古典に関しては、必ずしも当てはまらないようにも思います。
たとえば、経書や正史、諸子百家などは、出典を記すのに書名と篇名だけで十分で、
いずれの出版物に拠ったのか、私は特に明記はしません。
(前に述べたとおり、最近の中国の論文はページに至るまで記すのですが。)
同じように「古典」と称せられてはいても、
その性格が少し違っているのではないかと思わされました。
中国古典の場合は、広範な人々にとっての普遍的な知の共有財産として、
必然的に、決定版というものに収斂していく方向に力が働き、
(もっとも、時代が変われば、決定版的解釈も切り替わっていきますが。)
片や日本の古典文学は、普遍よりは個別性を志向して展開してきたのではないか。
(いや、日本文学でも古典知の形成が認められるそうなのですが。)
中国でも、小説や戯曲といった古典文学には多種類のテキストがあると聞きますが、
日本の古典文学は、こうしたものの方に似ていると感じます。
(以上、管見による感想と空想です。)
2020年8月22日
吉川幸次郎の講演録
こんばんは。
先日、あるきっかけで『吉川幸次郎全集1』に触れなおしたのでしたが、
その中で、「中国の古典と日本人」と題する1953年の講演録がとても印象に残っています。
「野上夫人」とは野上弥生子でしょうか(夫人とはなんともいやはやですが)、
その講演の後を受けて、
さっき野上夫人から、日本人の栄養としては、日本に古来あるものよりも、
日本の本来とは異なったものが必要であるというお話がありましたが、
これは私が平生考えていることと、全く合致いたします。
とあって、日本人の栄養となるものとして、まず西洋のものがあるが、
更にもう一つの異なった表現として中国の書物がある、と述べておられるところ。
また、日本の文学も中国の文学も、
同じように花鳥風月を詠ずるものと思われるかもしれないが、そうではない。
人は人々のために生きるという考え方は、日本では本来それほど根強いものではない、という指摘。
更に、つぎのような言葉にもインパクトを受けました。
ある人々は、過度な近代化を逆に引き戻す力として中国の書物を利用したいと考えているようだが、
真の近代に近づける力、栄養として、中国の書物が読まれることを自分は希望する、と。
教免更新講習の資料の中で、是非この文章を紹介しようと思いました。
吉川幸次郎の文章は立派すぎて、どうにも苦手意識が強かったのですが、
この講演録には違った印象を持ちました。
「野上夫人」の話に少なからず圧倒されたのでしょうか、それを要所要所で援用しながら、
「たいへんまとまりのないお話でありました。これをもって終わりといたします。」
と結ばれたこの講演録、はじめて吉川幸次郎を身近に感じました。
2020年8月21日
曹魏明帝に関する先行研究(2)
こんばんは。
今日は、福原啓郎「三国魏の明帝―奢靡な皇帝の実像」*を読みました。
祖父の曹操にその将来を嘱望された明帝曹叡は、
魏王朝の威信と制度的基盤を作り上げることに尽力した剛毅な皇帝であり、
奢侈な宮殿造営や、自らの廟号を生前に烈祖と定めたこと等はその意思の現われであった、
という論述内容からは、多くの驚きと啓発を受けました。
明帝にはなんとなく影が薄いイメージを持っていたのですが、
歴史家である福原氏の描き出す明帝像は、それとはまるで違っていました。
また、同じ時代に曹植が生きていたということを、ほとんど忘れそうになりました。
(気後れして、中学校の生徒会で先輩の話がまるで分らなかったことを思い出したことです。)
明帝の宗室尊重と、それに対する名族の巻き返しは、福原論文の中でも論及されています。
それで思ったのですが、曹植のような人物が王朝の中枢に加わるということは、
明帝の周辺にいた名族たちが嫌がったのかもしれないと想像しました。
人望もあり、才能にも恵まれた皇族は、勢力伸張を狙う名族たちにとっては邪魔者でしょう。
もちろん文帝の遺命があったにしても、それとは別の立場からの思惑として。
もうひとつ、明帝が造営した太極殿という宮殿名は、
「太極定二儀」という句から歌い起こし、
天人相関説を踏まえつつ、皇帝たる者のあるべき道を示す、
曹植「惟漢行」を意識している可能性がないだろうか、と妄想しました。
太極殿などが造営されたのは青龍三年(235)で(『三国志』明帝紀)、
曹植の没したのはその三年前の太和六年ですから、記憶はまだ薄れてはいないでしょう。
もっとも、太極という語はそれほど特殊な語句ではありませんが。
2020年8月20日
*初出は『古代文化』第52巻第8号、2000年。『魏晋政治社会史研究』(京都大学学術出版会、東洋史研究叢刊之七十七、2012年)に追補版が収載されている。
曹魏明帝に関する先行研究
こんばんは。
曹植「惟漢行」に関する考察を書き終わり、
懸案の、明帝と曹植との関係についての先行研究を探し始めました。
今日は、落合悠紀「曹魏明帝による宗室重視政策の実態」(『東方学』126、2013年)を読み、
いくつかのことを教えられました。
まず、明帝期には宗室を重視する人事が行われていて、
従来の研究では、それは名族を押さえるために設けられた政策だとされてきたこと。
ですが、その実態としては、宗室や外戚を適切に優遇するというもので、
彼らに大きな力を与えて、台頭する名族に対抗しようとするような意図は認められない、
ということを、落合氏は明らかにされていました。
いずれにしても、明帝にそのような政策があったとは知りませんでした。
それならば、あれだけ曹植が苦しんだのは何だったのだろう、
なぜ明帝の恩恵が、叔父の曹植には及ばなかったのか、いよいよ不思議でなりません。
そこで、落合氏が引用しておられた、
津田資久「曹魏至親諸王攷」(『史朋』38、2005年)を取り寄せることにしました。
津田氏の論文には、かつて魚豢『魏略』について考察した際、非常に多くを教えられました。
(こちらの学術論文№41の注(2)ほかをご覧いただければ幸いです。)
今回も、場合によっては、抜本的に考え直す必要を迫られるかもしれません。
どきどきしながら、複写文献の到着を待つことにします。
2020年8月19日