鎮魂歌としての「怨詩行」(1)

西晋王朝で歌われた楚調「怨詩行」(『宋書』巻21・楽志三)は、
曹植の「七哀詩」(『文選』巻23)をもとにしています。

曹植「七哀詩」は、生き別れの夫を思う妻の心情を一人称で詠じるもので、
「怨詩行」は、この本歌をほとんどそのまま踏襲していますが、
次の2点で顕著な違いを見せています。

第一に、夫婦間に横たわる距離を詠った、曹植「七哀詩」の次の二句、

君若清路塵  貴方は清らかな路上に舞う塵のよう、
妾若濁水泥  私は濁った水に沈む泥のようです。

これを、「怨詩行」は次のように改変しているということです。

君為高山柏  貴方は高い山に植わった柏となり、
妾為濁水泥  私は濁った水に沈む泥となりました。

ここで、なぜ、「清路塵」が「高山柏」になっているのでしょう。
これにより、対をなす「濁水泥」との親密な連関性は崩れてしまいます。*
それでも「怨詩行」は敢えて、「塵」を「柏」に改めた。それはなぜでしょうか。

柏という常緑樹は、この当時、墳墓の上に植えられていました。
それは、漢代の詩歌にしばしば詠じられているところです。
一例として、『文選』巻29「古詩十九首」其三に次のような辞句が見えています。

青青陵上柏  青々と茂る陵墓の上の柏、
磊磊礀中石  ごろごろところがっている谷川の石。
人生天地間  人は天地の間に生を受け、
忽如遠行客  あっという間に過ぎゆくこと、遠くを行く旅人のようだ。

さらに、同じ西晋時代の何劭「遊仙詩」(『文選』巻21)には、

青青陵上松  青青と茂る陵墓の上の松、
亭亭高山柏  すっくと抜きんでた高い山の柏。

という対句も見え、「陵上松」との対比から、「高山柏」の意味は明瞭です。

こうしてみると、「怨詩行」にいう「君為高山柏」は、
高い山の陵墓に植わった柏となった貴方、
つまり亡くなった貴方を詠じているということになるでしょう。

これが、曹植「七哀詩」から「怨詩行」への、第二の改変につながります(つづく)。

それではまた。

2019年9月16日

*黄節『曹子建詩註』巻一を参照。矢田博士「曹植の「七哀」と晋楽所奏の「怨詩行」について―不可解な二箇所の改変を中心に―」(『松浦友久博士追悼記念中国古典文学論集』研文出版、2006年)、一澤美帆「本辞と晋楽所奏に関する一考察―曹植「怨詩行」について―」(『大谷大学大学院研究紀要』24号、2007年)も、この問題に論及しています。

兄への屈託

曹植は、兄の曹丕と、父の後継者争いをするつもりはなかった、
とは昨日述べたところです。

また、曹植の「吁嗟篇」(『三国志』巻19「陳思王植伝」裴松之注に引く)は、
その末尾で次のように歌っています。

願為中林草   できることならば林の中の草となって、
秋随野火燔   秋の日、野火に煽られるままに焼かれてしまいたい。
糜滅豈不痛   焼けただれ死滅するのは苦痛であるに決まっているけれど、
願与根荄連   それでも、どうか根っこと連なれますように。

ただ、曹植は終生、兄弟愛を持ち続けたというわけではありません。
そのことは、彼自身の作品から読み取れます。

たとえば、側近の丁廙に宛てた「贈丁翼」(『文選』巻24)は、
賓客たちで埋め尽くされた王宮での宴とは別に、
宮城の片隅で、気心知れた者たちと私宴を設ける思いをこう詠っています。

我豈狎異人  私は見知らぬ人と慣れ親しんだりするものか。
朋友与我倶  古なじみの友人たちが、私とともにいてくれるのだ。

上の句は、『毛詩』小雅「頍弁」にいう、次の句を明確になぞっています。

豈伊異人  豈に伊(こ)れ異人ならんや、
兄弟匪他  兄弟にして他に匪(あら)ず。

つまり、「我豈狎異人」とくれば、普通は「兄弟与我倶」と続くはずなのに、
曹植はわざわざ「兄弟」を「朋友」に差し替えているのです。

ここに、兄に対する心理的距離感がはっきりと見て取れます。

丁廙は、曹丕が魏王となった年の秋に殺されていますから、
本詩ができた時点で、曹丕の兄弟たちに対する仕打ちは未発ですが、
彼が父の後継者となるため色々と手を回したことは、曹植も知っていたでしょう。

この詩の冒頭に示された大勢の賓客が集う宴とは、
太子となった曹丕が大々的に主催するものであった可能性もあります。

それではまた。

2019年9月13日

 

 

 

後継者選びの「大義」

再び重ねて昨日の続きです。

曹操の後継者問題をめぐる緊迫状況の中で、
衛臻が、曹植を推す丁儀らの誘いかけを拒否したのは「大義」からでした。

「大義」とは、崔琰のいう「春秋の義」(『三国志』巻12「崔琰伝」)と同義でしょう。
『春秋公羊伝』隠公元年に、

立適(嫡)、以長不以賢。
 正夫人の子を後継者に立てる場合は、年齢に拠って、賢明さには拠らない。
立子、以貴不以長。
 すべての子から選んで立てる場合は、身分に拠って、年齢には拠らない。

とあるのがそれです。

この考え方に依拠して曹丕を推した人物として、前掲の衛臻、崔琰のほか、
賈詡(巻10)、毛玠(巻12)、桓階(巻22)らがいます。
いずれも第一級の知識人たちです。

そして、この大義は、他ならぬ曹植自身も意識していた。
巻19「任城王彰伝」裴松之注引『魏略』に記す、次の逸話からそう判断されます。

急病に倒れた曹操に呼び寄せられた曹彰(曹丕の弟、曹植の兄)が、
曹植に「先王が私を召し寄せたのは、お前を立てようとしたためだ」と言うと、
曹植は「だめだ。袁氏兄弟の末路を見ておられないのか」と返した。

袁氏兄弟とは、袁紹の跡を継いだ末子の袁尚と、これと争った長子の袁譚で、
彼らは兄弟争いをしているうちに、曹操軍に征伐されました。

なお、同様な事例として、荊州に割拠した劉表の後継者問題もあって、
前掲の賈詡は、この二つのなりゆきに言及しつつ、それとなく曹丕を推しています。

前掲『魏略』は、以前にも述べたように、かなり信頼性の高い資料です。

こうしてみると、多くの先行研究がいうように、
曹植自身は、父の後継者となる意志を持っていなかったと見られます。

それではまた。

2019年9月12日

 

曹植をめぐる評価と罪状と

重ねて昨日の続きです。

鍾会は、高貴郷公曹髦を、才能は曹植と同等、武勇は曹操に類すると評しました。
魏王朝において、曹植はその父曹操と並んで評価が高いのですね。
先に述べたとおり(2019.07.15)、彼は「過去の過ちを悔いる人」であるにも関わらず。

こんなエピソードがあります。

曹植と曹丕との間で、父曹操の後継者が未決定であった時期、
曹植を強く推した丁儀らに、自分たちの仲間になるよう誘われた衛臻は、
その時には「大義」を以てきっぱりとこれを断っています。
ところが、曹丕が文帝として即位してからのこと、
その頃、父文帝に溺愛されていた東海王曹霖のことを暗に示しながら、
「平原侯(曹植)はどうかね。」と文帝に問われた衛臻は、
もっぱら曹植の徳を称賛して、曹霖については触れなかったといいます。
(『三国志』巻22・衛臻伝)

衛臻は、曹操の後継者として曹植を推すことはしませんでしたが、
彼の人徳は高く評価していたのですね。

曹丕は、父に愛される息子という点で、曹植と曹霖とを重ねたかったのでしょう。
(凡庸であるがゆえに、父に愛されなかった曹丕の寂しさが思われます。)

ちなみに、高貴郷公曹髦の父は、この曹霖です。
聡明なその子とは違って、粗暴低劣な男であったようです。(同巻20・武文世王公伝)

明帝曹叡(文帝曹丕の子、曹霖の異母兄弟)に関して、こんなエピソードもあります。

太和二年(228)、明帝(時に24歳)が行幸先の長安から洛陽に帰還するとき、
明帝が崩御し、群臣が雍丘王曹植(37歳)を迎えて擁立したとのうわさが立ちました。
卞太后(曹丕・曹植の母)はそのうわさの出所を突き止めようとしますが、
明帝は彼女(祖母)に対してこう返したといいます。
「天下の人々がみな言っているのだから、どうにも調べようがないですよ。」
(同巻3・明帝紀の裴松之注に引く『魏略』)

明帝は、その母甄皇后が誅殺されたため、父文帝に疎んじられ、
太子に立てられたのも、文帝の最晩年でした。
こうした境遇が、あるべき健康な自尊心を傷つけたのか、
皇帝として、自分なんぞより、曹植の方がふさわしいと皆が思っている、
そのことは自分もよく承知している、と言わんばかりの科白です。

実際、曹植は、才と徳とを兼ね備えた、人望の厚い人物だと皆が認めていたのでしょう。
魏王朝に数々挙げられた罪状の空疎さがぽっかりと浮かび上がるようです。

それではまた。

2019年9月11日

 

 

誉め言葉の真意は?

昨日の話に関連して。

二十歳で弑された高貴郷公曹髦は、
幼少の頃から学問を好んで早熟であったといいます。
『三国志』三少帝紀にそう記すばかりか、
その裴松之注に引く『魏氏春秋』にも、次のような記述が見えています。

公神明爽儁、徳音宣朗。
罷朝、景王私曰、「上何如主也。」
鍾会対曰、「才同陳思、武類太祖。」
景王曰、「若如卿言、社稷之福也。」

高貴郷公は並外れて聡明で颯爽としており、言葉は明瞭でよく通る声をしていた。
朝廷から退出して、司馬師(晋の景帝)がひそかに問うた。
「お上はどのような君主でいらっしゃるか。」
鍾会が答えて言った。
「才能は陳思王曹植に等しく、武勇は武帝曹操に類するものがあります。」
司馬師は言った。
「もし君の言うとおりなら、国家にとっての幸福だ。」

この司馬師と鍾会との会話は、
一見、年若い聡明な新皇帝をほめたたえる嘉話のように読めます。
ですが、なにか不穏なものを感じるのは、
今の時点から、鍾会という人の所業が見えているからです。

鍾会は、司馬氏にとって不都合な人物たちを追い落としていきました。*
竹林七賢の主要メンバーの一人、嵆康を死に追いやり、
また、嵆康の畏友、阮籍に対しては、
執拗な問いかけによって罠にかけようとしました。

そんな人物が発した上記の言葉を、文字どおりに受け止めてよいものか。

また、鍾会から曹髦の人物評価を聞き出した司馬師は、
自らの権力拡大を阻もうとする人々を次々と制圧していった人間です。

二人が交わした言葉の真意がわかりません。

それではまた。

2019年9月10日

*大上正美「鍾会論」(大上正美『阮籍・嵆康の文学』創文社、2000年。初出は『青山学院大学文学部紀要』第30号、1989年)は、鍾会という人間の根っこに、自身が思想家的な要素を持ちながら、本物の思想家を前にしては屈せざるを得ないコンプレックスがあるのではないかと論じています。

 

少年皇帝の無念

東晋の曹毗による「晋江左宗廟歌十三篇」(『宋書』巻二十・楽志二)の其三、
文帝司馬昭を賛美する歌辞の中に、次のような句があります。

皇室多難  時に皇室は多難な時期であったが、
厳清紫宮  太祖文帝(司馬昭)は宮廷内を厳しく清め正された。

「厳清紫宮」が指し示す史実としては、
高貴郷公曹髦の起したクーデターを、司馬昭が鎮圧したという事件がそれでしょう。

曹髦は、曹丕の孫で、嘉平六年(254)、十四歳で魏王朝の第四代皇帝に即位しました。
しかし、王朝の実権は司馬氏側に握られており、そのことに憤懣やるかたない彼は、
甘露五年(260)、親衛隊を率いて司馬昭を伐ちに出て、
たちどころに、司馬昭の腹心である賈充の指示を受けた成済に刺殺されます。
時に弱冠二十歳でした。
(『三国志』巻四・三少帝紀、及び同裴松之注に引く『漢晋春秋』ほか)

共同研究の読書会でこの作品を読んでいて、問題になったのが、
「皇室多難」の「皇室」が、曹魏を指すのか、司馬晋を指すのかということです。

この宗廟歌は司馬晋側の立場から作られたものなので、
司馬晋の「皇室」にとって、高貴郷公曹髦のクーデター等を「多難」と言っているのか。
あるいは、
当時はまだ曹魏王朝が曲がりなりにも存続しており、司馬氏は臣下の立場だから、
「皇室」とは曹魏を指すのではないか。
だが、そうすると「多難」は何を指すことになるのか。

研究会から戻って、諸々の資料を見直していて、はたと気付きました。

前掲の『三国志』三少帝紀(高貴郷公曹髦)の本文、
皇太后(明元郭皇后)の名で出された令には、曹髦の罪状があれこれ記されています。
一方、裴注に引く『漢晋春秋』は、彼の行為の動機や、殺害に至った経緯を詳述しています。
(裴松之は、この資料は後出だが、ことの次第をよく記していると評価しています。)

つまり、高貴郷公曹髦は、『三国志』本文ではワルモノにされているのです。

これを踏まえれば、前掲の詩句の不明瞭さは晴れてきます。

曹魏の「皇室」にとって、
高貴郷公曹髦の憤懣に発する行為を「多難」と称している、という解釈が妥当でしょう。

曹魏王朝の内部に、皇室を困難に陥れる乱暴者がいた、
それを粛清したのが司馬昭だ、というわけですね。

なぜ怒りに震え、遂に暴虐のふるまいに出ることとなったのか、
その理由を顧みられることもなく、根本にある思いも大人たちに無視され、
目に見える乱暴な行為のみを取り上げて問題ありとされた、少年皇帝の無念を思います。

それではまた。

2019年9月9日

 

ひとり同士だからこそ

漢代の詠み人知らずの詩歌は、大多数が悲哀感情を詠じています。
たとえば古詩であれば、生き別れの男女の情愛がその原初的テーマです。

また、そうした詩歌が詠われる宴席の様子は、
一座の人々はすすり泣き、その魂はとろけるようだと表現されています。
(『文選』巻四、張衡「南都賦」)

同じ宴席という場で上演されていたと思しい語り物文芸や演劇で、
たとえば、刺客荊軻の秦国への出立、李陵と蘇武の別れの場面などでは、
しばしば“涙が数行下ったり”しています。

悲哀感情というものは、人と共有しやすいものなのでしょうか。

ただ、宴席の外には、一家離散の流民が多くいたはずで、
それを思うと、宴席に連なる人々の悲哀がどういうものなのか、
リアリティを以て納得することが難しくなります。

他方、人々と共有する悲哀感とは異なって、
ある個人が、その人にしか感受できない悲しみを詠ずるとき、
かえって私はそれに強く共振するものを感じます。
私もひとり、この人もひとり。
ひとり同士だからこそ通じ合えるもの、
それを受け取ることができたなら本望だと思います。

それではまた。

2019年8月29日

 

恋文のような友情詩

昨日言及した顧栄は、故郷の呉にいる妻に贈る詩を、
同郷の友人であり、当代きっての文人、陸機に代作してもらっています。
(夫婦愛はプライベートではないのか、この種の代作は必ずしも珍しくありません。)

その陸機「為顧彦先贈婦(顧彦先の為に婦に贈る)二首」(『文選』巻二十四)の、
其二の末尾にこうあります。

願保金石躯  どうか貴方には金石のように頑健な身体を保たれて、
慰妾長飢渇  いつか、私の長い飢渇のような寂しさを慰めてくださいますよう。

そしてこの句は、白居易が元稹に宛てた「寄元九」詩(『白氏文集』巻十、0449)に、
次のとおり踏まえられています。

願君少愁苦  どうか君、あまりひどく愁え苦しむことのないように。  
我亦加飡食  私もまた、しっかり食べて元気をつけよう。
各保金石躯  それぞれ金石のように頑健な身体を保ち、
以慰長相憶  長く相手を思慕している切なさを慰めようではないか。

この白居易詩は、前掲の陸機の詩に加えて、
古楽府「飲馬長城窟行」(『文選』巻二十七)にいう次の辞句も踏まえています。

上有加餐食  (貴方からの手紙の)冒頭には「ご飯をしっかり食べよ」と、
下有長相憶  結びには「長くおまえのことを思っている」と書いてありました。

陸機の詩も、この詠み人知らずの歌詩も、男女間の愛情を詠じている。
つまり、白居易の詩は、友人の元稹をほとんど妻や恋人のように思い為しているのです。

このことについては、かつて唐代の書簡文との関係から論じたことがあります。
([論著等とその概要]の[報告・翻訳・書評等]№15。原稿も公開しています。)

では、こうした詩風はどのような歴史的経緯から誕生したのでしょうか。

「古詩」が後宮の女性たちに由来するとの推定はこちらでも述べたとおりですが、
その後続作品「蘇李詩」(論文№28)あたりが、上述のような詩の淵源なのかもしれないと考えています。
李陵と蘇武という無骨な男同士の離別詩に、なぜか夫婦の睦言が出てくるのですね。
しかし、五言詩の系譜をたどれば、これは必然のこととして納得されます。
そして、この詩風は後漢末の建安詩にも認めることができます。
では、それ以降、唐代に至るまでどうだったのか。
それは未解明です。

それではまた。

2019年8月28日

 

やはり天は見ている。

三国の呉から、北に赴いて西晋王朝に出仕した文人に、
陸機・陸雲兄弟(あの陸遜の孫)と並び称せられた顧栄という人がいます。

陸氏兄弟は、王朝の内紛、八王の乱に巻き込まれて亡くなりましたが、
顧栄は崩壊した西晋王朝が南方へ落ち延びていくのに同行し、
司馬睿が東晋王朝を建国するのに協力しました。

彼ら呉人は、西晋貴族社会の中で、敗戦国の田舎者という扱いでした。
それなのに顧栄は、自分たちを冷遇した人々の王朝再建に力を貸したのです。

『世説新語』徳行篇に、こんな内容のエピソードがあります。

顧栄が、西晋王朝の都、洛陽にいたときのこと。
宴席で、炙り肉を食べたそうな様子の料理人に、自分のものを分け与えた。
居合わせた人々は嘲笑したが、顧栄はこう言って意に介さなかった。
「一日中肉を炙りながら、その味を知らないなんて、そんなことがあるものか。」
その後、南へ難を逃れていく途中、間一髪でいつも助けてくれる者がいた。
あとになって聞けば、あの炙り肉を分けてもらった人だった。

顧栄という人物の人柄がしのばれる逸話です。
彼だからこそ、南人と北来の貴族との橋渡しもできたのでしょう。

ところが、顧栄が亡くなった後、
北来の貴族で、司馬睿の参謀であった王導は、
南方豪族たちを切り崩し、分断させて、主導権を手中に収めます。*

ですが、東晋王朝はそれほど長い命脈を保ってはいません。
王導のような天才的な政治家のやり口では結局こうなるのでしょう。
歴史学的アプローチでない、素人的感想ですが。

それではまた。

2019年8月27日

*川勝義雄『中国の歴史3魏晋南北朝』(講談社、1974年)6「貴族制社会の定着 4世紀の江南」を参照。

散歩するように文字を探すと

ある作品に語釈をつけるため、
『春秋左氏伝』の中からある語句を探していたところ、
宣公十二年の条に、次のようなフレーズがあるのに出会いました。

夫文、止戈為武。
そもそも文字として、「戈」(軍事)を「止」めるということが「武」である。

以前、授業の中で、何かの折に触れたことがありますが、
ふと思いついたことだったので、その際には出典を明示しませんでした。
ここにメモしておきます。

さて、何か言葉を古典籍の中から探すとき、今は便利な方法がいくらでもあります。
ですが、散歩をするように一枚ずつページをめくっていると、
期せずしてこんな宝物に出会います。

私が学生だった頃は、コンピュータやネット環境はまだなかったので、
散歩どころか、血眼になって、一枚ずつページをめくって文字を探していました。
索引のような工具書はありましたが、それでも大半は手作業によるしかなく、
少しでも作業を効率化するため、四角号碼という、漢字を記号化したものを覚えました。

ところが、この四角号碼というものを覚え(てい)ない先輩がいて、
その方はたいへんな博覧強記で、古典の世界を自身の血肉にしておられました。
ひとつひとつの知識が有機的につながっているのですね。

今は、コンピュータの普及によって、博覧強記の価値は薄れているのかもしれません。
けれども、身についた知識が薄弱だと、思いつくことも薄っぺらです。
『春秋左氏伝』のような古典を最初からじっくりと読むことは難しいとしても、
せめて出典を探すときくらい、できるだけ手作業で行うことを心がけようと思います。

ちなみに、夏目漱石は『春秋左氏伝』などの古典を愛読していたそうです。
中島敦の「牛人」は、『春秋左氏伝』に(『韓非子』にも)見える逸話に基づいています。
古典の血肉化があればこそ生まれた近代文学(氷山の一角)だと思います。

それではまた。

2019年8月26日

 

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