歌声に満ちた世の中
漢魏晋楽府詩一覧を、先ほどやっと公開しました。
おそらく入力漏れや誤字脱字など、たくさんあるだろうと思います。
(直前になっても、ごっそり落ちていた部分を見つけて急遽補ったりしました。)
もし、ご利用になる方がいらっしゃって、
そうした不備を見つけられましたら、ご一報いただけるとありがたいです。
(その他の資料などについてもご指摘をお待ちしております。)
詳しい説明は、同エクセルファイルの「説明」シートに記しております。
「データ」を自由に「並べ替え」てご利用いただければ、有益さが増すだろうと思います。
この楽府詩一覧を作ろうとした趣旨などについてはこちらに少し記したとおりですが、
漢魏晋の時代、「相和」「清商三調」に限らず、
実におびただしい歌が巷に流れていたことを実感しながら作業を進めてきました。
たとえば、古くは「毛詩大序」(『文選』巻四十五)に、
上以風化下 為政者は、それによって下々の者をそれとなく感化し、
下以風刺上 下々の者はそれでもって為政者を遠回しに批判するのだが、
主文而譎諌 美を中心に据えて、婉曲に諌めるので、
言之者無罪 これを言う者には罪は無く、
聞之者足以戒 これを聞く者には十分に戒めとなる。
とあるように、王朝でも、民間でも、人々は歌にのせてその思いを主張しています。
これはすでに知っていたことではあったのですが、
それとは別に、このように声に出して、しかもメロディをつけて自分の考えを詠ずることは、
心身ともに、とても解放感を覚えることだろうと思いました。
言葉が身体の実感とともにあるということです。
それに、歌声に満ちた世の中は、生の言葉をぶつけ合う世の中よりも息がしやすそうです。
たとえ、時代の過酷さや日常の不便さが現代の比ではなかったとしても、
この一点に限っては憧れます。
それではまた。
2019年8月14日
そうとも言い切れない
一昨日、パトロンと芸術家とを対立するもののように捉える内容のことを述べましたが、
こう言い切ってしまうのも、また違うと思い直しました。
たとえば、非常に美しい工業製品があったり、
自分というものを超えた存在と一体化して歌う歌(古代の歌謡など)があることを思えば。
人はどうやっても「文」なるもの(美)を作り出す生きものだとして、
その長い文化的消長の歴史の中で、
自我というものが前面に出てくるのは、ある限定的な期間なのかもしれない、
そして、その限定的な期間の中に生きている自分であるため、
その作家ならではの個性や内面を読み取りたいと欲するのかもしれません。
それではまた。
2019年8月12日
パトロンと芸術家
一昨日、大事なのは見せ方ではなくて中身だと少し強気に述べましたが、
こんな風に言い切れるのは、大学に職を得ているからでしょう。
曲がりなりにも研究がその仕事の柱の一つなのですから。(いい気なものです。)
それで、言い切った後から、少し考え込んでしまいました。
もしこれが、たとえば作家、画家、ミュージシャン等だったらどうなのだろう。
どんなに自身が思い描く芸術性を追求したくても、
商売ということをまったく無視しては生活できないのではないだろうか。
そうでなければ、生活の糧は別に確保されているのだろうか。
思えば、これは中国六朝期の文人たちと環境が少し似ているかもしれません。
彼らは、官職に就くのでなければ、有力者の庇護を得て言語芸術活動を行うのが普通で、
“芸術家”という独立した職業があるわけではなかったですから。
昔の文人たちはパトロンが貴族でしたが、
今のアーティストは、大衆社会というものがパトロンでしょうか。
たとえば魏の建安詩人たちの作品でも、
君主主催の宴にて奉る詩、宴席で競作される遊戯的な詩、贈答詩などがある一方で、
誰に向けられたわけでもない歌詩も少なからずあって、
そこではかなり個人的な、正直な気持ちが吐露されていたりもします。
そのように、ジャンルごとに表現姿勢を変えていただけでもなく、
たとえば遊戯的な競作詩の中に、その人物の思いや工夫が織り込まれている場合もある。
こうしてみると、いつも何者かのために魂を売り渡している、というわけではないですね。
昔の詩人たちのみならず、今のアーティストも、もっといえば私たちの誰もがそうなのだと思います。
それではまた。
2019年8月10日
雷に打たれた。
昨日は一日、教免更新講習でしたが、
受講された先生方の中に、次のような内容のことを書かれた方がいらっしゃいました。
生徒たちは案外、教員の学術的な深みを感じ取っているものだと思う。
この言葉、雷に打たれたように響きました。
その方は、教職に携わりながら、ご自身の研究も継続していらっしゃるのでしょう、
そうした日常的経験に裏打ちされた実感なのだろうと思います。
ひるがえって私はどうでしょう。
自分が面白いと思うものの多くが学生たちのそれと乖離し、
そのことにしょっちゅう(といっても年に数回ほどですが)打ちひしがれている。
そんな暇があったら、学生たちと正面きって向き合えばよいじゃないか。
それでそっぽを向かれたらそれはそれで縁がなかっただけのこと。
最初から学生たちに対して、興味ないんですよね、という先入観を持ってどうする。
それは長い間に醸成されてしまったものではあるけれど、
それに自ら縛られて、自身に呪いをかけてどうする。
思い込み(敢えてこう言ってみる)を解除しよう。
それにしても、
教免更新講習という、何か人を管理し査定するような制度ではなくて、
もっと自由に、様々な教員が相互に学びあえる機会が多くあればいいと思いました。
その方がずっと学校教育の充実につながっていくのでは、と。
また、大学では教え方に関する講習会がよく開かれますが、
それよりも、様々な分野の教員が、自分の取り組んでいる研究の最前線を語り合う方が、
同僚どうしの信頼関係も生まれ、結果としておそらくは教育の質も上がるだろうに、と思います。
本当に大切なのは、見せ方ではなく、内容だと言いたい。
それではまた。
2019年8月8日
批評的な精神
先日のメモから。
ものごとを客体化して冷静に判断する、
という意味での批判的な姿勢とはどのようなものなのだろうか。
(他者を否定的に見る、批難する、という意味ではなくて)
定期試験を目前に控えて浮かび上がってきた想念でした。
というのは、必ずいるのですね、たとえば科挙制度の不平等性を批判するとか。
(まだ採点していないので、今年の答案についてはわかりません。)
自立した現代人として、過去の人や制度を批判する、
これは、一見とても批評的な態度のように感じられるのですが、
ここには、自身の立脚点に対する批判、自身の相対化というものがありません。
自分のことは棚に上げたまま、他者を一方的に批難しているのと同じ。
もちろん、古のことがすべて理想的であったというのは時代錯誤ですが、
過去を相対化して批判するならば、比較対象は、現代ではない別のものでなければ。
では、たとえば過去の人物になりきってみるというのはどうか。
自分を過去の人物に投影させるのは論外だとして、
もし本当になりきるとするならば、
それには一旦、今の自分を覆っている皮膜を破り捨てる必要があるでしょう。
そうして、ふたたび現在の自分に立ち返ったとき、必ずや違和感を覚えるに違いありません。
その違和感は、現在の自分、現代という時代を相対化する契機となるかもしれない。
ならば、これはすぐれて批評的な精神への出発点となり得るのではないか、
そう思いました。
いずれにしても、異なる世界との往還が、私たちの精神を耕すのでしょう。
それではまた。
2019年8月7日
昨日の補足説明
昨日は唐突なことを述べました。
自分にとっては重要な示唆を、曹植作品から与えられたものだからうれしくて。
でも、ほとんどの方々にとっては何のことやらでしょう。
そこで、以下、少し補足説明をしたいと思います。
(かつて発表した拙論の一部をふたたび紹介することをお許しください。
[論著等とその概要]の学術論文及び著書№4をあわせてご覧いただければ幸いです。)
漢代詠み人知らずの五言詩に、古詩と総称される作品群があります。
この中に、古くから別格視されてきた一群(第一古詩群と仮称)があって、(学術論文№14)
それらは一説に、前漢初期の辞賦作家、枚乗の作だとされていました。
その当否はともかく(ほぼ間違いなく当たっていません)、
この特別な古詩群が彼の名に仮託されていたことは確かであって、
このことにより、古詩は知識人社会に広く流布していったと推測することができます。(学術論文№22、29)
さて、この第一古詩群は、更に、
宴という場に悲哀の情感をもたらすものとして歌われた詩と、
その宴という場そのものの情景を詠じた詩とに分けて捉えることができ、
その中でもより古層に属する詩群は前者であると言えます。(学術論文№18、21)
昨日述べた「原初的古詩」とは、これです。
興味深いことに、この原初的古詩の中に、枚乗とのつながりを示すものがあります。
昨日提示した『文選』所収曹植「七啓」の李善注に、
枚乗楽府曰、美人在雲端、天路隔無期。
枚乗の楽府に曰く、美人 雲端に在り、天路 隔たりて期する無し、と。
と示すのがそれで、李善が、枚乗作と明記するのはこれのみです。
(この歌詩は、『玉台新詠』巻一には、枚乗「雑詩八首」其六として収載されています。)
李善の指摘するとおり、
曹植がその「七啓」で歌姫に歌わせている「清歌」は、
明らかに枚乗作とされた楽府詩(あるいは「雑詩」)を踏まえています。
ということは、
曹植「七啓」に描かれた、香草を持った白い手を高く掲げて歩み出る女性は、
先述の原初的古詩を歌唱していた、と見ることが可能でしょう。
前漢時代の宮廷の庭園で、
曹植が描いたような情景が実際に繰り広げられていたのであれば、
古詩誕生の場に関する自分の仮説は、あながち的外れではなかったのかと思いました。
それではまた。
2019年8月6日
曹植が示唆してくれた。
曹植の「七啓」(『文選』巻三十四)を縦覧していて、
次のような辞句に出会いました。
燿神景於中沚 神々しい光を水辺に輝かし、
被軽縠之繊羅 軽やかな縮み絹のうすものを身に纏い、
遺芳烈而静歩 鮮烈な芳香を送り届けんとして静かに歩みを進め、
抗皓手而清歌 白い手を差し伸べて清らかな歌声をあげる。
曰 その歌辞にいう、
望雲際兮有好仇 雲のきわを遠く望めば、好ましい人がそこにいるのに、
天路長兮往無由 天に至る道のりは長くて、向かおうにもその手立てがありません。
佩蘭蕙兮為誰修 香しい蘭蕙を身に帯びて、誰のための装いでしょう。
宴婉絶兮我心愁 あなたとの親密な宴が絶たれ、私の心は愁いでいっぱいです。
三行目にいう「遺芳烈」について。
まず、「芳烈」は、下に続く歌に見える香草「蘭蕙」につながるでしょう。
「蘭蕙」は佩びていますが、手にも香り高い草を持っていたと見ることができます。
というのは、「芳烈」は「遺」という動詞の目的語だからで、
「芳烈」を「遺」するとは、『楚辞』九歌に見える次のような句を想起させます。
被石蘭兮帶杜衡、折芳馨兮遺所思。(「山鬼」)
折疏麻兮瑶華、將以遺兮離居。(「大司命」)
搴汀洲兮杜若、將以遺兮遠者。(「湘夫人」)
「遺」の意は、これらの用例から判断して、「送り届ける」だと見るのが妥当です。
こうしてみると、先に示した曹植の辞句は、
古詩「渉江采芙蓉」「庭中有奇樹」(『文選』巻二十九)によく似ていることに気付かされます。
唐突に感じられるでしょうから、説明しますね。
かつて私は古詩の中でも最も古い層に属するものを抽出し、
それらと前漢の後宮文化、及び『楚辞』九歌との関連性を論じたことがあります。
(こちらの学術論文№27、及び著書№4の第二章第二節第三項をご覧ください。
前掲の古詩や『楚辞』の翻訳も、その中に示してあります。)
その中で、前掲のいわば原初的古詩の生成に関して、次のような仮説を提示しました。
すなわち、「渉江采芙蓉」のような原初的古詩が誕生した背景には、
後宮の女性たちを交えた宴席の場(王朝の庭園)で、
実際に水辺で香草を手に取り、遠方に向けて捧げる女性たちの姿があったのではないか、と。
期せずして、その傍証となり得る資料を曹植「七啓」の中に見出すことができました。
もちろん、上述のような解釈が妥当か、更に精査は必要ですが。
それではまた。
2019年8月5日
ひそやかな弔い
昨日言及した荀勗は、
司馬氏に取り入って西晋王朝の中枢に居座っただけでなく、
西晋の宮廷歌曲群、いわゆる「清商三調」を選定した人物でもあります。
このことは、『宋書』巻二十一・楽志三に、
清商三調歌詩 荀勗撰旧詞施用者(荀勗の旧詞を撰して施用する者なり)。
と記されていることから知られます。
なお、正史『晋書』には、荀勗伝(巻三十九)その他のどこにも、このことは記されていません。
律呂を定め、雅楽を司ったことは複数個所に見えているのですが。
そんな、雅楽に比べて扱いが若干軽い「清商三調」、
注目したいのは、その中に、
魏王朝の皇帝たち(武帝・曹操、文帝・曹丕、明帝・曹叡)による多くの楽府詩、
さらには陳思王・曹植の歌詞までもが含まれているということです。
荀勗はなぜ、西晋の宮廷歌曲として、魏王室の人々の歌辞を選んだのでしょうか。
ひとつには、
滅びた王朝を丁重に弔うという、
当時の人々にとっては普遍的、伝統的な意識からでしょう。
魏の相和歌「薤露」「蒿里」などと同じ発想です(7月23日に少し触れました)。
ですが、ただそれだけだ、と言い切るのにもためらいを感じます。
荀勗にとって、魏王朝に見切りをつけ、西晋王朝に乗り換えたということが、
簡単には片付けられない、やりきれない、噛み切れない思いを伴うものであったとしたならば。
それではまた。
2019年8月2日
絶望に発する豹変か?
後漢末から魏晋にかけての名族に、荀氏一族があります。
曹操の名参謀として尽力した荀彧や、
荀彧の推薦を受けて曹操に仕えることとなった荀攸はその代表的人物たちでしょう。
ところが、魏王朝が西晋王朝に取って代わられると、
それまで幾重にも結び合わされていた魏王室との姻戚関係を断ち切って、
一族の荀勗や、荀顗(荀彧の子)は、露骨なまでに新しい政権にすり寄っていきます。*
たしかに、荀彧は、曹操に自殺を迫られたようなものですし、
その長男の荀惲は、曹植と親しかったため文帝曹丕から冷遇されたといいます。
(『三国志』巻10・荀彧伝)。
そのようなことがあったのだから、
荀氏一族が魏王朝に対して恨みを持ったであろうことは容易に想像できるし、
逆に、西晋王朝との距離を縮めていったのは当然だとも思えます。
貴族というものは、かくも王朝に対して醒めた距離を取るものなのでしょう。
しかし、それにしてもすごい豹変ぶりだなと思っていたところ、
次のような内容の資料が目に留まりました。
西晋の武帝(司馬炎)に、司徒の欠員補充について相談された荀勗は、
「三公は皆が仰ぎ見る人物を任用すべきである。
昔、魏の文帝(曹丕)が賈詡を三公にしたとき、孫権はこれを笑った」と言った。
(『三国志』巻10・賈詡伝の裴松之注に引く『荀勗別伝』)
曹丕が文帝として即位するや賈詡を高位に抜擢したのは、
賈詡が自分を太子として推してくれたことを知っていたからだといいます。
(同賈詡伝裴松之注に引く『魏略』)
曹丕の人事は、おしなべてこのように“私”的なものでしたが、
それを嘲笑した孫権の言葉を荀勗はしかと記憶していて、それを司馬炎に伝えたのです。
もしかしたら荀勗は、単なる私怨から曹魏に背を向けたのではないかもしれない、
その王朝草創期からすでに腐っていた曹魏に心底絶望していたが故に、
新興の司馬晋にさっさと乗り換えたということなのかもしれない、とふと妄想しました。
それではまた。
2019年8月1日
*丹羽兌子「魏晋時代の名族―荀氏の人々について―」(中国中世史研究会編『中国中世史研究―六朝隋唐の社会と文化―』東海大学出版会、1970年)を参照。
先人たちと共に
一昨日話題に挙げた、曹植の「元会」詩にいう「清酤盈爵、中坐騰光」。
曹植がもし『楚辞』招魂を意識しているとするならば、
宴席に集った人々の、ほろ酔い気分で紅色に染まった頬が内側から輝くさまを、
美女のまなざしが放つ輝きに重ねていることになる、とは先にも述べたとおりです。
言葉の組み合わせ方が意外で、斬新な表現だと感じます。
ところが一方、この句に続いて、曹植は先行作品をまるごと用いてもいます。
珍膳雑遝 珍しいご馳走が多彩に盛られ、
充溢円方 丸い皿、四角い器にあふれんばかりだ。
これは、後漢の張衡「南都賦」(『文選』巻四)にいう、
珍羞琅玕 珍しいご馳走は玉のように麗しく、
充溢円方 丸い皿、四角い器にあふれんばかりだ。
を踏まえていること、疑いを納れません。ほとんど同じですね。
そして、張衡のこの表現は、
曹植と関わりが深かった王粲の「公讌詩」(『文選』巻二十)にいう、
「嘉肴充円方(嘉肴は円方に充つ)」に用いられています。
実は、上記のことを、黄節『曹子建詩註』は指摘していません。
思わずガッツポーズを取ったのですが、
伊藤正文「曹植詩補注稿(詩之一)」(『神戸大学文学部紀要』8、1980年)、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)が、既にこのことを指摘していました。
やっぱり先人たちの仕事はすごいです。
そして、このような分野を専攻してよかった、と思うのです。
(すんでのところで天狗にならずにすみますから。)
“私が”ではなくて、先人とともに曹植の文学に迫っていくのだという、
不思議に静かで満ち足りた、それでいて渇望と情熱とが入り混じった気持ちです。
それではまた。
2019年7月31日