限られた記憶容量

先週、5回にわたって書き記したのは、
今年の三月に書いた論文を再構成するためのメモでした。

ところが、わずか半年ほどしか経っていないのに、
かなりの部分を忘れていた。
清路の塵が高山の柏になったこととか、
西南の風が東北の風になったこととかは鮮明に憶えていたのですが、
小さな、でもこれがないと単なる憶測になる、
そんな結節部分がきれいさっぱりと記憶から落ちていたのです。

ちょっと愕然としました。

思えば、三月は性質の異なる複数の仕事を同時並行で行っていた、
その隙間を縫うようにして書いた論文だからか、
(だから完成度も低い。)
それとも、脱稿後の半年、新たな出来事の記憶が脳裏に刻まれたからか。

忙しすぎるのか、いらない情報が頭に入って来すぎるのか。

いつだったか、入谷仙介先生がおっしゃっていたこと、

王維の詩を長らく読んできて、
彼が参照している書物がだいたいわかった。
経書、『文選』、それから『藝文類聚』、これくらいだ。
意外と少ない。

もしかしたら、『史記』や『漢書』もあったかもしれません。
 (上記のこと、私の記憶違いだったらごめんなさい。)

が、『藝文類聚』はたしかに含まれていました。

私から見れば、全然「意外と少ない」ではありませんが、
それでも、その知識のすべてに血が通っていて、
その気にさえなれば、自分の糧にできそうな感触があります。

古人と現代人と、脳の容量はそれほど増減していないでしょうから、
その限られた記憶容量の中に納まるものの質の問題でしょう。

自分にとって関係のないものは、
もう流していっていいのではないかと思っています。

それではまた。

2019年9月24日

 

注の付け方

ここ数日、論文を中国仕様に改める作業を行っているのですが、
(言語は日本語なのですが、体裁を中国仕様にする必要がありまして。)
戸惑っているのが、注の書き方です。

参照した先行研究については問題ありません。
著書の場合は、著者名、書名、出版社名、出版年、該当ページ、
論文の場合は、著者名、論文タイトル、雑誌名、号、出版年を記すということで。

奇妙に感じるのは、こうした参考文献と同じ様式で、一次資料についても注記することです。
たとえば、『漢書』礼楽志の一部を本文に引用する場合、

~~『漢書』巻二十二・礼楽志に、次のような記述が見えている。
  ……(引用文)……
      ※〈巻二十二〉の部分は、場合によっては記さないこともあります。

というふうに、本文中に出典を明記すれば十分だとこれまで認識していましたが、
最近の中国の学術論文では、本文に原文を引用した上で、その注に、

①『漢書』第22巻,中華書局,1975,第1046頁。

といった体裁で、書誌情報を記しているのですね。

ページ数まで示せば、あとで見る人(自分も含めて)が楽でしょう。
本文の校訂など、出版に至る作業に携わった人々への敬意を表する意味もあるでしょう。
また、昨今はネット上に多くのテキストが公開されているので、
それらではない、たしかな出版物を目睹したのだと示す意味もあるのかもしれません。

それでも、どうにも腑に落ちないのが、
こうした一次資料を、研究の成果である参考文献と同列に並べていることです。
(中国でも、一昔前の論文にはこうした体裁は認められません。)

最近は、日本の若い研究者も中国様式で論文を書かれる方が多いですが、
こうした資料の質的差異にどこまで自覚的であるか、一抹の不安を覚えることがあります。

ただ、皆が知っているその理由に、私が思い至らないだけなのかもしれませんが。

それではまた。

2019年9月23日

 

鎮魂歌としての「怨詩行」(5)

ここまでの何回かにわたって、
曹植「七哀詩」をアレンジした楽府詩「怨詩行」は、
曹植に捧げられた鎮魂歌ではないかという推論を示してきました。

そこで、あらためて思い起こされたいのが、この楽府詩が歌われた場所です。

楚調「怨詩行」として、『宋書』楽志三の末尾に収録されたこの楽府詩は、
同文献に記す、荀勗によって選定された宮廷歌曲群「清商三調」に含まれると判断できます。*
また、根拠が今一つ不明確ではありますが、

『楽府詩集』も、その巻41・楚調曲上に収める本作品に「晋楽所奏」と付記しています。

「怨詩行」は、西晋王朝の宮廷音楽として歌われたと見てほぼ間違いありません。

では、なぜ西晋王朝が、魏の曹植の魂を鎮める必要があったのでしょうか。
ひとつには、先にこちらでも述べた理由によるでしょう。
そしてもう一つ、こういうことも考えられるかもしれません。

西晋の武帝司馬炎は、その同母弟司馬攸を遠ざけて憤死に追い込みましたが、
この兄弟の間を割いたのは、他ならぬ荀勗でした。

司馬炎は弟の死を非常に悲しみ、晩年は病気がちで宴楽に耽ったといいます。
(『晋書』巻44・華嶠伝)※
そして、荀勗は朝廷の中枢から外され、鬱屈した日々を過ごしたと記されています。
(同巻39・荀勗伝)

こうした歴史的経緯を踏まえるならば、
もしかしたら荀勗は、自らの所業を悔い、武帝司馬炎をなぐさめるため、
宮廷歌曲のひとつとして、司馬攸を思わせる曹植に鎮魂歌を捧げたのではないか、
曹植に捧げられた鎮魂歌は、同時に司馬攸の魂を鎮めるためのものでもあったのではないか、

このような推論も成り立ち得るのではないかと思います。

それではまた。

2019年9月20日

*近日刊行予定の『狩野直禎先生追悼記念三国志論集』(汲古書院)に寄稿した拙論「晋楽所奏「怨詩行」考―曹植に捧げられた鎮魂歌―」に詳述しています。ここまで述べてきた一連のことも、この拙論で述べました。ご覧いただければ幸いです。

※先に記していた「華廙」は、「華嶠」の誤りでした。ここに訂正します。

鎮魂歌としての「怨詩行」(4)

昨日の風の話の続きです。

曹植「七哀詩」から晋楽所奏「怨詩行」への改作で、
風にまつわる表現として、
「西南風」から「東北風」へ差し替えられていることは昨日述べました。
これに加えてもう一つ、「長逝入君懐」から「吹我入君懐」への改変があります。

「七哀詩」では、西南の風となった自身が、長い距離を飛んでいくのでしたが、
「怨詩行」では、東北の風が起こって、それが自分を吹き飛ばすことになっています。

では、なぜ「怨詩行」はこのように本辞を改めたのでしょうか。

「吹我入君懐」という表現は、曹植の楽府詩「吁嗟篇」を思い起こさせます。
『三国志』巻19「陳思王植伝」の裴松之注に、
彼が琴を奏でながら歌ったとして引かれるこの楽府詩は、
おおもとの根から離れ、昼夜となくひとり転がり続ける蓬(よもぎ)を詠じていますが、
その中に、このようなフレーズが見えています。

卒遇回風起  突然、吹き起こったつむじ風に巻き込まれ、
吹我入雲間  (つむじ風は)私を吹き飛ばして雲の中に投げ入れた。

同じテーマを詠ずる「雑詩六首」其二(『文選』巻29)にも、
「吁嗟篇」とほとんど同じ「吹我入雲中」という辞句が見えています。

「怨詩行」の改作者は、この楽府詩に曹植の生涯を色濃く重ね合わせるため、
「吁嗟篇」などに特徴的な表現を、この「怨詩行」に組み入れたのではないでしょうか。

この辞句の組み替えによって、
「怨詩行」は、曹丕と曹植との関係性を強く想起させることとなります。
そして、「高山柏」の「君」も「濁水泥」の「妾」もすでにこの世にはいない存在で、
その「濁水泥」から「高山柏」に向けて風が吹くのです。
これは、その死後も兄のことを思って彷徨する、曹植の魂を詠じているのではないでしょうか。

それではまた。

2019年9月19日

 

鎮魂歌としての「怨詩行」(3)

昨日述べた、風の話に行き着く前に、
もうひとつ説明しておかなくてはならないことがありました。

晋楽所奏「怨詩行」の、「君為高山柏」の前には、
本歌の曹植「七哀詩」にはなかった、次のような句が増補されています。

念君過於渇  貴方のことを繰り返し思うことは、喉の渇きよりもひどく、
思君劇於饑  貴方を思慕することは、飢えよりも激しい。

人に思い焦がれるさまを飢渇に例える例は、漢代詩歌にすでにありますが、
注目したいのは、他ならぬ曹植の作品にも、この表現が用いられていることです。
「責躬詩」(『文選』巻20)に、こうあります。

天啓其衷 得会京畿  天子がお心を開かれ、都でお会いできることとなった。
遅奉聖顔 如渇如飢  面会を待ち焦がれ、飢渇に身をさいなまれる思いだ。

ここに曹植が思い焦がれている天子とは文帝、兄の曹丕です。

そうだとすると、
同様な表現が用いられている「怨詩行」において、

飢渇よりも激しく思いを寄せられている「君」は曹丕を指し、
「君」に思いを寄せる「濁水泥」のような「妾」とは曹植をいう可能性があります。

そして、「怨詩行」が作られた時点で、曹植も曹丕もすでに亡くなっていました。
だからこそ、「君為高山柏」なのですね。では、一方の「妾為濁水泥」はどうでしょうか。

曹丕と曹植の葬られた場所は、
曹丕が、洛陽の東の郊外にある首陽陵(必ずや柏が植わっているでしょう)、
曹植が、最晩年に報じられた東阿(漢代に氾濫を起こした河の傍ら)、
両者の位置関係は、曹丕の陵墓から見て、曹植の墓は東北の方角に当たっています。

「怨詩行」にいう「東北風」とは、東北から吹いてくる風、
つまり、曹植の墓と曹丕の陵墓とを結ぶ線上に吹く風と重なるのです。

本歌にあった「西南風」が、「怨詩行」で「東北風」に改変されたのは、
このことと深く関わっているだろうと私は考えます。
(こじつけのように聞こえますか。)

明日へつづく。

2019年9月18日

鎮魂歌としての「怨詩行」(2)

楚調「怨詩行」にいう「高山柏」は、
陵墓に植わった柏、つまり逝去した人を指すのだと、昨日述べました。

ですが、これには異論が出てくるかもしれません。
というのは、柏という樹木には、また別の表象もあるからです。
たとえば、

亭亭山上松  すっくと抜きんでた山頂の松、
瑟瑟谷中風  さあさあと音を上げて谷底を吹き渡る風。

と詠い起こされる、『文選』巻23、魏の劉楨「贈従弟三首」其二は、
その結句でこう詠じています。

豈不羅凝寒  凍てつく厳寒に痛めつけられないはずはないが、
松柏有本性  松柏にはどんな逆境にも負けない本性が備わっているのだ。

これは、『論語』子罕篇にいう「歳寒、然後知松柏之後彫也。」
つまり、厳寒の季節となってはじめて、松柏が枯れないことに気づく、
という意味のフレーズを踏まえた表現です。
松柏が持つイメージとしては、むしろこちらの方が正統的でしょう。

劉楨の詩のような事例があるなら、
晋楽所奏「怨詩行」にいう「高山柏」もまた、
高い山に植わった常緑樹の柏を詠じることによって、
「君」の抜きん出た崇高さを表したものと解釈できなくもありません。

ですが、「怨詩行」に詠われた高山の柏は、
やはり、陵墓に茂る柏と見るのが妥当だと私は考えます。

そう考える理由は、次に示す第二の改変と関わります。

すなわち、曹植「七哀詩」にいう、

願為西南風  どうか西南から吹く風となって、
長逝入君懐  長く飛んでいって君の懐に入れますように。

これが、晋楽所奏「怨詩行」ではこうなっています。

願作東北風  どうか東北から吹く風が巻き起こり、  
吹我入君懐  私を吹き飛ばして貴方の懐に入れますように。

この改変が、前述の「高山柏」とどう関係があるのでしょうか。

明日へつなぎます。

2019年9月17日

 

 

 

鎮魂歌としての「怨詩行」(1)

西晋王朝で歌われた楚調「怨詩行」(『宋書』巻21・楽志三)は、
曹植の「七哀詩」(『文選』巻23)をもとにしています。

曹植「七哀詩」は、生き別れの夫を思う妻の心情を一人称で詠じるもので、
「怨詩行」は、この本歌をほとんどそのまま踏襲していますが、
次の2点で顕著な違いを見せています。

第一に、夫婦間に横たわる距離を詠った、曹植「七哀詩」の次の二句、

君若清路塵  貴方は清らかな路上に舞う塵のよう、
妾若濁水泥  私は濁った水に沈む泥のようです。

これを、「怨詩行」は次のように改変しているということです。

君為高山柏  貴方は高い山に植わった柏となり、
妾為濁水泥  私は濁った水に沈む泥となりました。

ここで、なぜ、「清路塵」が「高山柏」になっているのでしょう。
これにより、対をなす「濁水泥」との親密な連関性は崩れてしまいます。*
それでも「怨詩行」は敢えて、「塵」を「柏」に改めた。それはなぜでしょうか。

柏という常緑樹は、この当時、墳墓の上に植えられていました。
それは、漢代の詩歌にしばしば詠じられているところです。
一例として、『文選』巻29「古詩十九首」其三に次のような辞句が見えています。

青青陵上柏  青々と茂る陵墓の上の柏、
磊磊礀中石  ごろごろところがっている谷川の石。
人生天地間  人は天地の間に生を受け、
忽如遠行客  あっという間に過ぎゆくこと、遠くを行く旅人のようだ。

さらに、同じ西晋時代の何劭「遊仙詩」(『文選』巻21)には、

青青陵上松  青青と茂る陵墓の上の松、
亭亭高山柏  すっくと抜きんでた高い山の柏。

という対句も見え、「陵上松」との対比から、「高山柏」の意味は明瞭です。

こうしてみると、「怨詩行」にいう「君為高山柏」は、
高い山の陵墓に植わった柏となった貴方、
つまり亡くなった貴方を詠じているということになるでしょう。

これが、曹植「七哀詩」から「怨詩行」への、第二の改変につながります(つづく)。

それではまた。

2019年9月16日

*黄節『曹子建詩註』巻一を参照。矢田博士「曹植の「七哀」と晋楽所奏の「怨詩行」について―不可解な二箇所の改変を中心に―」(『松浦友久博士追悼記念中国古典文学論集』研文出版、2006年)、一澤美帆「本辞と晋楽所奏に関する一考察―曹植「怨詩行」について―」(『大谷大学大学院研究紀要』24号、2007年)も、この問題に論及しています。

兄への屈託

曹植は、兄の曹丕と、父の後継者争いをするつもりはなかった、
とは昨日述べたところです。

また、曹植の「吁嗟篇」(『三国志』巻19「陳思王植伝」裴松之注に引く)は、
その末尾で次のように歌っています。

願為中林草   できることならば林の中の草となって、
秋随野火燔   秋の日、野火に煽られるままに焼かれてしまいたい。
糜滅豈不痛   焼けただれ死滅するのは苦痛であるに決まっているけれど、
願与根荄連   それでも、どうか根っこと連なれますように。

ただ、曹植は終生、兄弟愛を持ち続けたというわけではありません。
そのことは、彼自身の作品から読み取れます。

たとえば、側近の丁廙に宛てた「贈丁翼」(『文選』巻24)は、
賓客たちで埋め尽くされた王宮での宴とは別に、
宮城の片隅で、気心知れた者たちと私宴を設ける思いをこう詠っています。

我豈狎異人  私は見知らぬ人と慣れ親しんだりするものか。
朋友与我倶  古なじみの友人たちが、私とともにいてくれるのだ。

上の句は、『毛詩』小雅「頍弁」にいう、次の句を明確になぞっています。

豈伊異人  豈に伊(こ)れ異人ならんや、
兄弟匪他  兄弟にして他に匪(あら)ず。

つまり、「我豈狎異人」とくれば、普通は「兄弟与我倶」と続くはずなのに、
曹植はわざわざ「兄弟」を「朋友」に差し替えているのです。

ここに、兄に対する心理的距離感がはっきりと見て取れます。

丁廙は、曹丕が魏王となった年の秋に殺されていますから、
本詩ができた時点で、曹丕の兄弟たちに対する仕打ちは未発ですが、
彼が父の後継者となるため色々と手を回したことは、曹植も知っていたでしょう。

この詩の冒頭に示された大勢の賓客が集う宴とは、
太子となった曹丕が大々的に主催するものであった可能性もあります。

それではまた。

2019年9月13日

 

 

 

後継者選びの「大義」

再び重ねて昨日の続きです。

曹操の後継者問題をめぐる緊迫状況の中で、
衛臻が、曹植を推す丁儀らの誘いかけを拒否したのは「大義」からでした。

「大義」とは、崔琰のいう「春秋の義」(『三国志』巻12「崔琰伝」)と同義でしょう。
『春秋公羊伝』隠公元年に、

立適(嫡)、以長不以賢。
 正夫人の子を後継者に立てる場合は、年齢に拠って、賢明さには拠らない。
立子、以貴不以長。
 すべての子から選んで立てる場合は、身分に拠って、年齢には拠らない。

とあるのがそれです。

この考え方に依拠して曹丕を推した人物として、前掲の衛臻、崔琰のほか、
賈詡(巻10)、毛玠(巻12)、桓階(巻22)らがいます。
いずれも第一級の知識人たちです。

そして、この大義は、他ならぬ曹植自身も意識していた。
巻19「任城王彰伝」裴松之注引『魏略』に記す、次の逸話からそう判断されます。

急病に倒れた曹操に呼び寄せられた曹彰(曹丕の弟、曹植の兄)が、
曹植に「先王が私を召し寄せたのは、お前を立てようとしたためだ」と言うと、
曹植は「だめだ。袁氏兄弟の末路を見ておられないのか」と返した。

袁氏兄弟とは、袁紹の跡を継いだ末子の袁尚と、これと争った長子の袁譚で、
彼らは兄弟争いをしているうちに、曹操軍に征伐されました。

なお、同様な事例として、荊州に割拠した劉表の後継者問題もあって、
前掲の賈詡は、この二つのなりゆきに言及しつつ、それとなく曹丕を推しています。

前掲『魏略』は、以前にも述べたように、かなり信頼性の高い資料です。

こうしてみると、多くの先行研究がいうように、
曹植自身は、父の後継者となる意志を持っていなかったと見られます。

それではまた。

2019年9月12日

 

曹植をめぐる評価と罪状と

重ねて昨日の続きです。

鍾会は、高貴郷公曹髦を、才能は曹植と同等、武勇は曹操に類すると評しました。
魏王朝において、曹植はその父曹操と並んで評価が高いのですね。
先に述べたとおり(2019.07.15)、彼は「過去の過ちを悔いる人」であるにも関わらず。

こんなエピソードがあります。

曹植と曹丕との間で、父曹操の後継者が未決定であった時期、
曹植を強く推した丁儀らに、自分たちの仲間になるよう誘われた衛臻は、
その時には「大義」を以てきっぱりとこれを断っています。
ところが、曹丕が文帝として即位してからのこと、
その頃、父文帝に溺愛されていた東海王曹霖のことを暗に示しながら、
「平原侯(曹植)はどうかね。」と文帝に問われた衛臻は、
もっぱら曹植の徳を称賛して、曹霖については触れなかったといいます。
(『三国志』巻22・衛臻伝)

衛臻は、曹操の後継者として曹植を推すことはしませんでしたが、
彼の人徳は高く評価していたのですね。

曹丕は、父に愛される息子という点で、曹植と曹霖とを重ねたかったのでしょう。
(凡庸であるがゆえに、父に愛されなかった曹丕の寂しさが思われます。)

ちなみに、高貴郷公曹髦の父は、この曹霖です。
聡明なその子とは違って、粗暴低劣な男であったようです。(同巻20・武文世王公伝)

明帝曹叡(文帝曹丕の子、曹霖の異母兄弟)に関して、こんなエピソードもあります。

太和二年(228)、明帝(時に24歳)が行幸先の長安から洛陽に帰還するとき、
明帝が崩御し、群臣が雍丘王曹植(37歳)を迎えて擁立したとのうわさが立ちました。
卞太后(曹丕・曹植の母)はそのうわさの出所を突き止めようとしますが、
明帝は彼女(祖母)に対してこう返したといいます。
「天下の人々がみな言っているのだから、どうにも調べようがないですよ。」
(同巻3・明帝紀の裴松之注に引く『魏略』)

明帝は、その母甄皇后が誅殺されたため、父文帝に疎んじられ、
太子に立てられたのも、文帝の最晩年でした。
こうした境遇が、あるべき健康な自尊心を傷つけたのか、
皇帝として、自分なんぞより、曹植の方がふさわしいと皆が思っている、
そのことは自分もよく承知している、と言わんばかりの科白です。

実際、曹植は、才と徳とを兼ね備えた、人望の厚い人物だと皆が認めていたのでしょう。
魏王朝に数々挙げられた罪状の空疎さがぽっかりと浮かび上がるようです。

それではまた。

2019年9月11日

 

 

1 73 74 75 76 77 78 79 80 81 83