出門の詩の原型
こんばんは。
先日来見てきた城門を出ることを詠う詩、
その原型は、古詩「駆車上東門」が顕著に示しているように、
城郭に囲まれた街を出て、郊外の墳墓を眺めやるという型だったのではないでしょうか。
以前に取り上げたことのある古楽府「梁甫吟」も同じ構造を取っていました。
『文選』巻29「古詩十九首」其十四「去者日以疎」にも、次のような句が見えています。
出郭門直視 城郭の門を出てまっすぐに前方を見つめると、
但見丘与墳 そこにはただ墳墓が見えているだけだ。
古墓犂為田 古い陵墓は鋤かれて田畑となり、
松柏摧為薪 陵墓に植わっていた松柏は砕かれて薪となってしまった。……
また、古楽府「古歩出夏門行」は、
伝存する断片のいずれもが、死の影を色濃くまとっています。
『文選』李善注に引くところから挙げるならば、
「市朝人易、千載墓平(市朝に人は易はり、千載墓は平らかとなる)」(巻28、陸機「門有車馬客行」注)、
「白骨不覆、疫癘淫行(白骨は覆はれず、疫癘は淫行す)」(巻20、潘岳「関中詩」注)のように。
その一方、門を出て、人々の集う場所を見やることを詠う詩歌があります。
古楽府「長歌行」(『楽府詩集』巻30)にいう、
「駆車出北門、遥観洛陽城(車を駆りて北門を出で、遥かに洛陽城を観る)」がそれです。
建安詩の中にも、たとえば、劉楨の「贈徐幹」詩(『文選』巻23)に、
「歩出北寺門、遥望西苑園(歩みて北寺の門を出で、遥かに西苑の園を望む)」、
曹丕「於明津作詩」(『藝文類聚』巻27)に、
「駆車出北門、遥望河陽城(車を駆りて北門を出で、遥かに河陽城を望む)」と見えています。
こうした詩想は、先に挙げたものよりも後に出現したのではないか、と私は考えます。
門を出て望む対象が、生きた現実世界であるこれらの辞句は、
いずれも詩歌の途中に出てくるのであって、作品世界の基調を為す冒頭句ではありません。
人口に膾炙したフレーズを、詩想の流れに組み入れただけのように感じるのです。
ところで、阮籍の出門の詩に、この後者のタイプはあっただろうか。
彼における詩作の動機は、多くの場合、現世からの脱出であったように思います。
そうしたモチーフが繰り返し現れるということは、
彼が繰り返し世俗に引き戻されていたということに他ならないのですが、*
その、現実世界に回帰するベクトルは、詩に詠じられることはなかったということでしょうか。
2020年5月21日
*大上正美「阮籍詠懐詩試論―表現構造にみる詩人の敗北性について―」(『漢文学会会報(東京教育大学漢文学会)』第36号、1977年。創文社、2000年刊『阮籍・嵆康の文学』に収載)は、これを「圧倒的優位の現実を前に表現が宿命として持つ構造的な敗北性」と論じている。
門を出てから(補記)
こんばんは。
車を駆って上東門を飛び出し、
城北に横たわる陵墓群を眺めやると詠ずる古詩「駆車上東門」、
これを明らかに踏まえると見られる阮籍の「詠懐詩」其九・其六十四について、
昨日、そこに詠われた「首陽」は、魏の文帝が眠る首陽陵を想起させる、と述べました。
ですが、これはちょっと言いすぎました。
といのは、少なくとも其九は、首陽山が喚起するもう一つの強いイメージ、
周の武王に抵抗してこの山に隠棲し、餓死した伯夷叔斉の姿を情景の一部に描きこんでいるからです。
周の武王が魏の文帝に重なるとはいえ、直接的に首陽陵を詠じているわけではありません。
他方、其六十四の「詠懐詩」は、
「首陽の基」を「松柏は鬱として森沈たり」と描写し、
松柏といえば陵墓に植える常緑樹なので、これは明らかに首陽陵を指すでしょう。
魏の文帝曹丕が崩御したのは、阮籍が17歳の時、
後漢王朝の禅譲を受けて、曹丕が魏の文帝として即位したのは、阮籍が11歳の時、
そして、曹植が亡くなったときは23歳、明帝曹叡が亡くなったときは30歳。
(こちらの「阮籍関係年表」をご参照ください。)
つまり阮籍はその青少年期、魏王朝が内部から崩壊していく様を目の当たりにしていたわけです。
阮籍と同世代で、交友関係もあったらしい袁準は、
その著書『袁子』の中で、曹丕の弟たちに対する仕打ちを批判していますが、
王朝衰退の原因をこうした視覚から鋭く切り込む見方は、
あるいは阮籍も共通して持っていたものであるかもしれません。
2020年5月20日
門を出てから
こんばんは。
門を出て遠くを望むというフレーズは、漢魏の詩歌には散見するもので、
魏末を生きた阮籍の五言「詠懐詩」の中にも、たとえば次のような句が見えています。
歩出上東門 北望首陽岑 歩みて上東門を出で、北のかた首陽の岑(みね)を望む。(其九)*1
朝出上東門 遥望首陽基 朝に上東門を出で、遥かに首陽の基を望む。(其六十四)
「上東門」は後漢の都洛陽に実在した門の名で、
『文選』巻二十九「古詩十九首」其十三にもこう詠われています。*2
駆車上東門 車を駆って上東門から街を出て、
遥望郭北墓 はるかに遠く、城郭の北に横たわる陵墓群を眺めやる。
また、阮籍詩にいう「首陽」は、この古詩にいう「郭北墓」に重なると見ることができます。
というのは、首陽山の南麓には、魏の文帝曹丕の陵墓がありましたから。
こうしてみると、阮籍の詩が古詩「駆車上東門」を踏まえていることは間違いないでしょう。
上東門という固有名詞の共有や、
門を出た先に望み見るものが死者のすむ陵墓であるということ、
更に、この特徴的な措辞が、詩の冒頭に置かれているという点でも一致しています。*3
ところが、同じ阮籍の「詠懐詩」其三十は、
詩の冒頭で門を出たあと、何ものをも眺めやるということがありません。
駆車出門去 車を駆って門を出てゆき、
意欲遠征行 遠いところへ旅に出ようと思った。
征行安所如 遠く旅に出て、どこへたどり着こうというのか、
背棄夸与名 虚ろな名誉など後ろへ投げ捨てるのだ。
……
「駆車」して門を出ているところから、
この詩もまた、古詩「駆車上東門」を念頭に置いていたかと思われます。
ですが、門を出た後に見えてくるはずの風景は見えず、
代わって詠じられるのは、捨て去ってしまいたい現実ばかりです。
原型をほとんど留めていない、いや原型など最初からなかったかのような生々しさです。
2020年5月19日
*1 作品番号は、黄節『阮歩兵咏懐詩注』(中華書局、2008年)に拠った。
*2 古詩「駆車上東門」は、後漢初期の作と推定できる。古詩の成立年代については、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の第一章から第三章を参照されたい。
*3 阮籍「詠懐詩」其九と古詩との関係については、前掲『漢代五言詩歌史の研究』の終章で論じたことがある。→こちらにその一部を挙げておくのでよろしかったらどうぞ。
兄弟愛の詩か。
こんばんは。
このところ、兄弟間の切迫した関係がうかがわれる曹植作品を読んでいますが、
ふと、曹丕の次のような詩(『古詩紀』巻12)が目に留まりました。
兄弟共行遊 兄弟連れ立って遊びに出かけた。
駆車出西城 車を駆って西の城郭から外へ出て。
野田広開闢 郊外の田畑は広く開け、
川渠互相経 川や水路は互いに交わりあいつつ流れている。
黍稷何鬱鬱 もち黍うるち黍のなんと豊かに実っていることか。
流波激悲鳴 流れる波は哀感たっぷりな声を上げている。
菱芡覆緑水 ヒシやミズブキは緑なす水面いっぱいに茂り、
芙蓉発丹栄 ハスは深い朱色の花を咲かせている。
柳垂重蔭緑 柳は葉を垂れて緑陰を重ね、
向我池辺生 わが池のほとりに向かって立っている。
乗渚望長洲 渚に足を踏み入れて長く伸びる中洲を遠く眺めれば、
群鳥讙讙鳴 群なす鳥がクアンクアンと喧しく鳴きたてる。
萍藻泛濫浮 浮草は水面をたゆたいながら浮かび、
澹澹随風傾 ゆるやかに揺れ動きながら風に吹き寄せられたりしている。
忘憂共容与 憂いを忘れて共にゆったりと過ごそう。
暢此千秋情 君たちへのこの永遠なる情愛をどこまでも押し広げよう。
本詩は「於玄武陂作詩(玄武陂に於いて作る詩)」と題されています。
「玄武」は、左思「魏都賦」(『文選』巻6)に「菀以玄武、陪以幽林」と見え、
その張載注に「玄武菀、在鄴城西(玄武菀は、鄴城の西に在り」と説明されています。
また、『三国志』巻1「武帝紀」に、建安13年(208)、曹操が玄武池を作ったことが見えています。
玄武池は、元来は曹操が水軍を訓練するために設けたものですから、
それが游宴の場となるには、それなりの時間的熟成が必要であったかもしれません。
曹丕がこの詩を作ったのはいつ頃か。
それによって、この詩はかなり異なる表情を見せるように思います。
時間が下れば下るほど、どれほど無邪気に兄弟愛を歌っているのかが疑問になってきます。
詩語の選び方がやや雑駁に感じられるので、まだ若い頃の作だと見られるか、
それとも、そうしたことに年齢はあまり関係がないでしょうか。
2020年5月18日
不安と平静
こんばんは。
過日、建安文人と王充『論衡』との関わりに関連して触れた中国の論文は、
王京州「帝王優劣論的背景与意義―以漢魏之際的帝王論為中心」
(『四川大学学報(哲学社会科学版)』2014年第1期、総第190期)といいます。
本日やっと入手することができました。
この論文、ざっと縦覧しただけでも興味深い記述が目に入ってきます。
個人的談論で帝王の優劣を議論するものは、王充の『論衡』がその代表格であること、
曹丕と曹植とは、同様な状況下でともに「周成漢昭論」を著しているが、
その立論が鋭く対立しているのはなぜかということなど。
曹植の論などを読む上で何を参照すべきか、有益なヒントが与えられるかもしれません。
このところウェブ上が混んでいるため、ダウンロードに難渋しましたが、
こんな状態がしばらく続いていますから、もうそれをトラブルとは感じなくなりました。
うまくいかない理由がわかっていれば、落ち着いて静観できるものなのですね。
不安は、これを直視して捌いた方が平静でいられるとも思いました。
(日頃どれほど安寧な日々を送っていたかということですが。)
2020年5月14日
「白馬王」の謎
こんばんは。
本日、曹植「雑詩六首」其一の訳注稿を公開しました。
この詩の中には、江湖の広がる南方にいると思しい人物が登場し、
詩中、この詩を詠じている人は、遠くにいるその人物に深い思慕を寄せています。
なぜ南方なのでしょうか。
結論から言えば、この詩は、曹植が異母弟の曹彪を思って詠じたものだと考えます。
先に「贈白馬王彪」詩を読んだ際、
曹彪は、本詩が成った黄初四年の段階で、まだ呉王であったという一件が未解決でしたが、
この「雑詩」を併せ読むことによって、この疑問が氷解するかもしれません。
『三国志』巻20の本伝に記すとおり、曹彪はこの時まだ呉王で、
その南方にいる彼を思って曹植が詩を詠じた、それがこの「雑詩」其一だと見るのです。
李善注(『文選』巻29)に、本詩が鄄城での作だということが記されていて、
上記の推測は、この李善の指摘をひとつの手掛かりとするものです。
ただ、李善の記述には根拠が示されていません。
仮に黄初四年、曹彪がまだ呉王だったとして、
それではなぜ、その詩の題名が「贈白馬王彪」なのでしょうか。
曹彪が白馬王となったのは、黄初七年でした。
そして、黄初七年といえば、文帝曹丕が亡くなった年でもあります。
「贈白馬王彪」の詩は、黄初四年に作られたと思われますが、
その成立背景を記す序文は、この黄初七年以降に作られたのではないか、
曹丕がこの世を去って、曹植は初めて事実を記すことができたのではないかと考えるのです。
この見通しが本当に妥当か、検討していきたいと思います。
2020年5月13日
個々人の読書体験
こんばんは。
昨日、曹植の愛読書のひとつに王充の『論衡』がなかったかと推測しましたが、
これはあながち的外れの推論でもないかもしれません。
王充は会稽(浙江省)の人で、洛陽に上京して太学に学び、班彪(班固の父)に師事。
後に郷里に帰り、『論衡』八十五篇を著しました(『後漢書』巻49・王充伝)。
『論衡』という書物は、後漢末の時点で中原の人々にはほとんど知られておらず、
会稽に隠棲した蔡邕が始めてこれを入手し、ひそかに清談の虎の巻としていたといいます。
その後、王朗が会稽太守となってまたこの書を手に入れ、中原の都にもたらしました。
(『後漢書』王充伝の李賢注に引く袁山松『後漢書』及び葛洪『抱朴子』)
蔡邕といえば、曹操も尊敬して已まなかった当代きっての文人であり、*
王朗もまた、曹操の下に招かれた有力知識人の一人です。
彼らを通して、王充の思想が建安文壇に伝播した可能性は高いと言えます。
以前少し触れたことのある曹植、曹丕、丁儀の「周成漢昭論」について、
王充『論衡』との関わりから論じる中国の論文もあるようです。
では、曹植がとりわけこの書物を愛読していたのか、
それとも、個性的知性を即興で競い合う清談において、誰もがこの書を用いていたのか。
同じ本であっても、読む人によって、その読書体験は異なってくるものでしょう。
そこから先は、個々の人の作品の中に、その書物の言葉や発想がどう溶け込んでいるか、
読み込んでいくことになるのだと思います。
2020年5月12日
*後漢末の文人社会における蔡邕の影響力については、岡村繁「蔡邕をめぐる後漢末期の文学の趨勢」(『日本中国学会報』第28集、1976年)に詳しく論じられている。
曹植の愛読書
こんばんは。
曹植はどんな本を読んでいたのでしょうか。
彼が正統的で幅広い教養を身につけていたことは明らかなのですが、
一方、当時としては革新的な書、後漢の王充『論衡』にも親しんでいたようです。
過日訳注稿を公開した「贈白馬王彪」にいう
「虚無求列仙、松子久吾欺(虚無なり 列仙を求むるは、松子は久しく吾をば欺く)」、
これと同じような内容の記事が、『論衡』無形篇にこう見えています。*1
称赤松・王喬、好道為仙、度世不死、是又虚也。
仮令人生立形謂之甲、終老至死、常守甲形。
如好道為仙、未有使甲変為乙者也。
赤松子や王子喬は、道を好んで仙人となり、この世を渡って死ななかったと言われるが、これもまた虚妄である。
仮に人が生じて形となり、これを甲とした場合、年老いて死ぬまで、常に甲の形を保持するだろう。
もし道を好んで仙人になったとしても、甲を変化せしめて乙とした者など聞いたことがない。
世間に流布する迷信を片っ端から論破する王充の『論衡』、
これを踏まえているかと思われる表現は、「鼙舞歌・精微篇」にも認められます。
すなわち、その冒頭に列挙された、真心が奇跡を呼び寄せたとされる人物たち、
杞梁の妻、燕の太子丹、陰陽家の鄒衍は、『論衡』感虚篇に連続的に論及されていて、
そこから、曹植が依拠したのはこの『論衡』である可能性が高いと見られます。*2
そういえば、『曹集詮評』巻9所収「説疫気」では、世の人々の迷妄を嘲笑していましたが、
これも、もしかしたら王充から受けた影響なのかもしれません。
ただ、自分としてよくわからないのは、当時における書物の普及の仕方です。
今でこそ広く閲覧に供せられている『論衡』なのですが。
曹植がもしこの書物を愛読していたとして、
彼はどのようなルートでこれを入手することができたのでしょうか。
王充『論衡』の先行研究に指摘があるかもしれません。
2020年5月11日
*1 『文選』巻24所収「贈白馬王彪」の李善注による。
*2 黄節『曹子建詩注』に指摘する。このことは、すでに拙論「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として―」(『中国文化』第73号、2015年)で述べた。
若い世代のアプローチ
昨日、ふと思い立って検索してみた「亜枝紅」という詩語について、
先行研究がないか、中国の論文データベース(CNKI)を用いて探してみました。
「亜枝紅」「杜甫」「元稹」「白居易」「雍陶」をすべて本文中に含むものは5篇、
興味深いことに、そのいずれもが修士論文もしくは博士論文です。
このうち、昨日私が述べたことと重なるかもしれないものが1篇、
岳娟娟氏の「唐代唱和詩研究」という博士論文(復旦大学・2004年)でした。
そして、この研究成果はすでに2014年、復旦大学から書籍として出版されています。
やはり、研究者の層が日本とは比べものにならないくらいに厚く、
その成果が公表されていくスピードも桁違いです。
上記のキーワードで検索して、「亜枝紅」単独では97篇がヒット、
これに「杜甫」を加えて88篇、更に「元稹」を加えれば54篇、更に「白居易」も加えれば44篇。
そして最後に「雍陶」も加えれば、上記のとおりの結果となりました。
このような検索を順次かけていって気づかされたのは、
若い世代の研究方法が、少し前の世代とは違ってきているのかもしれないということです。
検索結果は、絞れば絞り込むほどに学位論文の占める割合が高くなります。
今はネット環境とコンピュータがあれば、
従来とは比較にならない精度で用例を拾い上げることができますから、
これに伴い、作品へのアプローチの仕方が変わってきているのかもしれません。
ちょっとついていけないなあ、とため息が出ました。
私は私の視点とペースでいこうと思います。
2020年5月8日
手渡されていく言葉
こんばんは。
今日からオンラインの授業が始まりました。
Microsoft Teamsという慣れないツールを使って右往左往しました。
それで、来週に読む予定の元稹「亜枝紅」(『元氏長慶集』巻17)という詩です。
「使東川(東川に使ひす)」の中の一首で、
彼がまだ左遷を知らない31歳、観察御史として蜀へ赴く途上の作ですが、
この「亜枝紅(枝を亜する紅)」という詩語は、
台灣師大圖書館【寒泉】古典文獻全文檢索資料庫
http://skqs.lib.ntnu.edu.tw/dragon/ の『全唐詩』を検索してみる限り、
先行事例としては、杜甫の「上巳日徐司録林園宴集(上巳の日、徐司録の林園にて宴集す)」のみ、*1
それ以外には、まったく用例がないことに驚きました。
「亜枝」で検索してみても、杜甫より前にはぴったりとした用例は見当たらない、
ということは、枝を圧して咲く紅色の花という詩想は杜甫に始まると見てよいでしょうか。
それを初めて用いたのが、杜甫を尊敬してやまない元稹というのは非常に納得できます。
(このあたりのこと、専門家には常識かもしれません。ご容赦を。)
そして、元稹の友人である白居易は、
これに唱和して「亜枝花」(『白氏文集』巻14、0762)を作りました。*2
ところで、白居易の「亜枝花」と同じ詩語を用いている例として、
雍陶という人の七言絶句「洛中感事」(『全唐詩』巻518)を寒泉から教えられました。
「水辺愁見亜枝花(水辺に愁へつつ見る 枝を亜する花)」という句から、
元稹や白居易の作品を意識しているらしいことが感じ取れます。
この雍陶という人物は、太和年間(827―835)の進士(前掲『全唐詩』)。
そして、その詩題から明らかなとおり、彼の先の詩は洛陽の春景色を詠じたものです。
太和年間の洛陽といえば、白居易が晩年を過ごした時空間、
してみると、雍陶と白居易とは、どこかで出会っていたような気がしてなりません。
それは、若き詩人があこがれの大詩人の作品をなぞってみた、という可能性も含めてですが。
2020年5月7日
*1 杜甫詩の原文と訳注は、下定雅弘・松原朗編『杜甫全詩訳注(四)』(講談社学術文庫、2016年)p.640~641を参照されたい。
*2 作品番号は、花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)所収「綜合作品表」に拠る。