魏が任命した呉王

こんばんは。

曹植が「雑詩六首」其一同其四(『文選』巻29)で詠じた人物は、
当時呉王であった曹彪である可能性が高い、との推定を授業の中で述べたところ、
2020年6月6日5月13日の記事もご参照ください。)

受講生(院生一名の授業)から、このような内容の質問を受けました。

当時、呉の地には孫権がいた。
呉王曹彪というのは、現在で言えばどの土地の王だったのか。

言われてみればたしかに。
それで、中央研究院漢籍電子文献資料庫で、
『三国志』に出てくる「呉王」にすべて当たってみました。

すると、圧倒的に多数を占めていたのは、
黄初二年(221)、魏の文帝曹丕から呉王に封ぜられた孫権のことでした。

ここで注目しておきたいのは、
孫権に呉王の位を授けたのは、魏の皇帝だということです。
魏王曹丕は、220年、後漢王朝から禅譲を受けて、魏の文帝として即位しました。
(それまでの曹丕は、後漢王朝から魏国に封ぜられていた王に過ぎません。)

だから、魏の文帝曹丕にはこうした任命権があるということでしょう。
すると、曹彪を呉王に封じたのは、孫権を呉王に封じたのと地続きのことだと捉えられます。

『三国志』巻20「武文世王公伝(楚王彪)」にはこうあります。

楚王彪字朱虎。建安二十一年、封寿春侯。黄初二年、進爵、徙封汝陽公。
三年、封弋陽王、其年徙封呉王、五年、改封寿春県。
七年、徙封白馬。
太和五年冬、朝京都。六年、改封楚。

楚王彪、字は朱虎。建安二十一年(216)、(後漢王朝から)寿春侯に封ぜられた。
黄初二年(221)、爵位を進められ、汝陽公に封地を移された。
三年、弋陽王に封ぜられ、同年、呉王に封地を移され、五年、封地を寿春県に改められた。
七年(文帝が崩御した226年)、白馬に封地を移された。
太和五年(231)冬、都の洛陽で(明帝に)謁見した。六年、封地を楚に改められた。

前掲の「雑詩六首」其一、其四は、
「贈白馬王彪」詩の成った黄初四年(223)からそれほど隔たらない時期の作だと推定されます。
そして、その成立年代の推定が妥当であるならば、この時期たしかに曹彪は呉王です。

では、曹彪が王として赴いたのは、具体的にどこだったのでしょうか。
譚其驤主編『中国歴史地図集』*を見てみても、それを明確に探し当てることはできませんでした。
当時は今と違って、国境線がきっちりと引かれているわけではなかったので、
孫権が力を持っている地域一帯の、あるいは隣接する地域のどこかだったのでしょう。

前年の黄初二年に、孫権が呉王に封ぜられていますから、
呉王に任命された曹彪は、孫呉に対する防波堤、文字通りの藩としてでしょう。
そうした境遇であればこそ、曹植は彼のことを心配し、思いを寄せたのだと想像されます。

2020年6月13日

*譚其驤主編『中国歴史地図集 三国・西晋時期』(地図出版社、1982年)

変化の兆し

おはようございます。

今週、ある不定期の授業で『易』の話をしました。
言語・社会・健康科学の分野を専攻する院生が一緒に受講する科目なので、
これくらい専門性から離れたものがちょうどよいと思いまして。

机の引き出しの中にしまっていた50本の筮竹(工作用の竹ひご)を取り出して、
座右の書、本田済『易(中国古典選1・2)』(朝日新聞社、1978年)に従って占いました。

忘れているかと思いましたが、指先が動けば、それにつれて頭の中も動き出します。
久しぶりに、若い頃に感激したことが蘇ってきました。

『易』には至るところに面白みが隠されていますが、
私が一番感じ入るのは次のような見方、ものごとの捉え方です。
(迂遠な話をして申し訳ないですが、先に少しばかり説明をしていきます。)

六本ある爻(陰か陽の2種類)を、下から順番に、ある一連の操作を通して導き出すのですが、

・3回の似たような操作で、1回目は9か5、2回目・3回目は8か4の数が出ます。
・9と8を多い数、5と4を少ない数とします。
・3回の操作の結果、2多・1少は少陽、1多・2少は少陰、0多3少は老陽、3多・0少は老陰とします。

興味深いのは、すべて多い数が出たとき、すべて少ない数が出たときの判断です。
多い数(陽の気)が紛紜と立ち上っているのは、陰の状態が極限までいったときであり、
少ない数(陰の気)が満ち満ちているのは、陽の状態が極限までいったときだと見るのですね。
表面上は[陰]であるが、その内には陽へ転ずる気がみっしりと萌している、
表面上は[陽]であるが、その内には陰へ転ずる気が充満している、
この変化の兆しの中にこそ、問いを立てた人への答えは蔵されていると『易』は見ます。

5名の受講生には、コインで実際にやってみてもらいました。
(表を多い数、裏を少ない数と見立てて)

その後、どんな結果が出たか報告してもらって、『易』の当該部分を示しました。
ただ、示されても「?」な感じの文言ばかりだったように思います。
『易』の思想は、適切な「現代語」に翻訳しないと、
意味不明なだけに、人を妙に縛る言葉にもなりかねない、とも思いました。

2020年6月12日

弟思いの曹植

こんにちは。

本日、曹植「雑詩六首」其四の訳注稿を公開しました。

南国の美人に託して、
すばらしい才能を持ちながら、不遇なまま時の過ぎゆくのを嘆く詩です。
黄節は、この詩にいう「佳人」を呉王曹彪と比定していて、私もこの説に賛成です。

曹植が自身の不遇を嘆いていると解釈する説もあるようですが、
それだと、本詩が多く『楚辞』を踏まえている理由が宙に浮いてしまうように思います。

まず、『楚辞』を踏まえる以上、本詩は南方の長江流域を強く想起させますが、
曹植自身がそうした地域に封ぜられたことはありません。

また、『楚辞』といっても、屈原が自身の不遇を嘆く「離騒」等ではなく、
麗しい人の様子を描写する「九歌」や「大招」の辞句を、本詩は多く踏まえています。
屈原のひとり語りの部分ではなく、第三者を描写する部分を多く踏まえている、
となると、本詩の美人を自身の仮託と見ることは難しくなります。

特に誰かを想定しているわけではない、とする説も弱いと思います。
だったらなぜ、敢えて『楚辞』をあれほど踏まえるのか、説明できなくなりますから。

このように見てくると、黄節の見立ては極めて妥当だと思われます。
そして、もしそうだとすると、改めて思うのが、曹植という人の愛情深さです。

曹彪が呉王であった黄初三年から五年の間、曹植自身も苦境の中にあったはずなのに、
遠い南方で不遇の内に沈んでいる弟を繰り返し思い遣っているのです。
(「雑詩六首」の其一も、曹彪を思って詠じられた詩だと推定できます。)

弟の境遇が、自身の苦境と重なって、よけい切実に思われたのかもしれません。
また、兄弟相互の往来を禁じられて、一層弟への思いが募ったということも考えられます。

なお、曹彪には曹植に宛てた「答東阿王詩」(『初学記』巻18、離別)が残っています。
最期は、嘉平元年(249)、王淩らに擁立され、自殺に追い込まれました(『三国志』巻20本伝ほか)。
何か一途な、曹植と気持ちが通い合うような一面を持っていた人なのかもしれません。

2020年6月6日

遠くの人と未来の自分に

こんにちは。

またしばらく間が空きました。
このところ、息継ぎもしないで向こう岸まで泳ぎ切るような日々で、
(これはひとえに自分の時間配分の甘さから来たものです。)
授業(通常の授業に加えてのもの)のひとつひとつを終えることで精一杯でした。

そのいずれもが、かつて考え、論文にもしたことがあるテーマなのに、
準備をしていると、細かいところが蘇ってきて新鮮で、二度楽しむことができました。

今日は、そうしたテーマの中から、
厳島神社に一子相伝で伝わる舞楽「抜頭」の渡来経路について、一部を簡単に紹介します。

「抜頭」は、もとをたどれば西域に出自を持つ唐王朝の散楽で、
それを日本にもたらしたのは、林邑国(チャンパ)の仏哲という人物です。

仏哲は衆生を救おうと、如意珠を求めて海に船出し、難破します。
そこへ通りかかったのが、文殊菩薩に会うため中国五台山を目指していた南インドの釈菩提でした。
菩提は仏哲を伴って中国入りしましたが、文殊菩薩は五台山ではなく日本にいると聞きます。
落胆していたところに通りかかったのが、帰国する日本の遣唐使たちでした。
かくして、菩提と仏哲の二人は、遣唐使一行とともに、天平八年、日本にやってきたのです。

さて、仏哲が「抜頭」を伝えたことについて、『元亨釈書』巻15にはこうあります。

本朝楽部中有菩薩・抜頭等舞、及林邑楽者、哲之所伝也。
本朝の楽部の中に、「菩薩」「抜頭」等の舞、及び林邑楽があるのは、仏哲が伝えたものである。

つまり、「抜頭」は、仏哲の祖国林邑の音楽とは別物として記されています。
そして、「抜頭」は『通典』巻146その他、中国側の資料に、散楽として記されています。

では、仏哲は、この唐代の散楽「抜頭」に、どこで出会ったのでしょうか。

唐代の仏教寺院では、「抜頭」等の戯が盛んに行われていました。
また、民間の各地には、諸州から献上され、王朝の音楽機関から溢れた芸人たちが大勢いました。

すると、菩提に伴われて、中国大陸のかなりの距離を移動した仏哲は、
その旅の途上で、この「抜頭」を目にし、習い覚えたのではないかと考えられます。

なお、彼の祖国林邑でも、「抜頭」の原型である舞が行われていた可能性はあります。
西域と地続きのインド、そのインドと林邑とは海路でつながっているので。
ですから、中国で「抜頭」を目にした仏哲は、これを懐かしいと感じ、
とても自然にその所作を身につけたかもしれません。

「抜頭」が日本に伝わったのは、実にいくつもの偶然が重なった結果だと言えます。
この貴重な舞を、厳島神社では今に至るまで大切に継承してきました。

もしよろしかったら、詳しくはこちら(学術論文№26)をご覧ください。

2020年6月4日

仮託の検討(再び)

こんばんは。

曹植「雑詩六首」其三に歌われた遠征中の夫について、
先日は、呉に出兵した曹丕を暗に指すとする黄節の説を紹介しつつ、
別に、呉に出征した曹操を夫に仮託したと見ることも可能ではないかと述べました。

その後あれこれと考えた挙句、やはり曹操ではないだろうと思い始めています。
その理由は次のとおりです。

まず、兄弟を夫婦に喩えることはあり得ます。
たとえば、曹植「七哀詩」にいう「君若清路塵、妾若濁水泥」について、
「君」は曹丕を、「妾」は曹植を指すとする解釈が大方の賛同を集めていますし、
西晋の宮廷歌曲「怨詩行」は、この詩をそう解釈してアレンジした楽府詩だと見て取れます。*

他方、父子関係を夫婦に喩えるのはどうなのでしょうか。
圧倒的な上下関係にある父子が、夫婦という一対になぞらえられるものなのか、
このあたりのところがよくわかりません。

また、夫を曹操の仮託と見る仮説の一根拠として、
この詩に詠われた、樹木の周りをぐるぐると飛翔する鳥の姿が、
曹操の「短歌行」に見えるフレーズを想起させるということも挙げたのでしたが、
ほぼ同じ辞句が、明帝曹叡の「歩出夏門行」(『宋書』巻21・楽志三)にも見えています。
この「歩出夏門行」の歌辞は、すべて明帝曹叡の手に出るのか、
西晋の宮廷歌曲に採られた際に、曹操「短歌行」の句がその中に取り込まれたのか、
あるいは、曹叡や曹操といった個人のみには属さない、広く愛唱された歌辞であったのか、
いずれにせよ、樹木の周りを飛ぶ鳥のイメージは、曹操にのみ結び付けられるべきものではない、
となると、先に試みた仮説は根拠薄弱なものとなってしまいます。

やっぱり黄節のいうように、南方にいる君とは曹丕のことを詠じているのでしょうか。
それならば、曹植の中で、曹丕に対する気持ちのあり様が変化したということかもしれません。
曹植の他の作品をもっと読み進めながら、もうしばらく考察を続けます。

なお、人は本質的に変わらない、とも言いますが、変わり得ると私は思っています。

2020年5月29日

*拙論「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」(『狩野直禎先生追悼三国志論集』汲古書院、2019年9月)を参照されたい。(こちらの学術論文№43

仮託の有無

こんばんは。

昨日、曹植「雑詩六首」其三には仮託するところがあるだろうと述べました。

しかしながら、この詩は古詩への接近度が非常に高く、
ひとつの遊びとして擬古的に作ってみせたものである可能性も否定できません。

それでは、自分はなぜこの詩を前述のように捉えたのか。
その感じ方の出所を探ってみたところ、かなり明瞭な根拠が浮かび上がってきました。

それは末尾の次の二句です。
「願はくは南流の景(ひかり)と為りて、光を馳せて我が君に見えんことを。」

ここに詠じられた君は、なぜ南方にいるのでしょうか。
この要素は、古詩の中には見当たりません。

また、「願為……」という措辞は、
多くの古詩では、鳥になりたいと詠うのであって、
自らが太陽の光になりたいと詠う本詩の詩想は突出しています。

なぜ南方の君なのか、なぜ光になりたいのか。

本詩が放つこの独特の輝きは、
本詩を戯作的な擬古詩と捉えている限り、
その由来するところを明らかにすることはできません。

だから、この詩の背後には何か隠された主題がある、と感じたのだとわかりました。

2020年5月28日

南方の君とは

こんばんは。

本日、曹植「雑詩六首」其三の訳注稿を公開しました。

生き別れになった夫を思う女性の心情を詠じる、漢代の古詩には常套的な内容に加えて、
古詩に頻見する特徴的な表現を散りばめた、擬古詩的な作品です。

黄節は、南方の呉へ遠征している曹丕を思って作られた詩だと解釈しています。*1
この推測は、次の2点を根拠とするものでしょう。
まず、本詩の内容が、南方にいる人への強い思慕を詠じているということ、

そして、曹丕が南方の呉に出征したという歴史事実があるということです。

もし、同様な論法でいくならば、
南方の呉へ出征した曹操を思って作った詩と解釈することも可能です。
というのは、曹植が父曹操を非常に敬愛していたことに加え、
次のような歴史的事実があるからです。

建安19年(214)7月、曹操は呉へ出兵するに当たって、曹植を鄴に留め置き、
自身が23歳だったときのことを話して聞かせ、激励しています。(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
また、建安21年10月の孫権討伐に当たって、
曹操は曹丕を従軍させていますが、曹植はそれに加わっていないようです。*2

本詩が特定の誰かを念頭において作られたものだとして、
南国にいる君を曹操と比定することは、曹丕とするのと同等の可能性を持つと言えるでしょう。

また、南方の君を曹操と推測した理由のひとつに、
本詩の「飛鳥繞樹翔、噭噭鳴索群」が、
曹操「短歌行」の「月明星稀、烏鵲南飛。繞樹三匝、何枝可依」を想起させることもあります。
訓み下しなどについては訳注稿をご覧ください。

2020年5月27日

*1 黄節『曹子建詩註』巻1を参照。
*2 張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.134、p.145を参照。

現代学生気質

こんばんは。

今日は一日中、授業の準備と事後処理、その他に追われていて、
曹植の作品に一度も触れないまま一日を終えることになってしまいました。
仕事に振り回されるだけの生活になるのは嫌なので、なんとか工夫したいと思います。

さて、学生さんたちのレポートで、ここ何年か非常に目につくようになったフレーズがあります。
「わかりやすい」「伝わる」「見せる」といった、読者を強く意識した言い方です。
(研究論文でも、そうしたアプローチが増えてきている印象があります。)

昨日の授業で取り上げた『史記』についても同様の感想を多く目にしましたが、
出来た当初のそれは正副二部のみ、しかも「後世の聖人君子を俟つ」と記されています。
(『史記』巻130・太史公自序)
来週、このことを追補で述べて、少し驚いてもらおうかと思案中です。

人から評価されることばかりを気にする人生はどうなんだろうと、
振り返るきっかけを古典から得る学生が、一人でも出てくるとうれしいです。

2020年5月26日

 

「雑詩」とは

こんばんは。

曹植「雑詩六首」(『文選』巻29)を読んでいます。
そもそも「雑詩」とは、どのような性格のジャンルなのでしょうか。

他の建安詩人たちの「雑詩」は、
当時においては一般的であった宴席での競作でもなく、
特定の誰かに宛てた贈答詩でもなく、
詩人が集団の場を離れ、一個人としてその心情を詠じたものであって、
その対自性ゆえに、未知の読者にも届き得るものとなったと私は考えています。
(何を言おうとしているのか不分明かもしれません。こちらをご覧いただければ幸いです。)

曹植の「雑詩」の場合はどうなのでしょうか。
目に留まるのは、そこに漢代詠み人知らずの五言詩がよく踏まえられていることです。

其二「転蓬離本根」は、その末尾が『文選』巻29「古詩十九首」其一を彷彿とさせます。
また、其三「西北有織婦」は、「古詩十九首」の其十、其二を強く想起させます。

この時代の文人たちは一般に、詩作において古詩や古楽府をよく用いるのですが、
このことについて、かつて次のように論じたことがあります。*

古詩・古楽府は、漢代の宴席で生成展開してきた文芸である。
建安文人たちの詩作もまた、基本的には宴席を舞台に行われていた。
つまり、創作活動の場という観点からして、建安詩は漢代宴席文芸の直系だと言える。
それゆえ、建安詩に古詩・古楽府が多く踏まえられているのは当然である。

ただ、「雑詩」が古詩的表現を多用するのは、
どうも上述とは異なる文脈から捉える必要があるように感じられます。
同じ漢代詩歌という素材ではあっても、それを用いる理由が違うように思うのです。
更に読み進めながら考えます。

2020年5月25日

拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第六章第二節「貴族制の萌芽と建安文壇」、初出は、『魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学(第二回日中学者中国古代史論壇論文集)』汲古書院、2011年)。

曹植から見た魏王朝

こんばんは。

曹植「雑詩六首」其一(『文選』巻29)について、
過日は、詩中になぜ南方にいる人が詠じられているのかという点に着目し、
この詩が「贈白馬王彪」詩とその成立背景を共有している可能性を指摘しました。
今回は、本詩の冒頭「高台多悲風、朝日照北林」について、気づいたことを記します。

「高台に悲風多し、朝日は北林を照らす」とは、何を象徴しているのでしょうか。
この時代の詩ですから、まず純然たる叙景とは考えられません。

『文選』李善注は、次のような解釈をしています。
「高台」については、陸賈『新語』を援用しながら、それを京師(都)の喩えだとし、
「悲風」は教令、「朝日」は君主の聡明さ、「北林」は狭い所に集う小人を象徴するとしています。
どうもしっくりきません。

そこで調べてみると、
「高台」「朝日」「北林」はいずれも、曹丕の楽府詩に見えるものでした。

まず、曹丕「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の第一解は、
「朝游高台観、夕宴華池陰(朝に高台観に游び、夕べに華池の陰に宴す)」に始まり、
第四解には「飛鳥翻翔舞、悲鳴集北林(飛鳥は翻翔して舞ひ、悲鳴して北林に集ふ)」とあります。
(「北林」に関しては、「又清河作」(『玉台新詠』巻2)にも見えていました。)

また、別の「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の第一解にはこう見えています。
朝日楽相楽、酣飲不知酔。悲絃激新声、長笛吐清気。
(朝日楽しみて相楽しみ、酣飲して酔ひを知らず。悲絃は新声を激しくし、長笛は清気を吐く。)

曹丕のこの二首の「善哉行」は、いずれも見てのとおり宴の詩です。
曹植はそれまでに、曹丕のこれらの歌辞が歌われるのを耳にしたことがあったでしょう。
曹植「雑詩」の冒頭句は、これを踏まえて成ったものではないでしょうか。
ならば、それは君臣が相集う朝宴を想起させるものとなります。

そして、曹植は、そうした場を「悲風多し」と描写しているのでした。

この「高台多悲風」という冒頭句は、
彼の「野田黄雀行」(『楽府詩集』巻39)の第一句「高樹多悲風」と瓜二つで、
この楽府詩は、魏王曹丕による丁儀丁廙兄弟の処刑を背景とする、とみる説が有力です。
「雑詩」其一もまた、魏王朝の犠牲者(曹植自身を含む)に心を傷める詩だと読めるように思います。

2020年5月23日

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