最初の言葉がもつ欠落
昨日、曹植のことを伝えていきたい、といった趣旨のことを書きました。
これ、訂正します。
人に伝える前に、まず自分が曹植のことを知らないと。
書いたあとで、このことに思い至りました。
ですが、その時そう思ったことはたしかなので、書き直しはしません。
なぜ、伝えるなどと書いたのかといえば、
それは、いずれ曹植の詩文をだれも読まなくなるのではないか、と感じたから。
この危機感、大仰ではありますが、ずっと底を流れているものです。
(中国古典文学、特に古い時代の詩文を研究する人は減少傾向にあります。)
この危機感が現実のものとならないように、まず自分がやらないと。
だから、私は私で曹植の作品を読んでいくことにします。
そうしているうちに仲間もできるかもしれない。
それはさておき。
言葉にしてみて始めて、その思考の不備に気付くということがあります。
最初に発する言葉は、たいてい不安定で、いつも何かが足りない、
そして、その欠落を補うようにして、次の言葉が出てくる。
最初の言葉さえ決まれば、それがきれいな欠落を有してさえいれば、
あとは自然に転がっていくように感じています。
もちろん、その前には、たくさん読んで、調べます。
そのうち、核をもったイメージが現れてきて、それからやっと書き出すのです。
論文の書き方には、研究者それぞれに流儀というものがあるのだろうと想像しますが、
私の場合はこんな感じ。あらかじめ構成立てるということはしません。
それではまた。
2019年7月16日
来し方を悔いる人
曹植(192―232)は、その死後「思」という諡(おくりな)が与えられました。
その意味は、「前の過ちを追悔す」だといいます。
(『資治通鑑』魏紀・明帝太和六年十一月の胡三省注に引く『諡法』による)*
諡ですから、周囲の人々が彼にふさわしい称号として贈ったものです。
景初中(237―239)の詔に、
「陳思王は、その昔過失があったとはいえ、
十分に克己して行いを慎み、先の欠落を補った」と再評価されています。
(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
曹植の生涯を見渡せる私たちからすれば、ずいぶん失礼な再評価ですね。
では、曹植自身は、その前半生をどう思っていたのでしょうか。
曹操が亡くなって約1年後、兄曹丕が後漢王朝の禅譲を受けたとき、
後漢の献帝が崩御したと勘違いして哭した蘇則とともに、
曹植は、父の思いを損なった自らの不甲斐なさに激して慟哭したといいます。
それがまた文帝曹丕の不興を買うのですが。
(『三国志』巻16「蘇則伝」裴松之注に引く『魏略』)
その作品から窺える、曹操が存命中の曹植は、
関わりのある文人たちを、友人として手厚く遇する愛情深い人物です。
他方、歴史書に記された事跡(特に若い頃の)を見ると、やはり失態が目に付く。
といって、曹植を責めているのではさらさらありません。
不用意な言葉で人を傷つけたりして、間違いの多い人生を歩んできた自分は、
曹植に対してひそやかな親しみを感じます。
もちろん、一方的な思い込みかもしれません(たぶんそうでしょう)。
でも、この人のことをきちんと伝えていきたいというモチベーションにはなります。
それではまた。
2019年7月15日
*伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)の「解説」に導かれて知り得たものです。
結界としての社会規範
曹操を取り巻く知識人たちは、決して一様ではありません。
昨日述べた孔融のように、その言動が曹操の逆鱗に触れて殺された者、
荀彧のように、早くに袁紹の無能さを見切って曹操のもとへやってきた名参謀、
邴原のように、曹操に対して一定の距離を保ちつつ、その息子たちの指導を任された者、
何夔のように、曹操の求めに応じて助言はするけれども、
死んでも辱めを受けるまいと、常に懐に毒薬をしのばせていた者もいます。
孔融は、極めてラディカルな儒家思想の持ち主でした。*
他の知識人たちも、その思想的な根幹においては同質であったでしょう。
では、何が生死を分けたのか。
それは、月並みながら、儒家的な社会規範という結界の有無だと思います。
孔融はあまりにもラディカル過ぎた、
本心がむき出しであったということではないかと思うのです。
そういえば、岡村繁先生は型を重んずる方でした。
型さえきちんとしていれば、その中にいる限り自由なのだ、と。
型どおりが過ぎると慇懃無礼なのではありませんかと不躾にも問えば、
いや、わかる人にはわかるんや、とおっしゃっていた。
そして、当の先生は孔融の思いを深いところで受け止めていらっしゃいました。
今にして、先生のおっしゃったことが実感としてわかります。
それではまた。
2019年7月12日
*岡村繁「父の子に於ける、実は情欲の為に発せしのみ」(『小尾博士古稀記念中国学論集』汲古書院、1983年)を参照。
権力者と知識人
昨日、目を止めた建安13年(208)、
孔融が曹操のために市場で殺されるという出来事が起こりました。
(孔融は、孔子二十世の孫で、建安七子の一人に数えられる知識人です。)
孫権からの使者に対して、曹操を誹謗中傷する発言をしたというのがその理由です。
(『三国志』巻12「崔琰伝」裴注引『魏氏春秋』)
孔融は、建安2年(197)、曹操に殺されかけた大尉の楊彪を弁護し、
(皇帝を僭称した袁術と婚姻関係を結んでいるというのが楊彪の罪状です。)
曹操も、知識人社会の世論を意識して、その説得に従いました。
(同巻12「崔琰伝」裴注引『続漢書』)
ただ、ここへきて曹操は、
積もりに積もった孔融への怒りが抑えきれなくなったのでしょうか。
たとえば、建安元年(196)、司空となった曹操に対して、
孔融はことさらに昔と同じ態度をとり、書簡も非常に高慢な書きぶりでした。
(同巻11「王脩伝」裴注引『魏略』)
また、曹操が禁酒法を制定した時も、孔融は書簡を送って嘲笑しましたし、
(同巻12「崔琰伝」裴注引張璠『漢紀』)
建安7年(202)、袁紹を破った曹操に宛てた書簡でも、
孔融はまことしやかな嘘を書いて、ことさらに曹操を愚弄しています。
(同巻12「崔琰伝」裴注引『魏氏春秋』)
卑しい出自の権力者に対する清流人士の抵抗、といえば聞こえはいいのですが、
実態はそんなに単純なものではなかったように思います。
孔融と旧交のある知識人、たとえば脂習や邴原は、
孔融の言動に対して、決して肯定的な評価はしていませんでした。
脂習は、孔融の傲慢さをたしなめていますし(前掲『魏略』)、
邴原は孔融の推挙を辞退しています(巻11「邴原伝」裴注引『邴原別伝』)。
かといって、
孔融を批判した彼らが曹操寄りかといえば、それも違います。
知識人たちは、儒家的な規範を盾に、曹操という権力者と対等に渡り合い、
曹操もまたそれを容認、というよりもそれに従わざるを得なかったというのが実態のようです。
(もしよろしければ、こちらの、特に後半をご覧ください。)
修訂作業を進めている「曹操の事跡と人間関係」は、
やっと建安13年まで来ました。
時に曹操は54歳、まだまだこれからです。
それではまた。
2019年7月11日
父と息子
曹操の息子、曹丕は、
父の没後、魏王を継承し、同年、後漢の禅譲を受けて魏の文帝となってから、
曹植ら、血肉を分けた弟たちを地方へ飛ばしてその言動を見張り、
兄弟間で連絡を取り合うことも禁じました。
曹植の「贈丁儀」詩(『文選』巻24)には、
権力を持って間もない頃の曹丕に対する、曹植の手厳しい批判が読み取れます。
(よろしければこちらをご覧ください。論の妥当性は保留だと考えていますが。)
曹丕はたしかにダメな為政者だと言うほかありません。
自分をひいきしてくれる人は重んじ、諌めてくれる人は疎んじ、
脅威に感じる人物は徹底的に抹殺しようとする、臆病で、弱い為政者です。
ですが、先日、授業をきっかけに彼の足跡をたどりなおし、
曹丕がこうなったのには、それなりの理由があると思うようになりました。
それは、父曹操との関係です。
たとえば、
建安13年、司徒の趙温が曹丕(時に22歳)を召しだしたところ、
曹操は、「選挙、もとより実を以てせず」といい、趙温を免官にしています。
(『三国志』巻2「文帝紀」裴松之注に引く『献帝起居注』)
曹丕は推挙には値しない人間だ、趙温は自分におもねった、というわけですね。
(『魏書』は現王朝に遠慮して「茂才に挙げらるるも行かず」としています。)
同じ年、ずば抜けた才能を持っていた曹沖が13歳で夭折。
曹丕は、愛息子を失って悲嘆にくれる父曹操をなぐさめますが、
父に言われたのは、「これは私の不幸だが、お前たちにとっては幸いだ」です。
(『三国志』巻20「曹沖伝」)
また、曹沖を亡くした曹操は、
かつて曹沖のよき相手になると評価していた周不疑を殺そうとしますが、
これを諌めた曹丕に言ったのは、「彼はお前が使いこなせる相手ではない」です。
(『三国志』巻6「劉表伝」裴松之注に引く『零陵先賢伝』)
建安13年といえば、曹操が荊州の劉表を伐ち、赤壁の戦いで呉・蜀に敗れた年です。
曹操の曹丕に対する過酷な物言いは、こうした状況下であったからかもしれない。
ですが、ここまで冷酷に、父に無能呼ばわりされたらどうでしょう。
しかも、弟たちには、腕力にすぐれた曹彰や、
傑出した文才とざっくばらんな性格で父に愛された曹植がいます。
曹操は、今で言えば、辣腕経営者のような人物なのでしょう。
対して曹丕は、おそらく心根はやさしいのでしょうが、凡庸な人間です。
もし、曹氏父子がごく普通の庶民であったなら、
曹操もあそこまで曹丕を厳しく追い詰めることはなかったでしょう。
そして、曹丕にも弟たちを追い落とす必要が生じなかったのではないでしょうか。
それではまた。
2019年7月10日
魚豢という歴史家がいた。
昨日お話しした焦先という人物、
彼の存在に目を止め、その事跡を記したのは、魚豢という魏の歴史家です。
彼の著した『魏略』という歴史書は、
『三国志』に注した南朝宋の裴松之が最も多く引く文献ですが、
完本としては現存していません。
ですが、
裴松之注に引かれた断片を網羅的に見ていくと、
魚豢の編集姿勢には、同時代の他の歴史書にはない独特の傾向が見て取れます。
たとえば、各人物の社会的位置よりも、その生き方に着目する列伝の括り方。
官僚の贈収賄、学問界の弛緩、不公平な人材登用など、
当時の上層支配者階級に対する批判が随所に噴出していること。
その一方で、無名の人物が懸命に生きた証を積極的に後世に伝えようとする筆致。
(その饒舌さが、唐・劉知幾の『史通』で批判されているほどです。)
『魏略』は、魚豢の私撰の歴史書ですが、
当時の国史編纂者が目睹できた資料に基づいて執筆されたと推定されます。
そして、
国家事業として編纂が命じられた『魏書』とは異なって、
時の王朝にはおもねらない、事実を事実として書き残そうとする姿勢が顕著です。
(私撰であるがゆえ、無名であるがゆえに、それが可能だったのでしょう。)
魚豢という人物は、身分制社会が固定していく中国中世の入口に立って、
その環境に言い知れぬ息苦しさを感じながらも、
歴史書の著述を以て、自身の思想を生ききったのだと思います。
もしよろしければ、こちらをご覧ください。
本稿を収載する『狩野直禎先生米寿記念三国志論集』(汲古書院、2016年)を、
手に取っていただければさらにありがたいです。
それではまた。
2019年7月9日
焦先という人がいた。
漢魏晋楽府詩一覧に、歌謡全般を追記していく作業の中で、
焦先という、なつかしい人物に再会しました。
(かつてこの論文(学術論文41)で言及したことがあるのです。)
魏が呉を討伐することについて人々に問われ、
敢えてそれには答えず、「謬歌」したというその歌辞は、
祝衂祝衂、非魚非肉。更相追逐、本心為当殺牂羊、更殺其羖䍽邪。
(『三国志』巻十一「管寧伝」裴松之注引『魏略』より)
このようによくわからないものです。
当時の人々も意味が取れず、あれこれと詮索したらしい。
後漢末の動乱の中で、家族を失い、
衣類も満足になく、かたつむりのような自作の家で暮らす彼は、
もし現代に生きていたら、福祉政策の対象とされていたかもしれません。
ですが、それとは異なる人間関係の中で、彼は生きていました。
旧知の人は、彼のことを、逃亡者ではない「狂痴の人」なのだと役人に説明した。
これによって彼は連行されることなく、戸籍が与えられ、
埋葬の仕事や落穂拾いなどをして生計を立て、八十九歳まで生きました。
周囲の人々は、焦先と自分たちとの間に線を引いたりせず、
集落の中に、彼の居場所を設けた。そればかりか、
彼の一見不可解な言動に、自分たちには計り知れぬ意味を見出そうとした。
前掲の『魏略』のほか、
皇甫謐の『高士伝』(『三国志』管寧伝裴注引)にも焦先への論及があります。
一見“普通”から浮きあがる人のことを隠者とみる当時の文化。
これは、社会はさまざまな人から成り立っていて、
それぞれに天から与えられた使命があると見る考えに基づくのでしょう。
同質な人々が集って、そこから少しでも外れる者は疎外される現代の日本社会。
そこに、大昔の中国を移植すれば、などとは毛頭思っていませんが、
それでも、古のことを知れば現代を相対化できる、
それは確かなことだと言えます。
なお、福祉政策が不要などと主張しているのでは全くありません。
言うまでもないことですが。
それではまた。
2019年7月8日
試行錯誤
先日、ふと思いついたことを記した『文選』所収の公讌詩ですが、
やっぱり、簡単に仮説どおりにはいきません。
王粲の詩だけ、詩に描かれた場面からして違いますし、
主人と仰いでいる対象は、やはり李善のいうように曹操と見るのが自然です。
ただ、劉楨の詩から、宴が日中から深夜にまで及んだことがうかがわれ、
このことに気づくことができたのは収穫でした。
この授業、交換留学生ひとりを相手に話をしています。
(専門分野が中国古典ではないのに、こんな話を聞いてもらって申し訳ない。)
とても熱心に聞いてくれるので、わからないことが次々と明るみに出てきます。
先行する注釈などにも、案外そのとおりでないものもありますね。
何にせよ、こうしてわきおこる疑問は考察への糸口。
それに、日常の中で感じるちょっとした苦痛はしばし忘れられます。
小人なので、放っておくと負のスパイラルに陥ってしまう。
やっぱり閑居していてはろくなことがないです。
それではまた。
2019年7月5日
過去の遺漏に気付く
昔の自分が気付いていなかったことに新たに気付く、
これは、忸怩たる思いが半分、あと半分は少しうれしい気持ちです。
一歩ずつでも前進しているということですから。
本日の授業(演習)で、過去の遺漏をひとつ見つけました。
(白居易と元稹との間で交わされた詩を読んでいます。)
白居易の「秋題牡丹叢」(『白氏文集』巻九、0415)の1・2句目、
晩叢白露夕 枯れかかった牡丹の群がりに白露の降りる夕べ、
衰葉涼風朝 衰えた葉に涼やかな秋風が吹きぬける朝。
に対して、語釈に次のことを示すべきでした。
『礼記』月令、孟秋の月(初秋)に、
「涼風至、白露降、寒蝉鳴(涼風 至り、白露 降り、寒蝉 鳴く)」と。
この古典を踏まえる表現が二句に渡っていて、
しかも一見ありふれた言葉のように見えるためでしょうか、
昔の自分は、上記のことを指摘できていませんでした(著書3)。
ここに修正し、次の機会があれば改めたく思います。
それはさておき。
こういうとき、私は中国古典文学をやっていてよかったと思います。
普通、すでに終わった人だと思われかねない年齢も、
この世界ではまだばりばりの現役です。
そして、小さな先入観を越えるものに出会って自分を刷新する、
そうした学びが、その気持ちさえあれば、ずっと継続できるのですから。
学ぶは、まねぶ、というスタンスの古典学は、
いわば自分が世界を分析する、今風の学修とは異質です。
ですが、一旦自己を忘れ、まねぶことによって、古人の生を生きなおす、
それによって気付かされることの面白さ、うれしさは格別です。
食わず嫌いで敬遠するのは、とても惜しいことをしていると思いますよ。
それではまた。
2019年7月4日
魏王朝の宮廷歌曲と民間の歌謡
魏王朝で演奏された宮廷音楽に、
「相和」十七曲(後に十三曲に編成)があります。
また、魏の人々は、後に「清商三調」と呼ばれる歌辞も多作しました。
(両者の違いについては、こちらの№17・19をご覧いただければ幸いです。)
これらの歌曲が、続く西晋時代にどのような位置を占めるようになるのか、
そのことを考察するため、先年、漢魏晋楽府詩一覧を作成しました。
(この作業から得たことは、こちらの№17の成果の一部となっています。)
この一覧は、修訂して公開する予定です。
ところが、すぐに終わるかと思われたこの修訂作業、
ここへきて、その見通しが甘かったことを痛感させられています。
というのは、魏の文人たちが手がけたのは、
「相和」はもとより、「清商三調」のみに限らないことに思い至ったからです。
そうすると、先行する漢代の歌謡を広く見渡す必要が出てきます。
そのようなわけで、今、
逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)に導かれながら、
断片をも含めて一覧に記入する作業を行っています。
この作業では、逐一典拠に当たっての確認はしていません。
もっぱら逯欽立の仕事に依拠して記すのみです。
だからとても楽なのです。
翻って、逯欽立の仕事ぶりのすごさに打ちのめされます。
たいへんな量の断片を拾い上げ、それを出典とともに記していった先人の仕事。
頭を垂れて、感謝するばかりです。
……そうしてまた愕然とするのが、
ここに収載された歌辞が、当時歌われていたものの一部に過ぎないという事実です。
このことを念頭におき、
逯欽立の記す歌辞を縦覧する限り、
それは魏王朝で演奏された「相和」「清商三調」には似ていません。
魏の建安文壇に盛行した五言詩が民間から遊離したものであることは、
すでに先人が指摘しているとおりですが、*
楽府詩もまた同様であったということがよくわかります。
それではまた。
2019年7月3日
*岡村繁「五言詩の文学的定着の過程」(『九州中国学会報』17,1971年)を参照。