個々人の読書体験
こんばんは。
昨日、曹植の愛読書のひとつに王充の『論衡』がなかったかと推測しましたが、
これはあながち的外れの推論でもないかもしれません。
王充は会稽(浙江省)の人で、洛陽に上京して太学に学び、班彪(班固の父)に師事。
後に郷里に帰り、『論衡』八十五篇を著しました(『後漢書』巻49・王充伝)。
『論衡』という書物は、後漢末の時点で中原の人々にはほとんど知られておらず、
会稽に隠棲した蔡邕が始めてこれを入手し、ひそかに清談の虎の巻としていたといいます。
その後、王朗が会稽太守となってまたこの書を手に入れ、中原の都にもたらしました。
(『後漢書』王充伝の李賢注に引く袁山松『後漢書』及び葛洪『抱朴子』)
蔡邕といえば、曹操も尊敬して已まなかった当代きっての文人であり、*
王朗もまた、曹操の下に招かれた有力知識人の一人です。
彼らを通して、王充の思想が建安文壇に伝播した可能性は高いと言えます。
以前少し触れたことのある曹植、曹丕、丁儀の「周成漢昭論」について、
王充『論衡』との関わりから論じる中国の論文もあるようです。
では、曹植がとりわけこの書物を愛読していたのか、
それとも、個性的知性を即興で競い合う清談において、誰もがこの書を用いていたのか。
同じ本であっても、読む人によって、その読書体験は異なってくるものでしょう。
そこから先は、個々の人の作品の中に、その書物の言葉や発想がどう溶け込んでいるか、
読み込んでいくことになるのだと思います。
2020年5月12日
*後漢末の文人社会における蔡邕の影響力については、岡村繁「蔡邕をめぐる後漢末期の文学の趨勢」(『日本中国学会報』第28集、1976年)に詳しく論じられている。
曹植の愛読書
こんばんは。
曹植はどんな本を読んでいたのでしょうか。
彼が正統的で幅広い教養を身につけていたことは明らかなのですが、
一方、当時としては革新的な書、後漢の王充『論衡』にも親しんでいたようです。
過日訳注稿を公開した「贈白馬王彪」にいう
「虚無求列仙、松子久吾欺(虚無なり 列仙を求むるは、松子は久しく吾をば欺く)」、
これと同じような内容の記事が、『論衡』無形篇にこう見えています。*1
称赤松・王喬、好道為仙、度世不死、是又虚也。
仮令人生立形謂之甲、終老至死、常守甲形。
如好道為仙、未有使甲変為乙者也。
赤松子や王子喬は、道を好んで仙人となり、この世を渡って死ななかったと言われるが、これもまた虚妄である。
仮に人が生じて形となり、これを甲とした場合、年老いて死ぬまで、常に甲の形を保持するだろう。
もし道を好んで仙人になったとしても、甲を変化せしめて乙とした者など聞いたことがない。
世間に流布する迷信を片っ端から論破する王充の『論衡』、
これを踏まえているかと思われる表現は、「鼙舞歌・精微篇」にも認められます。
すなわち、その冒頭に列挙された、真心が奇跡を呼び寄せたとされる人物たち、
杞梁の妻、燕の太子丹、陰陽家の鄒衍は、『論衡』感虚篇に連続的に論及されていて、
そこから、曹植が依拠したのはこの『論衡』である可能性が高いと見られます。*2
そういえば、『曹集詮評』巻9所収「説疫気」では、世の人々の迷妄を嘲笑していましたが、
これも、もしかしたら王充から受けた影響なのかもしれません。
ただ、自分としてよくわからないのは、当時における書物の普及の仕方です。
今でこそ広く閲覧に供せられている『論衡』なのですが。
曹植がもしこの書物を愛読していたとして、
彼はどのようなルートでこれを入手することができたのでしょうか。
王充『論衡』の先行研究に指摘があるかもしれません。
2020年5月11日
*1 『文選』巻24所収「贈白馬王彪」の李善注による。
*2 黄節『曹子建詩注』に指摘する。このことは、すでに拙論「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として―」(『中国文化』第73号、2015年)で述べた。
若い世代のアプローチ
昨日、ふと思い立って検索してみた「亜枝紅」という詩語について、
先行研究がないか、中国の論文データベース(CNKI)を用いて探してみました。
「亜枝紅」「杜甫」「元稹」「白居易」「雍陶」をすべて本文中に含むものは5篇、
興味深いことに、そのいずれもが修士論文もしくは博士論文です。
このうち、昨日私が述べたことと重なるかもしれないものが1篇、
岳娟娟氏の「唐代唱和詩研究」という博士論文(復旦大学・2004年)でした。
そして、この研究成果はすでに2014年、復旦大学から書籍として出版されています。
やはり、研究者の層が日本とは比べものにならないくらいに厚く、
その成果が公表されていくスピードも桁違いです。
上記のキーワードで検索して、「亜枝紅」単独では97篇がヒット、
これに「杜甫」を加えて88篇、更に「元稹」を加えれば54篇、更に「白居易」も加えれば44篇。
そして最後に「雍陶」も加えれば、上記のとおりの結果となりました。
このような検索を順次かけていって気づかされたのは、
若い世代の研究方法が、少し前の世代とは違ってきているのかもしれないということです。
検索結果は、絞れば絞り込むほどに学位論文の占める割合が高くなります。
今はネット環境とコンピュータがあれば、
従来とは比較にならない精度で用例を拾い上げることができますから、
これに伴い、作品へのアプローチの仕方が変わってきているのかもしれません。
ちょっとついていけないなあ、とため息が出ました。
私は私の視点とペースでいこうと思います。
2020年5月8日
手渡されていく言葉
こんばんは。
今日からオンラインの授業が始まりました。
Microsoft Teamsという慣れないツールを使って右往左往しました。
それで、来週に読む予定の元稹「亜枝紅」(『元氏長慶集』巻17)という詩です。
「使東川(東川に使ひす)」の中の一首で、
彼がまだ左遷を知らない31歳、観察御史として蜀へ赴く途上の作ですが、
この「亜枝紅(枝を亜する紅)」という詩語は、
台灣師大圖書館【寒泉】古典文獻全文檢索資料庫
http://skqs.lib.ntnu.edu.tw/dragon/ の『全唐詩』を検索してみる限り、
先行事例としては、杜甫の「上巳日徐司録林園宴集(上巳の日、徐司録の林園にて宴集す)」のみ、*1
それ以外には、まったく用例がないことに驚きました。
「亜枝」で検索してみても、杜甫より前にはぴったりとした用例は見当たらない、
ということは、枝を圧して咲く紅色の花という詩想は杜甫に始まると見てよいでしょうか。
それを初めて用いたのが、杜甫を尊敬してやまない元稹というのは非常に納得できます。
(このあたりのこと、専門家には常識かもしれません。ご容赦を。)
そして、元稹の友人である白居易は、
これに唱和して「亜枝花」(『白氏文集』巻14、0762)を作りました。*2
ところで、白居易の「亜枝花」と同じ詩語を用いている例として、
雍陶という人の七言絶句「洛中感事」(『全唐詩』巻518)を寒泉から教えられました。
「水辺愁見亜枝花(水辺に愁へつつ見る 枝を亜する花)」という句から、
元稹や白居易の作品を意識しているらしいことが感じ取れます。
この雍陶という人物は、太和年間(827―835)の進士(前掲『全唐詩』)。
そして、その詩題から明らかなとおり、彼の先の詩は洛陽の春景色を詠じたものです。
太和年間の洛陽といえば、白居易が晩年を過ごした時空間、
してみると、雍陶と白居易とは、どこかで出会っていたような気がしてなりません。
それは、若き詩人があこがれの大詩人の作品をなぞってみた、という可能性も含めてですが。
2020年5月7日
*1 杜甫詩の原文と訳注は、下定雅弘・松原朗編『杜甫全詩訳注(四)』(講談社学術文庫、2016年)p.640~641を参照されたい。
*2 作品番号は、花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)所収「綜合作品表」に拠る。
アカデミズム雑感
こんにちは。
中国の論文データベース(CNKI)では、
論文タイトル、著者名、出典(雑誌名など)、出版年のほか、
他の論文に引用された数や、ダウンロードされた数までもが表示されています。
しかも、検索結果一覧の末尾には有名な著者がピックアップされていて、
そうした著者については詳しい情報が得られるようになっています。
そして、そこでもまた、引用件数、ダウンロード件数の多い論文が列記されています。
これは、ひとつには論文の数が非常に多いためかもしれません。
あらかじめ利用者に論文の価値を数値化して示せば便利だということなのでしょう。
いかがなものかとは思いますが、自分だってわりとそれを参考にします。
中国の学界にそれほど詳しくないため、論者を見て読むべき論文か判断することが難しいので。
ただ、こうした趨勢下では、まったく新しい見方がここから生まれることは少なくなるでしょう。
新しい知性が、アカデミズムでない場所から生まれていることはすでに実感していますが、
古典研究の場合は、一定の基礎的な訓練のようなものがどうしても必要で、
そうしたものを育むのは、やはりアカデミックな場所ではないだろうかと思うのです。
(アカデミズムは本来、非常に自由闊達なもので、大学という機関には限定されないけれど。)
そのアカデミズムが崩壊しつつあるのが今の日本でしょう。
そして、そのような現状を招いたのは、大学の内部にも原因があると私は思います。
なお、自分は、投稿先が全国的な学会誌だろうが、紀要だろうが、同じ姿勢で臨みます。
(一旦書くモードに入ったら、何に投稿するのであろうが同じです。)
若い人々は、業績が点数化されますから、そんなことも言っておれないかもしれません。
私がこんなことを言えるのも、定年も近い気楽な身分だからかもしれません。
せめて、アカデミズムのヒエラルキーからは自由な立場から、
若い研究者の方々を励ますことを心掛けたいです。
2020年5月6日
先行研究がないなら
こんばんは。
本日ようやく「贈白馬王彪」詩の訳注稿を公開しました。
かつて読んだことがあって、調べたことを記したノートがあるにもかかわらず、
ひどく時間がかかってしまいました。(その理由は措いておいて。)
この詩は、異母弟の曹彪に向けて贈られたものではありますが、
弟との別れを惜しむばかりでなく、
都で急死した兄曹彰への追悼の念も詠じられ、
更には、都にいる兄の曹丕(文帝)への言及も認められ、
詩想の向かうところがやや拡散しているように感じられました。
別の見方をすれば、何か非常に屈折したものを蔵しているように思えます。
それで、先行研究ではどう論じられているか、
中国の論文データベース(CNKI)で検索してみました。
(日本の論文は措いておきます。)
したところが、[主題]を[曹植]とすると、3876件もヒットするのに、
[贈白馬王彪]を[主題]に論じるものはわずかに12件でした。
そして、それらの題目を見る限りでは、作品の内部に入って論じるものより、
後世の詩人や『文選』『三国志』との関係など、作品の外へ向かうものが圧倒的に多く、
作品を論じる場合も、精読というよりは、評価に傾く傾向が顕著です。
中国の研究がこうした傾向を持つことは常々感じていますが、
本作品を中心的に論じたものがこんなに少ないとは、非常に意外に思いました。
(付随的に言及する論文であれば、もっと多数になるでしょうが。)
人がやっていないのなら、自分がやるしかないなと思います。
論となり得る問いが立つかどうかはともかく。
2020年5月5日
何を以て認められたいか?
こんにちは。
『春秋左氏伝』襄公二十四年の記事に、
「死而不朽(死しても朽ちず)」という古人の言葉について問われた人が、
このように答えたということが記されています。
大上有立徳、 最上は徳を立てること、
其次有立功、 その次は功を立てること、
其次有立言。 その次は言を立てることである。
この言葉のうち、特に「立功」は学生たちには少し遠く感じられるようです。
だから、しっかり働いて人に喜ばれることだ、というふうに言い換えたりもしてきました。
ですが、色々と現代風に言い換えなくてもいいのではないか、とふと思いました。
現代人と、『春秋左氏伝』に記された古人の考えと、
人から承認されたいという欲求がある点では共通していると思い至ったのです。
これは、人が人々の間に生きるものである以上、古今東西、普遍的なのではないでしょうか。
(人知れず善を為すということだって、その姿勢そのものが承認されるわけです。)
ただ、何を以て人々から認められたいのか、
そこが、時代や文化圏によって、さらには個々人によって違うのでしょう。
昔の人々はこうだった、ということを“異文化”理解してもらった上で、
では、あなたは何を以て人から認められたいのか、と問えばよいのだと思いなおしました。
2020年5月4日
『世説新語』と曹植
こんにちは。
『世説新語』には、曹植への言及があまりありません。
ひとつは、昨日言及した、曹丕に殺害されそうになったのを、母の卞太后に救われた故事。
もうひとつは、文学篇所収の次の有名な故事、
曹丕が曹植に、七歩歩くうちに詩を作れなければ大罪に処するとしたところ、
曹植は声に応じて、スープの豆とこれを煮る豆がらの詩を作り、曹丕を恥じ入らせた、と。
この二件のみ。
しかも、両方とも、兄の曹丕からひどい仕打ちを受けるという話です。
当代第一級の文人であり、
興味深いエピソードがないわけではない人物であるにも関わらず、
なぜ曹植は『世説新語』で等閑視されているのでしょう。
また、父曹操や、兄曹丕、甥に当たる明帝曹叡は、それなりの数の故事が同書に記されています。
(亡くなった王粲を、ロバの鳴きまねで見送ろうという曹丕の故事は好きです。)
編集がやや不均衡な感じがして、不思議に思いました。
その理由は、曹植本人の側ではなく、編纂者の方にあるのでしょう。
『世説新語』には先行研究がたくさんあるので、誰かが論じているかもしれません。
2020年5月1日
常識ですが。
こんばんは。
曹植「贈白馬王彪」詩が成る発端となった出来事として、
曹植の兄曹彰が、朝見のために上った洛陽で急死したという事件があります。
この事件に関して、『世説新語』尤悔篇は、次のような内容の逸話を記しています。
文帝曹丕は、同母弟である曹彰の勇猛さを妬み、
卞太后(曹丕らの母)の部屋で囲碁に興じつつ、巧妙に毒を仕込んだ棗の実で彼を殺した。
曹丕は次に曹植を殺害しようとしたが、卞太后がこれを阻止した。
ここにいう、曹丕が曹彰を毒殺したとは事実なのでしょうか。
『世説新語』の劉孝標注には、そうしたことを記す文献は引かれていません。
引かれているのは、まず曹彰の武勇を記す『魏略』、
次に引く『魏氏春秋』は、曹彰が亡くなった経緯について次のように記しています。
曹彰は、曹操が崩御した際、璽綬(天子の印と組紐)のありかを尋ね、異心ありとされた。
そのため、洛陽ですぐには朝見が認められず、その憤懣と憂悶のために急死した、と。
そして、三件目の引用文献は、『魏志』(『三国志』巻29)方技伝から、
曹植を処刑しようとした曹丕が、卞太后に阻止される、
と予言した夢占い師、周宣の逸話です。
『世説新語』が成ったのは、曹氏兄弟の生きていた頃から二百年余り後の劉宋の時代で、
劉孝標注の成立は、その本文の成立から更に数十年ほど後のことです。
すると、曹丕の同母弟毒殺は、本人の死後二百年ほどの間に作られた風説でしょうか。
いかにも曹丕がやりそうなこととして話に尾ひれがついて。
『世説新語』本文からそれほど隔たっていない時代に成った劉孝標注が引く文献は、
いずれも『三国志』本文、及びその裴松之注に引くところと一致します。
そして、先述の毒殺の一件はそのどこにも見えていないのです。
弟たちに対する曹丕の仕打ちがいくら酷かったとはいえ、
人物像の悪いイメージを、根拠なく増幅させることは自戒しなければなりません。
(歴史書には記せない事実が、文字の世界から葬り去られた可能性が無ではないにしろ)
うわさ話を鵜呑みにして誰かを決めつけてはならない。常識ですが。
2020年4月30日
考察の行き止まり
こんばんは。
曹植「贈白馬王彪」詩(『文選』巻24)第四章の末尾にいう、
感物傷我懐 生き物(ねぐらに帰る鳥、群れからはぐれた獣)に感じて我が心を痛め、
撫心長太息 胸をなでて長くため息をつく。
この上の句について、李善は「古詩曰、感物懐所思。」と注していますが、
この注が妥当かどうか、判断に困っています。
というのは、李善のいう古詩の句は、
『文選』巻27所収の古楽府「傷歌行」に次のとおり見えているからです。
感物懐所思 生き物(つれあいを呼ぶ春の鳥)に感じて恋しい人を思い、
泣涕忽霑裳 流れる涙がたちまち裳裾を濡らす。
ただ、このように古詩と古楽府とが混同される例は珍しくありません。
また、『藝文類聚』巻42には、本作品の一部を「古長歌行」と題して引く例もあります。
(『文選』巻22、謝霊運「遊南亭」の李善注にも「古長歌行」としてこれを引く。)
ですから、いずれにせよ、これが漢代詠み人知らずの詩歌であるなら問題はないと言えます。
ところが、『玉台新詠』巻2は、これを魏の明帝曹叡の「楽府詩」として収録しています。
そうなると、曹植詩が踏まえた作品として、李善がこれを指摘したのは不適当となるでしょう。
曹叡の楽府詩は、曹植の詩よりも新しいと思われますから。
曹植詩と曹叡「傷歌行」との双方が基づいた、幻の詠み人知らずの詩歌があったのか、
それとも、実は逆に曹植詩が曹叡の「傷歌行」に影響を与えたのか等々、
両者の関係性について、李善注とは異なる指摘が必要でしょう。
ところで、魏の阮籍「詠懐詩」其十四(『文選』巻23所収十七首の其七)にも、
次のような類似句が見えています。
感物懐殷憂 生き物(秋のコオロギ)に感じて愁いを抱き、
悄悄令心悲 しょんぼりとして心は悲しみに暮れる。
この上の句に対する李善注もまた、曹植詩に対するのと同様に、
上記の「古詩」すなわち『文選』所収「傷歌行」の句を引いて説明していますが、
それ以外の部分でも、阮籍の詩は「傷歌行」との間に、
「明月」「微風」「羅」「牀」「帷」といった詩語を共有しています。
他方、阮籍詩は、曹植「贈白馬王彪」との間にも、
「秋」「涼」「風」「鳴」く虫、“帰る”という発想を共有しています。
ということは、阮籍詩は、「傷歌行」から得た基本的詩想の上に、
曹植「贈白馬王彪」詩から得た新たな着想を加味して成った作品なのでしょうか。
おそらく、この三作品だけを見ていたのではだめなのだろうと思います。
2020年4月29日