建安文学と民間文芸

曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)の中に、
次のような内容の推定・指摘がありました。

左延年の「従軍行」(『楽府詩集』巻32に引く『楽府広題』)は、*
次のような句で始まる。

苦哉辺地人  苦しいことだ、辺境の人は。
一歳三従軍  一年の間に、三度も従軍するのだ。

彼にはまた別に、同じく「従軍詩(行)」と題する、
次のような句を持つ楽府詩(『初学記』巻22、『太平御覧』358)がある。
(次に示すのはおそらくその冒頭でしょう。)

従軍何等楽  従軍はなんと楽しいことだろう。
一駆乗双駁  ひとっ走り、(我らは)一対のまだら馬に乗って。

このように、左延年「従軍行」は、一首が「苦」を、一首が「楽」を歌っている。

これは、比較的早期からあった民歌を左延年が歌曲に加工したものであろう。

さて、王粲「従軍詩」(『文選』巻27)の冒頭に、
「従軍有苦楽(従軍には苦と楽と有り)」という句が見えているが、
これは、左延年の「従軍行」に取り込まれた民歌を踏まえているのではないか。

非常に説得力のある、鮮やかな指摘だと思います。
王粲をはじめとする建安文人たちの文学的環境をよく示す事例です。

建安文学における民間文芸の影響は、
すでに多くの先人たちが指摘しているとおりです。
私も、曹植という大きな存在が残した作品に取り組みつつ、
先人の残した成果に、更なる事例を付け加えることができればと考えています。

ただ、柳川の研究は、従前の研究と次の点で異なっています。
それは、民間文芸と建安文学との間に、漢代の宴席芸能という新たな視点を設けたことです。
これについては、「現在の研究内容」をご覧いただければ幸いです。
(少し異なる角度から、同じようなことを述べております。)

*本作品は、『楽府詩集』巻32の本文ではなく、そこに引く『楽府広題』に引かれている。2020/04/24の記事〈歌辞の継承〉では不正確な表記をしていたので改めた。

2020年4月28日

延年という名前

こんにちは。

先日、魏の左延年という楽人に触れました。
この名前は、前漢王朝の協律都尉(楽官)李延年を想起させます。
また、「羽林郎」(『楽府詩集』巻63)という詩歌の作者、後漢の辛延年の名も思い浮かびます。

もしかしたら、「延年」は、楽人・楽府に関わりが深い名前なのでしょうか。

そもそも楽府という役所は、
前漢の武帝が、(不老長生を願って)天の神を祭る制度を作る際、
不老長生を祈願する民間祭祀に音楽が伴うことを耳にして、
モデルとなり得るそうした民間歌謡を収集するために創設したとされています。*1

ですから、そうした場所で働く人の名前に多く「延年」が用いられるのかと思ったのです。
ところが、この名前は楽人の占有ではありませんでした。

前漢時代には、『漢書』に姓名が記載されている人に限っても、
先の李延年以外にも、張、杜、田、厳、姫、劉、雕、韓、解、乗馬、孔といった姓で、
延年の名を持つ人がいました。
このうち、劉延年は漢王室の人々で、複数(8名)います。*2
(皇族と同じ名前を一般人が名乗ってもかまわなかったのでしょうか。)

興味深いのは、この延年という名前は、武帝期以降の人にしか見えないこと、
そして、後漢以降は、これほど多くは見えなくなるということです。
世の人々が、あまりそうした名前を子につけなくなったのか、
あるいはまた、歴史書に記載されるような人物の層が移ろったのでしょうか。

長寿を願う習俗と、人々の名前と、楽府の創設と、楽人の名称とは、
どこかで一脈つながっているように思えてなりません。

*1 釜谷武志「漢武帝楽府創設の目的」(『東方学』第84輯、1992年7月)を参照。
*2 魏連科編『漢書人名索引』(中華書局、1979年)を参照。

2020年4月27日

歌辞の継承

こんにちは。

先だって触れた西晋の陸機に、「従軍行」(『文選』巻28)と題する楽府詩があります。

苦哉遠征人  苦しきかな、遠征の人は、
飄飄窮四遐  飄々とあてどなく、世界の果てまでも行かねばならぬ。

という句に始まり、結びでも再び次のように歌います。

苦哉遠征人  苦しきかな、遠征の人は、
撫心悲如何  胸をなでても、この悲しみは如何ともしがたい。

ここに繰り返されているフレーズ「苦哉遠征人」は、
魏の左延年による「従軍行」(『楽府詩集』巻32に引く『楽府広題』)の冒頭、
「苦哉辺地人(苦しき哉 辺地の人は)」を明らかに踏襲しています。

従軍を題材とした詩歌であれば、
魏を代表する文人、王粲に「従軍詩」(『文選』巻27、『楽府詩集』巻32)があります。
それなのに陸機はなぜ、王粲ではなく、左延年という楽人の作った歌辞を継承したのでしょうか。*

西晋の宮廷音楽を司った荀勗による記録「荀氏録」には、
左延年のこの楽府詩が著録されています。(『楽府詩集』巻32に引く王僧虔「技録」)

すると、左延年の「従軍行」は西晋王朝の宮中で歌われていたということでしょう。
陸機は、西晋に出仕してから必ずやこの歌曲を耳にしていたはずです。
左延年の第一句を踏襲する陸機「従軍行」は、こうした経緯で誕生したのではないでしょうか。
この場合は、演奏されていた歌曲を仲立ちとしての継承だと考えられます。

一方、南朝宋の顔延之(384―456)にも「従軍行」があり、
その第一句は、先に見た陸機の歌辞「苦哉遠征人」とまったく同じです。

このことについて、顔延之は陸機の楽府詩を踏まえたのだと私は考えます。
(左延年が、西晋の陸機と南朝宋の顔延之の双方に影響を与えたと見るのではなくて)

というのは、前掲の王僧虔「技録」に、
左延年の「従軍行・苦哉」は、今は伝わらない、と記しているからです。
王僧虔「技録」は大明三年(459)の記録で、その内容は顔延之も共有していたでしょう。

南朝の文人たちにおける陸機の強い影響力がうかがえます。

*曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)の提起した問題意識。氏の所論は、王粲の作品は、徒詩であって、楽府詩ではなかったというところに収斂していくが、上述の私見は、これに触発されて別方向へ展開させたものである。

2020年4月24日

今年の授業では

こんばんは。

連休明けにようやく授業が始まりますが、
今年はこれまでやったことのないオンラインでの授業、
しかも例年になく受講生が多いので、どう進めるか思案中です。

中国古典文学を教えていて、いつも説明が難しいと感じるのは、
たとえば、(吉川幸次郎の)現実参加の志といった言葉で表現される、
あるいは、西洋のノブレス・オブリージュといった概念に置き換えて語られる、
日本文学には比較的希薄な、中国文学が持つ社会性です。

芸術作品(文学を含む)が社会的な運動に利用されること、
あるいは、表現活動には社会的メッセージが必須だという声高な主張に対して、
自分自身がずっと心理的な抵抗感を感じ続けてきたものですから。

かなり長い時間を考え続けて、
今は、たとえばこういうことなのだろうと思っています。

笑いに風刺が必須なのではなく、風刺には笑い(遊び)が必要なのだということ。

文学に、現実参加の志が必須なのではなくて、
人が社会の中で生きる上では、文(あや、すなわち美)あるものが必要だということ。

もちろん、人は人間(じんかん、つまり社会)の中に生きています。
本人が意識しているといないとにかかわらず。
そして文学は、そうした人間(にんげん)が作り出すものです。
これは大前提としてあると思います。

今年こそは、分かってもらえるように話せるだろうか。

2020年4月23日

陸機と曹植(追記)

こんばんは。

昨日述べたことについて追記です。

陸機「贈馮文羆」詩の「昔与二三子」という句について、
李善注は、曹植「贈丁廙」詩にいう「吾与二三子」との類似性には言及せず、
ただ「已(すで)に上文に見ゆ」と記すのみです。
この場合の「上文」とは、同じ『文選』巻24所収の曹植「贈丁廙」について言います。
李善注の通例として、これは既出の注を再利用する場合の言い方です。

ということは、李善は、曹植詩に注した『論語』述而篇を、陸機詩にも当てはめて見ている、
つまり、曹・陸の二人はそれぞれに『論語』から詩語を引き出してきたのであって、
陸機が曹植の表現を踏まえたとは捉えていないということになります。

同じことは、先にも言及した阮籍「詠懐詩」に見える「磬折」についても言えます。
(『文選』巻23所収十七首の、第四首「昔日繁華子」、第十四首「灼灼西隤日」)
そこでもやはり李善は曹植「箜篌引」には言及せず、
「箜篌引」に対して注したのと同じ『尚書大伝』を注に挙げているだけです。

富永一登氏の所論は、*
李善が、表現の継承関係に対して実に緻密な注を施していることを詳述していますが、
『文選注』全六十巻の中で精粗のばらつきはあって当然かもしれません。
あるいは、彼我の解釈の違いなのかもしれません。

富永氏によるこの先行研究は、
『文選』李善注の中で最も多く引用されている個人の作品は曹植の詩文であることを示し、
また、李善が曹植作品を注する作品の数が多い作者たちを列記しています。

私は、「曹植の言葉の継承」という問題意識は共有しつつも、
文人相互の共感に根差した語句の継承、という視点から考察したいと考えています。
そのあたりのところは、あるいは李善も見落としている可能性があります。

*富永一登「『文選』李善注の活用―注引曹植詩文から見た文学言語の継承と創作―」(『六朝学術学会報』第4集、2003年)。なお、訳注稿「04-12 贈丁儀王粲」の語釈に、この富永論文によって新たに気づかされたことを追記した。

2020年4月22日

陸機と曹植(続き)

こんにちは。

陸機と曹植との表現上のつながりについて、先にも少し言及したことがありますが
それに加えてもう一つ、次の事例をここに書きとめておきます。

陸機「贈馮文羆(馮文羆に贈る)」(『文選』巻24)の冒頭、

昔与二三子  その昔 心を許したそなたたちと、
游息承華南  承華門南の東宮で、ゆったりと過ごしたことがあった。

この表現は、曹植「贈丁廙」の、次に示す句を想起させます。
(詳細はこちらの訳注稿をご参照ください。)

吾与二三子  私は気心知れた二三の友人たちと、
曲宴此城隅  この宮城の片隅で内輪の酒宴を設ける。

両詩には、「与二三子」というフレーズが共通して用いられています。

「二三子」は、『論語』述而篇に出る語ですが、
意外にも、現存する漢魏晋南北朝詩の中で、それほど多くの用例は認められません。
そして、その上に「与」を置く例となると、前掲の両詩のみです。

陸機詩の贈り先である馮文羆は、陸機と同じく呉の人で、
西晋王朝という異郷に出仕してから、いよいよ同郷どうしの仲を深めたと見られます。

一方、曹植が詩を贈った丁廙や、その兄の丁儀らは、
曹植の才能を高く評価し、魏王曹操の後継者として彼を強く推した人々で、
彼らはこのことにより、曹魏政権内でやや特殊な一派を形成することとなりましたが、
そうした側近たちに対して、曹植は常に友として厚遇する姿勢を保ち続けました。

陸機は、特別なきずなで結ばれた同郷の士を思うとき、
曹植を自身に重ねていたのかもしれません。

なお、南朝後期の江淹(444―505)「雑体詩三十首」(『文選』巻31)は、
曹植詩に模した「陳思王」の題下に「贈友(友に贈る)」と記し、
その詩中には「眷我二三子(我が二三子を眷る)」という句を含んでいます。
いかにも曹植らしい表現として、江淹も「二三子」という語に注目していたのでしょう。

2020年4月21日

陸機と曹植

こんばんは。

『文選』巻24、曹植「贈白馬王彪」詩の、
冒頭「謁帝承明廬(帝に謁す 承明の廬)」に対して、
李善注は、陸機の『洛陽記』から、次のような記述を引いています。

承明門、後宮出入之門。
吾常怪「謁帝承明廬」、問張公、
云「魏明帝在建始殿朝会、皆由承明門。」*

承明門は、後宮への出入口の門である。
私は常々、「謁帝承明廬」に関して疑問に思っていたので、張公に問うと、
「魏の明帝が建始殿で朝会を開くとき、参列者はみな承明門を通って入ったのだ」と言われた。

西晋文壇を代表する陸機(261―303)は、三国呉の名門士族の出身。
祖国が西晋に敗れ(280)、故郷で約十年間の研鑽を積んだ後、
三十歳を目前に、かつての敵国に出仕しました。

上文に見える「張公」は、陸機ら呉人に目を掛けた張華(232―300)でしょう。
張華は、西晋王朝の重臣であり、文壇の領袖でもありました。

ここに示された陸機の疑問は、
「承明」という名の建築物について、
曹植詩に詠じられた、皇帝への謁見の場としてのそれと、
一般に言われている、後宮への出入り口としてのそれとが結び付きにくい、ということでしょう。
これに対して、張華は先のように答えたのでしたが、
ただ、建始殿での朝見は、明帝以前から行われていたようです(『三国志』巻17・張遼伝ほか)。

さて、上記の文献で私が強く興味を引かれるのは、
呉人である陸機が、魏の曹植の作品によく親しんでいたということです。
その辞句に関する疑問を張華に問うたのは、それを理解したいからこそでしょう。
つまりそれは愛読していたということにほかなりません。

曹植(192―232)は、陸機の祖父、陸遜(183―245)とほぼ同じ時代を生きた人です。
陸機は、どのような思いで彼の作品を読んでいたのでしょうか。

*「在」字、もと「作」に作る。今、『文選』巻21、応璩「百一詩」の李善注に引く同文献によって改める。

2020年4月20日

未解明の境界線を示す

こんばんは。

今日から「贈白馬王彪」詩の訳注作業に入ったのですが、
解題、及びその序で早くも躓いてしまいました。

たとえば、曹彪が白馬王となったのは、
『三国志』巻20「武文世王公伝(楚王彪)」によれば、黄初七年なのですが、
本作品の序には、この詩が成ったのは黄初四年であることが示され、
その詩題にも「白馬王彪に贈る」と明記してあります。

正直、私はこうした考証があまり得意ではありません。
旧中国の学者の注釈書には史実が非常に詳しく記されているので、
それらを手掛かりに、ひとおりの納得がいくまでは調べはするのですが。
思いがけないところから、興味深い考察の種が拾えたりすることもありますし。

もちろん史実の考証だけではなく、語釈でもしょっちゅう頓挫します。
そうした場合は、仕方がないから両論併記です。
先には、語釈は簡潔なのが最上、などと豪語したばかりなのに、
言行不一致が恥ずかしい。

ただ、分かる分からないの分岐点は明記しておきたいと常々思っています。

たとえば、自分が不分明な点を究明したくて、
その道の大家といわれるような方々の本を紐解いてみたところ、
核心部分に近づくと霧に取り巻かれたようになってしまうようなことが結構あります。
そんな時、ここから先は未解明だと明記してくれていたら、と思うのです。

不分明の境界線を引いておく。
そうすれば、後から来た人の役に立てます。

2020年4月17日

恩師の言葉を記すのは

こんばんは。

本日、「贈丁儀王粲」詩の訳注稿を公開しました。
龜山論文のおかげで、私としては納得のいく通釈にたどり着けたように思います。

こうした地味な作業は、時を忘れさせるものがあります。
ただ、それのみに没頭すると、近視眼的になる傾向がないではありません。

遠くと近くと、両方を見ていないと判断を誤ると思います。
視野の狭い人間には、長い歳月を渡ってきた古人の言葉は受け取れないでしょう。
(これは、現在の自分に対する戒めです。すぐいい気になる小人ですから。)

岡村先生は、速読と熟読と、両方大事なんだとおっしゃっていましたが、
この言葉も同じことを意味しているのだろうと思います。

ところで、恩師の言葉を時折ここに書き記すのは、
自分一人の中にしまっておくのはもったいないと考えるからです。
謦咳に接することができた者の使命(大袈裟ですね)として、
それを必要とする誰かのために、そっと書き置いておきたいと思うのです。

ですから、個人的な思い出に浸っているわけではないし、
まして虎の威を借るつもりでもありません。

学術上、いつまでも師弟関係に縛られているのはよろしくない、
とは、他ならぬ岡村先生ご自身のお考えでした。
雑談の中で、つい先生の論文に引っ張られてしまう、と言うと、
言下に、それではだめだ、と顔色を改めておっしゃったことがあります。

学説に従うのではなく、この姿勢をこそ継承したいです。

2020年4月16日

訳注をめぐる雑感

こんばんは。

昨日から、「贈丁儀王粲」詩の訳注に入りましたが、
これもまた困難なことの多い作業です。

まず、成立年代について諸説紛々たる状態であること。
作品世界と現実とを直結させる必要はない、
とは言い切れないのが、この時代の贈答詩です。
生身の人間どうし、リアルに言葉をやり取りしているわけですから。

そうした点で理解に苦しむのは、
曹植の丁儀・王粲に対するものの言い方がかなりぞんざいなこと。
このことについては、先にも先行研究を紹介しました

曹植の詩については、すでに伊藤正文氏の訳注がありますし、
『文選』所収のものなどについては充実した先行研究が多数あります。
それでも、自分で語釈を付け、通釈をしていると、様々な気づきが生まれます。

ところで、
語釈は、簡潔で、要を得たものが最上、
(だから、何を削り、どう圧縮するかで非常に頭を絞ります。)
通釈は、何も足さない、何も引かないのが理想です。
(といっても、言葉の構造上、どうしても逐語的直訳ができない場合もありますが。)

そんな訳注という仕事には、
その人が日頃どれほど努力を重ねているかが歴然と現れる、
と、岡村先生はおしゃっていました。
肝に銘じます。

2020年4月15日

1 57 58 59 60 61 62 63 64 65 80