批評的な精神

先日のメモから。

ものごとを客体化して冷静に判断する、
という意味での批判的な姿勢とはどのようなものなのだろうか。
(他者を否定的に見る、批難する、という意味ではなくて)

定期試験を目前に控えて浮かび上がってきた想念でした。
というのは、必ずいるのですね、たとえば科挙制度の不平等性を批判するとか。
(まだ採点していないので、今年の答案についてはわかりません。)

自立した現代人として、過去の人や制度を批判する、
これは、一見とても批評的な態度のように感じられるのですが、
ここには、自身の立脚点に対する批判、自身の相対化というものがありません。
自分のことは棚に上げたまま、他者を一方的に批難しているのと同じ。

もちろん、古のことがすべて理想的であったというのは時代錯誤ですが、
過去を相対化して批判するならば、比較対象は、現代ではない別のものでなければ。

では、たとえば過去の人物になりきってみるというのはどうか。
自分を過去の人物に投影させるのは論外だとして、
もし本当になりきるとするならば、
それには一旦、今の自分を覆っている皮膜を破り捨てる必要があるでしょう。
そうして、ふたたび現在の自分に立ち返ったとき、必ずや違和感を覚えるに違いありません。
その違和感は、現在の自分、現代という時代を相対化する契機となるかもしれない。
ならば、これはすぐれて批評的な精神への出発点となり得るのではないか、
そう思いました。

いずれにしても、異なる世界との往還が、私たちの精神を耕すのでしょう。

それではまた。

2019年8月7日

 

 

 

昨日の補足説明

昨日は唐突なことを述べました。
自分にとっては重要な示唆を、曹植作品から与えられたものだからうれしくて。
でも、ほとんどの方々にとっては何のことやらでしょう。

そこで、以下、少し補足説明をしたいと思います。
(かつて発表した拙論の一部をふたたび紹介することをお許しください。
 [論著等とその概要]の学術論文及び著書№4をあわせてご覧いただければ幸いです。)

漢代詠み人知らずの五言詩に、古詩と総称される作品群があります。
この中に、古くから別格視されてきた一群(第一古詩群と仮称)があって、(学術論文№14)
それらは一説に、前漢初期の辞賦作家、枚乗の作だとされていました。
その当否はともかく(ほぼ間違いなく当たっていません)、
この特別な古詩群が彼の名に仮託されていたことは確かであって、
このことにより、古詩は知識人社会に広く流布していったと推測することができます。(学術論文№22、29)

さて、この第一古詩群は、更に、
宴という場に悲哀の情感をもたらすものとして歌われた詩と、
その宴という場そのものの情景を詠じた詩とに分けて捉えることができ、
その中でもより古層に属する詩群は前者であると言えます。(学術論文№18、21)
昨日述べた「原初的古詩」とは、これです。

興味深いことに、この原初的古詩の中に、枚乗とのつながりを示すものがあります。
昨日提示した『文選』所収曹植「七啓」の李善注に、

枚乗楽府曰、美人在雲端、天路隔無期。
枚乗の楽府に曰く、美人 雲端に在り、天路 隔たりて期する無し、と。

と示すのがそれで、李善が、枚乗作と明記するのはこれのみです。
(この歌詩は、『玉台新詠』巻一には、枚乗「雑詩八首」其六として収載されています。)

李善の指摘するとおり、
曹植がその「七啓」で歌姫に歌わせている「清歌」は、
明らかに枚乗作とされた楽府詩(あるいは「雑詩」)を踏まえています。

ということは、
曹植「七啓」に描かれた、香草を持った白い手を高く掲げて歩み出る女性は、
先述の原初的古詩を歌唱していた、と見ることが可能でしょう。

前漢時代の宮廷の庭園で、
曹植が描いたような情景が実際に繰り広げられていたのであれば、
古詩誕生の場に関する自分の仮説は、あながち的外れではなかったのかと思いました。

それではまた。

2019年8月6日

 

 

曹植が示唆してくれた。

曹植の「七啓」(『文選』巻三十四)を縦覧していて、
次のような辞句に出会いました。

燿神景於中沚   神々しい光を水辺に輝かし、
被軽縠之繊羅   軽やかな縮み絹のうすものを身に纏い、
遺芳烈而静歩   鮮烈な芳香を送り届けんとして静かに歩みを進め、
抗皓手而清歌   白い手を差し伸べて清らかな歌声をあげる。
曰           その歌辞にいう、
望雲際兮有好仇  雲のきわを遠く望めば、好ましい人がそこにいるのに、
天路長兮往無由  天に至る道のりは長くて、向かおうにもその手立てがありません。
佩蘭蕙兮為誰修  香しい蘭蕙を身に帯びて、誰のための装いでしょう。
宴婉絶兮我心愁  あなたとの親密な宴が絶たれ、私の心は愁いでいっぱいです。

三行目にいう「遺芳烈」について。
まず、「芳烈」は、下に続く歌に見える香草「蘭蕙」につながるでしょう。
「蘭蕙」は佩びていますが、手にも香り高い草を持っていたと見ることができます。
というのは、「芳烈」は「遺」という動詞の目的語だからで、
「芳烈」を「遺」するとは、『楚辞』九歌に見える次のような句を想起させます。

被石蘭兮帶杜衡、折芳馨兮遺所思。(「山鬼」)
折疏麻兮瑶華、將以遺兮離居。(「大司命」)
搴汀洲兮杜若、將以遺兮遠者。(「湘夫人」)

「遺」の意は、これらの用例から判断して、「送り届ける」だと見るのが妥当です。

こうしてみると、先に示した曹植の辞句は、
古詩「渉江采芙蓉」「庭中有奇樹」(『文選』巻二十九)によく似ていることに気付かされます。

唐突に感じられるでしょうから、説明しますね。

かつて私は古詩の中でも最も古い層に属するものを抽出し、
それらと前漢の後宮文化、及び『楚辞』九歌との関連性を論じたことがあります。
こちら学術論文№27、及び著書№4の第二章第二節第三項をご覧ください。
 前掲の古詩や『楚辞』の翻訳も、その中に示してあります。)

その中で、前掲のいわば原初的古詩の生成に関して、次のような仮説を提示しました。
すなわち、「渉江采芙蓉」のような原初的古詩が誕生した背景には、
後宮の女性たちを交えた宴席の場(王朝の庭園)で、
実際に水辺で香草を手に取り、遠方に向けて捧げる女性たちの姿があったのではないか、と。

期せずして、その傍証となり得る資料を曹植「七啓」の中に見出すことができました。
もちろん、上述のような解釈が妥当か、更に精査は必要ですが。

それではまた。

2019年8月5日

 

 

 

ひそやかな弔い

昨日言及した荀勗は、
司馬氏に取り入って西晋王朝の中枢に居座っただけでなく、
西晋の宮廷歌曲群、いわゆる「清商三調」を選定した人物でもあります。

このことは、『宋書』巻二十一・楽志三に、

清商三調歌詩  荀勗撰旧詞施用者(荀勗の旧詞を撰して施用する者なり)。

と記されていることから知られます。

なお、正史『晋書』には、荀勗伝(巻三十九)その他のどこにも、このことは記されていません。
律呂を定め、雅楽を司ったことは複数個所に見えているのですが。

そんな、雅楽に比べて扱いが若干軽い「清商三調」、
注目したいのは、その中に、
魏王朝の皇帝たち(武帝・曹操、文帝・曹丕、明帝・曹叡)による多くの楽府詩、
さらには陳思王・曹植の歌詞までもが含まれているということです。

荀勗はなぜ、西晋の宮廷歌曲として、魏王室の人々の歌辞を選んだのでしょうか。

ひとつには、
滅びた王朝を丁重に弔うという、
当時の人々にとっては普遍的、伝統的な意識からでしょう。
魏の相和歌「薤露」「蒿里」などと同じ発想です(7月23日に少し触れました)。

ですが、ただそれだけだ、と言い切るのにもためらいを感じます。
荀勗にとって、魏王朝に見切りをつけ、西晋王朝に乗り換えたということが、
簡単には片付けられない、やりきれない、噛み切れない思いを伴うものであったとしたならば。

それではまた。

2019年8月2日

 

絶望に発する豹変か?

後漢末から魏晋にかけての名族に、荀氏一族があります。

曹操の名参謀として尽力した荀彧や、
荀彧の推薦を受けて曹操に仕えることとなった荀攸はその代表的人物たちでしょう。

ところが、魏王朝が西晋王朝に取って代わられると、
それまで幾重にも結び合わされていた魏王室との姻戚関係を断ち切って、
一族の荀勗や、荀顗(荀彧の子)は、露骨なまでに新しい政権にすり寄っていきます。*

たしかに、荀彧は、曹操に自殺を迫られたようなものですし、
その長男の荀惲は、曹植と親しかったため文帝曹丕から冷遇されたといいます。
(『三国志』巻10・荀彧伝)。

そのようなことがあったのだから、
荀氏一族が魏王朝に対して恨みを持ったであろうことは容易に想像できるし、
逆に、西晋王朝との距離を縮めていったのは当然だとも思えます。

貴族というものは、かくも王朝に対して醒めた距離を取るものなのでしょう。
しかし、それにしてもすごい豹変ぶりだなと思っていたところ、
次のような内容の資料が目に留まりました。

西晋の武帝(司馬炎)に、司徒の欠員補充について相談された荀勗は、
「三公は皆が仰ぎ見る人物を任用すべきである。
 昔、魏の文帝(曹丕)が賈詡を三公にしたとき、孫権はこれを笑った」と言った。
(『三国志』巻10・賈詡伝の裴松之注に引く『荀勗別伝』)

曹丕が文帝として即位するや賈詡を高位に抜擢したのは、
賈詡が自分を太子として推してくれたことを知っていたからだといいます。
(同賈詡伝裴松之注に引く『魏略』)

曹丕の人事は、おしなべてこのように“私”的なものでしたが、
それを嘲笑した孫権の言葉を荀勗はしかと記憶していて、それを司馬炎に伝えたのです。

もしかしたら荀勗は、単なる私怨から曹魏に背を向けたのではないかもしれない、
その王朝草創期からすでに腐っていた曹魏に心底絶望していたが故に、
新興の司馬晋にさっさと乗り換えたということなのかもしれない、とふと妄想しました。

それではまた。

2019年8月1日

*丹羽兌子「魏晋時代の名族―荀氏の人々について―」(中国中世史研究会編『中国中世史研究―六朝隋唐の社会と文化―』東海大学出版会、1970年)を参照。

 

先人たちと共に

一昨日話題に挙げた、曹植の「元会」詩にいう「清酤盈爵、中坐騰光」。

曹植がもし『楚辞』招魂を意識しているとするならば、
宴席に集った人々の、ほろ酔い気分で紅色に染まった頬が内側から輝くさまを、
美女のまなざしが放つ輝きに重ねていることになる、とは先にも述べたとおりです。

言葉の組み合わせ方が意外で、斬新な表現だと感じます。
ところが一方、この句に続いて、曹植は先行作品をまるごと用いてもいます。

珍膳雑遝  珍しいご馳走が多彩に盛られ、
充溢円方  丸い皿、四角い器にあふれんばかりだ。

これは、後漢の張衡「南都賦」(『文選』巻四)にいう、

珍羞琅玕  珍しいご馳走は玉のように麗しく、
充溢円方  丸い皿、四角い器にあふれんばかりだ。

を踏まえていること、疑いを納れません。ほとんど同じですね。

そして、張衡のこの表現は、
曹植と関わりが深かった王粲の「公讌詩」(『文選』巻二十)にいう、
「嘉肴充円方(嘉肴は円方に充つ)」に用いられています。

実は、上記のことを、黄節『曹子建詩註』は指摘していません。
思わずガッツポーズを取ったのですが、

伊藤正文「曹植詩補注稿(詩之一)」(『神戸大学文学部紀要』8、1980年)、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)が、既にこのことを指摘していました。

やっぱり先人たちの仕事はすごいです。
そして、このような分野を専攻してよかった、と思うのです。
(すんでのところで天狗にならずにすみますから。)
“私が”ではなくて、先人とともに曹植の文学に迫っていくのだという、
不思議に静かで満ち足りた、それでいて渇望と情熱とが入り混じった気持ちです。

それではまた。

2019年7月31日

 

自分を語るのではなく

来週のオープンキャンパスに向けて、教員紹介パネルの原稿を作成しました。

国際文化学部・国際文化学科から、
人間文化学部・国際文化学科(もうひとつの学科は健康科学科)へ、
さらに来年からは、地域創生学部・地域創生学科・地域文化コース(文化継承)です。

私が本学の前身である広島女子大学に赴任したときは、
まだ文学部が上級学年に残っていました。

この一連の推移は、日本全国、どこの大学にも見られる現象でしょう。
ウェブ上に記されたものは消えないそうなので、敢えて書き残しておきます。

それにしても、自己紹介の文章を書きながら、
自分はそれでも古典文学研究者として生きようとしているのだと、
ちょっと驚きました。

問わず語りに書いていたら絶対に出てこない言葉が、自分の手から出てくる、
だからといって、パネルを見る人を過剰に意識しているわけでもない、
不思議な言語体験でした。

ウェブ上に書くことも、これと少し似ているかもしれません。
“自分”という意識はかえって希薄になります。
そういえば、論文もそうです。だから恥ずかしさはない。

それではまた。

2019年7月30日

語注という作品解釈

前期の授業もやっと最終週です。
様々な仕事が重なって、曹植作品を読む時間が取りづらい日々ですが、
一旦途切れてしまうと再開にエネルギーが必要になるので、
何もしないよりはまし、
ということで、今朝もひとつだけノートに語釈を書き付けました。

それはさておき。

語釈に際しては、黄節の『曹子建詩註』にいつも多くのことを教えられます。
ですが、それのみに依拠するのは危うい、ということに本日改めて気付かされました。

元旦の宴席風景を描写した「元会」詩の次の句、

清酤盈爵  清らかな一夜造りの酒が杯を満たし、
中坐騰光  一座の人々は輝きを発する。

この中の「騰光」という語に対して、黄節は、
『楚辞』招魂にいう「蛾眉曼睩、目騰光些」を踏まえる可能性を指摘します。

『楚辞』における「騰光」とは、
細長い弓なりの眉のもと、うるんだ瞳で流し目をする、そんな美女の目が放つ光輝です。
そうした言葉を、曹植は宴席の高揚した雰囲気を描写するのに用いている、
と黄節は指摘しているのです。

この語釈を見たときは、思わず膝を打ちました。
曹植の他の詩でも、同質の事例があったことを思い出したからです。

ですが、『佩文韻府』などで用例に当たってみたところ、
「騰光」は、『楚辞』を経由せずとも、わりと普通に用いられている言葉のようでした。
振り出しに戻って考え直さないと。

語釈は、必ずしもすべてが、誰の目から見ても的確というものばかりでもなくて、
注釈の有り様には、その人ならではの読みが顕れる、
だから、先人の注を妄信するのではなく、先輩注釈者と対話しながら作品を読んでいく、
そのような付き合い方をすればよいのだな、と思ったことです。

それではまた。

2019年7月29日

 

 

まだ先が見えていないと仮定して

先に触れたこともある曹植の「贈丁儀」は、
もし私の推定が妥当であるならば、非常に怖ろしい詩です。

かつて、曹操の跡継ぎとして曹植を強く推した丁儀。
220年、曹操の死後、魏王となった曹丕は、その年の秋、彼を処刑します。
(秋は処刑の季節です。)

そのまもなく殺されることになる丁儀に対して、曹植は、

子其寧爾心    君よ、どうかその心持を安らかに保ってくれ。
親交義不薄    私たちの親交は、薄からぬ情義で結ばれているのだから。

などと悠長なことを言っているばかりか、
その上文では、口を極めて為政者批判をしているのですから。

その為政者とは、兄の曹丕を指します。
丁儀の命は曹丕の手の内に握られているというのに、その曹丕を批判している。
しかも、兄の曹丕と自分とは、薄からざる「義」で結ばれている、
(「親交」は、『荘子』山木篇を踏まえ、肉親どうしの情誼を言います。)
だから大丈夫だ、などと言っているわけです。

曹植は当時、すでに鄄城に封ぜられ、その地にありましたから、
丁儀の置かれた過酷な境遇を、リアルに感じ取れなかったのかもしれません。
情報が遮断されていた可能性もある。

ですが、それにしても、曹植の言葉はあまりにも現実から遊離しています。

そんなわけで、自分の解釈に自ら疑念を持っていたのですが、
本日の授業でじっくりと読み返し、やはりこう見るしかないと判断しました。

当時の曹植は、兄の底知れぬ不安とそこから生じる酷薄さに気付いていなかったのかもしれません。
曹彰(丕の弟、植の兄)も、特別扱いで封国への赴任は免除されると期待していたといいます。
(『三国志』巻十九・任城王彰伝の裴松之注に引く『魏略』)

その人には、まだ自身のその後の人生が見えていない、
ところが、私たちはその人の生涯がいちおう見渡せる地点に立っている。
そうしたことを念頭において、その人の、その時々の作品を読む必要があると思いました。

それではまた。

2019年7月26日

 

 

人は自然に学を好むのか?

人は自然に知的探究心を持つ生き物でしょうか。

そういう人もたしかにいると思います。
でも、そうではない人が大部分を占めているのが現実かもしれない。

「国語」でも習う『荀子』勧学篇は、人間が生来持つ惰弱さと可塑性を前提としています。
魏の嵆康(224―263)には、張邈の「自然好学論」に反駁した「難自然好学論」という作品があります。

このようなことを思い起こしたのは、
本日、一年生の自由研究の発表会で次のような発言を聞いたからです。

先輩たちにアンケートを取って、授業の選択理由を聞いたところ、
1番目には、自分が興味のあるものを選択する、
2番目には、単位が取りやすいものを選択する、という結果だった、と。

このうち、1番目の選択理由は、一見とてもよさそうです。
ですが、私にはここに大きな落とし穴があるように思えて仕方がありません。
というのは、
個々人によって「興味のある」の意味する範囲が違うから。
大部分の学生は、現時点において「興味のある」科目を選ぶでしょう。
すると、今の自分には興味がもてない、咀嚼できないものは避けられてしまいます。
それが価値のないものだと言えるか、そこに大きな疑問を感じるのです。
(もちろん、今はわからないけれど何か面白そう、と選択する学生もいるはずですが。)

親しみやすく、わかりやすいものばかりがよしとされることに納得がいかない、
歯ごたえのあるものの中に、いつかその人を支える滋養となり得るものも含まれているのではないか、
そう思えてなりません。

これは、必ずしも自分の専攻する古典の凋落を嘆いているのではありません。
学生たちの自由選択を最大限に重視した結果、
継承すべきものが凋落していく流れを長年見てきたという背景からです。

他方、年齢を重ねてからも学べる環境ができればいい、とも言えるかもしれない。
実利には関わらない純粋な学問は、いつだって始められるはずです。

それではまた。

2019年7月25日

1 74 75 76 77 78 79 80 81 82